若葉の章-五月の別れ

2012年6月22日 (金)

水無月の憂鬱

例年のことであるが、6月に入ると私の機嫌は日々悪くなっていき、桜桃忌の頃になるとそれはピークに達する。3~4年も私の傍にいるスタッフは既に心得ていて、今月一杯は余り触らぬ方がいいと然るべき態勢を採っている。ところが、そういう態勢に馴れが出てしまったのか、飲んでいる場で私に面と向かって

「あと5年くらいですね」

と言ってのけた子がいた。こういうことをやらかすのは、大概TMである。忽ち、身体中の血液が音を立てて逆流し始めたことは言うまでもない。

6月の不機嫌の理由は、言うまでもない、今月誕生日を迎えるからである。誕生日を迎えるとどうなるか。66歳になる。今年の菊花賞と有馬記念は6-6のぞろ目一点買いだ、などと、一見気楽を装ってはいるが、内心は穏やかではないのだ。大仰に言えば、恐怖に慄いているのだ。

そういう高齢者の繊細な心持ちを微塵も解せず、TMは私の余命をあと5年と明確に見通したのである。

この時、一人の男が同席に居た。この男が後刻、輪をかけてトドメを刺すようなことを言ったのである。

TMさんがあと5年と言いましたが、数字を言う時は誰しも区切りのいい数字を口にするもので、5年ということは本心では3年位だと思ってる訳ですよ。女性って、特にそうですよ」

何ということか。ウチのスタッフは、こういう寒々しい精神世界に生きていたのか。ならば、この際当方も声を一段と大にして言っておきたい。

「だったら、俺を大事にするのは今のうちだぞ!!」

あとで悔いても、こればかりはどうにもならぬ、と。

それにつけても、この二人はラッキーである。66歳になろうとする今の私は、我ながら感心するほど大分人間が丸くなってきている。これが5年前であったなら、何が起きていたか。TMは椅子を蹴り上げられ、二人の夏のボーナスは、確実に半分になっていただろう。

更に輪をかけて憂鬱なことが続く。

今年もまた、既に有名無名を問わず、私と同齢の人びとや年下の者が去って逝く。今まさに、私より二つ年下の男が肺がんで逝こうとしている。息子からの知らせでは、もって一両日であろうという。この時刻、彼はまだ頑張っているのか。

かつて一緒に少年野球チームを率い、練馬区百チームのトップに立ったこともあった仲間である。私は、昔からプロ野球を観戦する時に、試合前のノックを観るのが一番好きであった。プロの世界のノッカーは流石に上手く、これを観ないでゲームそのものだけでは入場料のもとはとれない。こういうプロのノッカーは別にして、社会人から高校野球を含めてアマチュア野球の世界で、この男ほどノックの上手い男を、私はそれまで見たことがなかった。だから、この男と組んで育て上げるチームは、毎年「守備のチーム」で、練馬区でトップに立った年のチームは、少年野球らしからぬ高いレベルの守備力を誇ったチームであった。それもこれも、彼の並みはずれたノック力と野球理論の成果であった。そういう仲間が去ろうとしている。さらば、友よ。君のノックの球筋は、いつまでも忘れないだろう。

井の頭池は、神田上水(神田川)の水源である。ベランダから斜め下、直線距離にして20メートルあるかないかという池の端に、そこが神田川の水源であることを示す石の碑が鎮座している。

夜陰に雨が強くなる。石碑の辺りだけが水かさを増したかのように、いつもより激しく水流の岩にぶつかる音が立つ。

水源の石碑まで何ヤード? 墓場まで何ヤード?? 水無月の雨の夜、心がざわめく。

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2012年6月 5日 (火)

面白くない高齢者

 井の頭公園の緑が日に日に盛り上がってきている。ここは、大いに賑わう桜の時期よりも、新芽が吹き出し、木々がひと回り大きくなって公園全体が瑞々しく盛り上がる今が、一番の季節かも知れない。張り出してきた枝は、ベランダから手が届きそうである。

最近、漸くこの住まいに馴染んできたような気がする。住まいもそうだが、井の頭池とかハーモニカ横丁に代表されるこの街に馴染んできたような気がするのだ。かつては新宿などへ出かけて買っていたものも、休日にぶらっと出かけて買い求めることが普通になり、休日に他の街へ出かけることが殆どなくなってしまった。根が“ずぼら”なので、そういうことも心地良さの要因になっているのだろう。

