江州侍列伝(其の十二 ~勘兵衛最後の戦いと奉公構~)

渡辺勘兵衛、藤堂家に召さる・・・こういう話は、意外に早く、そして広く伝わるものであったようだ。幕藩体制が固まる前夜のこと、まだ世の中は「関ヶ原」を経て新しい天下人が出現するという激しい沸騰から脱し切っていない。こういう時代は、さまざまな種類の人の往来も、後世より盛んであった。牢人の往来もまだ盛んであり、乱波(らっぱ)と呼ばれる情報屋も横行している。この島国が、長い戦乱の時代を脱し、一定の平穏を取り戻すのは三代将軍;家光の治世になってからのことである。天下に名を売った武辺者;渡辺勘兵衛の消息も、そういう世上の風に乗って伝わったものと思われる。そうすると、藤堂家の城下;今治に牢人や乞食のような薄汚い連中が大勢集まってきた。勘兵衛のかつての兵や家臣である。旧主の“再就職”を聞きつけ、勘兵衛を慕って集まってきたのだ。この辺りに勘兵衛の求心力の強さが、よく表れている。

しかし、勘兵衛の今治時代は平穏であり、いざ合戦となれば誰よりも勘兵衛の力になるこれらの郎党を勘兵衛が必要とする事態は起こらなかった。勘兵衛は、しょっちゅう城下の色町から遊び女を屋敷に呼んで、好き放題に遊んでいたという。そのくせ、人の勧めがあったにも拘らず、妻も娶(めと)らず側女をおくこともなかった。「妻をもち、子を為せば、自ずと己の身代に執着し、戦場に出れば命も惜しくなる」というのが、勘兵衛の言い分であったようだ。

そのうちに藤堂家は、伊賀上野二十二万石へ国替えとなった。そろそろ江戸と大坂(豊臣秀頼)との間の雲行きが怪しくなってきた頃だが、まだ平穏である。勘兵衛のような男は、平時に於いては何の役にも立たないと言っていい。勘兵衛の獲得に執心した藤堂高虎も、いつしか勘兵衛を重用しなくなる。それどころか、“無用の長物”として遠ざけるようになった。勘兵衛は勘兵衛で、相変わらず主を主とも思わぬ言動をする。司馬さんの小説(「侍大将の胸毛」)では、いつまでも藤堂高虎を「殿」と呼ばず、「和泉殿」と呼んでいたことになっている。こういう二人の“確執”が、勘兵衛最後の戦に向かっての伏線となっていた。

勘兵衛最後の戦は、元和元年の大坂夏の陣である。

この時の徳川軍の先鋒を務めたのが、譜代の井伊家(井伊直孝)と外様の藤堂家である。この時以来、徳川の陣立てに於いては、譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂という形が不動の定型となった。「井伊の赤備え」の異名をとり、徳川最強との定評を受けている井伊隊の先鋒というのは、諸将の誰しもが頷ける陣立てであるが、外様では藤堂隊が先鋒を務めるというのは、家康と高虎の政治的関係に因るものというのが定説である。しかし、合戦というものはそういう要因だけで采配出来るものではない。藤堂家は、渡辺勘兵衛に加えて桑名弥次兵衛という、やはり天下に知られた侍大将の務まる指揮官を抱えており、当然その軍事能力が買われた筈である。

いずれにしても、勘兵衛は藤堂隊五千の先手大将として、徳川本陣での軍議で定まった通り、河内・道明寺方面へ進出しようとした。ターゲットは、後藤又兵衛薄田隼人正指揮の西軍精鋭部隊である。藤堂高虎が侍大将としてスカウトしようとした後藤又兵衛は、この「天下仕上げの大合戦」に於いて、西軍(大坂方)の主力として一軍を率いていた。

ところが、行軍途中で藤堂隊はとんでもない部隊に遭遇してしまう。西軍の主力中の主力といっていい木村重成隊と長曽我部盛親隊、合わせて一万である。この両部隊は、徳川軍の本陣を突こうとしていた。徳川本陣が道明寺に気をとられ過ぎている隙を縫って、徳川本陣を一気に潰すという発想は、如何にも木村重成らしい。藤堂高虎は、この遭遇にパニクったようである。徳川本陣の下知を仰ぐべく、馬を走らせようとした。

ところが、自らが率いているつもりの藤堂隊は、旋回を始めている。明らかに、長曽我部隊をターゲットとして全軍が動きを変えているのだ。勿論、これは渡辺勘兵衛の采配である。ここで、高虎と勘兵衛の間に諍いが起きる。本陣の命令は、道明寺を突くことだとする高虎。戦は機に応じて変ずるものとする勘兵衛。下知に背くことは出来ぬとする高虎。下知を仰ぎに行っている間に戦機を失うとする勘兵衛。根っからの侍大将と政略家の、戦場での判断が合致することはない。

そうこうしている間に、事態を把握した長曽我部隊が地の利を己のものとし、藤堂隊を飲み込むように有利な展開をしてしまった。高虎は、自ら藤堂隊を指揮して防戦一方となるが、散々打ち破られている。この間勘兵衛は、一備えをまとめて動かなかった。高虎が参戦を督促しても、動かなかった。高虎の指揮する部隊に合流しても、傷を深めるだけという判断をしたようだ。そして、反撃する機会を窺っていた。この八尾で繰り広げられている藤堂隊と長曽我部隊の衝突に歩調を合わせて、若江方面で長曽我部隊と共同戦線を張っていた木村重成隊が井伊直孝隊とぶつかっている。木村重成は、大坂の陣きっての清冽果敢な将として名高いが、これに襲いかかったのは井伊直孝率いる井伊隊である。井伊直孝については改めて触れるが、如何に木村とはいえ井伊直孝隊では相手が悪過ぎる。必ず、木村隊は崩れる。木村隊が崩れたら、長曽我部隊は孤立する。勘兵衛は、その引き際を待っていたのである。案の定、井伊隊は木村隊を撃破し、それを知った長曽我部隊に退き鉦(かね)が鳴った。その瞬間、勘兵衛は一気に追撃に入ったが、ここでまた高虎と衝突する。この機を生かせば敵を殲滅出来るとする勘兵衛。本陣の下知に従えと主張する高虎。勘兵衛は、高虎を無視して長曽我部隊を追撃し、八尾から平野に至る戦場を鬼のように駆け回った。この時挙げた首級は三百とも言われる。それでも勘兵衛には、怒りが残った。高虎が何故自分に付いてこなかったか、何故自分にせめて二~三千の手勢を与えなかったか、それがあれば長曽我部隊のみならず、真田毛利も大坂城に逃げ帰らせることなく殲滅出来たというのである。勘兵衛の最も強い怒りは、高虎が全軍の指揮を侍大将たる自分に任せなかったという点だ。それは、仕官の際の約束事であった筈、というのが勘兵衛の言い分である。高虎が約束を反故にしたという、武辺者が最も嫌う高虎の行動に怒りの源があった。

結果としては、八尾の戦は藤堂隊の奮戦、つまり勘兵衛の阿修羅の如き追撃によって徳川軍の勝ち戦となった。しかし、高虎と勘兵衛の間に生じた亀裂は埋まることなく、勘兵衛は伊勢に帰陣した後、禄を返上して伊勢を去ってしまった。この戦功によって藤堂高虎は鈴鹿郡を与えられた。世間は、勘兵衛の働きによる加増とみている。しかし、この沙汰のあった時点に当の勘兵衛は既に藤堂家を去っている。小田原攻めの際、主人;中村一氏に手柄を立てさせた時と全く同じことの繰り返しである。

天下の諸将は、勘兵衛を召し抱えようとした。徳川将軍家までもがその気になった。ところが、藤堂高虎は勘兵衛に対して「奉公構」(ほうこうかまえ、または、かまい)を出すという処分を下した。「奉公構」とは、出奔した家臣に対して主である大名が出す回状のことを言う。これを出されると、侍は他家への仕官が一切出来なくなる。再就職の道を塞がれるのであるから、武士にとっては切腹に次ぐ重い刑罰だとされる。武家の世界では、「奉公構」が出されている侍を、「奉公構」を無視して召し抱えるということは絶対に行わない。念の入ったことに藤堂家では、高虎が没した後も藤堂高次が先代の「奉公構」を堅持したため、勘兵衛の再仕官は遂に実現しなかったのである。

世に政略家と武略家が折り合うことはない。そして、政略家の方が大概高いポジションを得ることも世の常であり、そのこともあってこの折り合わない仲の勝者は常に政略家なのだ。渡辺勘兵衛ともあろう者が、それが解らなかったのであろうか。彼の仕えた大名は、殆どが政略家であり、官僚的資質に富む将であった。中村一氏しかり、増田長盛しかり、そして羽柴秀勝、藤堂高虎である。しかも、最初の主人;阿閉貞征以下、全て江州人であった。江州人;渡辺勘兵衛は、江州人にしか仕えなかったのである。確かに近江からは多くの大名が出ているが、この時代に於いても勘兵衛が同郷人にしか仕えなかったというのは、不思議な現象である。この理由として、言葉の問題を挙げる説がある。勘兵衛は、典型的な近江言葉を使い、その言葉の細かいニュアンスまで理解出来る同郷の大名を選んだというのだ。この説を採れば、豪放に映る渡辺勘兵衛とは実に繊細にコミュニケーションを重視した男であると言える。しかし、この点については単に神経質であっただけと切り捨てることも出来よう。

そう言えば、勘兵衛という男は、自分の郎党の前では別人になるとも言われた。「あの者たちは、自分だけを見ている。その自分が自堕落な姿を見せればあの者たちが失望する」というのだ。自分の屋敷に城下の女郎を呼び寄せる男の台詞とも思えぬが、郎党たちに「うちの大将は肝心な時になると違う」と言わせていたことは事実のようだ。「自堕落」や「肝心」という表現は、近江の人々がよく使う言葉である。郎党たちから見てこういう勘兵衛でなければ、あれほどの求心力は生まれなかったであろう。

平時は、女を抱くか、昼寝をするかのどちらかでしかなかった渡辺勘兵衛は、「睡庵」と号し、細川忠興らの捨扶持を得て三代将軍;家光の時代まで永らえ、京で没したと伝わる。しかし、その最後がどのようなものであったかは一切分からない。

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メロンVSマンゴー

誕生日

冥土の旅の一里塚

めでたくもあり、めでたくもなし

ここのところ、毎年六月の終わり頃に繰り返している川柳。気分は、狂歌と言った方が当たっている。

私は、五年ごとに「五年前の己と比べて少しは真っ当になったか?」と真剣に自問してきたのだが、今年もまだ中途半端な年なのでそれはやらないことにした。またやるとすれば、それは二年後のことである。代わって、情けない自問をする自分が居て、多少腹が立っている。

