五木寛之氏はえらい!
先の木曜日は、「とう骨神経の損傷による右手麻痺」第二回目診断日。結論は芳しいものではなかった。担当医曰く『半年はかかります。長期戦になります』
確かに、四月五日未明にトラブッてから二十日、右手には何の変化もない。つまり、機能は全く回復していない。物を食べるという行動にも苦労がつきまとうので、「美味しい」という実感もなく、その所為かここのところ頬が少しこけた気がする。もともと食べ物の量には身体が非常に敏感に反応するタイプで、食べる量が一定量を割り込むと簡単にげっそりとする。「痩せの大食い」と言われた若い頃には及ばないが、今でも割と量を食べるタイプで、量さえ確保されていれば頬はふっくらとしてきて我ながら気分が良いのだ。私の身体は、誠に単純な構造でできているらしい。情けない話で、フォークとスプーンでポツポツ食べる食事の味気なさが量を食べる意欲を削いでいる。
「踏んだり蹴ったり」「泣きっ面にハチ」・・・気力までもが衰えていたのか、滅多に罹病することのない風邪をひいてしまった。初日喉が痛み、二日目鼻水も酷くなり、三日目気管支までおかしくなって痛みと咳、これも珍しく市販の風邪薬を服用したら頭がぼ~として集中力が消滅、暑いような寒いような妙な気色悪さが続く。ここで今、仕事上の相手方がミスを犯して私を激高させてくれでもしたら、一気に何かが弾けて元気が出るような気がするのだが、見渡したところ、相変わらず忙しいだけで大きなトラブルは勿論、万事何事もなく、平穏と言えば平穏である。この調子では、私のぼけ~っとした状態はまだ続くとみなければならない。
長期戦になるというので、オーダーメイドのギブスをはめることとなり、型をとられた。取り外しも一人で簡単にできるという。「取り外し簡単」はいいが、ギブスのオーダーメイドとは一体何だ!? 何かをプレスするかのように「型」をとるって? それほど私は奇形か!? 製作に一週間を要するそうで、月末にまたそれを取りに行く。型取りの技師曰く、『ちょっと高価ですが』。君たちは、私のギブスをヴィトンかエルメスにでも発注するのか? それをやるなら、せめてバーバリーのブラック、ちょっと「なるい」がポール・スミスあたりにしておいて欲しい。
分室スタッフYからメールがきて、『おめでとうございます! 何にしてもオーダーメイド! 羨ましい!!』 そういう考え方するか!?フツー・・・。分室に電話をしたらKまでもが『おめでとうございます!』などという。二人のこの場合の「おめでとう」は、元に戻らない可能性もあった右腕が「全治六ヶ月」ということは「元に戻る」ことを意味するではないか、という理屈に拠っている。理屈としては解るが、心情がついていかない。私は、YやKが考えているより遥かに繊細で、情緒的な人間なのだ。加えて不埒なことに、Y曰く『オーダーメイドのギブスができ上がったらみんなで落書きします!』 こういうのと付き合っていると、治るものも治らないような気がする。
不自由な生活の中でたった一つ、まんざらでもないと感じることがある。風呂、入浴のことである。
実は私は、風呂、入浴が大嫌いなのだ。面倒この上ない。入浴は確かに気持はいい。入ってしまえば、身体は確かに気持はいい。しかし、入浴後は髪をドライヤーで乾かすなどの厄介な作業を行わねばならず、これらを全て終えて元の生活に戻るまでに凡そ一時間はみておかなければならない。たった一時間と考えるのは愚かというものだ。毎日入浴すれば、一週間で七時間もの生活時間が浪費されるのである。七時間といえば、忙しい時期の二日分の睡眠時間に相当する。何と「もったいない」ことか! 毎日入浴するという人の気が知れない。
人間が生きていく上で、睡眠は絶対必要であり、時間の多寡は別にして欠かすことはできない。睡眠と食事は、生存には欠かせない営みである。しかし、入浴はそうではない。生きていく上で絶対必要なことではなく、生活行動の大分類に当てはめれば「趣味・娯楽」の一つである。現実に、中世以前に人は毎日入浴などしていたか。こういうことを言えば、血行がよくなる、新陳代謝を活性化させるなどと健康上の効用を説く反論が押し寄せそうだが、恐らくそれは“錯覚”である。或いは、それがあったとしても大した程度のものではない。私にとっては、むしろ心理的負担の方が大きく、入浴しなければならないという切迫観念はかなりのストレスになっている。