休日の公園には、手づくりの小物を並べている女性、昔のマンガを紙芝居のように語り聞かせる中年のオッサン、大道芸を披露する若者、バイオリンを奏でる少年のように小柄なオッサン、ロダンの彫刻になり切っている年齢不詳の男等々、大体いつものパフォーマーたちが集まっているが、時々ロカビリーを“喚いている”元気なジイさんが現れる。小柄でマンボズボン、60年代の若者風に装っているが、あれは間違いなく私より年長のジイさんである。エルビスの若かりし頃ロカビリーの洗礼を受け、きっと山下敬二郎のファンであったに違いない。あれは、平尾でもミッキー・カーチスでもない、きっと山下のファンであったはずだ。このジイさんは、実に元気である。ギターを弾くというより叩きながら、通りすがる若い女の子に唄いかけるというのではなく、喚きかけるのだ。ギターを打楽器のように扱いながら喚きかけるものだから、女の子たちがたじろいでいる。

アクティブシニアという表現によく接するが、確かに近年、ジイさんやバアさんは元気である。ロカビリージイさんだけでなく、朝といわず夜といわず、公園の中をジイさん、バアさんがヨタヨタとランニングに精を出している。ヨタヨタと、ではあるが、長距離走の経験者としてよく解るつもりであるが、急にはあのように走れるものではない。どう見ても、一定期間継続していることは明らかである。朝、カーテンを開けると、ヨタヨタランナーたちが目に飛び込んできて、自分もやらなきゃ! といつも刺戟を受けるのだが、この点でも私は“ずぼら”であって、よし、走ろう! と決めてから走り出すまでに多分半年はかかるだろう。今はまだ、よし、走ろう! という気分になる直前である。

ジイさん、バアさんなどと失礼な表現を使っているが、今は「高齢者」といえばいいのである。ところが、ジイさん、バアさんという、日本語らしいフレキシブルな言葉とは違って、この「高齢者」という言葉には厳格な定義がある。このことは、国際的に決まっているのだ。「高齢化率」という言葉があり、これは「65歳以上人口の総人口に占める割合」のことである。そして。高齢化率が7%~14%の社会を「高齢化社会」、14%~20%の社会を「高齢社会」、21%以上を「超高齢化社会」という。日本社会は、既に「超高齢化社会」に入っている。つまり、「高齢者」とは65歳以上のことをいうのだ。冷徹な事実として、私も「高齢者」の一人となっており、不本意ながら「超高齢化社会」実現に一役買ってしまっているのである。

ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した時代、彼らがローマの街を歩いていたとして、その時65歳以上の「老人」と出会う確率は40人に1人程度であった。彼らが現代の東京の平均的な住宅街を歩いたとしたら、その確率は4人に1人になっているのだ。このように考えると、ものすごい様変わりである。日本が急速に戦争へと舵を切りつつあった、二・二六事件が勃発する昭和十年~十一年頃、日本の「高齢化率」は4.7%であった。これが、敗戦を経て朝鮮動乱が勃発した昭和25年頃もまだ4.9%であったりしたが、高度成長期の真っ只中、昭和45年に7.1%となって「高齢化社会」に入った。そして、平成7年に14.5%と14%の壁を突き破って「高齢社会」となり、平成19年に21.5%となって「超高齢化社会」となった。最新の推計では、現在は23%を越えている。高齢化のスピードは、高齢化率が7%から14%に上昇するのに何年を要したかによって測られるが、フランスが115年、スウェーデンが85年かかっているのに対して、日本の場合は僅か24年であった。ヨーロッパでは特にスピードの速かったドイツでも40年を要しているというのに、凡そその半分、つまりスピードは2倍・・・明治維新後の日本という国は、万事この調子なのだ。

近い将来、ごくごく近い将来、労働人口2人が1人の高齢者を支えなければならなくなる。「シルバーデモクラシー」という言葉が生まれているが、政治家は高齢者の支持を得ないと当選できなくなる。先の「後期高齢者医療制度」の時の騒動を思い返せば、分かり易いだろう。その結果、世代間対立というものが深刻になる可能性が高い。

最近、「あと5年ですね」などと、堂々と私の人生を区切る者が周りに増えてきた。女の子までが面と向かっていうから、私は内心穏やかではないのだ。確かに、おぼろげであった墓場が、次第に鮮明になりつつあるのを実感する昨今であるが、「あと5年」と面と向かって区切りながら、若い子に感慨深そうな表情をされると、妙なリアリティが湧いてきて心は不穏なのだ。