「一年前と比べて、どこがどの程度弱っているか」

これが自問である。いろいろ自覚があるので、自答は言わない。しかし、この自問自答は実はすこぶる前向きなもので、「だから、まずウオーキングから始めて~」という具合に、元へ戻す心づもりへと気持が移っていくのである。つまり、少し努力すれば、当然かつてのレベルに回復するものと信じている。現に、「全治6ヶ月」と宣告された「とう骨神経の損傷による右手麻痺」は、二ヶ月半で完治したではないか。何の治療も施されず、己の自然治癒力のみで回復したのだ。そういう自分がもう一度意識して鍛え直せば、かつてのレベルを取り戻すことが不可能だなんてことがある訳がなかろう。

確かに、一万メートル=三十分台というのはもう無理かも知れない。このレベルは高校時代のもので、ブランクが永過ぎる。あくまでブランクの問題である。しかし、徐々にトレーニングを厳しくしていけば、五十分台は可能かも知れない。そう言えば、先週、スタッフK君が千葉の「スイカマラソン」に参加し、一万メートルを一時間少しで走破してきた。日頃、深夜だ、徹夜だというのが当たり前の世界で仕事をしていて、この記録は立派である。尤も、彼はまだ三十代の半ばである。彼は、いつ、どこで鍛えているのだろうか。急に彼が、強烈なライバルのように輝いて見え出したから、不思議なものである。

陸上、サッカー、バレーボール、卓球、バスケットボールと妄想は膨らむばかりだが、余命のある間にどうしてももう一度その感触を身体で味わいたいことがある。野球のノッカーを務めることと、SS(ショートストップ)を守って「華麗なフィールディング」をみせることである。

ノックのことは少し措くとして、SSの華麗なフィールディングほど野球の美しさを表現するプレーはない。地を這うような打球が三遊間のど真ん中へ。SSの私は、反応の素早い動きで右へ。深い位置で打球に追いつく直前から左足を折ってスライディング気味に打球を身体の中心へ。舞い上がる砂煙。捕球するや否や、その体制で右足を踏ん張り、殆どステップを踏まずにファーストへ矢のような投球。ファーストが身体を一杯に伸ばして、間一髪「アウト!!」・・・イメージだけは今なお鮮明な色彩を帯びて健在である。これを、何とかもう一度やりたい。

本ブログにも登場したN君という“とんでもない若造”がいるが、彼にその話をしたら、

「まず、キャッチボールからですね」

と、ビールをガバガバ飲みながら、味も素っ気も無く言い放った。キャッチボールは、野球の基本中の基本である。それだけに、キャッチボールの様を見ただけで、経験者かどうかが一目で判るものなのだ。N君は、誰でもその名を聞けば知っている、野球の名門校の出身で、甲子園出場の経験をもっている。現在、中日ドラゴンズでそこそこの活躍をしているMは、共に甲子園へ行ったN君の後輩である。何でも「ガタイ」だけで勝負するという風なこの男が相手だとすると、キャッチボールまでの回復に優に一年はかかるだろう。

ここまでくると、何をやるにも難儀なことである。

それやこれやで、いつにも益して憂鬱な気分で新宿の分室へ顔を出したら、程なくしてMちゃんがメロンにローソクを一本立てて、部屋へ運んできた。一日遅れのHappy Birthdayだという。何でメロンなんだ! と喚く寸前に思い出した。

この日は休みをとっていたが、過日Yさんと「一番美味しい果物」論争をこの部屋で繰り広げたのだ。Yさんは、半端ではないマンゴー党と診た。私は、いや、私どもの世代の者は大概メロンである。

「メロン? どこが!! マンゴーに敵う果物ってある訳ないじゃないですか!!!」

「マンゴー? アホらしい!! チンパンジーの食い物だろうが!!!」

双方、譲らない。チンパンジーがマンゴーを好むかどうか、実は知らないが、こういう戦いは勢いである。

私どもが若い頃、入院している方への心遣いは殆どメロンだった。私は、社用でもしょっちゅうメロンを持ってお見舞いに伺ったことを、昨日のことのように覚えている。あまり高価なものは買えず、大体、二千円前後のものを用意した。それでも当時としては、かなり高価である。それだけに、軽い病気の方より長期に亘って入院することになった方への遣いとして、よく買い求めたものである。入院していてメロンを持った見舞い客が来たら、自分も長くはないと思え、といった冗談っぽい話さえ存在した時代であった。

そういう高価なメロンが、美味でない筈がない。熟し頃のメロンの放つ、蒼みがかった甘さを感じさせる芳香・・・口に含んだ瞬間に、軽く裏切られたようなすっきりした甘さに恍惚とし、二口目も三口目も「慣れ」というものを与えない新鮮な甘さの続く不思議・・・。確かに、今生の別れに食べる果物としての資格を十二分に備えている。

可哀想なことに、Yさんはこの味を知らないに違いない。やむなく、その場にいた者に「究極の二択方式」で白黒を付けさせたら、何と半数がマンゴー派だった。不幸なスタッフが集まったものである。

Mちゃんがメロンにローソクを立てて運んできたのには、こういう背景がある。そこで、マンゴーもしっかり添えられていたのである。ローソクの火を吹き消して、パチパチとお義理の拍手。皆、メロンとマンゴー両方を食らう。そこで再びどちらが美味しかったかの投票を行う。何と、三分の二が、遠慮会釈なくマンゴーに軍配を上げた。平成人は味覚までもが衰えたとみえる。大仰に言えば、末世と言うべきか。

加えて言えば、皆、デリカシーというものを持ち合わせていないようである。シチュエーションを考えてもいいのではないか。Mちゃんは、私の誕生日ということでメロンを用意したのではなかったか。そのことを知りながら、マンゴーに一票を投じる非礼と無粋を知るべきであろう。先が思いやられる。

それにしても、ローソクが一本だけというのは、どういう意味だったのか。太めのローソク一本で十歳、というのはよくある。私の場合、それではメロンに差し切れない本数になるということか。それとも、一本は五十歳を表すのか。いや、六十歳か。いずれにしてもローソクはまだ足りないが、何故一本なのかを聞こうかと思ったが、何だかやぶ蛇になりそうな気がしてやめた。

マンゴーも 

ケーキも要らぬ メロンだけ

この世の名残りに

食らい尽くさん

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「ほぼ完治」宣言

「とう骨神経の損傷による右手麻痺」というトラブルに巻き込まれ、やれオーダーメイドギブスだ、指切りげんまんが出来ないではないかなどと大騒ぎをして二ヶ月半。歯切れは悪いが、一応「ほぼ完治」宣言を出させていただくことにする。すっきりと「完治」宣言したかったのだが、正直なところ「ほぼ完治」と、「ほぼ」を付けざるを得ない。

しかし、もう日常生活に何ら支障はない。右手で歯は磨けるし、箸も使える。PCも打てるし、文字も書ける。ただ、文字が少し下手になった気がする。恐らくこれは、「ほぼ」の所為であって、「ほぼ」がとれれば元の“達筆”が復活する筈である。

「ほぼ」を付けざるを得ない最大の要因は、右手親指側の痛覚がまだ完璧に戻っていないことである。親指の付け根から十センチばかり、触っても薄い皮膜で覆われているような感覚が残っている。あとは、右手の握力であろうか。

これらも、時間の問題に過ぎないと確信している。「ほぼ完治」とは、如何にも私らしい控え目な表現であって、生活に支障がない以上、これは「完治」と言ってもいいのではないか。

「完治」したから言うのだが、あの「全治六ヶ月」という診断は一体何だったのか。人を驚かすにも程度というものがある。更に、当初訳が分からず休日に「高度救急救命センター」なるところへ駆け込んだ際、最初に告げられた指示が「禁酒」であった。

「アルコールは神経に悪い。お酒、やめられますか!?」

と、厳(おごそ)かに命令として宣告された。どうやら重傷らしいと悟った私は、

「はい」

と一言、実に素直に答えた。

しかし、白状すると、その日から一日たりともこの命令には従っていない。当日の夜から既に、どこかピンとこなかったのである。

「アルコールは神経に悪い」

・・・この言い方は、何かに似ている。そう、タバコは健康に悪い・・・この類なのだ。ピンとこないことは案の定、実際には何の影響もないのだ。

今日までに確か三回の診察を受けたが、治療ということは全く何も施されなかった。ただ状態を聞かれただけである。そして、ビタミンB12を与えられただけである。PCの打ち過ぎで肩こりがヒドいというスタッフがいたので、この錠剤をプレゼントして喜ばれ、今まだ大量に残っている。

担当医は、一回目の診察時から

「僕たちは怪我に対しては何かが出来るが、神経に対しては何も出来ない」

と告げたが、彼はその言葉通り一貫した行動をとったのである。「神経に対しては何も出来ない」というのは、何となく納得出来る気がするし、その通り全く何もしなかった彼は立派である。これは、決して皮肉ではない。ただ、彼は、来る711日を土曜日だと知りながら、それも朝一番という時間を「最終診察日」に指定した。完治している状態でこれに応じるべきかどうか、迷っている。

オーダーメイドギブスを誂(あつら)えることになったのも、「全治六ヶ月」が前提となったからである。それは、前の稿でも愚痴った通り、ほんの二週間強しか使わなかった。日割り計算をすれば、一日三千円強というオーダーメイドらしい価格となったそのギブスは、医薬品・トイレタリー関連の棚の奥に眠っている。

二ヶ月半で完治したのは、このギブスを外し、敢えて右手に「無理」を強いたからだと信じている。「無理」を通せば、医者の「論理」は引っ込んだのである。バーバリーの安いシャツが、大体一枚一万二千~三千円位である。あのギブス一個で、三枚買える計算になる。

話が逸れるようだが、毎朝時計代わりのテレビでは「天気予報」をやっているが、予報士とやらにもう少し裁量を与え、それぞれが独自の判断で予報してはどうか。気象庁は、データ提供だけにとどめればいい。それをどう「読む」かは、予報士に任せればいい。今のように、気象庁の“広報係”のようなあり方ならレポーターやアシスタント的なスタッフで十分であり、わざわざ予報士などという資格を設ける必要はない。予報士が己の分析力で予報してはじめて専門職と言えるのではないか。そして、予報の結果を競えばいい。当然、あまり予報の当たらない予報士がたくさん出てくることだろう。結果によって、ギャラも違ってくるであろうし、次の契約にも影響を及ぼすに違いない。アメリカなどでは、ずいぶん前からこの方式が成立している筈である。売れる予報士と売れない予報士がはっきり分かれるほど、予報の内容そのものが違うのだ。予報の成績と人気(視聴率)は、必ずしも一致しないだろうが、それはそれでいい。そのような事例は、プロ野球オールスター戦のファン投票からアカデミー賞主演男優賞や芥川賞・直木賞、果てはノーベル文学賞に至るまで世界中に溢れている。これらは全て、客観的な指標があった場合、実際の力、即ち実力と評価が大きくずれていると考えられるのである。具体例で言えば、「アマタツ」は多少予報の成績が悪くても、職を失うことはないだろうということだ。

