2012年9月 2日 (日)

夏が逝く

井の頭池の周りのこの10日間ほどの変化は、実(まこと)に激しい。

井の頭池の林の蝉は、みんみん蝉が中心であぶら蝉が意外に少ない。真夏の蝉嵐は、公園に夏らしい静寂をもたらすが、それが轟音のように激しくなればなるほど静寂が強まる。私は、この夏の昼下がりの蝉嵐がもたらす静寂が好きである。

今年は、この蝉嵐にツクツクボウシが加わるのが例年より早かったような気がする。毎日が楽しくて仕方がなかった幼い日の夏休み、ツクツクボウシが鳴き出すと夏休みも終わりに近づき、灼熱の夏を惜しむように一層泥まみれになって池や川を跳び回ったものであった。

公園のある日、あれほど猛烈であった蝉嵐が突然小さくなった。いきなり半減したような印象を受けるほど、それは顕著に感じられた。そして、ツクツクボウシが主役に聞こえるほど多くなっていた。

翌日の夜、それまで自宅近くの木立で夜遅くまで逝く夏を惜しむように盛り上げっていた蝉嵐が、突然遠くなった。距離が感じられるようになったのだ。

更にその翌日の夜、自宅近くの木立からほとんど蝉の泣き声が消え、距離は更に遠くなり、夜中の零時過ぎ、一匹のツクツクボウシが狂ったように傍の木立で鳴き続けていた。蝉たちは、皆、土に還っていく・・・夏が終わるのだと告げられていると思った。

そして、更にその翌日の帰路、改札を出て公園に足を踏み入れた瞬間、秋虫の合唱に包まれた。主役は、コオロギだと思われる。

これらはすべてこの10日ほどの間に、井の頭池南端、神田川の源流辺りの我が寓居に迫る木立の中で起きた、日ごとの出来事である。これらが季節の変わり目を表現するものだとすれば、季節とは決して穏やかに変わるものではない。日ごと、急激に変化するものだと思い知らされる。

今、逝き遅れた蝉たちが必死にその存在をアピールしているが、夜ともなると既に大勢は決している。

夏が逝く時は、一瞬である。

私小説『夏が逝く瞬間』(河出書房新社)で、私は少年時代のその感覚を次のように描いた。

私にとって、夏の終わりというのはたった一日、いや一瞬の時である。

それは、大概晴れた午後のことだが、刷毛(はけ)で描いたような雲の色が突然薄くなり、風の匂いが何も混じり気のないものに変わる。それは、まさにほんの一瞬のことなのだ。そういう、あ、今夏が終わるという瞬間が、八月も終わりに近づくと必ずある。

その時期、私はいつも細心の注意を払って街道を歩き、校庭で空を仰ぎ、たまたま教室に居れば窓の外に神経を注いでいる。

そして、この夏の終わりを確かに身体で受け止めた時、一抹の寂しさを感じると共に、どこか清々しい安堵感を得るのだった。

あれから半世紀以上経って、今、同じ感覚でその一瞬を捉えることができるだろうか。できる、と信じているが、それによれば、秋虫の音色が日ごと勢いを増しているというのに、井の頭にまだその一瞬は訪れていない。

しかし、夏は今まさに逝こうとしている。

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2012年8月19日 (日)

浴衣の君は

♪浴衣の君は

ススキのかんざし♪

と唄ったのは、拓郎だった。

この場合の浴衣は、明らかに「旅の宿」で、宿が用意してくれた浴衣である。

この歌が流行ったのは昭和47年で、所謂高度成長期、私が社会人3年目で生意気盛りに差しかかった頃である。因みに、拓郎は私と同齢で、2ヶ月ほど彼の方が“高齢”である。この時代は、若い女性と浴衣などという極めて「日本的なるもの」の距離がもっとも遠かった時代で、「旅の宿」という「非日常空間」でも設定しない限り、この詩は成立しなかったのである。即ち、浴衣の意味が、今復活している浴衣とは違うのだ。

因みに、作詞は「襟裳岬」の岡本おさみで、岡本と拓郎のコンビによる楽曲は30曲を超える。

こういうことを言うと、何でも大雑把に「昔はねぇ~」のひと言で括ってしまう私と同年代の年寄りは「そんなことはない!」と、いい加減な記憶を頼りに異議を唱えるものだが、時は「ピーコック・リボリューション」の真っただ中、日本的なるものの価値がもっとも下落した時代であった。日本的なるものとは、カッコ悪かったのである。浴衣で夏の宵を楽しむ女性など、まず存在しなかった。

バブルが弾け飛んで、90年代のどこかから風向きが変わった。京の町屋に憧れる若い女性が出現し、おやじが集う立ち飲みの飲み屋にも若い女性が現れ、「江戸仕草」なる言葉が女性誌に登場するようになった。そして、“小便臭い”ガングロ女までが、浴衣で電車に乗り込んできて大股広げて座るような場面にも出くわすようになった。

こういう現象はすべて、私が著書で言っている「パラダイムシフト」という社会的価値観の大変動と繋がっている。

井の頭池の周りにも、浴衣姿の女性を見ることが普通になった。いいものである。

浴衣は、何故色っぽいか。

足がはだけるから・・・違う。それは、まだ甘い。もっと直截的な色香を発している。襟・・・胸元である。厳密に言えば浴衣に限らないが、和装の胸元はす~っと容易に女性の胸へ手を滑り込ませることができるのだ。益して浴衣の場合は、1枚である。それができると思わせることが色っぽいのだ。当然、このことによって浴衣の女性と隣り合わせでベンチなどに腰かける時の男の位置は、左右どちらであるべきかが自ずと決まるのである。いつものことながら、相変わらず非生産的なことを考えている。

