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2012年9月

2012年9月 2日 (日)

夏が逝く

井の頭池の周りのこの10日間ほどの変化は、実(まこと)に激しい。

井の頭池の林の蝉は、みんみん蝉が中心であぶら蝉が意外に少ない。真夏の蝉嵐は、公園に夏らしい静寂をもたらすが、それが轟音のように激しくなればなるほど静寂が強まる。私は、この夏の昼下がりの蝉嵐がもたらす静寂が好きである。

今年は、この蝉嵐にツクツクボウシが加わるのが例年より早かったような気がする。毎日が楽しくて仕方がなかった幼い日の夏休み、ツクツクボウシが鳴き出すと夏休みも終わりに近づき、灼熱の夏を惜しむように一層泥まみれになって池や川を跳び回ったものであった。

公園のある日、あれほど猛烈であった蝉嵐が突然小さくなった。いきなり半減したような印象を受けるほど、それは顕著に感じられた。そして、ツクツクボウシが主役に聞こえるほど多くなっていた。

翌日の夜、それまで自宅近くの木立で夜遅くまで逝く夏を惜しむように盛り上げっていた蝉嵐が、突然遠くなった。距離が感じられるようになったのだ。

更にその翌日の夜、自宅近くの木立からほとんど蝉の泣き声が消え、距離は更に遠くなり、夜中の零時過ぎ、一匹のツクツクボウシが狂ったように傍の木立で鳴き続けていた。蝉たちは、皆、土に還っていく・・・夏が終わるのだと告げられていると思った。

そして、更にその翌日の帰路、改札を出て公園に足を踏み入れた瞬間、秋虫の合唱に包まれた。主役は、コオロギだと思われる。

これらはすべてこの10日ほどの間に、井の頭池南端、神田川の源流辺りの我が寓居に迫る木立の中で起きた、日ごとの出来事である。これらが季節の変わり目を表現するものだとすれば、季節とは決して穏やかに変わるものではない。日ごと、急激に変化するものだと思い知らされる。

今、逝き遅れた蝉たちが必死にその存在をアピールしているが、夜ともなると既に大勢は決している。

夏が逝く時は、一瞬である。

私小説『夏が逝く瞬間』(河出書房新社)で、私は少年時代のその感覚を次のように描いた。

私にとって、夏の終わりというのはたった一日、いや一瞬の時である。

それは、大概晴れた午後のことだが、刷毛(はけ)で描いたような雲の色が突然薄くなり、風の匂いが何も混じり気のないものに変わる。それは、まさにほんの一瞬のことなのだ。そういう、あ、今夏が終わるという瞬間が、八月も終わりに近づくと必ずある。

その時期、私はいつも細心の注意を払って街道を歩き、校庭で空を仰ぎ、たまたま教室に居れば窓の外に神経を注いでいる。

そして、この夏の終わりを確かに身体で受け止めた時、一抹の寂しさを感じると共に、どこか清々しい安堵感を得るのだった。

あれから半世紀以上経って、今、同じ感覚でその一瞬を捉えることができるだろうか。できる、と信じているが、それによれば、秋虫の音色が日ごと勢いを増しているというのに、井の頭にまだその一瞬は訪れていない。

しかし、夏は今まさに逝こうとしている。

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