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2012年5月

2012年5月24日 (木)

今日の運勢

先週末のことであった。所用があって、出社する前に二、三立ち寄るべき所があった。

まず吉祥寺の街へ出ようとしたのだが、緑の増してきた公園の中へ足を踏み入れた途端に空模様が怪しくなってきた。折角気分良く公園の中へ降りたのに、傘を取りに引き返すのも忌々しい。アマタツの予報がどうあれ、基本的に今現在降っていない限り、傘を持って家を出るということはしないことにしている。

かつて、海軍兵学校の生徒(といっても、今の「学生」より大人である)は、多少の雨には傘など差すな、という躾けを受けた。一目でそれと判る凛々しい兵学校の制服を着用していて、傘を差すなど見苦しいというのである。彼らは、兵学校を出て士官となる身である。帝大へ入学するよりも難しい兵学校へ入り、先々兵を率いる指揮官となるべき者は、常にカッコ良くあらねばならない。合理性に重い価値を置きながら、リーダーたる者、ユーモアのセンスとカッコ良さを見に付けなければならないことを徹底した兵学校の教育とは、雑魚も秀才もごちゃ混ぜにして「平等」だと自己満足に耽り、ありもせぬ夢物語を語ることによって波風の立たないことだけに腐心し、徹底して現実性を欠いている現代の如何なる教育機関の教育、躾けより、私は真っ当であると思っている。広島へ原爆を投下するという「人道に反する大罪」を犯したアメリカ合衆国の軍が、目と鼻の先の江田島に在る海軍兵学校を「人類にとっての普遍的なソリューションを提供する機関であり、施設である精神的遺産である」として爆撃対象から外したことでも解る通り、兵学校の教育や教育機関としての在り方は国際的にも一目置かれていたのである。ここで教育を受け、躾けられた者たちが創り上げた帝國海軍を称して司馬遼太郎氏は「明治以降の日本人が創り上げた最大の文化遺産」であるとした。注目すべきことは、氏が戦の専門機関である帝國海軍を称して「文化遺産」であるとしたことだ。ただ、それは人材の面に着目すればせいぜい第60期生までのことであって、特に60期代末期から70期代にかけては陸軍に抗するどころか、同調してしまって国を滅ぼす一翼を担ってしまったのである。

そんなことを考えながら公園を抜けて駅まで来ると、急激に空が暗くなってきた。兵学校のことはともかく、井上陽水流にいえば、問題は傘、である。空を見上げて、こりゃ、ダメだとあっさり“海軍流儀”を放棄し、550円のビニール傘を買い求めた。こうやって、如何にも「平成文化」らしい安っぽいビニール傘が、自宅にも会社にもどんどん貯まっていく。果たせるかな、駅を通り過ぎると直ぐ、文字通りバケツをひっくり返したような水の塊りが地表を殴りつけるように落下してきた。傘など、何の役にも立たぬ。特に、腰から下は歩きながら水洗いしているようなものである。最初の目的地まで徒歩で3分。きっちりこの3分間のみ、私は水塊に思い切り叩かれ、目的地のビルに入るや否やそれはピタッと止み、薄陽さえ差し始めたのである。ビルの2階へ上がると、男と女が悲惨な姿の私を一瞥し、

「外、降ってたんだ・・・」

と間抜けた会話を交わすほど、それは一瞬の出来事であったのだ。

 何という間の悪さ。13日の金曜日と仏滅が重なり、朝のテレビの星座占いの最下位が重なったとしてもこれほど間の悪いことは起きないであろう。

 その日、会社ではスタッフが私を激怒させた。その忌々しさももち帰って噛みしめながら例によって遅い夕食をとっていたら、またソファーの上で寝入ってしまった。私は、ものを食べながらでも寝入ってしまうことがしょっちゅうあって、それは食べ物を咀嚼しているまま眠ってしまうことであり、12時間経って我に返ると、口の中には咀嚼途中の食べ物が半ば固くなって残っているのだ。その夜もまた咀嚼を再開しようとすると、ソファーの下にガラス片と液体が散らばっている。どうやら、仮眠中にテーブルの上のグラスを手が払ったらしい。炊事をしない私がグラスや茶碗を割るということは、まずない。冷静に振り返ってみても、一年に1個もない。オリンピックと同じとまではいかないが、せいぜい二年に1個ぐらいのものである。