更に面白くないのは、年金のことである。私の年代は、制度変更の過渡期に当たっているようで、2~3歳違うと受給開始年齢にも差が出てくるのだが、私は63歳から満額受給できることになっていた。その年齢をとうに過ぎているというのに、今だに1銭の年金も受給していない。現役で働いていると一定以上の収入があるのは当然だが、その場合は年金支給の対象外となるのだ。逆に、今でも毎月毎月、それなりの額の厚生年金保険料を支払っているのだ。介護保険料も支払っており、会社としては例の子供手当まで負担している。永年の知人によれば、私は現場で死ぬことになっており、そうなると私は一生、ひたすら支払うだけで終わり、受給するものは何もないのだ。老骨にムチ打って働いている身としては、違和感を感じないこともない。これって、果たして「正義」が為されているといえるのか。私だって、一度でいいから年金の1円でも受け取ってみたいのだ。

受給しているのと支払っているのとでは、立場は逆である。その点でいえば、私は年金を受給している「高齢者」ではないことになる。むしろ、一生懸命保険料を支払ってそれを支えている若年層と同じグループなのだ。労働人口2人が1人の高齢者を支える社会に於いて、私は支える2人側なのである。ここを強調しておきたい。

私に、「あと5年ですね」と嬉しそうに、感慨深そうにいった子に対して、私は内心でうそぶいている。

「俺が死ねば、お前さんの負担が増えるんだぞ」

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2012年5月15日 (火)

縮んだ!

実は、もう先月の末になるのだが、生まれて初めて胃カメラを呑んだのである。この拙いブログに前のシリーズから一定期間お付き合いいただいている方ならご存知であろうが、私は根っからの医者嫌いである。(但し、女医さんは別である)親の仇のように彼らを嫌ってきた。従って、私の方から胃カメラを呑むことを志願したなどということは断じてない。

もう何年もの間、何とかして私の内臓に胃カメラを突っ込みたくて仕方がないという医者がいるのだ。胃カメラだけでなく、エコーだ、X線だと、何やかやと道具を使って私の身体を検査したがっていたのだが、主たる目的が胃カメラにあることを私は察知していた。根拠は知らぬが、どうやら彼は胃カメラに自信があるのだ。

浮世の義理という行動心理や様式があるが、私が観念したのはそういう心情に近い。とにかく、胃カメラを一度呑まないことには収まりがつかなくなったのだ。何せ生まれて初めてのことである。一週間も二週間も前から会社でも私は多少興奮気味で、スタッフは皆、迷惑そうな顔をしていた。

当日、私は三週間前に赤紙を受け取り、来し方行く末にさまざまに想いを馳せ、それでも克己の精神を発揮して凛々しく出征していく青年の如く、朝食も断って出かけていったのである。

案の定、医者は私を騙し討ちにした。胃カメラに神経を集中していた私を完璧に無視し、肝臓や膵臓をエコーで検査するわ、血液を吸い取るわ、心電図をとるわ、挙句に安っぽい一眼レフで写真を撮るようにバシャバシャと音を立ててレントゲンを撮るわで、好き放題をやったのである。肝心の胃カメラの結果がふるっている。

「胃の中は綺麗ですね」

今どきの医者は、鼻から管を突っ込まないと、胃の正常、異常も判断できないのだ。「綺麗ですね」のひと言で済むような状況で、普通、胃カメラを呑ませるか!? さすがに何も“成果”がないと具合が悪いと思ったのであろう。

「胆のうに小さな胆石が一個あります」

と、勝ち誇ったように“宣告”し、腹部の一ヶ所を指差して、

「ここが少しでも痛んだら、決して我慢しないでください」

と、さも親切そうに言った。小さな胆石一個ぐらいで、大の男がぎゃあぎゃあと騒げるか! 私は、二週間以上経った今も、検査結果は一切聞きにいっていない。敵も何も言ってこないから、「便りのないのはいい便り」ということであろう。

こういう忌々しい日が過ぎてまもなく、今度は会社で毎年行っている健康診断の時期が来てしまった。同じようなことを連続してやる必要もなかろうと思ったのだが、係りのTMが、毎年のことだから同じ検査機関にデータを残しておいた方がいいですよ、という。もっともな気がして、胃カメラなどのすべてのオプションを外して、健康診断の「セカンドオピニオン」のつもりで基本的な事項のみ検査を受けることにした。

ところが、ここにもとんでもない医療関係者がいたのである。

健康診断の“前菜”みたいな位置づけで、身長や体重を測る。ここでいきなり不埒なことが起こった。身長が「少なく」なっていたのだ。つまり、私は、背が低くなっていたのだ。歳をとると縮む、ということをよく聞くが、確かに私は厚生省や総務省の年齢区分に拠っても既に「高齢者」である。しかし、ギリギリ「高齢者」の仲間入りを果たしたばかりであって、まだ身体が縮むほどのベテランではない。加えていえば、先月の胃カメラ受難の日にも身長は計測されており、その時の値よりも1センチも「少なく」なっているのである。一ヶ月も経たずして、身体が1センチも縮むか!?