何故予報士のことに思いが至ったかと言えば、医者の見立ても同じではないかと思ったからだ。医者は、専門職である。専門的な知識と技術をもっている。筈である。専門職が「全治六ヶ月」と断言した症状が二ヵ月半で完治したとなれば、それは専門職の専門知識のレベルが低いということになりはしないか。専門職の見立てが高価なギブスを購入せしめたという点については、明確な因果関係の存在を立証することができる。その場合、専門職に対するペナルティは、裁判を提起し、勝訴する以外に発生しない。全くバカバカしい。

余談ながら、「藪医者」という言葉がある。この語源については、「藪をつついて蛇を出す」という諺に由来するとする説と、「野巫」(やぶ)に由来するとする、二つの説が有力である。「薮井竹庵」という医者がいて~とするのは真っ赤なウソであって、これは「薮医者」をテーマとする落語が創り上げたキャラクターであり、話の順序が逆になっている。「薮医者」という言葉がいつ頃から、どういう人々によって使われたかがはっきりすれば、自ずと語源も絞れると思われる。

恐ろしい話を付け加えると、スタッフがメロンにローソクを立てて誕生日を祝って(?)くれた。何故メロンにローソクなのかについては、別に話題にすることもあるだろうが、恐ろしいと言ったのは、誕生日の回数である。六十数回目である。全く恐ろしいことに、私はそういう領域まで来てしまった。今となっては懐かしいあの日あの頃、このような事態を想像したことがあったろうか。正直なところ、なかった・・・。

こういう領域まで来ると、さすがにいろいろと次が控えている。いつまでも右手ばかりに関わり合ってはいられないのだ。放ってある左目の視野欠損腎臓の腫瘍、そして、二ヶ月近く前には古い時代に施した歯のかぶせ物の一部が欠損した。「医者嫌い」を豪語してきたものの、実態はもうボロボロなのだ。歯医者は正確には「医者」ではなく、大工さんなどと同じ職業分類に当たる、つまり「職人」だ、などと職種にこだわっても何の慰めにもならない。右手が二ヶ月半で済んだというのも、或いは身体がよく知っていて、次にかかれとばかりに早く切り上げたのかも知れない。

どの順番で次にとりかかるとしても、またヤブにも名医にも遭遇することだろう。下手な「大工」に歯をいじられて、別の「大工」で年度末の公共工事みたいに「また、掘り起こし」という事態も十分考えられる。

尤もここまで来て、つまり、余命を数えた方が早いというところまで来て、「完璧な治療」を求める必要もないのではないか。身体の諸器官は余命のある間、無事に稼動すればいいのである。そう思えば歯を掘り起こす「大工」選びに神経を使うこともない。さっさと済ませ、一日二十四時間のうち、「心地良い時間」を一分でも一秒でも長くとる方策を講じた方が得策だと悟った次第である。

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江州侍列伝(其の十一 ~「侍大将」と「備」~)

渡辺勘兵衛藤堂高虎に対面し、仕官することになった場面を、司馬遼太郎氏は次のように描いている。(『侍大将の胸毛』)

――介添えには、家老藤堂仁右衛門と小姓頭大葉孫六があたった。

『勘兵衛、ひさしぶりじゃな』

高虎は身を乗りださんばかりにして、いった。久しぶりとは、関ヶ原の役後、大和郡山の城を受けとったことをいっているのだ。あのときの受領使は、高虎と本多正純であった。

『ああ、お久しゅうござる』

『あのときのそちの手並、みごとであったな』

これが高虎のかなしい性分だ。威のある者には、一介の牢人に対してもつい機嫌をとるような口調でいってしまう。勘兵衛はニコリともせず、

『武士として当然なことでござる。しかし、左衛門尉(長盛)様は、よき主人ではござったが、よき大将ではござらなんだ。二度と城開け渡すような役目はしとうない』

『わしに仕えてくれるならば、左様な不運な目には遭わせぬ』

『それがまことなら、重畳でござる』

皮肉な口調でいった。その皮肉が高虎に通じた。いやな顔をしたが、苦労人のこの男のことだ、すぐにこやかな表情にもどして、

『仁右衛門からは、委細聞いた。当家で八千石ならば仕えてくれるな』

『八千石?』

『いかにも』

高虎は、禄を値切るつもりでいる。勘兵衛には、それがわかった。

『と申されることは、渡辺勘兵衛に八千石並の働きでよいと申されるのでござるな』

知行の高によって、あつかう部隊の数がちがってくる。むろん合戦の仕方もかわってくる。勘兵衛は高虎に、「八千石相応の器量とみたのか」と皮肉ってみたつもりだった。

『不満か』

『べつに不満ではござらぬ。殿の器量で、勘兵衛の器量を秤(はか)れば、渡辺勘兵衛の重さもその程度なのかと思うただけでござるよ』

『それでは、一万石でいかがであろう』

『安いのう』

『そうか。それでは、もう五千石ふやそう』

『まだ』

『では、二万石でどうじゃ。当家の身代では、それ以上は呉れてやれぬぞ』

『では、申し上げよう。拙者の知行は一万石でよろしゅうござる。そのかわり、後当家の軍陣のことは、一切勘兵衛にまかせるということでいかがでござるか』

『面白し』

『うふっ』

と勘兵衛は笑いをおさえた。面白いもなにも、高虎にすれば知行が意外に安く済んだことにホッとしているだけのことなのである。

一介の牢人を雇い入れるのに、何故こういう高い石高でのやり取りになるのか、不審に思われる読者もおられるだろうが、藤堂高虎は二十万石の大身に登り詰めた昂った気分で「侍大将」を求めている。ここのところ、「侍大将」という言葉を頻繁に使っているが、これは単なる普通名詞ではない。簡単に言えば、「侍大将」とは、総大将の下で一軍を指揮する総指揮官のことを言う。と言ってしまうと文字通り簡単だが、実はそのような“簡単”な話で済ますと、渡辺勘兵衛という稀代の武辺者の面白さも悲劇も理解出来なくなるのである。

少し正確に述べると、「侍大将」とは「備」(そなえ)全体を指揮する指揮官であり、総大将の次席に当たる。「足軽大将」は「侍大将」の指揮下にある。

では、「備」とは何か。これも簡単に言えば、戦時に編成される部隊のことである。一個の「備」は、「旗組」「長柄組」「弓組」「鉄砲組」「騎馬隊」、そして「軍監・目付」「太鼓・貝」などから成る。この中で「騎馬隊」だけは侍が多く、平均して隊の四分の一位が侍であるが、その他は侍はそれぞれの組のほんの一握りであることが多い。十万石~十五万石の大名の場合、例えば、「鉄砲組」を例にとれば、侍身分は大概指揮官の一名のみで、あとは奉公人、足軽、人夫、口取から成る。江戸期になると「鉄砲組」は一組五十名強で構成されていたが、それを指揮する侍は一名である。約四十名で構成される「長柄組」も同じようなもので、侍は一名、他は、奉公人、足軽、人夫、口取である。「鉄砲組」にも「長柄組」にも、乗馬と駄馬が二~三頭ずつ配される。「弓組」は、鉄砲が合戦の主力兵器となるに従って人数も少なくなっていったようだが、「鉄砲組」が五十名だとすれば「弓組」は大体三十名、これも一人の侍が指揮する。あとは、奉公人、足軽、人夫、口取、そして、乗馬と駄馬である。「侍」とは、要するにこのような存在であることを知っておく必要がある。一個の「備」とは、大体三百~四百名の規模(時に千名近くの場合もある)であるが、そのうち侍とはちょうど1割位である。つまり、三十~四十名の侍を擁していれば「備」の一個を構成することが出来ることになる。一般に「大名」とは、石高一万石以上を以て言うが、併せて「備」一個を構成出来ることが基本条件である。この「備」全体を指揮する者が「侍大将」である。

ついでながら、総大将を擁する「本陣備」は通常の「備」より遥かに規模が大きく、千名以上で構成することが多い。「侍大将」は、「本陣備」以外の全ての「備」を統括する。

これは余談に属するが、「備」には「小荷駄」と称する組があり、これも「小荷駄奉行」と呼ばれる一人の侍が指揮するが、戦国期には五十名前後の規模をもっていたようだ。この組の任務は、補給である。即ちこれは、兵站部隊と言っていい。戦国期の戦時の食糧補給は、一部買い上げもあったようだが、多くは「現地調達」であった。「現地調達」とは、平たく言えば「略奪」である。ここに「乱獲り」が生まれる素地があるのだが、この「現地調達」を非難してもはじまらない。合戦(遠征)時の常識と言えば常識であって、“愛と義に生きた”ことになっている直江兼続も当然これを指揮している。更に「備」には、現代流に言えば工兵(金堀衆、小普請組)もいるし、調理人(台所方)も僧侶(陣僧)も会計・書記(主計)もいる。これらは、大概「本陣備」に属していた。

つまり、「備」とは、近代の軍編成で言えば「師団」に相当すると考えると解り易いかも知れない。「師団」については書籍版『原田伊織の晴耕雨読な日々』(毎日ワンズ刊)の「自己完結」の項で触れたので、そちらを参照していただきたいが、その要諦は戦闘行動を展開するに当たって「自己完結」が可能な組織であり、独立した作戦行動を展開することが可能な基本戦略単位であるということだ。戦闘が可能な組織とは、結局「自己完結」が可能であることを求められるものであり、戦国の世からこのことは変わらない。歴史を学ぶなら、こういう「普遍」に属する要素をまず知るべきであろう。

今一つ、余談を付け加えるが、関ヶ原の合戦では東軍七万五千、西軍十万の大軍が対峙したことになっているが、この数字をそのまま鵜呑みにするとして、ではそのうちに「侍」身分の者は何名いたかということだ。上述した「備」の構成を参考にしていただければ、容易にはじき出せるだろう。これが、合戦の実相である。