今は沖縄に住む、知り合いの若いデザイナーから便りがあった。彼は、以前井の頭池の近くに住んでいたことがある。その便りに言うには、池の傍の住まいは夏は蚊が大変だから、決して窓を開けっ放しにしてはいけないということだ。網戸になっていても、蚊というものはどこかから侵入してくるものである。自然の中に暮らすとはそういうことだからと、ある程度覚悟はしていたのだが、不思議なことにこの夏、まだ一匹の蚊にも出くわしていないのだ。練馬に住もうが世田谷に住もうが、ひと夏に何度か蚊には遭遇する。恐らく銀座界隈に住んでいても、同じであろう。それが、ここ井の頭池の傍に居ながら、まだ一匹もお目にかかっていないのだ。

池の南端から神田川が始まる。その両側に生い茂る木立の枝が、ベランダの至近まで押し寄せている。木立を遊び場とする野鳥が、朝ベランダの手すりに居ることはあるが、蚊はまだ現れないのだ。

そういえば、近江の里山に居た少年時代、どの家でも夏の夜は蚊帳を張って寝たものである。田舎は「藪蚊」が多く、蚊帳を吊らないと蚊の襲来が激しく、とても寝られたものではない。近江の里山の藪蚊は、殆どが「はまだら蚊」で、これは血を吸われて腕や足のあちこちが大きく腫れ上がるだけのことだが、時に「あかいえ蚊」が交じっているのが危険である。「あかいえ蚊」は日本脳炎を媒介する。田舎の家屋というのは隙間が多く、雨戸を閉めても、障子を閉めても何かが屋内に入ってくるのだ。蛇や黄金虫は言うに及ばず、時に狸さえ入ってくる環境で、藪蚊が襲来するのは極めて自然なことなのだ。そして、夜の蚊は、蚊帳でしか防げない。

蚊帳の中で寝苦しい時間を悶々と過ごしていると、蚊帳の外側の縁に蛍が留まる。蛍も屋内に入ってくるのだ。そして、夥しい数の蛍が、連なって青白い光を発する。こればかりは、里山の夏の夜の慰めとして捨てたものではない。

蚊帳は通常緑で、その縁は大概赤である。この赤がまた、妙に艶っぽい。蚊帳の中を蛍が照らし、中に浴衣の女性が一人、ほのかに私に微笑みかける。舞台装置は確かに揃っていたのに、何故こういうシーンが一度もなかったのであろう。

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2012年7月30日 (月)

深手を負って

毎度のことながら、書きものの締切前というのは実(まこと)に非人間的である。すべて己の不甲斐無さが原因と承知しているが、今回も2日ほど徹夜する羽目に陥った。徹夜そのものは何とかなるとしても、後がいけない。回復に時間がかかるのだ。さあ、終わったといって翌日ぐっすり寝れば回復するかといえば、全くダメである。少なくとも23日経たないと、「原状回復」とはいかなくなっているのだ。勿論、それが「加齢」によるものだと自覚している。

しかし、もしこのことを例の女子(おなご)の前で言おうものなら、忽ち

「老いです!」

と、大きな声で断言するだろう。「加齢」などというおとなしい言い方はしない。「老い」だと、露骨に強調することは間違いない。繊細な私の神経は、その都度修復が不可能と思われるほど傷ついているのだ。

しかし、「老い」だと言われれば、確かにそうである。近年は、意味の取り違えようもない、このような正直な、正確な表現を、時に「差別語」だとし、時に「不適切な表現」だといって排除する動きが露骨になっている。この動きの“主犯”は、かつては自分たちのみがこの国の良識だと勝手に思い込んでいた某全国紙であった。ところが、今やすべてのメディアがそれに慣れてしまい、勝手に己に対する規制を強め、それを常識化する動きが定着してしまっている。視聴者や読者までもが一緒になって、言葉を自由に使うということを規制するのが普通になってしまった。「言葉狩り」が定着してしまったのだ。

このたびの『明治維新という過ち』出版に際しても、「キチガイ」という単語は使ってはいけないということで、「規制」が入った。文脈は無関係なのだ。とにかく、その単語が出現してはいけないのだ。では、「キチガイ」という日本語は不要なのか。そうなのだ、不要なのだ。不要どころか、存在することが「悪」とされているのである。

処女作『夏が逝く瞬間』の時も、「百姓」や「町医者」を差別用語だとして削除を要求された。あまりにバカバカしいので、これは拒否した。今、この国に言論や表現の自由があると思ったら、大間違いである。言論の内容を理解せず、表面(おもてづら)の表現だけで「言論物」が封殺されることがあるのだ。それを行っているのは、一見、新聞社や出版社のように見えるが、実はそれを強力に推し進めている「タチの悪い原理主義者」とは、一般市民なのである。

東北の木材で送り火を焚こうとして、数本の抗議メールが入れば、自治体は即それを中止する。瓦礫の受け入れに10人でも反対すれば、たちまち再検討となる。こういう連中と言葉を狩っている連中とは、実は物事を認識する力のレベルに於いて共通点があり、「平等」だ、「平和」だ、と言っていればそれが実現に向かうとする原理主義者であるという点で繋がっている。江戸期、あれほど詩叢豊かであった日本列島は、今や人間のもっとも人間らしい能力である言語能力という面で実に貧困極まる空間になってしまっているのである。

私が学生時代に「右翼反動軍国主義者」のレッテルを貼られたのは、私が、当時はタブーであった「大東亜戦争」という単語を口にしたからである。ただそれだけが理由であった。「大東亜戦争」とは、開戦とともに「今般の事変を大東亜戦争と呼称する」という詔勅が出て、定義の明確になっている、また、当時の国民が普通に使用していた名称である。ところが、日本共産党の下部組織「民青」や全共闘は、この単語を口にするだけで戦争を賛美する「軍国主義者」であると断じ、硫酸瓶の標的にしたのである。彼らもまた、根底のところでロシア、中共を崇拝する原理主義者であったことは、改めて言うまでもない。

