トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月29日 (日)

穴が怖い!

芦花公園のマンションに居る時、例によって食後に一本吸いながら寝入ってしまったことがある。白状すると、寝入ってしまうことは連日のことで、眠り込まない日が例外だといっていい。そういう習慣が身についてしまったある夜、ハッと気づくと・・・(「ハッと」という表現は正確ではなく、おっと、また寝たな、という感覚なのだが)、ソファーにくっきりと直径2センチほどの穴が開き、吸殻はその先端を穴の上に置き、無事に鎮火していた。あ~あ、やってしまった・・・しかし、まぁ、この程度の穴ならと、左程気にも留めなかったのである。

ところが、事は意外な方向へ展開した。娘には二人の男児が居る。兄が10歳、弟はまだ3歳になったばかり。兄はことのほか優しい性分で、歳の少し離れた弟が可愛くて仕方がない。まだ人類の仲間入りして日も浅い弟は、それでも早くも“次男坊鴉”の特性を垣間見せ、己の気分に任せて好き放題といった趣きである。同じ“次男坊鴉”の私同様、コヤツもそのうちに“風の向くまま”気ままに生きていくに違いない。

この次男のやんちゃ坊主には、奇妙な弱点があった。場所を問わず、大小を問わず、穴が嫌いなのだ。そう、単なる「穴」である。嫌いというのは正確ではない。穴が怖いのだ。それが正しくは穴でなくても、円状の穴的なるものは何であれ怖くて仕方がないのだ。ある時、この親子三人がファミレスに入った。席につくや否や、この次男坊が一点を指差し、「やだ~!」と喚き出したという。娘が、次男坊の差した指の先に視線を辿らせていくと・・・そこにはオッサンの後頭部があった。そして、オッサンの後頭部はほぼ丸く、つまり円状に禿げていたのである。つまり、次男坊はオッサンの後頭部のハゲを穴と認識し、恐怖に慄(おのの)いたのである。何とも不埒な話であるが、ここまでくると次男坊の穴嫌いはもはや性癖といっていいかも知れない。

こういう次男坊が、ソファーの穴を見逃すはずがない。タバコが作ったソファーの穴は、オッサンのハゲに比べれば遥かに小さい。しかし、こと穴状の形態に対しては性癖のレベルに達する鋭い感知能力をもつ次男坊にかかると、如何なる穴も見逃されることはない。ソファーの小さい穴を発見した次男坊は、二度とそのソファーによじ登って座るということをしなくなったのである。娘から、彼がソファーに座ることを拒否し、いつもフローリングの床に座り込んで動かないことを聞かされた私は、やむなくソファー一式を買い換えた。タバコの作った小さな穴は、えらく高価な穴になってしまったのである。

その新しいソファーは今、樹林亭のリビングに収まっているが、娘に連れられてくる日、彼はこのソファーで寛ぎ、「トイストーリー」のDVDを飽きもせず観ているらしい。

ところが、過日、またヒヤリとすることが起きた。睡魔というヤツは、私の場合、何の前触れもなく突如襲ってくる。襲うというより腕のいいスナイパーみたいなもので、一瞬にして私を仕留める。殺られる私には、全く知覚というものがない。つまり、どのタイミングで殺られるか、私には判らないのだ。気づいた時は、「おっと~! 今、何時だ!?」と先ずは時計を確認し、知覚せぬ間に過ぎ去った時間を体内の時間軸に付け加えるなどして己の生きている中心軸となる時間軸を現世の時刻に合わせることから始めるのが常である。その日はその作業の前に、嫌なものが目に入った。普段着のパンツの左太もも上部に、明らかにタバコの火で焼かれたと解る穴が開いている。吸殻は既に鎮火していて、床に転がっている。どうやら、タバコを吸いながら仰向けになっているところをスナイパーに一瞬にして殺られたらしい。パンツの穴は、4センチ前後もあるだろうか。前のソファーの穴より、遥かに大きい。それにしても、この大きさの穴になるまでパンツは焼かれたわけであるのに、私にはその知覚がない。気づいたら、突如穴が開いていただけであって、それは見事なプロ・スナイパーの仕事であった。大切なことは、ソファーに仰向けになっている私の左足太ももの一点だけを焼き、その下の皮膚も、肝心のソファーも全く異常がなかったということだ。これを成し遂げた睡魔をプロ・スナイパーといわずして何というか。一つだけ教訓として今後に生かすとすれば、ソファーで横になる時は、仰向けに限るということであろう。仰向けであったからこそ、知覚せぬ間に睡魔というスナイパーに襲われたとしても、タバコは私の衣服の仰向けになったどこか一点だけを焼き、ソファーは無事だったわけである。今回も、もしソファーに穴を開けていたら、またソファーを買い換えねばならない。