 誠意を以て日々を生きている人間に対しても、こういう間の悪い日というものは一定の周期で訪れるものであり、それはテレビなどが仕切っている「今日の運勢」の埒外にあるらしい。だって、その日の蟹座の運勢は、二番目に良かったのだから。

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2012年5月15日 (火)

縮んだ!

実は、もう先月の末になるのだが、生まれて初めて胃カメラを呑んだのである。この拙いブログに前のシリーズから一定期間お付き合いいただいている方ならご存知であろうが、私は根っからの医者嫌いである。(但し、女医さんは別である)親の仇のように彼らを嫌ってきた。従って、私の方から胃カメラを呑むことを志願したなどということは断じてない。

もう何年もの間、何とかして私の内臓に胃カメラを突っ込みたくて仕方がないという医者がいるのだ。胃カメラだけでなく、エコーだ、X線だと、何やかやと道具を使って私の身体を検査したがっていたのだが、主たる目的が胃カメラにあることを私は察知していた。根拠は知らぬが、どうやら彼は胃カメラに自信があるのだ。

浮世の義理という行動心理や様式があるが、私が観念したのはそういう心情に近い。とにかく、胃カメラを一度呑まないことには収まりがつかなくなったのだ。何せ生まれて初めてのことである。一週間も二週間も前から会社でも私は多少興奮気味で、スタッフは皆、迷惑そうな顔をしていた。

当日、私は三週間前に赤紙を受け取り、来し方行く末にさまざまに想いを馳せ、それでも克己の精神を発揮して凛々しく出征していく青年の如く、朝食も断って出かけていったのである。

案の定、医者は私を騙し討ちにした。胃カメラに神経を集中していた私を完璧に無視し、肝臓や膵臓をエコーで検査するわ、血液を吸い取るわ、心電図をとるわ、挙句に安っぽい一眼レフで写真を撮るようにバシャバシャと音を立ててレントゲンを撮るわで、好き放題をやったのである。肝心の胃カメラの結果がふるっている。

「胃の中は綺麗ですね」

今どきの医者は、鼻から管を突っ込まないと、胃の正常、異常も判断できないのだ。「綺麗ですね」のひと言で済むような状況で、普通、胃カメラを呑ませるか!? さすがに何も“成果”がないと具合が悪いと思ったのであろう。

「胆のうに小さな胆石が一個あります」

と、勝ち誇ったように“宣告”し、腹部の一ヶ所を指差して、

「ここが少しでも痛んだら、決して我慢しないでください」

と、さも親切そうに言った。小さな胆石一個ぐらいで、大の男がぎゃあぎゃあと騒げるか! 私は、二週間以上経った今も、検査結果は一切聞きにいっていない。敵も何も言ってこないから、「便りのないのはいい便り」ということであろう。

こういう忌々しい日が過ぎてまもなく、今度は会社で毎年行っている健康診断の時期が来てしまった。同じようなことを連続してやる必要もなかろうと思ったのだが、係りのTMが、毎年のことだから同じ検査機関にデータを残しておいた方がいいですよ、という。もっともな気がして、胃カメラなどのすべてのオプションを外して、健康診断の「セカンドオピニオン」のつもりで基本的な事項のみ検査を受けることにした。

ところが、ここにもとんでもない医療関係者がいたのである。

健康診断の“前菜”みたいな位置づけで、身長や体重を測る。ここでいきなり不埒なことが起こった。身長が「少なく」なっていたのだ。つまり、私は、背が低くなっていたのだ。歳をとると縮む、ということをよく聞くが、確かに私は厚生省や総務省の年齢区分に拠っても既に「高齢者」である。しかし、ギリギリ「高齢者」の仲間入りを果たしたばかりであって、まだ身体が縮むほどのベテランではない。加えていえば、先月の胃カメラ受難の日にも身長は計測されており、その時の値よりも1センチも「少なく」なっているのである。一ヶ月も経たずして、身体が1センチも縮むか!?