徹夜で負った深手は、いずれ治癒する。だが、今度の『明治維新という過ち』に関しては、良識派を自認する「進歩的な市民」やメディアから“袋叩き”に遭う可能性が高い。その時負う深手は、果たして回復する可能性のある程度で済むのかどうか・・・。

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2012年7月 3日 (火)

「さよならは突然に」

芸能人の訃報が相次いで、やたら死んでいくという感がするのは、多分私の“ひがみ”みたいなものであろう。少年野球の仲間であった男は、結局昨日逝った。有名無名を問わず、こういうことはこたえる。

「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミさんの逝去もショックであった。

「ザ・ピーナッツ」・・・昭和34年、私が中学へ入った年にデビューし、昭和50年、世の中が「本格的におかしくなる」前に引退した。引退した後は、二度と姿を見せなかった。近頃は何度も引退するような「定まらぬ」生き方をするのがやたら増えてきたが、彼女たちは「引退」したので、当然そのまま二度とスポットライトを浴びることはなかった。私の仕事絡みでいえば、戦後最大のアイドルといわれたYMが、やはり引退した後二度と姿を見せなかった。今なお見せていない。アイドルとは、アイドルとして生き、アイドルとして去ったのなら、二度と姿を現してはならない。アイドルとして生きたのなら、決して“老醜”を晒してはならず、引退した者がその後も出たり入ったりするのは、掟違反であろう。

「ザ・ピーナッツ」の歌唱力は、抜群だった。何よりも、ハーモニーが美しかった。ユミがメロディを受け持ち、エミがハモッた。今、AKBだ、その姉妹グループだなどと、女の子を集団で掻き集めて唄わせたり、踊らせたりしているが、あれは皆で声を一斉に出しているだけで、ハーモニーや歌唱という代物ではない。「ザ・ピーナッツ」は、60年代に「エド・サリヴァン・ショー」「カテリーナ・バレンテ・ショー」「ダニー・ケイ・ショー」などに出演し、当時は日本の歌手といえば「ザ・ピーナッツ」というのが欧州人の常識だった。

世界的な表現として、音楽の世界に「黄金の60年代」という言葉があるが、この時代を支えたのは30年代~40年代生まれの歌手たちであり、紛れもなくその一人(一組)であった「ザ・ピーナッツ」は1941年生まれ、私の5歳年上である。二人と縁が深いカテリーナ・ヴァレンテが1931年生まれ、エルヴィス・プレスリーが1935年、シルヴィ・ヴァルタンが1944年、ジリオラ・チンクエッティが1947年である。因みに、ビートルズのメンバーは、ジョン・レノンとリンゴ・スターが1940年生まれ、ポール・マッカトニーが1942年、ジョージ・ハリスンが1943年、そして、ストーンズのミック・ジャガーが1943年といった具合である。こういう名前に接するだけで、確かにそれは「黄金の時代」であったと頷けるものがある。

「ザ・ピーナッツ」のデビュー曲は『可愛い花』であるが、二人はこの曲でいきなりその実力をみせつけた。その後、「情熱の花」「悲しき16歳」「月影のナポリ」(競作)、「コーヒールンバ」(競作)、「ふりむかないで」「レモンのキッス」(競作)、「恋のバカンス」「東京たそがれ」「ウナ・セラ・ディ東京」(競作)、「ブルーレディに紅バラを」「乙女の涙」「恋のフーガ」「哀愁のヴァレンティーノ」「大阪の女」等々、ヒット曲を連発、SPLPの累計売上枚数は1千万枚を超えているという。そういえば、グルノーブル(1968年)の記録映画主題曲「白い恋人たち」も彼女たちだった。

バラエティ「シャボン玉ホリデー」のセリフ。

「いつも済まないねぇ」(ハナ肇)、

「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」(ピーナッツ)

・・・これを知っている人は、黄金の60年代を知っている人でもある。

私の若い頃の職場の近くに「三信ビル」という建物があったが(有楽町)、昭和50年の冬のある日、その辺りには寂寥感が漂っていた。前日、「ザ・ピーナッツ」がここで引退を発表したのだった。(当時、このビルにナベプロが在った) その前年だったか(記憶が怪しい)、「さよならは突然に」というヒット曲があった。

たった一度の究極の別れも突然やってくるものだとすれば、そろそろ油断はできない。

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2012年6月22日 (金)

水無月の憂鬱

例年のことであるが、6月に入ると私の機嫌は日々悪くなっていき、桜桃忌の頃になるとそれはピークに達する。3~4年も私の傍にいるスタッフは既に心得ていて、今月一杯は余り触らぬ方がいいと然るべき態勢を採っている。ところが、そういう態勢に馴れが出てしまったのか、飲んでいる場で私に面と向かって

「あと5年くらいですね」

と言ってのけた子がいた。こういうことをやらかすのは、大概TMである。忽ち、身体中の血液が音を立てて逆流し始めたことは言うまでもない。

6月の不機嫌の理由は、言うまでもない、今月誕生日を迎えるからである。誕生日を迎えるとどうなるか。66歳になる。今年の菊花賞と有馬記念は6-6のぞろ目一点買いだ、などと、一見気楽を装ってはいるが、内心は穏やかではないのだ。大仰に言えば、恐怖に慄いているのだ。

そういう高齢者の繊細な心持ちを微塵も解せず、TMは私の余命をあと5年と明確に見通したのである。

この時、一人の男が同席に居た。この男が後刻、輪をかけてトドメを刺すようなことを言ったのである。

TMさんがあと5年と言いましたが、数字を言う時は誰しも区切りのいい数字を口にするもので、5年ということは本心では3年位だと思ってる訳ですよ。女性って、特にそうですよ」

何ということか。ウチのスタッフは、こういう寒々しい精神世界に生きていたのか。ならば、この際当方も声を一段と大にして言っておきたい。

「だったら、俺を大事にするのは今のうちだぞ!!」

あとで悔いても、こればかりはどうにもならぬ、と。

それにつけても、この二人はラッキーである。66歳になろうとする今の私は、我ながら感心するほど大分人間が丸くなってきている。これが5年前であったなら、何が起きていたか。TMは椅子を蹴り上げられ、二人の夏のボーナスは、確実に半分になっていただろう。