「おかしい!!」

私は、大声を挙げた。その瞬間、私が声を挙げるのを待っていたかのように、担当の看護婦(看護婦は看護婦である、差別用語でも何でもない)が同じように大声で返した。

「今更、成長しません!」

憮然として会社へ戻って、その鬱憤を晴らそうと話をしたら、皆、声を押し殺して笑いを堪えているようだったが、中でただ一人、日頃から「天然」だと定評のあるKRが真っ直ぐに私を見ながら、実に清々しい笑顔で爽やかに言うではないか。

「私は、まだ成長しています!」

一瞬、静寂が支配する中、もう20代後半にもなるKRは、この季節らしくどこまでも涼やかな笑顔を湛えていた。

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2012年5月 4日 (金)

カテリーナがいて、ティンクェッティがいて・・・。

雨の憲法記念日、そして「みどりの日」。よく降った。

憲法記念日といっても、ほとんどの日本人にとって単なるGWのうちの1日に過ぎないであろう。今の憲法が施行されたのは、私が満1歳の誕生日を迎えようとする頃であった。私たちは、義務教育の中でその前文などは完璧に暗誦させられた。何せ、敵国のど素人(GHQ民政局)が急遽原案を作ったという代物、とんでもない悪文である。あのような悪文を有難がっている日本人の気が知れぬ。

5月は、若葉の季節である。「五月晴れ」の空に泳ぐ「鯉幟」。如何にも清々しいというイメージの季節だが、私にはどこか切なさを感じる時季でもある。

休日の午後、陽水をよく聴くが、陽水に『五月の別れ』という名曲がある。

♪風の言葉に諭されながら

別れゆくふたりが5月を歩く ~

数ある陽水のヒット曲の中で、私のもっとも好きな曲の一つは『青空、ひとりきり』である。

♪何かを大切にしていたいけど

体でもないし 心でもない

きらめく様な 想い出でもない

ましてや我身の 明日でもない

浮雲 ぽっかり浮雲 ひとりきり

結局陽水には、皐月、五月、若葉、青空などという言葉(単語やフレーズ)で語られる季節を、切ないものがもっとも切なさを発揮する季節だとする感性があるように思える。だから、この季節になると、また陽水が聴きたくなるのかも知れない。

陽水に手を延ばしかけて、ティンクェッティに変えた。陽水の「切なさ」は、五月晴れの青々とした晴れた休日にしか味わえないものだ。

ジリオラ・ティンクェッティ・・・勿論、『雨』である。

ジリオラ・ティンクェッティといえば「サンレモ音楽祭」である。昭和39年、16歳で初出場、『夢見る想い』で史上最年少優勝、一夜にして世界のスーパーアイドルとなった。この時、競った出場者には、ポール・アンカフランキー・レイン、そして、ボビー・ライデルベン・E・キングなどの錚々たるメンバーがいた。16歳の美貌と美声を備えた、イタリアの初々しい少女が、一瞬にして世界中の男の子を虜にしたのだ。イタリア代表がサンレモを制したのは、これが初めてであった。因みに、翌年のサンレモでは、フランス・ギャル『夢見るシャンソン人形』で優勝している。

イタリアといえば、やはり世界のスーパーアイドルであったカテリーナ・ヴァレンテも、もともとはイタリア国籍をもつアイドルであった。尤も、彼女はフランスのパリで生まれ、歌手として聴衆の前で初めて唄ったのはベルギーのブリュッセル、結婚してドイツ国籍を得ている。カテリーナ・ヴァレンテといえば、『マラゲーニャ』『そよ風と私』、そして『情熱の花』であろう。いずれも「ジャイアントヒット」と呼ばれる。『マラゲーニャ』は昭和29年、『そよ風と私』は翌昭和30年にドイツで収録されたヒット曲、日本ではザ・ピーナツでお馴染みの『情熱の花』は昭和34年に発売された。ザ・ピーナツによる日本語カバー盤、カテリーナのフランス語盤、ドイツ語盤も同じ年にリリースされている。「歌う通訳」といわれたマルチ・リンガル;カテリーナはドイツのデッカレコードから約90曲を発表しているが、もっとも多いのがフランス語、ドイツ語でそれぞれ50曲強、次いでイタリア語が30曲強だという。日本語でも4曲発表しており、フラマン語で6曲、英語でも4曲リリースしている。

