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2012年7月

2012年7月30日 (月)

深手を負って

毎度のことながら、書きものの締切前というのは実(まこと)に非人間的である。すべて己の不甲斐無さが原因と承知しているが、今回も2日ほど徹夜する羽目に陥った。徹夜そのものは何とかなるとしても、後がいけない。回復に時間がかかるのだ。さあ、終わったといって翌日ぐっすり寝れば回復するかといえば、全くダメである。少なくとも23日経たないと、「原状回復」とはいかなくなっているのだ。勿論、それが「加齢」によるものだと自覚している。

しかし、もしこのことを例の女子(おなご)の前で言おうものなら、忽ち

「老いです!」

と、大きな声で断言するだろう。「加齢」などというおとなしい言い方はしない。「老い」だと、露骨に強調することは間違いない。繊細な私の神経は、その都度修復が不可能と思われるほど傷ついているのだ。

しかし、「老い」だと言われれば、確かにそうである。近年は、意味の取り違えようもない、このような正直な、正確な表現を、時に「差別語」だとし、時に「不適切な表現」だといって排除する動きが露骨になっている。この動きの“主犯”は、かつては自分たちのみがこの国の良識だと勝手に思い込んでいた某全国紙であった。ところが、今やすべてのメディアがそれに慣れてしまい、勝手に己に対する規制を強め、それを常識化する動きが定着してしまっている。視聴者や読者までもが一緒になって、言葉を自由に使うということを規制するのが普通になってしまった。「言葉狩り」が定着してしまったのだ。

このたびの『明治維新という過ち』出版に際しても、「キチガイ」という単語は使ってはいけないということで、「規制」が入った。文脈は無関係なのだ。とにかく、その単語が出現してはいけないのだ。では、「キチガイ」という日本語は不要なのか。そうなのだ、不要なのだ。不要どころか、存在することが「悪」とされているのである。

処女作『夏が逝く瞬間』の時も、「百姓」や「町医者」を差別用語だとして削除を要求された。あまりにバカバカしいので、これは拒否した。今、この国に言論や表現の自由があると思ったら、大間違いである。言論の内容を理解せず、表面(おもてづら)の表現だけで「言論物」が封殺されることがあるのだ。それを行っているのは、一見、新聞社や出版社のように見えるが、実はそれを強力に推し進めている「タチの悪い原理主義者」とは、一般市民なのである。

東北の木材で送り火を焚こうとして、数本の抗議メールが入れば、自治体は即それを中止する。瓦礫の受け入れに10人でも反対すれば、たちまち再検討となる。こういう連中と言葉を狩っている連中とは、実は物事を認識する力のレベルに於いて共通点があり、「平等」だ、「平和」だ、と言っていればそれが実現に向かうとする原理主義者であるという点で繋がっている。江戸期、あれほど詩叢豊かであった日本列島は、今や人間のもっとも人間らしい能力である言語能力という面で実に貧困極まる空間になってしまっているのである。

私が学生時代に「右翼反動軍国主義者」のレッテルを貼られたのは、私が、当時はタブーであった「大東亜戦争」という単語を口にしたからである。ただそれだけが理由であった。「大東亜戦争」とは、開戦とともに「今般の事変を大東亜戦争と呼称する」という詔勅が出て、定義の明確になっている、また、当時の国民が普通に使用していた名称である。ところが、日本共産党の下部組織「民青」や全共闘は、この単語を口にするだけで戦争を賛美する「軍国主義者」であると断じ、硫酸瓶の標的にしたのである。彼らもまた、根底のところでロシア、中共を崇拝する原理主義者であったことは、改めて言うまでもない。

徹夜で負った深手は、いずれ治癒する。だが、今度の『明治維新という過ち』に関しては、良識派を自認する「進歩的な市民」やメディアから“袋叩き”に遭う可能性が高い。その時負う深手は、果たして回復する可能性のある程度で済むのかどうか・・・。

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2012年7月 3日 (火)