いや、待てよ、と思い至った。ソファーで済めば、まだいい方かも知れない。もし、もし、である。私の後頭部が、例のオッサンのように円状に禿げていたらどういうことになっていたか。コヤツとは、今付き合ってはいられないということになる。今後、更に歳を重ねる余地が生まれたとしても、間違っても後頭部を円状に禿げさせてはならない。当方がハゲの形状まで気を使わなくてはならぬとは、全く厄介な次男坊鴉である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2012年4月25日 (水)

哀愁の公園にも霧は降る

私は、30代のどこかで賃貸派に“転向”した。30幾つだったか、あまりの長い通勤時間にバカバカしくなって、買って左程年数を経ていない分譲住宅を売っ払って、23区内へ戻ってきた。それ以来一貫して賃貸派であり、持ち家が欲しいという欲求が湧いたことは一度もない。尤も、貧乏な時代が長かったから、欲のもちようもなかったのである。このことについては、気が向いたらまた触れることもあるだろう。

樹林亭に越すに際して、娘という関門を突破するためにあれこれ姑息な神経を使おうとしていたのだが、結果からいえば娘はすべてお見通しであったようだ。越す前に、内装、外装の装いを改めることから、ベランダ手摺りの取替え、風呂場のブラインドや洗面所の鏡の取替え、据付ガスコンロの全面取替えなど、オーナーは大工事を施してくれたのだが、それによって入居を決めてから越すまでに1ヶ月近くの時間を要した。後で知ったことだが、この工事期間中に娘はこっそり樹林亭の“検分”に一人で訪れていたのだった。その時どういう印象をもったか、私は聞いていないが、おそらくそのロケーションを確認した娘は、ここなら父親が即決しても仕方がないと思った、筈である。それを信じて疑わず、私は今やすっかりこの「終の棲家」に馴染み、階段の昇り降りに多少の苦痛を感じながらも文字通り公園の樹林に囲まれるような環境を気に入り、一人で悦に入って気ままに過ごしている。

京王井の頭線「井の頭公園駅」の改札を出ると直ぐ右手に、井の頭恩賜公園の入り口がある。勿論、この公園の周囲には幾つも自在に出入りできる場所があり、何もこの入り口にこだわる必要はないが、「井の頭公園入口」と書かれた「表札」が掛かっているのはこの場所だけである。この入り口の短い石段をとんとんと降りると、もう公園の木立の中へ入ってしまう。我が寓居へは、この石段を降りれば徒歩で1分もあれば辿り着く。

ある夜、この石段を降りて公園に入った瞬間に夜霧に包まれた。駅の改札を出る時は気づかなかったくらいなのに、公園に入った瞬間に夜霧である。木立の合間の常夜灯が、滲んでいる。次の瞬間、唐突に『哀愁の街に霧が降る』という、思い返すにも骨が折れるほど古い昔のフレーズが込み上げてきた。

1 日ぐれが青い灯 つけてゆく
  宵の十字路
  泪色した 霧がきょうも降る
  忘られぬ瞳よ
  呼べど並木に 消えて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

2 花売娘の 花束も
  濡れる十字路
  のこる香りに あまく思い出す
  過ぎし日の あの夜は
  カラーフイルムのコマか
  ああ 哀愁の街に霧が降る

3 せつなくふるふる 身も細る
  霧の十字路
  窓を洩れくる 唄もすすりなく
  なつかしの ブローチ
  肌につめたく 沁みて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

私の小学生高学年時代の大ヒット曲である。所謂「吉田メロディ」(吉田正)で、詩は吉田とのコンビが多かった佐伯孝夫。唄は山田真二と、はっきり覚えている。カラオケなるものが登場してからは、ずいぶんと謳ったものだ。「何?、それ!?」というのが、大概周りの反応であった。同年輩とカラオケへ行ったことはなく、若い子ばかりなのでこの反応は仕方がない。

これは、「ムード歌謡」と呼ばれたジャンルの代表曲の一つといっていい。因みに、「ムード歌謡」といえばフランク永井。カラオケ店にあるフランク永井の唄は、私はほとんどすべてこなれて唄うことができるのだ。

少年時代から、この唄を聞くと私は、哀愁の街には霧が降るんだ、という妙な思いに支配された。そう、霧は「哀愁の街」に降るのである。その霧は「泪色」をしている。白とか緑とか、そういう色彩ではなく、霧は泪色なのだ。そういう霧の降る夜は、窓から聞こえてくる唄もすすり泣くのである。草深い里山で、毎日泥んこになって遊んでいた少年が、これが「都会」なんだと痛切に感じた瞬間だった。

それから10年後(正確には11年後)、石原裕次郎『夜霧よ今夜もありがとう』が大ヒットした。これは、「ハマクラ」(浜口庫之助)ソングの代表曲の一つであり、私は大学生になっていた。