更に輪をかけて憂鬱なことが続く。

今年もまた、既に有名無名を問わず、私と同齢の人びとや年下の者が去って逝く。今まさに、私より二つ年下の男が肺がんで逝こうとしている。息子からの知らせでは、もって一両日であろうという。この時刻、彼はまだ頑張っているのか。

かつて一緒に少年野球チームを率い、練馬区百チームのトップに立ったこともあった仲間である。私は、昔からプロ野球を観戦する時に、試合前のノックを観るのが一番好きであった。プロの世界のノッカーは流石に上手く、これを観ないでゲームそのものだけでは入場料のもとはとれない。こういうプロのノッカーは別にして、社会人から高校野球を含めてアマチュア野球の世界で、この男ほどノックの上手い男を、私はそれまで見たことがなかった。だから、この男と組んで育て上げるチームは、毎年「守備のチーム」で、練馬区でトップに立った年のチームは、少年野球らしからぬ高いレベルの守備力を誇ったチームであった。それもこれも、彼の並みはずれたノック力と野球理論の成果であった。そういう仲間が去ろうとしている。さらば、友よ。君のノックの球筋は、いつまでも忘れないだろう。

井の頭池は、神田上水(神田川)の水源である。ベランダから斜め下、直線距離にして20メートルあるかないかという池の端に、そこが神田川の水源であることを示す石の碑が鎮座している。

夜陰に雨が強くなる。石碑の辺りだけが水かさを増したかのように、いつもより激しく水流の岩にぶつかる音が立つ。

水源の石碑まで何ヤード? 墓場まで何ヤード?? 水無月の雨の夜、心がざわめく。

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2012年6月 5日 (火)

面白くない高齢者

 井の頭公園の緑が日に日に盛り上がってきている。ここは、大いに賑わう桜の時期よりも、新芽が吹き出し、木々がひと回り大きくなって公園全体が瑞々しく盛り上がる今が、一番の季節かも知れない。張り出してきた枝は、ベランダから手が届きそうである。

最近、漸くこの住まいに馴染んできたような気がする。住まいもそうだが、井の頭池とかハーモニカ横丁に代表されるこの街に馴染んできたような気がするのだ。かつては新宿などへ出かけて買っていたものも、休日にぶらっと出かけて買い求めることが普通になり、休日に他の街へ出かけることが殆どなくなってしまった。根が“ずぼら”なので、そういうことも心地良さの要因になっているのだろう。

休日の公園には、手づくりの小物を並べている女性、昔のマンガを紙芝居のように語り聞かせる中年のオッサン、大道芸を披露する若者、バイオリンを奏でる少年のように小柄なオッサン、ロダンの彫刻になり切っている年齢不詳の男等々、大体いつものパフォーマーたちが集まっているが、時々ロカビリーを“喚いている”元気なジイさんが現れる。小柄でマンボズボン、60年代の若者風に装っているが、あれは間違いなく私より年長のジイさんである。エルビスの若かりし頃ロカビリーの洗礼を受け、きっと山下敬二郎のファンであったに違いない。あれは、平尾でもミッキー・カーチスでもない、きっと山下のファンであったはずだ。このジイさんは、実に元気である。ギターを弾くというより叩きながら、通りすがる若い女の子に唄いかけるというのではなく、喚きかけるのだ。ギターを打楽器のように扱いながら喚きかけるものだから、女の子たちがたじろいでいる。

アクティブシニアという表現によく接するが、確かに近年、ジイさんやバアさんは元気である。ロカビリージイさんだけでなく、朝といわず夜といわず、公園の中をジイさん、バアさんがヨタヨタとランニングに精を出している。ヨタヨタと、ではあるが、長距離走の経験者としてよく解るつもりであるが、急にはあのように走れるものではない。どう見ても、一定期間継続していることは明らかである。朝、カーテンを開けると、ヨタヨタランナーたちが目に飛び込んできて、自分もやらなきゃ! といつも刺戟を受けるのだが、この点でも私は“ずぼら”であって、よし、走ろう! と決めてから走り出すまでに多分半年はかかるだろう。今はまだ、よし、走ろう! という気分になる直前である。

ジイさん、バアさんなどと失礼な表現を使っているが、今は「高齢者」といえばいいのである。ところが、ジイさん、バアさんという、日本語らしいフレキシブルな言葉とは違って、この「高齢者」という言葉には厳格な定義がある。このことは、国際的に決まっているのだ。「高齢化率」という言葉があり、これは「65歳以上人口の総人口に占める割合」のことである。そして。高齢化率が7%~14%の社会を「高齢化社会」、14%~20%の社会を「高齢社会」、21%以上を「超高齢化社会」という。日本社会は、既に「超高齢化社会」に入っている。つまり、「高齢者」とは65歳以上のことをいうのだ。冷徹な事実として、私も「高齢者」の一人となっており、不本意ながら「超高齢化社会」実現に一役買ってしまっているのである。

ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した時代、彼らがローマの街を歩いていたとして、その時65歳以上の「老人」と出会う確率は40人に1人程度であった。彼らが現代の東京の平均的な住宅街を歩いたとしたら、その確率は4人に1人になっているのだ。このように考えると、ものすごい様変わりである。日本が急速に戦争へと舵を切りつつあった、二・二六事件が勃発する昭和十年~十一年頃、日本の「高齢化率」は4.7%であった。これが、敗戦を経て朝鮮動乱が勃発した昭和25年頃もまだ4.9%であったりしたが、高度成長期の真っ只中、昭和45年に7.1%となって「高齢化社会」に入った。そして、平成7年に14.5%と14%の壁を突き破って「高齢社会」となり、平成19年に21.5%となって「超高齢化社会」となった。最新の推計では、現在は23%を越えている。高齢化のスピードは、高齢化率が7%から14%に上昇するのに何年を要したかによって測られるが、フランスが115年、スウェーデンが85年かかっているのに対して、日本の場合は僅か24年であった。ヨーロッパでは特にスピードの速かったドイツでも40年を要しているというのに、凡そその半分、つまりスピードは2倍・・・明治維新後の日本という国は、万事この調子なのだ。

