江州侍列伝(其の十二 ~勘兵衛最後の戦いと奉公構~)
渡辺勘兵衛、藤堂家に召さる・・・こういう話は、意外に早く、そして広く伝わるものであったようだ。幕藩体制が固まる前夜のこと、まだ世の中は「関ヶ原」を経て新しい天下人が出現するという激しい沸騰から脱し切っていない。こういう時代は、さまざまな種類の人の往来も、後世より盛んであった。牢人の往来もまだ盛んであり、乱波(らっぱ)や草と呼ばれる情報屋も横行している。この島国が、長い戦乱の時代を脱し、一定の平穏を取り戻すのは三代将軍;家光の治世になってからのことである。天下に名を売った武辺者;渡辺勘兵衛の消息も、そういう世上の風に乗って伝わったものと思われる。そうすると、藤堂家の城下;今治に牢人や乞食のような薄汚い連中が大勢集まってきた。勘兵衛のかつての兵や家臣である。旧主の“再就職”を聞きつけ、勘兵衛を慕って集まってきたのだ。この辺りに勘兵衛の求心力の強さが、よく表れている。
しかし、勘兵衛の今治時代は平穏であり、いざ合戦となれば誰よりも勘兵衛の力になるこれらの郎党を勘兵衛が必要とする事態は起こらなかった。勘兵衛は、しょっちゅう城下の色町から遊び女を屋敷に呼んで、好き放題に遊んでいたという。そのくせ、人の勧めがあったにも拘らず、妻も娶(めと)らず側女をおくこともなかった。「妻をもち、子を為せば、自ずと己の身代に執着し、戦場に出れば命も惜しくなる」というのが、勘兵衛の言い分であったようだ。
そのうちに藤堂家は、伊賀上野二十二万石へ国替えとなった。そろそろ江戸と大坂(豊臣秀頼)との間の雲行きが怪しくなってきた頃だが、まだ平穏である。勘兵衛のような男は、平時に於いては何の役にも立たないと言っていい。勘兵衛の獲得に執心した藤堂高虎も、いつしか勘兵衛を重用しなくなる。それどころか、“無用の長物”として遠ざけるようになった。勘兵衛は勘兵衛で、相変わらず主を主とも思わぬ言動をする。司馬さんの小説(「侍大将の胸毛」)では、いつまでも藤堂高虎を「殿」と呼ばず、「和泉殿」と呼んでいたことになっている。こういう二人の“確執”が、勘兵衛最後の戦に向かっての伏線となっていた。
勘兵衛最後の戦は、元和元年の大坂夏の陣である。
この時の徳川軍の先鋒を務めたのが、譜代の井伊家(井伊直孝)と外様の藤堂家である。この時以来、徳川の陣立てに於いては、譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂という形が不動の定型となった。「井伊の赤備え」の異名をとり、徳川最強との定評を受けている井伊隊の先鋒というのは、諸将の誰しもが頷ける陣立てであるが、外様では藤堂隊が先鋒を務めるというのは、家康と高虎の政治的関係に因るものというのが定説である。しかし、合戦というものはそういう要因だけで采配出来るものではない。藤堂家は、渡辺勘兵衛に加えて桑名弥次兵衛という、やはり天下に知られた侍大将の務まる指揮官を抱えており、当然その軍事能力が買われた筈である。
いずれにしても、勘兵衛は藤堂隊五千の先手大将として、徳川本陣での軍議で定まった通り、河内・道明寺方面へ進出しようとした。ターゲットは、後藤又兵衛、薄田隼人正指揮の西軍精鋭部隊である。藤堂高虎が侍大将としてスカウトしようとした後藤又兵衛は、この「天下仕上げの大合戦」に於いて、西軍(大坂方)の主力として一軍を率いていた。
ところが、行軍途中で藤堂隊はとんでもない部隊に遭遇してしまう。西軍の主力中の主力といっていい木村重成隊と長曽我部盛親隊、合わせて一万である。この両部隊は、徳川軍の本陣を突こうとしていた。徳川本陣が道明寺に気をとられ過ぎている隙を縫って、徳川本陣を一気に潰すという発想は、如何にも木村重成らしい。藤堂高虎は、この遭遇にパニクったようである。徳川本陣の下知を仰ぐべく、馬を走らせようとした。
ところが、自らが率いているつもりの藤堂隊は、旋回を始めている。明らかに、長曽我部隊をターゲットとして全軍が動きを変えているのだ。勿論、これは渡辺勘兵衛の采配である。ここで、高虎と勘兵衛の間に諍いが起きる。本陣の命令は、道明寺を突くことだとする高虎。戦は機に応じて変ずるものとする勘兵衛。下知に背くことは出来ぬとする高虎。下知を仰ぎに行っている間に戦機を失うとする勘兵衛。根っからの侍大将と政略家の、戦場での判断が合致することはない。