明治になって帝国陸軍参謀本部が、日本の主な合戦を研究したことがあるが、石高から兵力を算出するということを試みた。それによると、一万石の動員力は二百五十人だというのである。織田信長の天下獲りを決定づけた「姉川の合戦」(既述)では、浅井・朝倉連合軍は一万八千、織田・徳川連合軍は二万九千(司馬説)であるが、この時点で浅井長政の石高は約三十九万石である。参謀本部の計算に従うと、目一杯の動員力は九千七百五十名となる。朝倉家は凡そ八十七万石、動員力は約二万二千となる。朝倉の援軍は一万とされるから、浅井家はほぼ目一杯の動員をして対決したことになる。即ち、この合戦は、浅井家にとっては領民あげての総力戦であったことになる。「備」の構成から考えれば、浅井軍の侍は約九百人ということになるが、これは、頷ける数字である。

「侍大将」とは、こういう「備」を統括して指揮する存在であり、その差配次第で戦の結果が分かれる。軍を構成する大部分は、動員をかけられた領民や士分以下の者で、「侍大将」には部下の侍を通じて百単位、千単位の「数」を自在に動かす指揮能力が求められるのだ。「戦下手」と称されたにも拘らず二十万石の大身に昇り上がった藤堂高虎は、ただ藤堂家の体裁と名誉のために、勘兵衛の戦場に於ける指揮能力を買ったのである。

そして、勘兵衛は、この藤堂軍の「備」を率いて最後の戦に臨むことになる。

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江州侍列伝(其の十 ~又兵衛がだめなら~)

渡辺勘兵衛は、藤堂高虎の“ヘッドハンティング”に応じたのか。結論から言えば、応じたのである。

既稿でも述べた通り、藤堂高虎もまた江州侍である。私の古里;彦根(佐和山)の南方に愛知川(えちがわ)という所がある。愛知川という川が琵琶湖に注いでいる辺りである。このエリアに、当時藤堂村(犬上郡藤堂村)という在所があり、藤堂高虎はこの地の土豪の出である。少し下ると近江八幡であり、後に近江八幡辺りからは著名な近江商人が多数出た。伊藤忠、丸紅、トーメンなどの“故郷”と言ってもいい。藤堂高虎という武将には、近江商人的な匂いを感じるが、それを言うと、一般の近江商人そのものに対する認識が誤っているので、新たな誤解を生むかも知れない。高虎は、並みの武将以上に勇猛に戦の修羅場をくぐり抜けてきた武将である。

ただ、この男は主君をコロコロ変えてきたことをネガティブに評価された男であり、この高虎に対する世評は幕末に至るまで藤堂家に対してマイナスイメージとしてつきまとった。鳥羽伏見の戦いに於いても、薩摩・長州側に寝返るや否や「藩祖が藩祖だから」という言われ方をした。高虎の“辞職”→“再就職”の繰り返しは、それほど、つまり三百年近く経っても云々されるほど評判がよろしくなかったのである。彼は「畳の上の駆け引きで出世した」とも揶揄されたが、こういう言われ方は武士にとっては最大級の侮辱を受けたことになる。最大の要因は、この男は目先が利くこと尋常ではなく、常に権門に近づいて取り立てられたからであろう。高虎が、この特性を如何なく発揮したのは関ヶ原前夜である。

高虎は、関ヶ原の後、伊予半国二十万石を与えられた。役の前は八万石であったから、大加増である。関ヶ原の合戦そのものに於いてそれだけの働きがあったかと問われれば、否と答えざるを得ない。決して功がなかったとは言わない。一気に三倍近い論功行賞を受けるに相応しい勲功があったかと言えば、それは無いという意味である。先陣を切って大奮戦を繰り広げ、その際の戦傷がもとで戦後命を絶ち、二百六十年後の幕末まで薩摩・島津の恨みを買った井伊直政でさえ、三成の佐和山領(北近江)を与えられたとはいえ、十八万石(十九万石とも言われる)である。そのことを思えば、高虎の二十万石というのは大甘の論功行賞であったと言えるだろう。尤も、近江と伊予とでは戦略的観点からみても重みは違う。井伊直政の佐和山(彦根)“配属”は、露骨に薩摩・長州、そして京の公家勢力の監視を目的としたものであり、このことは藩のポジショニングとしてやはり幕末まで井伊家を縛ることになる。しかし、そのことを差し引いたとしても、家康は高虎に対しては大甘の“査定”をしたという印象はぬぐえない。

このことについては、それなりの背景がある。最晩年の秀吉が病の床につくと、高虎は素早く家康に接近した。五奉行を中心とした反家康の大名たちの動向を報告したり、家康が頼んだ訳でもないのに家康の屋敷(伏見)の警護を買って出たり、あたかも家康の家臣になったかのような行動をとった。この時点で秀吉はまだ生きている。死病の床についたとはいえ、禄を食(は)んでいる主人はまだ生きているのだ。まだまだ実力主義の戦国の世とはいえ、武人なら普通、ここまでは出来ない。高虎という男は、それを臆面もなくやる人間なのだ。彼は、秀吉が没するや否や家康に臣従を誓ったとさえ言われる。一方の家康という男は、人一倍猜疑心が強い。これは、徳川家康家中の特性でもある。こういう人間は、自分自身に対してロイヤリティを示す人間に対しては、それが十二分に確信できたら徹底的に可愛がるものである。これが信長なら、可愛い奴、と思っても、それに応えることはするが徹底的に庇護するということはしない。信長は、人を信じやすいところがあり、自分の都合よく人を信じるジコチューと言える。

話を戻す。

主家をコロコロ変えてきた高虎であったが、秀吉に仕えてからは秀吉の天下人になる過程が速過ぎたこともあり、豊臣政権成立までずっと秀吉の武将として働いてきた。正確な意味での譜代とは言えないが、福島正則加藤清正石田三成、そして宇喜多秀家といった豊臣譜代に比べてもその働きは遜色がないと言っていい。ところが、禄高はこれらの譜代より低く、八万石に抑えられている。客観的にみて、これは低過ぎると言えるかも知れない。つまり、これが秀吉の高虎に対する評価なのだ。恐らく秀吉は、抜け目なく、油断のならぬ高虎から自分自身と同じ匂いを嗅ぎ取ったのではあるまいか。

このような経緯を経て、藤堂高虎は関ヶ原では家康軍の一隊として働き、西軍;大谷吉継隊と激突する。大谷隊と言えば、石田三成の部隊と共に関ヶ原の西軍では文字通り身を捨てて奮戦した数少ない部隊であり、これに正面からぶつかって奮戦した高虎は流石である。大谷隊を選んだところが流石であり、「世渡り」ということもここまで命がけの世渡りとなると単に「目先が利く」というようなレベルではなくなり、流石としか言いようがない。戦後、朽木元綱脇坂安治などといった、流れ次第でどちらにでも付くといった諸将の調略にも成功し、家康は伊予半国とはいえ一気に二十万石へ引き立てたのである。吟味すれば、一気に三倍というほどの勲功ではなかったろう。しかし、高虎のやることは目立つ。隠れてやるべきことも臆面もなく表でやる男であるから、目立たなければいけないところでは一層目立つことを目立つようにやるのがこの男の真骨頂である。家康としても加増し易かったことだろう。

かくして、藤堂高虎は八万石の並みの大名から二十万石の大大名に出世したのだが、こうなると全ての勝手が違ってくる。二十万石の身代ともなればそれに相応しい“体裁”が必要となる。「禄」というものは「私」のものではない。あくまで主人からの預かりものである。二十万石を預かったとなれば、それに相応しい軍陣を整え、事ある時に主人のために命を張って働かねばならない。平時からその一瞬に備えなければならない。武士にとって平時を生きるとは、そういうことである。家康が天下を掌中に収めたとはいっても、この時期、大坂の豊臣家は一大名に没落したとはいえ、大大名としてまだまだ求心力を維持していた。そして、関東(家康)と大坂がいずれ手切れになるだろうことは当時の言わば常識である。大坂は、諸国から集まる浪人を召抱えているという情報も伝わる。高虎は、急がねばならなかった。並みの家臣や兵を集めることは、比較的易しい。問題は、藤堂家の軍(いくさ)立ての出来る「侍大将」である。藤堂家には、二十万石に相応しい軍陣の軍立ての出来る侍大将が見当たらなかった。

当初、藤堂高虎は、後藤又兵衛に目を付けた。後藤又兵衛基次・・・かつて福岡黒田家五十二万石に一万六千石で召抱えられていた、天下に名を知られた武者である。私どもの世代なら、子供の頃に漫画や時代物語で必ずお目にかかっている、勇猛という言葉の代名詞のような侍である。黒田家の関ヶ原戦後の初代藩主は黒田長政であるが、又兵衛が最初に仕えたのは、豊臣の軍師として著名な黒田長政の父;黒田如水(勘兵衛)である。又兵衛は、長政とは誠に相性が悪く、如水の死後、一家で出奔し、これに対して長政は「奉公構」という措置で報いたため、細川忠興や福島正則など諸侯が召抱えようとしたが叶わなかった。「奉公構」については、渡辺勘兵衛にも関わることなので後述したい。

そのような次第で、藤堂高虎が侍大将を探していた時、後藤又兵衛は浪々の身であった。伊勢で乞食をしていたという話も伝わっている。また、京は四条河原の乞食小屋に住んでいたとも言われる。早速、藤堂家から使いが走ったが、又兵衛はこの“オファー”を断った。曰く、

『其れがしはご家風に合いませぬ』

乱世の硝煙がまだ消え去っていないこの時期、藤堂家の家風とは言っても、それは取りも直さず藤堂高虎の人柄、キャラクターのことである。俗に言う「俄か分限」、それも武功で掴み取ったとはみなされず、才覚によって身代を築いた男である。勘兵衛に負けず劣らぬ武辺一辺倒の又兵衛のような男には気に入らぬ存在であったろう。皮肉を込めて言えば、藤堂家は侍大将のヘッドハンティングに於いて乞食からも断られたことになる。

こうなればやむを得ない。高虎は、二十万石に相応しい軍立ての出来る侍大将を据えることに必死になっている。後藤又兵衛がだめなら、ここはやはり何としても渡辺勘兵衛を説き伏せろ、ということになったようだ。勘兵衛の“好物”が女だということで、女で釣ろうとしたとも言われるが、こうなるともはや喜劇である。それに勘兵衛という男には、女をそういう風に使うと逆効果である。

話の先を急ぐと、女という餌には怒り心頭に達した勘兵衛が、それから一年以上も経ってから、ひょいと藤堂家の誘いに応じたのである。知行は一万石、但し、藤堂家の軍陣は全て勘兵衛に任せるという条件での仕官であった。