近い将来、ごくごく近い将来、労働人口2人が1人の高齢者を支えなければならなくなる。「シルバーデモクラシー」という言葉が生まれているが、政治家は高齢者の支持を得ないと当選できなくなる。先の「後期高齢者医療制度」の時の騒動を思い返せば、分かり易いだろう。その結果、世代間対立というものが深刻になる可能性が高い。

最近、「あと5年ですね」などと、堂々と私の人生を区切る者が周りに増えてきた。女の子までが面と向かっていうから、私は内心穏やかではないのだ。確かに、おぼろげであった墓場が、次第に鮮明になりつつあるのを実感する昨今であるが、「あと5年」と面と向かって区切りながら、若い子に感慨深そうな表情をされると、妙なリアリティが湧いてきて心は不穏なのだ。

更に面白くないのは、年金のことである。私の年代は、制度変更の過渡期に当たっているようで、2~3歳違うと受給開始年齢にも差が出てくるのだが、私は63歳から満額受給できることになっていた。その年齢をとうに過ぎているというのに、今だに1銭の年金も受給していない。現役で働いていると一定以上の収入があるのは当然だが、その場合は年金支給の対象外となるのだ。逆に、今でも毎月毎月、それなりの額の厚生年金保険料を支払っているのだ。介護保険料も支払っており、会社としては例の子供手当まで負担している。永年の知人によれば、私は現場で死ぬことになっており、そうなると私は一生、ひたすら支払うだけで終わり、受給するものは何もないのだ。老骨にムチ打って働いている身としては、違和感を感じないこともない。これって、果たして「正義」が為されているといえるのか。私だって、一度でいいから年金の1円でも受け取ってみたいのだ。

受給しているのと支払っているのとでは、立場は逆である。その点でいえば、私は年金を受給している「高齢者」ではないことになる。むしろ、一生懸命保険料を支払ってそれを支えている若年層と同じグループなのだ。労働人口2人が1人の高齢者を支える社会に於いて、私は支える2人側なのである。ここを強調しておきたい。

私に、「あと5年ですね」と嬉しそうに、感慨深そうにいった子に対して、私は内心でうそぶいている。

「俺が死ねば、お前さんの負担が増えるんだぞ」

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2012年5月24日 (木)

今日の運勢

先週末のことであった。所用があって、出社する前に二、三立ち寄るべき所があった。

まず吉祥寺の街へ出ようとしたのだが、緑の増してきた公園の中へ足を踏み入れた途端に空模様が怪しくなってきた。折角気分良く公園の中へ降りたのに、傘を取りに引き返すのも忌々しい。アマタツの予報がどうあれ、基本的に今現在降っていない限り、傘を持って家を出るということはしないことにしている。

かつて、海軍兵学校の生徒(といっても、今の「学生」より大人である)は、多少の雨には傘など差すな、という躾けを受けた。一目でそれと判る凛々しい兵学校の制服を着用していて、傘を差すなど見苦しいというのである。彼らは、兵学校を出て士官となる身である。帝大へ入学するよりも難しい兵学校へ入り、先々兵を率いる指揮官となるべき者は、常にカッコ良くあらねばならない。合理性に重い価値を置きながら、リーダーたる者、ユーモアのセンスとカッコ良さを見に付けなければならないことを徹底した兵学校の教育とは、雑魚も秀才もごちゃ混ぜにして「平等」だと自己満足に耽り、ありもせぬ夢物語を語ることによって波風の立たないことだけに腐心し、徹底して現実性を欠いている現代の如何なる教育機関の教育、躾けより、私は真っ当であると思っている。広島へ原爆を投下するという「人道に反する大罪」を犯したアメリカ合衆国の軍が、目と鼻の先の江田島に在る海軍兵学校を「人類にとっての普遍的なソリューションを提供する機関であり、施設である精神的遺産である」として爆撃対象から外したことでも解る通り、兵学校の教育や教育機関としての在り方は国際的にも一目置かれていたのである。ここで教育を受け、躾けられた者たちが創り上げた帝國海軍を称して司馬遼太郎氏は「明治以降の日本人が創り上げた最大の文化遺産」であるとした。注目すべきことは、氏が戦の専門機関である帝國海軍を称して「文化遺産」であるとしたことだ。ただ、それは人材の面に着目すればせいぜい第60期生までのことであって、特に60期代末期から70期代にかけては陸軍に抗するどころか、同調してしまって国を滅ぼす一翼を担ってしまったのである。

そんなことを考えながら公園を抜けて駅まで来ると、急激に空が暗くなってきた。兵学校のことはともかく、井上陽水流にいえば、問題は傘、である。空を見上げて、こりゃ、ダメだとあっさり“海軍流儀”を放棄し、550円のビニール傘を買い求めた。こうやって、如何にも「平成文化」らしい安っぽいビニール傘が、自宅にも会社にもどんどん貯まっていく。果たせるかな、駅を通り過ぎると直ぐ、文字通りバケツをひっくり返したような水の塊りが地表を殴りつけるように落下してきた。傘など、何の役にも立たぬ。特に、腰から下は歩きながら水洗いしているようなものである。最初の目的地まで徒歩で3分。きっちりこの3分間のみ、私は水塊に思い切り叩かれ、目的地のビルに入るや否やそれはピタッと止み、薄陽さえ差し始めたのである。ビルの2階へ上がると、男と女が悲惨な姿の私を一瞥し、