1 しのび会う恋を つつむ夜霧よ
  知っているのか ふたりの仲を
  晴れて会える その日まで
  かくしておくれ 夜霧 夜霧
  僕等はいつも そっと言うのさ
  夜霧よ今夜もありがとう

2 夜更けの街に うるむ夜霧よ
  知っているのか 別れのつらさ
  いつか二人で つかむ幸せ
  祈っておくれ 夜霧 夜霧
  僕等はいつも そっと言うのさ
  夜霧よ今夜もありがとう

これも「ムード歌謡」であるが、先の山田真二の方が素朴である。しかし、裕次郎の夜霧もやはり「街」を覆い、「しのび合う恋」を隠してくれるのだ。私の若い頃の夜霧は、都会にしか降らないものであったのだ。

世は移ろい、今、公園の木立を夜霧が包んでいる。「哀愁」さえ漂っていれば、武蔵野の樹林にも夜霧は降るようになったとみえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2012年4月17日 (火)

娘という関門

樹林亭を「終の棲家」とするに当たって、最大の関門は既に嫁いでいる娘であった。何でも直ぐ決めてしまうのだから、と娘は私の事の進め方のパターンを、大いなる欠点としてよく把握している。他の物件も見て回って、よく吟味して決めるべきだというのである。世間の常識に従えば、実に正しい態度であるというべきであろう。

しかし、井の頭公園という限られた範囲に、ベランダから飛び降りたらそこはもう公園の中というような、私の求めてやまなかった立地の物件が、二つも三つも存在するとは到底思えなかった。それに、私の性癖として、一度気持ちがドボンとはまり込むともはやそれまでで、そこから気持ちが動かない。このことは女性についても同様で、私の精神とはその程度のキャパシティしかないのだ。世の中には、三~四人の女と同時にうまく付き合っている男がいるが、あれはかなり精神的なキャパシティの広い男であって、私は密かに感服し、憧れている。

そのことはさておき、私は内々の意志を不動産屋に伝えておきながら、娘にそれを伝えるまでに二週間ばかりの間を置いた。他の物件もいろいろ見て回っているなどという白々しい嘘は口にしなかったが、一応慎重に検討しているという体裁を装ったのである。

私がここまで娘の意向を尊重するについては、それなりの理由がある。実は、これまでも私は、掃除する、洗濯する、そして、生存する上でもっとも大切な「食べる」=料理する、ということをすべて娘に頼ってきたのである。料理するという仕事には、食材を買い求めることから、食い尽くした後の食器を洗うことまで幾つかの付随した仕事が派生する。洗濯という仕事を完結させるには、洗ったものを干さねばならない。また、「洗う」ということだけでも、洗剤とか柔軟剤とか、ややこしい粉や液体が必要らしい。実(まこと)に厄介な、この生存のための所謂「家事」という仕事を、私はすべて娘に頼ってきたのだ。勿論、家の中を掃除するという仕事についても同様で、掃除機のゴミを溜める袋が満杯になったらどうすればいいのか、今だに自信がない。

そういう私であっても、ものの道理やスジということを、最低限のレベルでは弁(わきま)えている。家の中を掃除してくれるのが娘だとすれば、仮に従来より若干でも面積の広い家へ越すとなれば、娘の掃除すべき面積が広くなるわけであるから、娘の了解なり同意が、或いは少なくとも「諦め」が必要となる。

これまで私は、徳富蘆花先生所縁(ゆかり)の芦花公園のマンションに暮らしていた。娘は、週に二回ぐらいのペースで諸々の家事を仕事に出ている私の留守中に片づけておいてくれたのである。マンションというのは部屋が複数あったとしても、個人が占有している空間はフラットである。ゴミ出しにしても、共有のゴミ出し部屋が一階に備わっていて、最低限の分別さえしておけばいつでも出しておくことが可能であった。ただ、溜まった雑誌や新聞を、四階の私の部屋からエレベーターを使って下まで運ぶのは、娘にとっては力仕事であったかも知れない。

ところが、私が「終の棲家」と定めた樹林亭は、もっと厄介な条件を抱えていたのだ。まず、それが一軒家であることだ。更に、三階建てになっているという“悪条件”が加わるのだ。部屋数が一気に倍増するわけではないが、計算してみると面積が2.5倍以上となる。つまり、娘が掃除すべき面積が2.5倍以上になるのだ。しかも、三階に分かれているとなると、掃除機を移動させる手間を考えると、掃除に要する時間は2.5倍以上になることが予想された。

このように、生きる上での必須業務を、私は娘に依存してきたわけで、大仰にいえば娘は私の生殺与奪の権を握っていたのである。家を越すに際して彼女の意向を無視すれば、私の孤独死の時期は早まる可能性が高いのだ。いずれ孤独死することになってはいるが、寺山修司ではないが、今はまだ「人生に対する未練」に苛(さいな)まされているのだ。

