武士の情
10名にも満たない事務所のスタッフのうち、裸眼視力0.01とか0.05とかいう者が少なくとも2名居て、私の「視野欠損」を含めて、我々は身体障害者手帳の交付を申請すべきではないかという、大真面目な話になった。
過日、深夜に録画ビデオを見ながら夕食をとっていたら、マサイ族が如何に視力に於いて優れているかという検証をやっていたが、彼らの推定視力は5.0~7.0だというのである。そればかりか、動体視力も優れていて、「ゴッドハンド」と呼ばれるマジシャンのトリックを彼らが見事に見破るという構成の番組であった。
確かに、アフリカと我が事務所の環境の違いは考えるまでもなく歴然としている訳であり、かと言って、多少なりともマサイの環境に近づけようと沢山の緑を狭いスペースに置くことは不可能に近く、また、PCのモニターばかりを見ているのは更に視力を悪化させるらしいと分かってはいても仕事に求められるスピードを考えれば、今更手書きで企画書を書く訳にもいかない。(かつては、それが当たり前だったが)
詰まるところ、今更どうしようもないという非建設的な結論にしか落ち着かず、
「昔から勉強しなかったのに、ねぇ~?」
と互いに訝しむことしか出来ないという、情けない有様の週末ではあった。
徳川幕藩体制に対する誤解を解いておこうとして、天領と代官の話から始めたのだが、代官として任地である天領に派遣されるのは、「直参」と呼ばれる幕臣であることを述べた。この「直参」が、旗本と御家人に大別されることにも触れたが、彼らも諸藩の大名家臣同様、れっきとした「サムライ」である。徳川直参ともなれば、サムライ中のサムライと言ってもいいだろう。
大名家臣の子弟は、どの藩に於いても厳しい躾けと教育を受ける。大概の藩は藩校を設け、「知行持ち」の家臣子弟は当然のこと、時には「徒士」(かち)クラスの者の子弟まで藩校に通うのが普通である。武士道だ、文武両道だと喧しかったのは、あくまでこのような大名諸藩の情景である。
尤も、こういう事情も藩によって大いに異なる。
薩摩藩は、敢えて学問を“軽視”したフシがある。そうでなければ、「テゲ」と呼ばれる薩摩独特のリーダー的士風は生まれなかったであろう。
それに対して、「薩長土肥」として倒幕の中心勢力四藩の一つとなった、佐賀・鍋島藩はガチガチに学問を重視し、藩士に強制した。この藩風がなかったら、我が国の近代司法制度の祖と言ってもいい江藤新平は存在し得なかったであろうし、「佐賀の乱」も起きなかったのではないか。また、大隈重信が早稲田を興したのは、自藩のこの藩風に対する反撥が動機の根源にあったことは明白である。
薩摩のことは、既に小シリーズとして一度触れており、「薩長土肥」各藩についてはまた稿を改めるつもりなので、これらのことは話が横道へ逸れる前にひとまず措くことにする。
話は、直参のことである。
旗本にせよ、御家人にせよ、直参は勉強しなかった。見事という程、学問をしなかった。
もし、今日のような「大学入試センター」のような機関があって、徳川直参・大名家臣団すべてを対象にして「全国模試」のようなテストをやれば、間違いなく直参の平均点が最下位である。最も偏差値の低い武家集団であったと言ってもいい。
勉強をしなかったから視力は良かったかと問えば、それは我が事務所の例にみるように何とも言えない。
殆んどの藩が藩校を設けていたのに対して、実は幕府は教育機関を持たなかった。昌平黌(しょうへいこう)があったじゃないかという声が聞こえそうだが、この儒学の最高教育機関は多分に形式的なもので、直参子弟なら必ず入学しなければならないというものではなかった。第一、そういう規模の機関でもなかった。
「文」がこの有様なら「武」も同様で、幕末になって世相が騒然とし始めてからようやく神田に講武所を設置するという呑気さで、それまで直参のための武術教育機関を全く持たなかったのである。
旗本・御家人の中には、竹刀の持ち方がよく解らないという者が珍しくなかった。
稀に、論語の塾に子弟を通わせたりする者があったりする程度のことで、これが徳川家臣団=直参=旗本・御家人の実態である。
時代劇を見ていて、旗本家で子弟が熱心に論語を読み、書に励み、庭で剣術に汗を流すということがあったとすれば、それは間違いなく“変人”的な、珍しい旗本家だと考えていい。
幕末近く、1852年から6年間程勘定奉行を務めた川路聖謨(かわじとしあきら)という旗本がいたが、彼は勘定所に入ったばかりの若い頃、剣道と槍術の師のもとへ通ったのだが、それを見て同輩は『奇を好む者』と称したという話が残っている。
川路という武士は、旗本;川路家へ養子として入った者だが、なかなかの人物であったと、私は思っている。彼の没年は、1868年であり、これは実に覚え易い。つまり、彼は、江戸開城のその日にピストルで自決しているのだ。ピストルで自決したサムライというのは、江戸期を通じて恐らく川路が最初で最後ではないか。(函館戦争、会津戦争時の歩兵銃による自決を除く)
余談ながら、川路は、詩人;川路柳紅の祖父に当たる。
直参というものの日頃のライフスタイルからすれば、川路は例外と言える。
実は、ここに代官というものの実相に迫る大きな要素が潜んでいる。
川路は例外ではあるが、それは個人的な例外という資質の部分もさることながら、彼が勘定所へ入った人物であるという“例外的な”直参であったという、環境的、組織人的例外という意味でもある。
実は、直参の大半は「無役」(むえき)であった。この無役の直参を、「無役」と言うと聞こえが悪いので「小普請組」(こぶしんぐみ)と呼称した。要は、仕事がないのである。平たく言えば、失業者集団なのだ。従って、直参の大半は、経済的にも常に困窮していた。
失業していれば、仕事が欲しい。「無役」の身は「役」が欲しい。
直参が「役」を得ようとすれば、「筆算吟味」という試験を受けて勘定所へ入るしかなかったのだ。
江戸期の立身出世のシステムは、平成人が考えているようなものではなく、非常に鷹揚なものであった。武家の社会が、ガチガチの世襲制だったというのも、実は実態ではない、そういう体裁をとりながら、実のところは柔軟なところが結構あったのである。
川路の実家は、文字通りの浪人であった。ここでは詳細を割愛するが、そういう出自の人間でも、勘定所に入り、佐渡奉行を務め、勘定奉行まで昇ることが出来たのである。川路は、長崎に突如ロシア使節が来航してきた時、幕府を代表してロシア側と外交交渉に当たっている。
つまり、勘定所は、江戸期唯一最大のエリート集団だったのだ。この場合のエリートという意味も、現在のそれとは全く質的に異なり、社会を運営する実務が担える能力を持つリーダーというような意味になる。
代官は、この勘定所から赴任してくるのである。
徳川幕藩体制に対する誤解を解いておこうと考え、先ずは天領の話からと思い立ち、天領と言えば代官のことに触れざるを得ず、代官には時代劇などの影響で「悪代官」というイメージが沁みついてしまっていることを思って、ほんの前書きのつもりで始めた話が随分と紙幅をとってしまった。
私は、大名家臣団の血を引く「士族」の末裔であって、直参からは「陪臣」と蔑(さげす)まれた血筋である。従って、直参とは無関係どころか、彼らには何の義理もない。
しかし、彼らの一党である代官に対する不当なイメージを払拭しておくのも「武士の情」というものであろう。
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