「外、降ってたんだ・・・」

と間抜けた会話を交わすほど、それは一瞬の出来事であったのだ。

 何という間の悪さ。13日の金曜日と仏滅が重なり、朝のテレビの星座占いの最下位が重なったとしてもこれほど間の悪いことは起きないであろう。

 その日、会社ではスタッフが私を激怒させた。その忌々しさももち帰って噛みしめながら例によって遅い夕食をとっていたら、またソファーの上で寝入ってしまった。私は、ものを食べながらでも寝入ってしまうことがしょっちゅうあって、それは食べ物を咀嚼しているまま眠ってしまうことであり、12時間経って我に返ると、口の中には咀嚼途中の食べ物が半ば固くなって残っているのだ。その夜もまた咀嚼を再開しようとすると、ソファーの下にガラス片と液体が散らばっている。どうやら、仮眠中にテーブルの上のグラスを手が払ったらしい。炊事をしない私がグラスや茶碗を割るということは、まずない。冷静に振り返ってみても、一年に1個もない。オリンピックと同じとまではいかないが、せいぜい二年に1個ぐらいのものである。

 誠意を以て日々を生きている人間に対しても、こういう間の悪い日というものは一定の周期で訪れるものであり、それはテレビなどが仕切っている「今日の運勢」の埒外にあるらしい。だって、その日の蟹座の運勢は、二番目に良かったのだから。

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2012年5月15日 (火)

縮んだ!

実は、もう先月の末になるのだが、生まれて初めて胃カメラを呑んだのである。この拙いブログに前のシリーズから一定期間お付き合いいただいている方ならご存知であろうが、私は根っからの医者嫌いである。(但し、女医さんは別である)親の仇のように彼らを嫌ってきた。従って、私の方から胃カメラを呑むことを志願したなどということは断じてない。

もう何年もの間、何とかして私の内臓に胃カメラを突っ込みたくて仕方がないという医者がいるのだ。胃カメラだけでなく、エコーだ、X線だと、何やかやと道具を使って私の身体を検査したがっていたのだが、主たる目的が胃カメラにあることを私は察知していた。根拠は知らぬが、どうやら彼は胃カメラに自信があるのだ。

浮世の義理という行動心理や様式があるが、私が観念したのはそういう心情に近い。とにかく、胃カメラを一度呑まないことには収まりがつかなくなったのだ。何せ生まれて初めてのことである。一週間も二週間も前から会社でも私は多少興奮気味で、スタッフは皆、迷惑そうな顔をしていた。

当日、私は三週間前に赤紙を受け取り、来し方行く末にさまざまに想いを馳せ、それでも克己の精神を発揮して凛々しく出征していく青年の如く、朝食も断って出かけていったのである。

案の定、医者は私を騙し討ちにした。胃カメラに神経を集中していた私を完璧に無視し、肝臓や膵臓をエコーで検査するわ、血液を吸い取るわ、心電図をとるわ、挙句に安っぽい一眼レフで写真を撮るようにバシャバシャと音を立ててレントゲンを撮るわで、好き放題をやったのである。肝心の胃カメラの結果がふるっている。

「胃の中は綺麗ですね」

今どきの医者は、鼻から管を突っ込まないと、胃の正常、異常も判断できないのだ。「綺麗ですね」のひと言で済むような状況で、普通、胃カメラを呑ませるか!? さすがに何も“成果”がないと具合が悪いと思ったのであろう。

「胆のうに小さな胆石が一個あります」

と、勝ち誇ったように“宣告”し、腹部の一ヶ所を指差して、

「ここが少しでも痛んだら、決して我慢しないでください」

と、さも親切そうに言った。小さな胆石一個ぐらいで、大の男がぎゃあぎゃあと騒げるか! 私は、二週間以上経った今も、検査結果は一切聞きにいっていない。敵も何も言ってこないから、「便りのないのはいい便り」ということであろう。

こういう忌々しい日が過ぎてまもなく、今度は会社で毎年行っている健康診断の時期が来てしまった。同じようなことを連続してやる必要もなかろうと思ったのだが、係りのTMが、毎年のことだから同じ検査機関にデータを残しておいた方がいいですよ、という。もっともな気がして、胃カメラなどのすべてのオプションを外して、健康診断の「セカンドオピニオン」のつもりで基本的な事項のみ検査を受けることにした。

ところが、ここにもとんでもない医療関係者がいたのである。

健康診断の“前菜”みたいな位置づけで、身長や体重を測る。ここでいきなり不埒なことが起こった。身長が「少なく」なっていたのだ。つまり、私は、背が低くなっていたのだ。歳をとると縮む、ということをよく聞くが、確かに私は厚生省や総務省の年齢区分に拠っても既に「高齢者」である。しかし、ギリギリ「高齢者」の仲間入りを果たしたばかりであって、まだ身体が縮むほどのベテランではない。加えていえば、先月の胃カメラ受難の日にも身長は計測されており、その時の値よりも1センチも「少なく」なっているのである。一ヶ月も経たずして、身体が1センチも縮むか!?

「おかしい!!」

私は、大声を挙げた。その瞬間、私が声を挙げるのを待っていたかのように、担当の看護婦(看護婦は看護婦である、差別用語でも何でもない)が同じように大声で返した。

「今更、成長しません!」

憮然として会社へ戻って、その鬱憤を晴らそうと話をしたら、皆、声を押し殺して笑いを堪えているようだったが、中でただ一人、日頃から「天然」だと定評のあるKRが真っ直ぐに私を見ながら、実に清々しい笑顔で爽やかに言うではないか。

「私は、まだ成長しています!」

一瞬、静寂が支配する中、もう20代後半にもなるKRは、この季節らしくどこまでも涼やかな笑顔を湛えていた。

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2012年5月 4日 (金)