たった一つ、娘にとって悪くない条件があった。それは、ここが吉祥寺であるということであった。石神井に住む彼女は、日常の買い物などで頻繁にこの街へ出てきていた。行きつけの美容院も、駅の傍にあった。何よりも彼女は、この街が好きであった。従来の芦花公園へ行くには、吉祥寺へ出て、更に井の頭線で高井戸へ下り、そこでバスに乗り換えるという、実に厄介な経路を辿ることになる。東京西郊に住む方なら実感を伴って理解できるであろうが、広大な武蔵野を縦に移動することは、すこぶる不便を伴うことなのだ。益して娘は、まだ三歳になったばかりの幼な児を連れて来ざるを得ない日もあった。もし、吉祥寺から先の移動が消滅すれば・・・何と素晴らしいことだろう。好きな街、吉祥寺へ出るだけで済むのだ! 日頃、出慣れていて、どこにどういう店があるかも知り尽くしている街がゴールになるのだ! ここをアピールするしかない。

私の娘に対する戦略が定まった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

2012年4月 9日 (月)

桜咲く満月の夜

目の前の井の頭恩賜公園の桜が、今日一気に満開となった。既に一昨日の朝から、カメラマンが押しかけていた。近くの幼稚園児が、さなぎが列を為すような動きで池の周りに集まってきていた。

近年、「バカ造」といわれる若造たちが、桜が咲くと夜遅くまで池の周りで乱痴気騒ぎを繰り広げて顰蹙を買うことが恒例となっているが、それさえ除けばここの桜は勲一等に値するといっていいだろう。その華やかさをもっとも華やかに見る一番の観方は、ボートを借り出し、池の中から池の周囲の桜を、張り出した枝の下へ潜り込んで観察したり、池の真ん中でボートを静止させ、満開の桜の水面へ張り出す様をじっくり眺めたりすることである。池を取り巻く桜と共に、地面にへばりつくようにして酒盛りをする人びとの群れが視界の邪魔ではあるが、精神一到、意志の力で人びとを消し去ることぐらいが出来なければ、昨今はここの桜をそのピークに合わせて楽しむことは出来ないのだ。私などは、既に池の真ん中から桜の華麗さのみを楽しむことができるまでになっている。

ただ、今や寓居が公園に隣接しているので、早朝などを利用すればそれほど無理をすることもないのだが、足の踏み場もないほど人びとが集まらないとどこか物足りなくなっているのも事実である。

あれは、うだるような8月の土曜日の午後であったか。

吉祥寺・末広通り入り口あたりの不動産屋に、確たる目当てもなく入ってみた。確たる目当てはなかったのだが、いずれ井の頭恩賜公園の池の傍に「終の棲家」を、という獏とした目的は日頃から胸に秘めていたのである。思いつくまま、幾つかの条件をカウンターの女性に告げると、怪訝そうに1枚ずつ順番に物件シートを目の前に並べ始めたのだ。吉祥寺のマンションは、概ね築年数が古い。

「古いな、まるで築縄文時代みたいだ」

「・・・」

「マンションでなきゃならない、とは言っていない」

「えっ・・・」

と今度は、一軒屋のシートを目の前に置き出した。この時、既にこの客は単なる冷やかし、と思われていることは解っていた。

どれも決め手に欠け、まあ、今日決めなければいけない訳でもなし、と思い始めていると、当然相手にもそれは伝わる。次第に投げやりに高い物件をカウンターに並べ出した。そのうちの1枚の「宣伝文句」が目をひいた。

『井の頭公園がご自宅の庭!』

よく見ると、文字通り公園に隣接している。というより、公園敷地の中にあるようなロケーションではないか。

「何故、これを先に出さない!?」

「えっ??」

係の女性の言い分は、聞かなくても解っている。年寄りの一人暮らしで何故3階建ての一軒家が必要なのか。階段のある家を避けるのが、「老人」の常識ではないか。顔にそう書いてあった。

しかし、必要性だけで家を選ぶか? そして、まだグルコサミンやコンドロイチンの世話にはなっていない。最初から「公園の近く」と言っているではないか。

このような、何気ない経緯で「終の棲家」が決まった。奇妙であったのは、この貸家には「名称」が付いていたことだ。「樹林亭」という。多分、公園の木々に覆われているからだろうと想像し、平凡なネーミングだなと思っていたら、入居してから「樹林亭」なる名称の謂れが分かった。そのことは、ここで明かすと多少人様に迷惑がかかるかも知れないので割愛するが、いずれにしてもこの「樹林亭」という、実は奇妙な家が私の最後の棲家となったのである。

今夜は、池の上に満月。月が桜を見下ろし、昼間喧噪を極めた公園は、宴のあとといった趣である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

トップページ | 2012年5月 »