ここで、平成日本の人びとは、英語が主流ではなかったということに違和感を感じられるかも知れない。振り返れば、今の人びとは気の毒である。80年代バブル期から我が国では世界=アメリカという感覚が「常識」として定着した。洋画といえばハリウッド映画しか入ってこなくなった。私のいう「ユーミン世代」にとっては、「オレンジシャワー」を浴びてアメリカナイズされることがカッコいいことであった。音楽も映画も、何でもアメリカ一辺倒。そして、「グローバリズム」の大合唱。挙句の果てに、アメリカンスタイルというものが破綻しても、既に歳を重ね、「ユーミン世代」も40代後半から50代前半にさしかかっている。今更、柔軟に舵を切ることができない。かくして、長い時間軸を以て歴史的事象に触れるという経験をもたず、若い世代に迎合することでしか若い世代とコミュニケーションがとれない実(まこと)に奇妙な「中年」層が社会の中核を占めるようになった。

60年代、70年代という時代は、映画にしても音楽にしても、アメリカ一辺倒ということは全くなかった。映画にしても、フランス映画、イタリア映画は勿論、ギリシャ映画やスウェーデン映画からイラン映画と、選択肢が多かった時代である。ハリウッド映画というと、むしろ“軽蔑”されることも多かった。お決まりの活劇を楽しみたい気分の休日は、ハリウッド映画を選べばいい。しかし、多少でもカッコつけたい相手と映画を観るとなると、ほとんどがフランス映画かイタリア映画となる。私どもの世代なら、例えばフランス映画『赤い風船』(昭和31年、アルベール・ラモリス監督作品)とか、イタリア映画『道』(昭和29年、フェデリコ・フェリーニ監督作品)、仏・伊合作映画『太陽がいっぱい』(昭和35年、ルネ・クレマン監督作品、アラン・ドロン)などの何らかの影響を受けなかった者は少ないのではないか。絵本作家;いわさきちひろ『あかいふうせん』(昭和43年)は、上記映画をモチーフにした絵本集であり、ジャン・コクトーが『赤い風船』を「妖精の出てこない妖精の話」と評したことは余りにも有名である。最近では、バンクーバ冬季オリンピックで男子フィギア;高橋大輔が初めて銅メダルを獲った時の音楽が『道』の主題曲(ジェルソミーナ)であった。アラン・ドロンという外人部隊出身の稀代のハンサムな俳優と『太陽がいっぱい』のもたらした社会現象については、触れるまでもないだろう。

因みに、私のもっとも好きなイタリア映画は『天使の詩』(昭和41年、ルイジ・コメンチーニ監督作品)である。公開当時だけで、何度も映画館へ足を運んだものだ。

カテリーナ・ヴァレンテがいて、ジリオラ・ティンクェッティがいた時代。フレンチ・ポップスでは、フランス・ギャルがいて、シルヴィー・バルタンがいた。アストラッド・ジルベルト『イパネマの娘』で「レゲエ」という新しい音楽を世に示した。勿論、リトル・ペギー・マーチも、ブレンダ・リーも、ペギー・リードリス・デイも、アイドルだった。選択肢のある時代こそ、自由を実感できる幸せな時代である。今となっては、そのことは能動的に努力するしか手に入らないのだ。そして、それをやるかどうかは、ひとえに知力の問題であるという気がする。

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2012年4月25日 (水)

哀愁の公園にも霧は降る

私は、30代のどこかで賃貸派に“転向”した。30幾つだったか、あまりの長い通勤時間にバカバカしくなって、買って左程年数を経ていない分譲住宅を売っ払って、23区内へ戻ってきた。それ以来一貫して賃貸派であり、持ち家が欲しいという欲求が湧いたことは一度もない。尤も、貧乏な時代が長かったから、欲のもちようもなかったのである。このことについては、気が向いたらまた触れることもあるだろう。