カテリーナがいて、ティンクェッティがいて・・・。

雨の憲法記念日、そして「みどりの日」。よく降った。

憲法記念日といっても、ほとんどの日本人にとって単なるGWのうちの1日に過ぎないであろう。今の憲法が施行されたのは、私が満1歳の誕生日を迎えようとする頃であった。私たちは、義務教育の中でその前文などは完璧に暗誦させられた。何せ、敵国のど素人(GHQ民政局)が急遽原案を作ったという代物、とんでもない悪文である。あのような悪文を有難がっている日本人の気が知れぬ。

5月は、若葉の季節である。「五月晴れ」の空に泳ぐ「鯉幟」。如何にも清々しいというイメージの季節だが、私にはどこか切なさを感じる時季でもある。

休日の午後、陽水をよく聴くが、陽水に『五月の別れ』という名曲がある。

♪風の言葉に諭されながら

別れゆくふたりが5月を歩く ~

数ある陽水のヒット曲の中で、私のもっとも好きな曲の一つは『青空、ひとりきり』である。

♪何かを大切にしていたいけど

体でもないし 心でもない

きらめく様な 想い出でもない

ましてや我身の 明日でもない

浮雲 ぽっかり浮雲 ひとりきり

結局陽水には、皐月、五月、若葉、青空などという言葉(単語やフレーズ)で語られる季節を、切ないものがもっとも切なさを発揮する季節だとする感性があるように思える。だから、この季節になると、また陽水が聴きたくなるのかも知れない。

陽水に手を延ばしかけて、ティンクェッティに変えた。陽水の「切なさ」は、五月晴れの青々とした晴れた休日にしか味わえないものだ。

ジリオラ・ティンクェッティ・・・勿論、『雨』である。

ジリオラ・ティンクェッティといえば「サンレモ音楽祭」である。昭和39年、16歳で初出場、『夢見る想い』で史上最年少優勝、一夜にして世界のスーパーアイドルとなった。この時、競った出場者には、ポール・アンカフランキー・レイン、そして、ボビー・ライデルベン・E・キングなどの錚々たるメンバーがいた。16歳の美貌と美声を備えた、イタリアの初々しい少女が、一瞬にして世界中の男の子を虜にしたのだ。イタリア代表がサンレモを制したのは、これが初めてであった。因みに、翌年のサンレモでは、フランス・ギャル『夢見るシャンソン人形』で優勝している。

イタリアといえば、やはり世界のスーパーアイドルであったカテリーナ・ヴァレンテも、もともとはイタリア国籍をもつアイドルであった。尤も、彼女はフランスのパリで生まれ、歌手として聴衆の前で初めて唄ったのはベルギーのブリュッセル、結婚してドイツ国籍を得ている。カテリーナ・ヴァレンテといえば、『マラゲーニャ』『そよ風と私』、そして『情熱の花』であろう。いずれも「ジャイアントヒット」と呼ばれる。『マラゲーニャ』は昭和29年、『そよ風と私』は翌昭和30年にドイツで収録されたヒット曲、日本ではザ・ピーナツでお馴染みの『情熱の花』は昭和34年に発売された。ザ・ピーナツによる日本語カバー盤、カテリーナのフランス語盤、ドイツ語盤も同じ年にリリースされている。「歌う通訳」といわれたマルチ・リンガル;カテリーナはドイツのデッカレコードから約90曲を発表しているが、もっとも多いのがフランス語、ドイツ語でそれぞれ50曲強、次いでイタリア語が30曲強だという。日本語でも4曲発表しており、フラマン語で6曲、英語でも4曲リリースしている。

ここで、平成日本の人びとは、英語が主流ではなかったということに違和感を感じられるかも知れない。振り返れば、今の人びとは気の毒である。80年代バブル期から我が国では世界=アメリカという感覚が「常識」として定着した。洋画といえばハリウッド映画しか入ってこなくなった。私のいう「ユーミン世代」にとっては、「オレンジシャワー」を浴びてアメリカナイズされることがカッコいいことであった。音楽も映画も、何でもアメリカ一辺倒。そして、「グローバリズム」の大合唱。挙句の果てに、アメリカンスタイルというものが破綻しても、既に歳を重ね、「ユーミン世代」も40代後半から50代前半にさしかかっている。今更、柔軟に舵を切ることができない。かくして、長い時間軸を以て歴史的事象に触れるという経験をもたず、若い世代に迎合することでしか若い世代とコミュニケーションがとれない実(まこと)に奇妙な「中年」層が社会の中核を占めるようになった。

60年代、70年代という時代は、映画にしても音楽にしても、アメリカ一辺倒ということは全くなかった。映画にしても、フランス映画、イタリア映画は勿論、ギリシャ映画やスウェーデン映画からイラン映画と、選択肢が多かった時代である。ハリウッド映画というと、むしろ“軽蔑”されることも多かった。お決まりの活劇を楽しみたい気分の休日は、ハリウッド映画を選べばいい。しかし、多少でもカッコつけたい相手と映画を観るとなると、ほとんどがフランス映画かイタリア映画となる。私どもの世代なら、例えばフランス映画『赤い風船』(昭和31年、アルベール・ラモリス監督作品)とか、イタリア映画『道』(昭和29年、フェデリコ・フェリーニ監督作品)、仏・伊合作映画『太陽がいっぱい』(昭和35年、ルネ・クレマン監督作品、アラン・ドロン)などの何らかの影響を受けなかった者は少ないのではないか。絵本作家;いわさきちひろ『あかいふうせん』(昭和43年)は、上記映画をモチーフにした絵本集であり、ジャン・コクトーが『赤い風船』を「妖精の出てこない妖精の話」と評したことは余りにも有名である。最近では、バンクーバ冬季オリンピックで男子フィギア;高橋大輔が初めて銅メダルを獲った時の音楽が『道』の主題曲(ジェルソミーナ)であった。アラン・ドロンという外人部隊出身の稀代のハンサムな俳優と『太陽がいっぱい』のもたらした社会現象については、触れるまでもないだろう。

因みに、私のもっとも好きなイタリア映画は『天使の詩』(昭和41年、ルイジ・コメンチーニ監督作品)である。公開当時だけで、何度も映画館へ足を運んだものだ。

カテリーナ・ヴァレンテがいて、ジリオラ・ティンクェッティがいた時代。フレンチ・ポップスでは、フランス・ギャルがいて、シルヴィー・バルタンがいた。アストラッド・ジルベルト『イパネマの娘』で「レゲエ」という新しい音楽を世に示した。勿論、リトル・ペギー・マーチも、ブレンダ・リーも、ペギー・リードリス・デイも、アイドルだった。選択肢のある時代こそ、自由を実感できる幸せな時代である。今となっては、そのことは能動的に努力するしか手に入らないのだ。そして、それをやるかどうかは、ひとえに知力の問題であるという気がする。

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2012年4月29日 (日)

穴が怖い!