「おかしい!!」

私は、大声を挙げた。その瞬間、私が声を挙げるのを待っていたかのように、担当の看護婦(看護婦は看護婦である、差別用語でも何でもない)が同じように大声で返した。

「今更、成長しません!」

憮然として会社へ戻って、その鬱憤を晴らそうと話をしたら、皆、声を押し殺して笑いを堪えているようだったが、中でただ一人、日頃から「天然」だと定評のあるKRが真っ直ぐに私を見ながら、実に清々しい笑顔で爽やかに言うではないか。

「私は、まだ成長しています!」

一瞬、静寂が支配する中、もう20代後半にもなるKRは、この季節らしくどこまでも涼やかな笑顔を湛えていた。

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2012年5月 4日 (金)

カテリーナがいて、ティンクェッティがいて・・・。

雨の憲法記念日、そして「みどりの日」。よく降った。

憲法記念日といっても、ほとんどの日本人にとって単なるGWのうちの1日に過ぎないであろう。今の憲法が施行されたのは、私が満1歳の誕生日を迎えようとする頃であった。私たちは、義務教育の中でその前文などは完璧に暗誦させられた。何せ、敵国のど素人(GHQ民政局)が急遽原案を作ったという代物、とんでもない悪文である。あのような悪文を有難がっている日本人の気が知れぬ。

5月は、若葉の季節である。「五月晴れ」の空に泳ぐ「鯉幟」。如何にも清々しいというイメージの季節だが、私にはどこか切なさを感じる時季でもある。

休日の午後、陽水をよく聴くが、陽水に『五月の別れ』という名曲がある。

♪風の言葉に諭されながら

別れゆくふたりが5月を歩く ~

数ある陽水のヒット曲の中で、私のもっとも好きな曲の一つは『青空、ひとりきり』である。

♪何かを大切にしていたいけど

体でもないし 心でもない

きらめく様な 想い出でもない

ましてや我身の 明日でもない

浮雲 ぽっかり浮雲 ひとりきり

結局陽水には、皐月、五月、若葉、青空などという言葉(単語やフレーズ)で語られる季節を、切ないものがもっとも切なさを発揮する季節だとする感性があるように思える。だから、この季節になると、また陽水が聴きたくなるのかも知れない。

陽水に手を延ばしかけて、ティンクェッティに変えた。陽水の「切なさ」は、五月晴れの青々とした晴れた休日にしか味わえないものだ。

ジリオラ・ティンクェッティ・・・勿論、『雨』である。

ジリオラ・ティンクェッティといえば「サンレモ音楽祭」である。昭和39年、16歳で初出場、『夢見る想い』で史上最年少優勝、一夜にして世界のスーパーアイドルとなった。この時、競った出場者には、ポール・アンカフランキー・レイン、そして、ボビー・ライデルベン・E・キングなどの錚々たるメンバーがいた。16歳の美貌と美声を備えた、イタリアの初々しい少女が、一瞬にして世界中の男の子を虜にしたのだ。イタリア代表がサンレモを制したのは、これが初めてであった。因みに、翌年のサンレモでは、フランス・ギャル『夢見るシャンソン人形』で優勝している。