樹林亭に越すに際して、娘という関門を突破するためにあれこれ姑息な神経を使おうとしていたのだが、結果からいえば娘はすべてお見通しであったようだ。越す前に、内装、外装の装いを改めることから、ベランダ手摺りの取替え、風呂場のブラインドや洗面所の鏡の取替え、据付ガスコンロの全面取替えなど、オーナーは大工事を施してくれたのだが、それによって入居を決めてから越すまでに1ヶ月近くの時間を要した。後で知ったことだが、この工事期間中に娘はこっそり樹林亭の“検分”に一人で訪れていたのだった。その時どういう印象をもったか、私は聞いていないが、おそらくそのロケーションを確認した娘は、ここなら父親が即決しても仕方がないと思った、筈である。それを信じて疑わず、私は今やすっかりこの「終の棲家」に馴染み、階段の昇り降りに多少の苦痛を感じながらも文字通り公園の樹林に囲まれるような環境を気に入り、一人で悦に入って気ままに過ごしている。

京王井の頭線「井の頭公園駅」の改札を出ると直ぐ右手に、井の頭恩賜公園の入り口がある。勿論、この公園の周囲には幾つも自在に出入りできる場所があり、何もこの入り口にこだわる必要はないが、「井の頭公園入口」と書かれた「表札」が掛かっているのはこの場所だけである。この入り口の短い石段をとんとんと降りると、もう公園の木立の中へ入ってしまう。我が寓居へは、この石段を降りれば徒歩で1分もあれば辿り着く。

ある夜、この石段を降りて公園に入った瞬間に夜霧に包まれた。駅の改札を出る時は気づかなかったくらいなのに、公園に入った瞬間に夜霧である。木立の合間の常夜灯が、滲んでいる。次の瞬間、唐突に『哀愁の街に霧が降る』という、思い返すにも骨が折れるほど古い昔のフレーズが込み上げてきた。

1 日ぐれが青い灯 つけてゆく
  宵の十字路
  泪色した 霧がきょうも降る
  忘られぬ瞳よ
  呼べど並木に 消えて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

2 花売娘の 花束も
  濡れる十字路
  のこる香りに あまく思い出す
  過ぎし日の あの夜は
  カラーフイルムのコマか
  ああ 哀愁の街に霧が降る

3 せつなくふるふる 身も細る
  霧の十字路
  窓を洩れくる 唄もすすりなく
  なつかしの ブローチ
  肌につめたく 沁みて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

私の小学生高学年時代の大ヒット曲である。所謂「吉田メロディ」(吉田正)で、詩は吉田とのコンビが多かった佐伯孝夫。唄は山田真二と、はっきり覚えている。カラオケなるものが登場してからは、ずいぶんと謳ったものだ。「何?、それ!?」というのが、大概周りの反応であった。同年輩とカラオケへ行ったことはなく、若い子ばかりなのでこの反応は仕方がない。

これは、「ムード歌謡」と呼ばれたジャンルの代表曲の一つといっていい。因みに、「ムード歌謡」といえばフランク永井。カラオケ店にあるフランク永井の唄は、私はほとんどすべてこなれて唄うことができるのだ。

少年時代から、この唄を聞くと私は、哀愁の街には霧が降るんだ、という妙な思いに支配された。そう、霧は「哀愁の街」に降るのである。その霧は「泪色」をしている。白とか緑とか、そういう色彩ではなく、霧は泪色なのだ。そういう霧の降る夜は、窓から聞こえてくる唄もすすり泣くのである。草深い里山で、毎日泥んこになって遊んでいた少年が、これが「都会」なんだと痛切に感じた瞬間だった。

それから10年後(正確には11年後)、石原裕次郎『夜霧よ今夜もありがとう』が大ヒットした。これは、「ハマクラ」(浜口庫之助)ソングの代表曲の一つであり、私は大学生になっていた。

1 しのび会う恋を つつむ夜霧よ
  知っているのか ふたりの仲を
  晴れて会える その日まで
  かくしておくれ 夜霧 夜霧
  僕等はいつも そっと言うのさ
  夜霧よ今夜もありがとう

2 夜更けの街に うるむ夜霧よ
  知っているのか 別れのつらさ
  いつか二人で つかむ幸せ
  祈っておくれ 夜霧 夜霧
  僕等はいつも そっと言うのさ
  夜霧よ今夜もありがとう

これも「ムード歌謡」であるが、先の山田真二の方が素朴である。しかし、裕次郎の夜霧もやはり「街」を覆い、「しのび合う恋」を隠してくれるのだ。私の若い頃の夜霧は、都会にしか降らないものであったのだ。

世は移ろい、今、公園の木立を夜霧が包んでいる。「哀愁」さえ漂っていれば、武蔵野の樹林にも夜霧は降るようになったとみえる。

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