かくして、私の入浴頻度は、もともと週に二回乃至(ないし)三回であった。入浴は面倒だが、洗髪をしなければならないので、何とか頑張って隔日に入浴することを目標にしてきたので三回が本来の目標回数であった。三回というのは、まず日曜日が基準となる。翌日が月曜日で人様と接することになるので、日曜日夜は入浴しなければならない。そうすると、次は火曜日、そして木曜日となる。木曜日の次は土曜日となるが、土曜日は原則として休日である。ならば、入浴は無駄である。そこで、木曜日の次は、中二日おいて日曜日となり、再び週三回のサイクルへ入っていく。
ところが、平日の火曜日、木曜日の夜に入浴という時間を割くことは、物理的にも心理的にもかなりの負担を強いられる。火曜日などは、今夜は入浴しなければならないと思うと朝から気分が重い。これに対して月曜日は入浴する必要がないので、昼間仕事をしていても気が軽く、特に帰宅してからは「さあ、何を片付けるか」と、実にポジティブな気分となる。つまり、入浴の有無は、人生に立ち向かう姿勢にまで影響を与える由々しき関心事であると言わざるを得ない。髪の具合がまだ良好な火曜日の夜、「ええい!面倒だ!明日にしよう」となることがある。そうすると、その週は日曜日と水曜日が入浴日となるのだが、このパターンが入り込んできてからというもの、これが実に合理的だと思うようになった。平日は五日ある。水曜日は、そのど真中である。前に二日、後ろにも二日、週の中日に入浴する。休日に一度入浴しておき、平日の中日に入浴する。もともと私は清潔家であるから、これで世間様との折り合いは十分つく。なかなか合理的なパターンだと思い始めたのが先月の後半に入った頃だったろうか。
それでも、まだどこか後ろめたい気持ちが残っていた。そもそもが火曜日の「ええい!面倒だ!」から始まったことである。どことなく、サボっているという自責の念が抜けきらなかったのである。ところが、右手麻痺という事態になって事は一変した。そもそも入浴すること自体が、無理なことになったのだ。左手だけでは、物理的に厳しいのだ。それでも無理をして水曜日と日曜日だけは入浴を敢行すると、大変な事業を成し遂げた気分になるのだ。本来なら入浴無しが当たり前のところを、自分は頑張って週に二回も難事業を成し遂げている。こうなると、後ろめたいどころか「自分にご褒美」をあげたいような誇らしい気分になるのだ。週二回入浴(シャワーだが)に何ら後ろめたさを感じなくなったことは、今回の右手トラブルによる唯一の福音と言えば福音である。
このことを思うと、五木寛之氏は偉い。
直接伺った訳ではないので真偽のほどは知らぬが、氏は風呂には殆ど入らないと聞く。一説には、風呂に入るのは盆暮か、せいぜい季節の変わり目程度だとも言う。こういう人になるともはやステージが違っていて、私のように自責の念にかられることなど微塵もないに違いない。やはり、私は凡人であり、氏は偉人である。
全てに於いてレベルは違うが、どうも私はこの人に似た点が幾つかある。一つが、この風呂のこと、一つが鎮痛剤に造詣が深いこと、そしていま一つが人間が艶歌風にできていることである。五木氏の代表的なエッセー集に『風に吹かれて』があるが、艶歌(演歌)風心情に満たされた人間でないとこういうタイトルは付けない。現実にこの人は、多くの演歌を作詞している。例えば、
星をさがそう(唄 北原謙二)
青年は荒野をめざす(唄 ザ・フォーク・クルセダーズ)
二人の海峡(唄 内山田洋とクールファイブ)
旅の終りに(唄 冠二郎)
愛の水中花(唄 松坂慶子)
夜明けのタンゴ(唄 松坂慶子)
四季・奈津子(唄 チェリッシュ)
あなたに逢いたい(唄 八代亜紀)
別れよう(唄 細川たかし)
内灘哀歌(唄 田川寿美)
女人高野(唄 田川寿美)
この世に人と生まれたからは(唄 森進一)
夜間飛行(唄 前川清)
星の旅びと(唄 石川さゆり)
ふりむけば日本海(唄 五木ひろし)
冬の旅(唄 倍賞千恵子)
などである。
風呂とは無縁に近い人のようであるから、湯につかりながら鼻歌交じりにアイデアが・・・ということはなさそうである。たぶんこの人は、原稿用紙を前にしてはじめて書くことが枡目から湧き出してくる・・・そういうタイプの物書きではないだろうか。
入浴などという一時の快楽に過ぎない「人生の無駄」を放棄した五木氏は偉い。五木氏のレベルからはほど遠い私としては、これを機会にせめて週二回にとどめることを堅持しよう。
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