芦花公園のマンションに居る時、例によって食後に一本吸いながら寝入ってしまったことがある。白状すると、寝入ってしまうことは連日のことで、眠り込まない日が例外だといっていい。そういう習慣が身についてしまったある夜、ハッと気づくと・・・(「ハッと」という表現は正確ではなく、おっと、また寝たな、という感覚なのだが)、ソファーにくっきりと直径2センチほどの穴が開き、吸殻はその先端を穴の上に置き、無事に鎮火していた。あ~あ、やってしまった・・・しかし、まぁ、この程度の穴ならと、左程気にも留めなかったのである。

ところが、事は意外な方向へ展開した。娘には二人の男児が居る。兄が10歳、弟はまだ3歳になったばかり。兄はことのほか優しい性分で、歳の少し離れた弟が可愛くて仕方がない。まだ人類の仲間入りして日も浅い弟は、それでも早くも“次男坊鴉”の特性を垣間見せ、己の気分に任せて好き放題といった趣きである。同じ“次男坊鴉”の私同様、コヤツもそのうちに“風の向くまま”気ままに生きていくに違いない。

この次男のやんちゃ坊主には、奇妙な弱点があった。場所を問わず、大小を問わず、穴が嫌いなのだ。そう、単なる「穴」である。嫌いというのは正確ではない。穴が怖いのだ。それが正しくは穴でなくても、円状の穴的なるものは何であれ怖くて仕方がないのだ。ある時、この親子三人がファミレスに入った。席につくや否や、この次男坊が一点を指差し、「やだ~!」と喚き出したという。娘が、次男坊の差した指の先に視線を辿らせていくと・・・そこにはオッサンの後頭部があった。そして、オッサンの後頭部はほぼ丸く、つまり円状に禿げていたのである。つまり、次男坊はオッサンの後頭部のハゲを穴と認識し、恐怖に慄(おのの)いたのである。何とも不埒な話であるが、ここまでくると次男坊の穴嫌いはもはや性癖といっていいかも知れない。

こういう次男坊が、ソファーの穴を見逃すはずがない。タバコが作ったソファーの穴は、オッサンのハゲに比べれば遥かに小さい。しかし、こと穴状の形態に対しては性癖のレベルに達する鋭い感知能力をもつ次男坊にかかると、如何なる穴も見逃されることはない。ソファーの小さい穴を発見した次男坊は、二度とそのソファーによじ登って座るということをしなくなったのである。娘から、彼がソファーに座ることを拒否し、いつもフローリングの床に座り込んで動かないことを聞かされた私は、やむなくソファー一式を買い換えた。タバコの作った小さな穴は、えらく高価な穴になってしまったのである。

その新しいソファーは今、樹林亭のリビングに収まっているが、娘に連れられてくる日、彼はこのソファーで寛ぎ、「トイストーリー」のDVDを飽きもせず観ているらしい。

ところが、過日、またヒヤリとすることが起きた。睡魔というヤツは、私の場合、何の前触れもなく突如襲ってくる。襲うというより腕のいいスナイパーみたいなもので、一瞬にして私を仕留める。殺られる私には、全く知覚というものがない。つまり、どのタイミングで殺られるか、私には判らないのだ。気づいた時は、「おっと~! 今、何時だ!?」と先ずは時計を確認し、知覚せぬ間に過ぎ去った時間を体内の時間軸に付け加えるなどして己の生きている中心軸となる時間軸を現世の時刻に合わせることから始めるのが常である。その日はその作業の前に、嫌なものが目に入った。普段着のパンツの左太もも上部に、明らかにタバコの火で焼かれたと解る穴が開いている。吸殻は既に鎮火していて、床に転がっている。どうやら、タバコを吸いながら仰向けになっているところをスナイパーに一瞬にして殺られたらしい。パンツの穴は、4センチ前後もあるだろうか。前のソファーの穴より、遥かに大きい。それにしても、この大きさの穴になるまでパンツは焼かれたわけであるのに、私にはその知覚がない。気づいたら、突如穴が開いていただけであって、それは見事なプロ・スナイパーの仕事であった。大切なことは、ソファーに仰向けになっている私の左足太ももの一点だけを焼き、その下の皮膚も、肝心のソファーも全く異常がなかったということだ。これを成し遂げた睡魔をプロ・スナイパーといわずして何というか。一つだけ教訓として今後に生かすとすれば、ソファーで横になる時は、仰向けに限るということであろう。仰向けであったからこそ、知覚せぬ間に睡魔というスナイパーに襲われたとしても、タバコは私の衣服の仰向けになったどこか一点だけを焼き、ソファーは無事だったわけである。今回も、もしソファーに穴を開けていたら、またソファーを買い換えねばならない。

いや、待てよ、と思い至った。ソファーで済めば、まだいい方かも知れない。もし、もし、である。私の後頭部が、例のオッサンのように円状に禿げていたらどういうことになっていたか。コヤツとは、今付き合ってはいられないということになる。今後、更に歳を重ねる余地が生まれたとしても、間違っても後頭部を円状に禿げさせてはならない。当方がハゲの形状まで気を使わなくてはならぬとは、全く厄介な次男坊鴉である。

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