このエッセーブログは、一回の文量を大凡決めている。長くなり過ぎると読者を失うことになる。その愚を避け、再度稿を改めることとする。

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江州侍列伝(其の九 ~酒と女と戦と失業~)

勘兵衛という名は、当時としては珍しい名前ではない。よくある名前であった。尤も、当時は名前の種類そのものが、親が子供に当て字としか思えないような名前を付ける今どきより、遥かに少ない。石田三成の家臣に杉江勘兵衛、田中吉政の家臣に辻勘兵衛がいる。この二人の勘兵衛も決して平凡な勘兵衛ではなく、渡辺勘兵衛以下、この三人を、世間は「三勘兵衛」と呼んだ。しかし、三勘兵衛の中でも渡辺勘兵衛が、最も窮屈に生きたのではないか。それは、武辺に過ぎたからだと言っていいだろう。尤も、本人は好き勝手に一生を満喫したと思っているに違いない。

中村一氏の六千石を蹴って浪人した渡辺勘兵衛が、次に仕官したのは、増田長盛である。それも四千石での士官だから、今どき流に言えば、会社のベースアップ額に不満を抱いて「冗談じゃねぇ~!」と退職したら、もっと安い給料の就職口しかなかったということになろうか。いや、この喩(たと)えは如何にも今風に過ぎる。渡辺勘兵衛は、何も六千石という「額」に不満をもったのではない。三千石を六千石にしかアップできなかった中村一氏の器に愛想を尽かしたのだ。当の中村一氏自身が、

『自分の器量では勘兵衛のような男を使いこなせぬ』

と言って、この“退職”にある種の理解を示しているのである。この男の“転職”は、常にこういう風であり、決して「額」そのものを問題にしたことはない。

増田長盛については、一度触れたことがあるのでご記憶の方もいるだろうが、五奉行の一人で、大和郡山二十二万石の城持ちである。豊臣政権は、広く知られているように五大老・五奉行制を敷き、政権実務は実質的に五奉行が担った。徳川家康以下の五大老は、政権運営という面では名誉職的な色彩が濃い。参考までに、五大老・五奉行とは以下のメンバーである。

【五大老】

徳川家康 (関東 250万石)

前田利家 (加賀  80万石)

毛利輝元 (吉備・安芸120万石)

宇喜多秀家(吉備  57万石)

上杉景勝 (会津 120万石)

【五奉行】

浅野長政 (甲斐 22万石)

石田三成 (佐和山18万石)

増田長盛 (大和郡山22万石)

長束正家 (水口  5万石)

前田玄以 (亀岡  5万石)

蛇足ながら、小早川隆景(筑前)が大老に名を連ねた時期があり、奉行職が六名であった時期もあるが、ここではそのことには立ち入らない。また、後に「三中老」というポジションが設けられ、先の中村一氏もその一人であったが、実質的にこれは何も機能しなかった。

更に、余談に属するが、一覧して分かる通り五奉行には近江衆(江州侍)が多い。そして、後の関ヶ原に於いては、五奉行筆頭の浅野長政は家康に与したが、他の四人は西軍となった。関ヶ原とは、大老対奉行の争いという一面と近江衆と家康の戦いという側面をもっていたのである。西軍を組織した三成は大老の一人;毛利輝元を担いだが、これは大谷吉継の助言もあって「形式」を整えたに過ぎない。毛利輝元とは、所詮天下を争う一方を担うという器ではなく、毛利家のある種の愚鈍さは幕末まで引き継がれる。この家中から幕末に跳ね上がりテロリストが梅雨時のぼうふらのように湧き出したのも、この家の藩主というポジションの性格と無関係ではない。

さて、渡辺勘兵衛は、その関ヶ原の役に於いて大坂城に入っていた増田長盛に代わって郡山城の留守を預かった。形だけの総大将;毛利輝元も前田玄以も大坂城に籠っているだけで、関ヶ原の役に於いて西軍を主導した奉行職で前線に出たのは石田三成と長束正家だけである。この「天下分け目」の戦いで、増田長盛にどれだけ強い「戦う意志」があったのか、これは極めて疑問である。この男は、三成挙兵を家康に内報した張本人であり、豊臣家の“財産”(蔵入地=一説に百万石)を一括管理していながら、三成の資金援助要請を拒否している。世に、毛利輝元と並んで「関ヶ原敗北の元凶」と言われるのは、このあたりの事情を指してのことである。西軍敗北が確定し、家康は当然増田長盛の所領を没収したが、その身柄は高野山へ追放されただけである。

所領没収となり、その居城を守っていた勘兵衛はどうしたか。城の明け渡しを拒否したのである。曰く、「主人;増田長盛の命によって城を守っているのであって、他の如何なる命があろうとも従う訳にはいかない。弓矢を以てとならば、是非に及ばず」。つまり、力づくでというなら相手をするという姿勢を崩さなかった。この時、開城を迫る軍を率いていたのは、藤堂高虎と本田正純たちである。勘兵衛という男は、藤堂高虎という同郷人と実に奇妙な巡り合わせをもっている。

勘兵衛の行動は、スジとして正しい。このことは、同じ武士として当然寄せ手にも理解できる。やむなく家康は、高野山に蟄居中の勘兵衛の主人;増田長盛に書状による命令を出させ、これを受け取ってようやく勘兵衛は、整然と郡山城を明け渡した。これによって、また勘兵衛は男を上げた。「勘兵衛は負け戦で男を上げた」と言われたのである。見上げた侍大将であるということで、諸将から“スカウト”が殺到したが、勘兵衛は牢人して古里;近江湖北に引っ込んでしまった。

この、郡山城引き渡しについては、その手際が水際立っていたところから高野山に蟄居していた増田長盛から高野山の僧を使者として「感状」が送られてきた。「感状」とは、今風に言えば感謝状であるが、たかが感謝状一枚と軽く考えてはいけない。これは、意訳すれは「武功公認書」であって、就職活動に置き並べて言えば「業務実績証明書」のようなものなのだ。もし、新しい会社に提出する職務経歴書に前職に於ける「業務実績証明書」が前職の会社の社印付きで添付されていれば、新しい仕事先に対しては条件面でも有利に働くだろう。『七たび牢人せねば武士ではない』とされた戦国期のこと、この「感状」が新しい仕官先の禄高を決めることにもなるのだ。

増田長盛がわざわざ高野山から「感状」を届けたのは、実は単に城明渡しの手際のみを対象としたのではない。一国が滅ぶと、家臣団は崩壊する。城下には盗人が溢れ、領民が四散することも多い。関ヶ原で西軍が敗れた上に、城主;増田長盛が居ない郡山城とその城下の混乱は酷かった。逃げた雑兵までもが盗賊の群れに混じって舞い戻り、城下を襲った。郡山城下では「乱獲り」の“都市版”とも言うべき残虐行為が繰り広げられたのである。郡山城下では、白昼城下の路上で女が次々と強姦された。暴徒は、城の金銀までを奪おうとしたのである。これに立ち塞がったのが勘兵衛である。彼の直属部隊一千騎からは、脱落者が出ていなかった。勘兵衛はこの一千の兵力を以て、半ば盗賊化した他の部隊を撃滅して城を守り、更に城下に出て夜盗を殲滅、その首三百を見せしめとして晒したのである。このように城下の治安を維持しているところへ、藤堂高虎・本多正純の軍が到着した。

寄せ手の藤堂・本多軍からみても勘兵衛の対処は見事であったが、藩主;増田長盛にしてみれば郡山城が夜盗・浮浪の巣窟と化していれば末代までの恥である。増田長盛は、「勘兵衛がいなければ増田家は天下に恥を晒した」として「感状」を送ってきたのである。

司馬遼太郎氏が『侍大将の胸毛』で渡辺勘兵衛のことを書いているが、それはこの時期の勘兵衛のことである。つまり、郡山城を引き渡し北近江へ隠遁した時期から物語を始めている。

郡山城接収に当たった藤堂高虎の家臣;大葉孫六が、北近江の勘兵衛の寓居を訪れる。目的は“スカウト”である。

──やっと用件を説明しおわり、最後に

「ぜひ、われらが主人のためにお働きくださるように」

と頼んだ。ところが勘兵衛は聞えたのか聞えないのか、そっぽをむいたまま、台所にむかって、しきりと女の名前を呼んでいた。

「市弥、市弥」

はじめは酌でもさせるつもりかと思った。しかし、市弥というさきほどの井戸端の女が入ってきたときは、孫六はあやうく座を立って逃げかけた。勘兵衛がいきなり女の腕をつかみ、膝もとへ引き倒したのである。だけではなく、孫六の前で平然と女の下腹をなではじめた。やがて、女の小袖のスソのあわせ目から手を入れた。女は男のそんな仕草に馴れているらしく、眼をつぶり、ひざをわずかに割ったまま勘兵衛の胸にもたれている。孫六は、逃げるシオをうしなった。やがて勘兵衛は大真面目な顔で、

「客人(まれびと)にはご無礼じゃが、こうして飲まねば酒がまずい」

「拙者、中座つかまつりまする」

「ああ、そうして呉りゃるか。幸い月があるゆえお足もとは明るい。庭でもそぞろ歩きをして貰えれば、そのうち、この者とのことも済む」

孫六はやむなく庭へ出るために障子をあけ、室外へ出てから一たんすわった。障子を閉めようとしたのである。フト部屋の中を見て、孫六は肝をつぶした。すでに市弥という女は、勘兵衛の体の下に組みしかれ、左足がつけ根まで露わにみえていた。

(おどろいた御仁じゃな)

庭にとびおりてから、あの男はめしを食うように女を用いている、と思った。めしも女も、勘兵衛にとってはおなじもので、腹がへればめしを食うように情がおこれば女を抱き、客の孫六の存在など虫ケラとも思っていない様子だった。かといって、女に痴(し)れた男でもないのである。軍陣に立たせれば万余の軍勢を一糸みだれず進退させる水ぎわだった器量をもっているし、それに、この男は陣中では兵に強姦をゆるさないので有名だった──(講談社版司馬遼太郎「侍大将の胸毛」より)

この男を軸にするだけで、実は戦国の実相が俯瞰出来るところがあるので、次稿に持ち越すことにする。

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江州侍列伝(其の八 ~槍の勘兵衛~)

江州(近江)生まれの侍について、私なりの私見を交えながらその実像を述べてきたが、最後にこれぞ「武辺者」中の「武辺者」と言っていい侍を登場させたい。戦国末期(安土桃山時代)から江戸初期にかけて戦場で活躍した渡辺勘兵衛である。優れたテクノクラートであった石田三成を一つの江州侍の典型とすれば、渡辺勘兵衛はその対極に位置づけられる男であるが、これもまた江州侍の一つの典型である。