イタリアといえば、やはり世界のスーパーアイドルであったカテリーナ・ヴァレンテも、もともとはイタリア国籍をもつアイドルであった。尤も、彼女はフランスのパリで生まれ、歌手として聴衆の前で初めて唄ったのはベルギーのブリュッセル、結婚してドイツ国籍を得ている。カテリーナ・ヴァレンテといえば、『マラゲーニャ』『そよ風と私』、そして『情熱の花』であろう。いずれも「ジャイアントヒット」と呼ばれる。『マラゲーニャ』は昭和29年、『そよ風と私』は翌昭和30年にドイツで収録されたヒット曲、日本ではザ・ピーナツでお馴染みの『情熱の花』は昭和34年に発売された。ザ・ピーナツによる日本語カバー盤、カテリーナのフランス語盤、ドイツ語盤も同じ年にリリースされている。「歌う通訳」といわれたマルチ・リンガル;カテリーナはドイツのデッカレコードから約90曲を発表しているが、もっとも多いのがフランス語、ドイツ語でそれぞれ50曲強、次いでイタリア語が30曲強だという。日本語でも4曲発表しており、フラマン語で6曲、英語でも4曲リリースしている。

ここで、平成日本の人びとは、英語が主流ではなかったということに違和感を感じられるかも知れない。振り返れば、今の人びとは気の毒である。80年代バブル期から我が国では世界=アメリカという感覚が「常識」として定着した。洋画といえばハリウッド映画しか入ってこなくなった。私のいう「ユーミン世代」にとっては、「オレンジシャワー」を浴びてアメリカナイズされることがカッコいいことであった。音楽も映画も、何でもアメリカ一辺倒。そして、「グローバリズム」の大合唱。挙句の果てに、アメリカンスタイルというものが破綻しても、既に歳を重ね、「ユーミン世代」も40代後半から50代前半にさしかかっている。今更、柔軟に舵を切ることができない。かくして、長い時間軸を以て歴史的事象に触れるという経験をもたず、若い世代に迎合することでしか若い世代とコミュニケーションがとれない実(まこと)に奇妙な「中年」層が社会の中核を占めるようになった。

60年代、70年代という時代は、映画にしても音楽にしても、アメリカ一辺倒ということは全くなかった。映画にしても、フランス映画、イタリア映画は勿論、ギリシャ映画やスウェーデン映画からイラン映画と、選択肢が多かった時代である。ハリウッド映画というと、むしろ“軽蔑”されることも多かった。お決まりの活劇を楽しみたい気分の休日は、ハリウッド映画を選べばいい。しかし、多少でもカッコつけたい相手と映画を観るとなると、ほとんどがフランス映画かイタリア映画となる。私どもの世代なら、例えばフランス映画『赤い風船』(昭和31年、アルベール・ラモリス監督作品)とか、イタリア映画『道』(昭和29年、フェデリコ・フェリーニ監督作品)、仏・伊合作映画『太陽がいっぱい』(昭和35年、ルネ・クレマン監督作品、アラン・ドロン)などの何らかの影響を受けなかった者は少ないのではないか。絵本作家;いわさきちひろ『あかいふうせん』(昭和43年)は、上記映画をモチーフにした絵本集であり、ジャン・コクトーが『赤い風船』を「妖精の出てこない妖精の話」と評したことは余りにも有名である。最近では、バンクーバ冬季オリンピックで男子フィギア;高橋大輔が初めて銅メダルを獲った時の音楽が『道』の主題曲(ジェルソミーナ)であった。アラン・ドロンという外人部隊出身の稀代のハンサムな俳優と『太陽がいっぱい』のもたらした社会現象については、触れるまでもないだろう。

因みに、私のもっとも好きなイタリア映画は『天使の詩』(昭和41年、ルイジ・コメンチーニ監督作品)である。公開当時だけで、何度も映画館へ足を運んだものだ。

カテリーナ・ヴァレンテがいて、ジリオラ・ティンクェッティがいた時代。フレンチ・ポップスでは、フランス・ギャルがいて、シルヴィー・バルタンがいた。アストラッド・ジルベルト『イパネマの娘』で「レゲエ」という新しい音楽を世に示した。勿論、リトル・ペギー・マーチも、ブレンダ・リーも、ペギー・リードリス・デイも、アイドルだった。選択肢のある時代こそ、自由を実感できる幸せな時代である。今となっては、そのことは能動的に努力するしか手に入らないのだ。そして、それをやるかどうかは、ひとえに知力の問題であるという気がする。

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