「さよならは突然に」

芸能人の訃報が相次いで、やたら死んでいくという感がするのは、多分私の“ひがみ”みたいなものであろう。少年野球の仲間であった男は、結局昨日逝った。有名無名を問わず、こういうことはこたえる。

「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミさんの逝去もショックであった。

「ザ・ピーナッツ」・・・昭和34年、私が中学へ入った年にデビューし、昭和50年、世の中が「本格的におかしくなる」前に引退した。引退した後は、二度と姿を見せなかった。近頃は何度も引退するような「定まらぬ」生き方をするのがやたら増えてきたが、彼女たちは「引退」したので、当然そのまま二度とスポットライトを浴びることはなかった。私の仕事絡みでいえば、戦後最大のアイドルといわれたYMが、やはり引退した後二度と姿を見せなかった。今なお見せていない。アイドルとは、アイドルとして生き、アイドルとして去ったのなら、二度と姿を現してはならない。アイドルとして生きたのなら、決して“老醜”を晒してはならず、引退した者がその後も出たり入ったりするのは、掟違反であろう。

「ザ・ピーナッツ」の歌唱力は、抜群だった。何よりも、ハーモニーが美しかった。ユミがメロディを受け持ち、エミがハモッた。今、AKBだ、その姉妹グループだなどと、女の子を集団で掻き集めて唄わせたり、踊らせたりしているが、あれは皆で声を一斉に出しているだけで、ハーモニーや歌唱という代物ではない。「ザ・ピーナッツ」は、60年代に「エド・サリヴァン・ショー」「カテリーナ・バレンテ・ショー」「ダニー・ケイ・ショー」などに出演し、当時は日本の歌手といえば「ザ・ピーナッツ」というのが欧州人の常識だった。

世界的な表現として、音楽の世界に「黄金の60年代」という言葉があるが、この時代を支えたのは30年代~40年代生まれの歌手たちであり、紛れもなくその一人(一組)であった「ザ・ピーナッツ」は1941年生まれ、私の5歳年上である。二人と縁が深いカテリーナ・ヴァレンテが1931年生まれ、エルヴィス・プレスリーが1935年、シルヴィ・ヴァルタンが1944年、ジリオラ・チンクエッティが1947年である。因みに、ビートルズのメンバーは、ジョン・レノンとリンゴ・スターが1940年生まれ、ポール・マッカトニーが1942年、ジョージ・ハリスンが1943年、そして、ストーンズのミック・ジャガーが1943年といった具合である。こういう名前に接するだけで、確かにそれは「黄金の時代」であったと頷けるものがある。

「ザ・ピーナッツ」のデビュー曲は『可愛い花』であるが、二人はこの曲でいきなりその実力をみせつけた。その後、「情熱の花」「悲しき16歳」「月影のナポリ」(競作)、「コーヒールンバ」(競作)、「ふりむかないで」「レモンのキッス」(競作)、「恋のバカンス」「東京たそがれ」「ウナ・セラ・ディ東京」(競作)、「ブルーレディに紅バラを」「乙女の涙」「恋のフーガ」「哀愁のヴァレンティーノ」「大阪の女」等々、ヒット曲を連発、SPLPの累計売上枚数は1千万枚を超えているという。そういえば、グルノーブル(1968年)の記録映画主題曲「白い恋人たち」も彼女たちだった。

バラエティ「シャボン玉ホリデー」のセリフ。

「いつも済まないねぇ」(ハナ肇)、

「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」(ピーナッツ)

・・・これを知っている人は、黄金の60年代を知っている人でもある。

私の若い頃の職場の近くに「三信ビル」という建物があったが(有楽町)、昭和50年の冬のある日、その辺りには寂寥感が漂っていた。前日、「ザ・ピーナッツ」がここで引退を発表したのだった。(当時、このビルにナベプロが在った) その前年だったか(記憶が怪しい)、「さよならは突然に」というヒット曲があった。

たった一度の究極の別れも突然やってくるものだとすれば、そろそろ油断はできない。

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