例えば、先に触れた『姉川の合戦』に於ける浅井・朝倉連合軍の兵力は、信頼できるところでは18千人ほどであり、2万には満たなかった。これに対して、織田・徳川連合軍は、司馬遼太郎氏は29千人としている。もっと多い兵力を講談調に謳い上げる書きものは多々存在するが、少なくとも1万人程度の差があったことは確かなようだ。こういう兵力差で姉川を挟んで対峙することになったのは、一つには信長の常套戦法がある。前にも述べたが、信長は相手より少ない兵力では絶対と言っていいほど戦を仕掛けない。常に相手を上回る兵力を整えてから戦闘に入る。このあたりは、実にオーソドックスな戦法を採る武将であった。これに対して、浅井長政は逆である。版図の問題もあるが、大体浅井軍というのは常に寡兵であった。相手より寡兵であることに慣れていると言ってもよい。

これも以前触れた記憶があるが、当時の世評としては尾張兵は弱兵と言われ、事実個々は強くなかったようだ。これに対して、近江兵は強兵とされ、強者(つわもの)が多かった。信長には、このことが計算に入っていたものと思われる。同時に、浅井長政にも自軍は強兵であるという意識があったに違いない。その意識があったればこそ、小谷城を出て野戦を挑むという戦法を採ったものと考えられる。事実、『姉川の合戦』では浅井軍の武将;磯野員昌の十一段崩しというような勇猛なエピソードが語り継がれているが、これなども近江兵個々の強兵ぶりを示すものと言える。渡辺勘兵衛も、そういう類の江州侍の一つの典型である。

渡辺勘兵衛・・・「槍の勘兵衛」とも言われたが、いずれも通称であり、本名を渡辺了(さとる)と言う。柄に似合わぬ現代風な名前である。

「槍で千石、采配で万石」と世評にのぼったこの男は、単なる侍ではなく、単なる槍の名人でもない。当時、天下に聞こえた「侍大将」である。

侍大将とはどういうポジションの人物を言うのか。これは、その言葉ほど単純な話ではなく、機会を改めて整理する。

既に述べた浅井家の家臣、というより浅井家麾下の重臣であるが、阿閉貞征(あつじさだゆき)という、やはり江州侍の武将がいる。近江の山本山城主であり、もともとは近江;伊香郡(浅井郡の隣に当たる)の国人である。浅井家に従うようになってからは、『姉川の合戦』にも約千騎を率いて参戦している。『姉川の合戦』後の信長の近江攻めの際には、山本山城に籠り、織田軍を撃退した。ところが、天正元年(1573年)、阿閉貞征は織田に内応し、山本山城は逆に織田軍の浅井攻めにとって出城の役割を果たすことになり、このことは小谷落城の大きな要因の一つとなった。主家であった浅井家滅亡に大きな役割を果たした阿閉は、近江;長浜に入った秀吉の「与力」となったが、竹生島の領有を巡って秀吉と揉め続け(これは秀吉の強引な“横取り”と言える)、秀吉とは仲が悪かった。そして、本能寺の変に於いては明智光秀に助勢し(長浜城を攻撃)、毛利攻めから取って返した秀吉の光秀討伐(山崎の合戦)に伴い、秀吉によって一族全員が皆殺しにされてしまった。この阿閉貞征とその一族の生涯は、典型的な戦国武将のそれであり、「群雄割拠した戦国時代」というものを理解する上での代表性のあるサンプルとでも言える気がする。言うまでもなく、阿閉貞征もまた江州侍の代表的な一人である。

渡辺勘兵衛が初めて仕えたのが、この阿閉貞征である。それだけを述べるために阿閉貞征のことに触れた。おかしな縁だが、後に勘兵衛が仕えることになる藤堂高虎も阿閉貞征の家臣であった時がある。

勘兵衛という男は、根っから「近江の強兵」であったようで、その槍の腕でのし上がり、阿閉貞征の「母衣衆」の一人として活躍した。勘兵衛が阿閉貞征に仕えたのは、阿閉が信長に付いてからのことと考えられる。信長が摂津の吹田城を攻めた際、一番首を挙げ、信長からすれば「陪臣」でありながら直接賛辞を得たと伝えられている。ところが、勘兵衛は、今で言えば「一身上の都合」で阿閉家を“辞職”する。勘兵衛のことだから、恐らく「論功行賞」に不満があったのであろう。この男は、働きに応じた報いがないと、さっさと主人を見限る。次いで仕えたのが、何と後に阿閉家の敵となる羽柴秀吉であるが、勘兵衛は秀吉の養子である羽柴秀勝に付けられた。秀吉と明智光秀の天下分け目の戦となった「山崎の合戦」、そのあとの柴田攻めに際しては「賎ケ岳の合戦」で奮戦したが、天正十三年(1585年)、秀勝が没すると豊臣家を辞し、浪人となる。

こういう男は、各地の武将や大名が放っておかない。忽ち、中村一氏が三千石で召し抱える。中村一氏は、やはり江州侍であるが(甲賀から出たとするのが通説である)、後に豊臣政権を支える「三中老」の一人となった武将で、早くから秀吉に仕えていた。山内一豊の“親友”と言えばお解りになる読者もいるかも知れない。中村は、勘兵衛同様、「山崎の合戦」「賎ケ岳の合戦」に参戦、「賎ケ岳の合戦」後に岸和田三万石の城持ち大名となった。更に、翌々年には近江水口岡山六万石へと出世している。中村が「三中老」まで昇り詰める出世街道に乗る上での決定的な出来事は、秀吉の小田原攻めに於ける武功である。中村軍は、秀次部隊の先鋒を務め、単独で松田康長の山中城を落としたのである。このことが、小田原攻め全線の帰趨を決した。ところが、中村という武将は、戦国大名としては実に線の細い人物で、強烈なリーダーシップを発揮するタイプではない。後に、関ヶ原直前に病没した通り、どちらかと言えば病弱でもあった。山中城での一番槍をはじめとする活躍は、実は中村軍の侍大将;渡辺勘兵衛の仕事であった。それも、尻込みする中村を無視した独断専行行動であったようだ。勘兵衛の独断専行による軍事行動は、結構多い。勘兵衛にしてみれば、このタイミングでこうやれば、結果はこうなるということが見えるのであろうが、殆どの主がこれについていけないのだ。しかし、中村にすれば「結果オーライ」であり、恩賞的な意味を込めて六千石に加増した。ところが、勘兵衛はこれを蹴ってまたも浪人してしまった。

このように書くと、渡辺勘兵衛という侍大将は“成果主義”の権化のように映るかも知れないが、それは少し趣が違う。勿論、“成果主義”は戦国の基本常識であり、この常識が守れない人物に侍は付かないが、私見だが、勘兵衛はそれが中村だから蹴ったことはまず間違いない。「あんたは、戦場(いくさば)通り、やっぱり胎がないの~」という意味を込めた行動であったに違いない。

例えば、石田三成も佐和山を与えられる前に近江;水口四万石に封じられた時期があるが、この時三成は何と半分の二万石を割いて島左近を召し抱えたとされる。これには、秀吉が驚愕した。三成には、そういう一面が強くある。これがあって、石田軍の侍大将;島左近の関ヶ原での超人的な奮戦が生まれることになる。

つまり、勘兵衛や島左近のような世に誉れ高い「侍大将」は、「意気に感じる」というところがないと簡単には動かないものであろう。中村には所詮、渡辺勘兵衛を使う器量の持ち合わせがなかったと言うべきなのだ。

またもや浪人したとはいっても、渡辺勘兵衛ほどの侍を世の大名が放ってはおかない。次々と“ヘッドハンティング”が繰り広げられる。次に勘兵衛が応じた主君は、やはり江州侍である増田長盛である。この時、勘兵衛は幾らの扶持で応じたか。四千石である。中村一氏の六千石を蹴り、増田長盛の四千石に応じたのである。勘兵衛とはそういう男で、実は“報酬”のみで身を左右させる男ではない。では、増田長盛の人物に惚れたかと言えば、そういう“体裁のいい”話が通用する男でもない。渡辺勘兵衛は、欠点の多い男ではあるが、このあたりの不思議さは私には解るような気がする。

その不思議さ故だと理解しているが、司馬遼太郎氏が勘兵衛のことを書いている。『侍大将の胸毛』と題する短編である。小説という形を採っているが、私はこの作品の勘兵衛はほぼ実像であろうと感じている。特に、勘兵衛の女好きは半端ではなく、女を肴に酒を飲むという類の“生態”は現代人からみればとんでもない男であろうが、私は勘兵衛のこういうところが好きである。言葉では表現しづらいほど女が好きな勘兵衛であるが、合戦時の「乱獲り」は厳しく許さなかった。当時、戦勝軍が乗り込んできて被占領地域の女が強姦されるのは当たり前であるが、勘兵衛はそれを許さなかった。自軍の雑兵が土地の女を強姦した際、見せしめに自ら三名の首を撥ねたことすらある。無類の女好きでありながら、戦場につきものの「乱獲り」やそれにつきものの強姦を断じて許さなかった渡辺勘兵衛という男のことについては、ここで終わるのは勿体ない気がする。

次稿に譲ることとする。

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無理を通せば論理に勝てる

実は、先週の月曜日から右手のギブスを外している。例の「オーダーメイドギブス」を、である。

この右手トラブルの後、珍しく風邪を長引かせたりしてすっかり体調を崩し、獏とした感情として何やら精神がたるんでいるような気がしたのだ。仰々しくギブスなどをして、すっかり医者に従順な患者になり下がっているではないかと、己の不甲斐なさにだんだん腹が立ってきたのだ。「全治6ヶ月」などと言われ、その見立てが果たして妥当かどうかも考えず、すっかり「医学」という高度な「論理」に洗脳されていたのではないか。

ギブスを外せば、右手は無理を強いられる。例えば、電車の中で左手に鞄を持ち(私の鞄は非常に重い)、電車が突然揺れたら右手は咄嗟に手すりか吊革を掴むに違いない。その時、うまく掴めるかどうか分らぬが、仮に掴んだとしても身体を支える役に立つかどうかもあやしいが、いずれにしても右手は「無理」をすることになる。この「無理」が大切なのではないか。「無理」を重ねれば、必要に応じる形で回復は早まるに違いない。

これは、リハビリの理屈と同じことではないか。リハビリとは、現状では使えない器官を「いじめる」ことで使えるようにすることだと理解している。リハビリを受ける人は、苦痛に顔を歪めて耐えている。密教の荒行みたいなものである。そのことを思えば、私の場合は痛みもない訳であるから、早めにギブスを外して右手に「無理」を強いたとしても、苦痛に顔を歪めるというまでには至らないだろう。尤も、痛みのないのは、痛覚もまだ戻っていないからでもあるが。