そうこうしている間に、事態を把握した長曽我部隊が地の利を己のものとし、藤堂隊を飲み込むように有利な展開をしてしまった。高虎は、自ら藤堂隊を指揮して防戦一方となるが、散々打ち破られている。この間勘兵衛は、一備えをまとめて動かなかった。高虎が参戦を督促しても、動かなかった。高虎の指揮する部隊に合流しても、傷を深めるだけという判断をしたようだ。そして、反撃する機会を窺っていた。この八尾で繰り広げられている藤堂隊と長曽我部隊の衝突に歩調を合わせて、若江方面で長曽我部隊と共同戦線を張っていた木村重成隊が井伊直孝隊とぶつかっている。木村重成は、大坂の陣きっての清冽果敢な将として名高いが、これに襲いかかったのは井伊直孝率いる井伊隊である。井伊直孝については改めて触れるが、如何に木村とはいえ井伊直孝隊では相手が悪過ぎる。必ず、木村隊は崩れる。木村隊が崩れたら、長曽我部隊は孤立する。勘兵衛は、その引き際を待っていたのである。案の定、井伊隊は木村隊を撃破し、それを知った長曽我部隊に退き鉦(かね)が鳴った。その瞬間、勘兵衛は一気に追撃に入ったが、ここでまた高虎と衝突する。この機を生かせば敵を殲滅出来るとする勘兵衛。本陣の下知に従えと主張する高虎。勘兵衛は、高虎を無視して長曽我部隊を追撃し、八尾から平野に至る戦場を鬼のように駆け回った。この時挙げた首級は三百とも言われる。それでも勘兵衛には、怒りが残った。高虎が何故自分に付いてこなかったか、何故自分にせめて二~三千の手勢を与えなかったか、それがあれば長曽我部隊のみならず、真田も毛利も大坂城に逃げ帰らせることなく殲滅出来たというのである。勘兵衛の最も強い怒りは、高虎が全軍の指揮を侍大将たる自分に任せなかったという点だ。それは、仕官の際の約束事であった筈、というのが勘兵衛の言い分である。高虎が約束を反故にしたという、武辺者が最も嫌う高虎の行動に怒りの源があった。
結果としては、八尾の戦は藤堂隊の奮戦、つまり勘兵衛の阿修羅の如き追撃によって徳川軍の勝ち戦となった。しかし、高虎と勘兵衛の間に生じた亀裂は埋まることなく、勘兵衛は伊勢に帰陣した後、禄を返上して伊勢を去ってしまった。この戦功によって藤堂高虎は鈴鹿郡を与えられた。世間は、勘兵衛の働きによる加増とみている。しかし、この沙汰のあった時点に当の勘兵衛は既に藤堂家を去っている。小田原攻めの際、主人;中村一氏に手柄を立てさせた時と全く同じことの繰り返しである。
天下の諸将は、勘兵衛を召し抱えようとした。徳川将軍家までもがその気になった。ところが、藤堂高虎は勘兵衛に対して「奉公構」(ほうこうかまえ、または、かまい)を出すという処分を下した。「奉公構」とは、出奔した家臣に対して主である大名が出す回状のことを言う。これを出されると、侍は他家への仕官が一切出来なくなる。再就職の道を塞がれるのであるから、武士にとっては切腹に次ぐ重い刑罰だとされる。武家の世界では、「奉公構」が出されている侍を、「奉公構」を無視して召し抱えるということは絶対に行わない。念の入ったことに藤堂家では、高虎が没した後も藤堂高次が先代の「奉公構」を堅持したため、勘兵衛の再仕官は遂に実現しなかったのである。
世に政略家と武略家が折り合うことはない。そして、政略家の方が大概高いポジションを得ることも世の常であり、そのこともあってこの折り合わない仲の勝者は常に政略家なのだ。渡辺勘兵衛ともあろう者が、それが解らなかったのであろうか。彼の仕えた大名は、殆どが政略家であり、官僚的資質に富む将であった。中村一氏しかり、増田長盛しかり、そして羽柴秀勝、藤堂高虎である。しかも、最初の主人;阿閉貞征以下、全て江州人であった。江州人;渡辺勘兵衛は、江州人にしか仕えなかったのである。確かに近江からは多くの大名が出ているが、この時代に於いても勘兵衛が同郷人にしか仕えなかったというのは、不思議な現象である。この理由として、言葉の問題を挙げる説がある。勘兵衛は、典型的な近江言葉を使い、その言葉の細かいニュアンスまで理解出来る同郷の大名を選んだというのだ。この説を採れば、豪放に映る渡辺勘兵衛とは実に繊細にコミュニケーションを重視した男であると言える。しかし、この点については単に神経質であっただけと切り捨てることも出来よう。
そう言えば、勘兵衛という男は、自分の郎党の前では別人になるとも言われた。「あの者たちは、自分だけを見ている。その自分が自堕落な姿を見せればあの者たちが失望する」というのだ。自分の屋敷に城下の女郎を呼び寄せる男の台詞とも思えぬが、郎党たちに「うちの大将は肝心な時になると違う」と言わせていたことは事実のようだ。「自堕落」や「肝心」という表現は、近江の人々がよく使う言葉である。郎党たちから見てこういう勘兵衛でなければ、あれほどの求心力は生まれなかったであろう。
平時は、女を抱くか、昼寝をするかのどちらかでしかなかった渡辺勘兵衛は、「睡庵」と号し、細川忠興らの捨扶持を得て三代将軍;家光の時代まで永らえ、京で没したと伝わる。しかし、その最後がどのようなものであったかは一切分からない。
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