更に考えを進めてみると、この「無理」を強いるという方法は、リハビリの理屈に合致しているというより、「進化理論」そのものに当てはまるのではないか。人間という生物も、必要な器官は発達し、不必要になって使わなくなった身体のパーツは退化する。例えば鎖骨は、今も退化の過程にある。筋肉も使わなければ、衰える。電車が突然揺れたら、右手でぱっと手すりに掴まることは、身体を守るためには「必要」な動きと力である。右手の「とう骨神経」は「必要」に迫られ進化する筈である。即ち、今の私の場合は、進化=回復であるから、「無理」と「必要」を強いることは、進化理論にも合致し、誠に科学的であると言わねばならない。

私は、日頃京王線を利用している。新宿に向かって環八を越えると、直ぐ八幡山駅である。この駅前後の線路について私は日頃より欠陥線路ではないかという印象をもっているが、駅に近づくと、また出る際、電車の車体はガクガクと強烈に横揺れする。車掌は、必ず注意を喚起するアナウンスを欠かさない。強く揺れることも、注意のアナウンスのあることも常のことで、これが京王線八幡山駅の常態である。常日頃は忌々しく思っているこの欠陥線路が、この度の「無理」を強いるという我流の治療策には格好の訓練ポイントになっている。

左手に重い鞄を持ち、そろそろくるぞ!と身構える。ガクっと電車が揺れる。サッと右手を目の前の手すりに差し出す。う~ん・・・何とか間に合っているが、掌の部分を手すりに押しつけるようにして身体を支えているだけで、まだ完璧に咄嗟に手すりを「握る」という形になっていない。まだ水の入ったコップを安全に持てないという程度の握力では無理もないかも知れない。それに、八幡山駅だぞ~というだけで、予(あらかじ)め身構えるから、厳密には「咄嗟に」とは言い難いものがある。

何やかやと、こういう“訓練”を始めた次第である。

ギブスを外そうと決めた数日前、「針筋電図検査」なる検査を受けた。簡潔に言えば、「とう骨神経」の損傷の程度を図る検査だということである。この検査は、損傷を受けた直後に実施するより一定時間が経過してから行った方がいいそうだ。興味がないので、その医学的根拠は聞いていない。

この検査を行うに当たって、事前に担当医が言った。

『痛いですけどね』

これを、一度ならず言うのである。検査は、その日から約2週間後である。2週間も後日の検査について、

『痛いですけどね』

だけを、何ゆえ強調するのか? 当方は、この度のことについては何をやられても・・・とある程度覚悟していたのだが、こういう風に「痛い」だけを強調されるとどれ程痛いのかと多少は気になる。痛いことは、嫌いである。

今月13日、検査の日、検査医がまた始める前に

『痛いですからね!』

と強調する。一体、何なんだ、君たちは! 「痛いの、イヤです」と言えば、何か方法を講じるとでも言うのか。

検査体制がまた仰々しい。検査医と助手、それに監督するように偉そうなドクターが一言も発せず見守っている。

『ここだ!ここ! あっ!違う!!』

『ここ!ここ! あっ! ここだ!!!』

私の腕に針をブスブス突き刺しながら、担当医が助手に向かって喚いている。いくら痛覚の一部がないとは言っても、金属針を腕にブスブス刺されりゃ、確かに“予言”通り痛い。しかし、こういう風に騒がれれば余計に痛みは増すというものだ。監督ドクターは、相変わらず冷徹に沈黙を守っている。こいつら一体何ごっこをやってんだ!と腸(はらわた)煮えくりかえるまま検査が終わって、

『はい、これ、会計へ出してください』

と、検査医。

この日は検査だけで、結果が私に告げられるのは、何と月末28日である。

先月末に2回目の診断、そこで検査を13日と設定し、その結果は28日にしか解らないのである。「とう骨神経」の損傷具合を測るのに丸々1ヶ月を要することになる。私は先週月曜日からギブスを外し、進化理論に則(のっと)って生活している。私の右手は、「無理」を強いられ、「必要」に迫られ、日々進化=回復しつつ28日を迎える筈である。その日、先端医学は13日時点の私の「とう骨神経」の損傷具合を詳らかにする。

何かおかしくないか。

既に日曜日夕刻、「無理」を強いられた右手は、ドライアーで頭髪を乾かすという作業を成し遂げるまでに回復した。同日朝は、力は入らないが、トラブル発生後初めて右手だけで歯磨きも出来た。どちらも完璧ではないが、格好はついてきた。28日に13日時点の損傷具合を知らされ、それに基づく治療プランを告げられてももはや意味がなかろう。

医学もまた「論理」の世界である。優れた新しい「論理」。それに拠る「検査」という「技術」と、それに裏打ちされた「論理」の積み重ね。これらが間違っているとは思わぬ。優れた「論理」の「運用」が間違っているのだ。では、「論理」を「運用」するのは誰か。生身の人間である。「論理」に振り回され、それに従属する人間は、生身の人間の役に立たないのではないか。

「オーダーメイドギブス」の型をとって、出来上がるまでに1週間。1週間後にそれをはめに行ったら、処置室で「現金引き換え」。「いつもにこにこ現金払い」である。一式35千円也。ということは、みんなが「寄せ書きしよう!」などと喜んでいた私のギブスは、実質10日間強しか使っておらず、1日約3千円かかった計算になる。処置室の技師が言う。

『ま、高いですけどね、会社の総務へ言えば7割戻ってきますから。総務へ言うだけですから』

技師君! 君は世の中というものを知っているか。総務へ言うだけで済む・・・そんな企業が世の中に何割存在すると思っているのか。つまり、その種の体制を常備している企業が、世の中の何割を占めるか考えたことがあるか。

私どもは、せいぜい10名強という零細な所帯。その業務、つまり社会保険事務所相手に7割を取り戻す業務は、私自身がやらざるを得ないのだ。現実としては、スタッフのことなら別だが、己のギブスのそんなことに時間を割いていられる状況ではないのだ。まさか君は、患者が全て会社員だとは思っていないだろうね。世の中には自営業を営む人、専業主婦の人、今どきのことだから無職の人・・・いろいろな人が身体と心の痛みを押し殺して君の処置室に来るのだ。そういう千差万別の人々に対して君はどういう対応をしているのだろうか。他人事(ひとごと)ながら大いに気になる。更に、君は白衣を着てはいるが、君が一民間企業の社員であって、その病院に出入りする業者であることぐらい、私に解らないとでも思っているか。会社に相談して、せめて処置室での「現金と引き換え」という形を改めてもらうことだ。白衣を着用している以上「もっともらしさ」も必要である。病院会計に組み込んでもらうというシステムも、最終的には患者の安心感に繋がることを知り給え。

これも「運用」の問題である。

医者も検査技師も助手も、そしてギブス会社のスタッフも高度な「論理」の世界の仕事に携わっている。しかし、どくどくと赤い血の流れる人間にとって最も大切な「運用」ということに意を砕かぬばかりに、彼らの信ずるところは私が己の右手に課している「無理」という一種の「根性論」に敗北するのではないか。

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江州侍列伝(其の七 ~小谷落城と女たち~)

一乗谷で朝倉義景を葬った織田信長は、近江・湖北に全軍を集結させ浅井久政・長政親子が籠る小谷城を包囲した。こうなれば、落城は時間の問題である。包囲する織田軍は二万五千とも三万とも言われている。籠る浅井軍は、五千というのが定説である。ここまでに浅井軍は、姉川の合戦、志賀の陣などで度々織田軍と戦闘を繰り広げており、重臣;磯野員正の離反などもあり、籠城勢力五千というのは誇大ではないかと思っている。少なくとも戦闘員は五千も居なかったのではないか。一方で、攻城戦というのは、守る数倍の兵力を要するものであり、攻め手の中心であった木下秀吉軍が三千と言われているところからすると、オーソドックスな戦法を採る信長なら二万前後の兵力を用いたのではないか。

浅井三代の居城;小谷城は、天正元年九月に落城、久政・長政は自害して果てる。長政、享年二十九歳。

落城前に、信長は何度か降伏勧告を行っている。信長にしては珍しい。秀吉自身が使者に立ったという説すら存在する。この落城の細かい時間的経緯はよく分からないが、長政は妻;お市の方と浅井三姉妹と言われる三人の娘を引き渡した。この三姉妹が、茶々、初、江という、戦国末期から江戸初期にかけて脚光を浴びることになる、長政とお市の血を引いた美貌の三姉妹である。

長政は、嫡子である万福丸は城外に逃れさせたが、万福丸は後に秀吉に捕えられ、関ヶ原に於いて磔刑にされた。享年十歳と伝わる。

代々伝えられてきた話では、秀吉はお市の方に惚れていた。彼女が欲しくて欲しくて仕方がなかった。しかし、お市は織田・浅井の連合の証として浅井長政に嫁ぐ。お市自身は、秀吉を嫌悪していたとされる。その秀吉が小谷攻城戦の中核部隊として夫;長政を攻め立て、長政は、お市と三人の娘を織田軍に引き渡す。引き渡しに際しては、両軍は戦闘を一時停止したという話も伝わる。お市は、最も嫌悪していた秀吉に娘共々命を救われるという、皮肉な巡り合わせを経て織田軍に庇護される。

信長という武将は、他の武将がそうであったように多くの人質を使っているが、殆どのケースで養女を使っている。それも形式的に養女とした上で嫁がせるというもので、実の妹や娘を政略婚に使ったのは、お市と五徳(松平信康へ嫁ぐ)のケースぐらいであって、それほど浅井長政との同盟を重視していたと言える。

お市は、何故秀吉を嫌悪していたか。誠に簡単明瞭な話で、秀吉が醜男であったからだとされる。確かに、「サル」と呼ばれた秀吉のことだから好きになれと言う方が酷というものであろう。夫;長政は美男で通っており、お市が長政との婚姻をいとも容易に受け入れた背景には、嫌悪する秀吉の存在が作用していたかも知れない。今一つの理由は、秀吉が所謂「成り上がり者」であったことだ。織田家の一族は、「織田家」という血筋について非常にプライドが高い。織田家も所詮、下剋上でのし上がってきた戦国大名ではないかと思うのだが、尾張の守護大名;斯波家の守護代の分家であったというだけでも、素姓の知れぬ庶出ではないという誇りであろうか。どちらにしても、サルには勝ち目がなかったのである。決定的なことは、戦国の習いとはいえ、秀吉が長政・お市の長男;万福丸を無残にも磔(はりつけ)に処したことである。このことは、お市にとって終生続く秀吉に対する恨みとなったものと思われる。

余談ながら、織田の一族には美形が多かったと伝わる。お市だけなく、兄の信長自身がそうであった。二人の同腹;織田信孝が最も美男であったと言われている。一族の末裔とされるフィギアスケートの織田選手が何故あのようなビジュアルであるかについては、時の隔たりが大きいとしかコメントが出来ない。

お市の方と浅井長政の子であれば、茶々、初、江の三姉妹の美貌にはさもありなんという気がするが、これも通説であるが、茶々が母;お市の方に一番似ていたとされている。お市の方に惚れていて果たせなかった秀吉が茶々を側室としたことで、さまざまなドラマが創作されたことは周知の通りである。つまり、秀吉は茶々にお市の方の面影を見ていたということになるが、果たして秀吉にそのような繊細な恋情というものが潜んでいたかどうか。いずれにしても茶々は豊臣秀頼を産み、淀殿と呼ばれるようになり、秀吉没後は秀頼の生母として豊臣家の実権を握り、家康との対立を深めていく。

初は、京極高次の正室となるが、京極家といえば室町幕府の四職に名を連ねる名門であり、三姉妹の中では最も格式の高い大名家へ嫁いだ。夫の死後出家し、常高院と名乗り、姉と妹が敵味方に分かれた大坂冬の陣・夏の陣では豊臣方の使者として豊臣・徳川両家の仲介に奔走することになる。

江は、三度目の結婚で家康の嫡男;徳川秀忠(二代将軍)の正室となり、後の三代将軍;家光や後水尾天皇の中宮となり明正天皇の母となった和子を産む。このことを以て、「浅井の血は徳川にも皇室にも流れている」と言われ、これは永年近江・湖北の人々の誇りでもあった。将軍の正室が次の将軍を産んだのは、徳川二百六十年を通じて、この江だけである。

このように、悲劇を背負った浅井三姉妹は、華麗な歴史の中に生きた。この三姉妹の存在によって、浅井長政にとって三代将軍:家光、豊臣秀頼は孫に当たり、明正天皇は曾孫になるという系譜が出来上がったのである。

それにしても、私には今なおお市の方の心情に、推し量りかねる部分がある。

小谷落城に際して、夫;長政の命によってお市の方と三姉妹は織田軍に下った。直接的には、秀吉の手によって救い出されたのである。お市の方は、稀に見る仲睦しい戦国大名夫婦と言われた当の夫;長政と運命を共にはしなかった。その後、彼女は織田家の重臣;柴田勝家に嫁ぐが、秀吉と勝家の衝突によって、賤ケ岳(小谷の少し北方)の合戦を経てまたもや秀吉に越前北ノ庄城を攻められ、北ノ庄落城に際しては三姉妹のみを秀吉軍に下らせ、自分は夫;勝家と共に自害している。小谷落城の際と北ノ庄落城時のこの違いは何に因るものか。戦国の女性として夫と運命を共にすべきだと言っているのではない。二度の落城を経験した女性の、その最後の心情の変化に人間的興味があるのだ。

お市の方は、定説としては天文十六(1547)年の生まれである。これを基準とすると、浅井長政に嫁いだのが、現代流の満年齢でいえば二十歳の時。当時としては晩婚である。尤も『浅井三代記』に拠れば十七歳の時ということになる。小谷落城は、彼女が二十六歳(または二十三歳)の時となり、北ノ庄に於いて自害した時、彼女は三十六歳(または三十三歳)となる。十年という歳月の流れが、戦国一の美女と謳われた彼女にどういう変化を与えたのか。当時の三十代も後半に入った女性は、先行きにどういう種類の希望なり夢を描くことが出来たのだろうか。そもそも勝家に嫁いだのが天正十年であるから、お市は三十五歳。勝家との結婚生活は僅か一年で終わっている。決定的な史実と思われるのだが、兄;信長が本能寺に於いて横死したのは、お市が柴田勝家に嫁ぐ直前である。即ち、信長の死がお市に再婚に関わる何らかの重大な心理的影響を与えたのではないか。長政に嫁ぐ二十歳のお市と、信長を失って間もない時期に秀吉の仲介によって勝家に嫁ぐ三十五歳のお市とは、その心情に於いては別人であったとしても不思議ではない。そして、二度目の落城に際して、最初の小谷落城の生々しい光景と夫;浅井長政の面影が甦らなかった筈がない。秀吉は、小谷、北ノ庄と、二度にわたってお市の夫を攻め、これを滅ぼした。このことも、お市の自害に何らかの影響を与えたのであろうか。

実にドラマティックな一生を送ったお市だが、不思議なことにお市を扱った小説は少なく、谷崎潤一郎の『盲目物語』、永井路子の『流星』ぐらいしか思い浮かばない。尤も、浅井長政に至っては、本格的な小説としては誰も書いていない。

今は長浜市に併合されているが、滋賀県の浅井町では、お市がマスコットキャラクターとして愛されている。

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厄介な若造

ここのところ、仕事を通じて何やかやとコミュニケーション量の増えたNが、徳富蘆花先生に因(ちな)む地で静かに暮らしている我が寓居へ遊びに来た。我が家に人が来るのは、週二回留守中に家事をやっておいてくれる家政婦さんを除けば、初めてのことである。他人の来訪を特に拒んできた訳ではないが、私はもともと人づきあいの悪そうなイメージを与えるタイプなので、大概の人間が敬遠するのである。稀に、人の気持ちなどお構いなしという、言ってみれば傍若無人な輩がいて、人の世界へズカズカと実に無遠慮に入り込んでくる奴がいる。私は、こういう奴が意外に平気で、むしろ若い奴にはこういうタイプが極端に少なくなったので、どちらかと言えば好ましく思ってしまうのだ。つまり、こじんまりとした“紳士”に仕上がってしまって、その実は基礎的知力も乏しく、益して体力もなく、スマートに見える“草食系”が若者の主力になってしまった昨今、こういう「怪しからん」輩が姿を消した。私どもの世代からすれば、それは誠に淋しいことなのだ。いや、嘆かわしいと表現すべき現象でもあるのだ。

まだ32歳になったばかりのNは、そういう「怪しからん」輩の典型とも言うべき奴であるが、こういう男はビジネスの上では「叱り易い」タイプでもある。「叱り易い」或いは「叱られ易い」タイプというのは、男女を問わず必ず伸びる。周りが、伸ばさずにはおかないのである。他社だからいいものの、Nが自社にいたら、私は毎日どやしつけているかも知れない。

ついでながら、女性で「叱り易い」タイプはもっと顕著に伸びる。私など、こういうタイプに出くわすと、何が何でも一人前にしようと躍起になってしまう。余りにも過重な負担を強いて、健康を害して退職せざるを得なくなったOなどはその典型で、私は今だにこの子のことを想い、この子の先行きを思案している。

Nの来訪の名目は、白昼から酒盛りをしましょうということなのだが、真の目的はフィアンセを見せつけに来ることであった。フィアンセはNにはもったいない可愛い子で、何の因果でNのような粗野な奴と一緒に人生を歩もうと決心したのか、誠に不憫なことである。Nの身に立てば、一時の気の迷いではないことを、唯々祈るのみである。Nのことだから、決して、いや簡単には女を裏切ったりはしないだろうが、何事が起きても常に“女の味方”であると自認する私としては、これから先、Nが道を踏み外さぬよう監視を怠ってはならぬと幸せそうな笑顔を見せているフィアンセを見ながら決心した次第である。

そう言えば、私が右手のトラブルに見舞われたのはほぼ一ヶ月前の四月五日未明のことである。その直前、四月四日の夜、私はこのNと飲んでいた。それも日頃そんなところでは飲まないという、双方全く馴染みのない街で飲んだ。入った店がまた失敗で、表現しづらいのだが、入った瞬間に、「あっ! これは違う!」と感じる店だったのだ。飲む御仁ならこの感覚はお分かりだろう。店の外面(そとづら)は誠にいいのだ。そそられるという点では、平均点以上の顔を見せているのだ。ところが、店内に入った瞬間に「違う!」と直感することがある。視野に入る客たち、テーブルの配置、店の女の子が発する雰囲気・・・こういうものがスクランブルして充満している空気が、当方の身体や神経と全く折り合わないのである。Nもそれを感じたらしく、我々は直ぐ出ようとしたのだが、奥に誰もいない部屋があって、どこへ行っても混んでいる金曜日であることも頭をよぎり、その奥の小部屋を使ってもいいと店の者が言うものだから、ついつい上がり込んでしまった。

結局、その夜、正確には日をまたいだ明くる五日未明、結構悪酔いしていた私は、Nと自宅前で別れて、部屋へ入ると直ぐPCを立ち上げ、マウスを握ったまま椅子で寝込んでしまってこの右手の災難に遭遇するのである。つまり、私の右手トラブルについて、Nは多少の、いや結構重大な責任を負っているのだ。この男と飲んでさえいなかったら、この不幸はなかったのだ。

Nは、フィアンセを見せつけながら結構急ピッチで飲み、夜引き揚げて行ったのだが、今日入ったメールによると、フィアンセを新宿まで送ろうとして二人とも車内で寝込んでしまって、そのまま調布まで逆戻りして、Nは携帯をフィアンセのバッグに入れたまま忘れて、散々な目に遭ったということだ。メールに曰く、私と飲むと、

「どちらかに何かが起こりますな~」

だって。全く「不埒」(ふらち)という表現がこれほどぴったり当てはまる男も珍しい。

いつだったか、急用で電話を入れたら寝ぼけた声で電話に出たので、

「ボケた声出してんじゃないよ!」

とどやしたら、

「あの『夏が逝く~』とかいう本読んでたら眠くなったんですよ」

とぬかしやがったのも、この男だった。

偶然だが、Nは、二十年近く経って私を捜し当ててくれた私の娘と同齢である。そして、Nと飲んだがために遭遇した右手の事故のあった四月五日は、その娘の誕生日である。娘や息子の誕生日を、会えなかった日々も忘れたことはなかった。その日は毎年、ああ、今日は・・・と思い出しながら生きていた。

「娘さんの誕生日プレゼントね~」

あの夜、Nが話題にした唯一の真っ当なテーマがこれだった。あの時、Nは私の思いつきを聞いて、

「ダメ! そんなもの娘さんが喜びますか!」

と即座に却下した。この一言が原因で、私は娘への誕生日プレゼントを贈るタイミングを少し遅らせてしまったのである。

何やかやと、真に厄介な若造を抱え込んだものである。

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