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2009年10月24日 (土)

北斗の南(其の四 ~岬~)

青森県は、津軽半島下北半島、そして、僅かな平野から成る。後は、八甲田などを擁する山岳地帯である。下北半島は、斗南藩に因(ちな)んで「斗南半島」とも呼ばれ、また、その形状から「鉞(まさかり)半島」の異名をもつ。三方を海に囲まれるという珍しい地でもあり、同じ三方海に囲まれた本州最西端の地を占める長州によって、朝敵などという汚名を着せられた会津が最北のこの地に押しやられたことを思うと、今更ながらあの戊辰戦争とは何であったか、更にその終盤に於ける、ただ私刑(リンチ)を行いたいだけにやったような会津戦争の恨みというものを思わざるを得ない。この場合、恨みを抱くことは明らかに正当である。

維新の動乱という無意味な殺戮については、いずれ再び切り込むとして、北端の地であればこそ津軽・下北は、比較的平穏な時代が多かった。御一新後に於いてはただ一つ、大東亜戦争末期の米軍による無差別殺戮が、小さな地方都市に対してのものとしては気違いじみたとしか言い様のない規模の空爆によって行われたことを忘れてはいけない。終戦(=敗戦)直前の昭和20727日深夜硫黄島を発信した62機のB29M74焼夷弾を含む約九千本の爆弾を投下した。死傷者千八百名、消失家屋二万戸、直後の青森市街の写真が残っているが、見事に何もない。青森市街は、文字通り一瞬にして灰燼に帰した。M74焼夷弾は、可燃性の高いエリアにより有効とされた焼夷弾で、米軍はその威力を試すためにこの空襲を行った。現にB29は、仙台上空を敢えて通過し、男鹿半島を経て鯵ケ沢上空から青森に侵入するというルートをとっている。本州最北端、つつましい「北のまほろば」は、「どれほど良く燃えるか」ということを確認する実験場にされたのである。それは、原爆に於ける広島・長崎と全く同じことである。この惨劇も、元を質せば薩摩長州政府の造った国家体制が、アクセルばかりを踏み続けて欧米列強を目指して突き進んだ「果ての姿」と言える。

「まほろば」に戦は似合わない。悲しいことだが、ここでも津軽は、好戦的なアングロサクソンに殴られただけである。

再び、いや三度、歌を掲げる。

♪ ごらんあれが竜飛崎 北のはずれと

見知らぬ人が 指をさす

息でくもる窓のガラス ふいてみたけど

はるかにかずみ 見えるだけ

さよならあなた 私は帰ります

風の音が胸を揺する

泣けとばかりに

ああ 津軽海峡冬景色 ♪

三木たかし・阿久悠という名コンビ、歌唱;石川さゆりによる、ポピュラーな大ヒット曲である。

上に取り出したのは、二番の歌詞であるが、「竜飛崎」という地名が、東京で恋に破れ、「北斗の南」から青函連絡船で更に北へ帰ろうとする女の悲しさを一層深めている。石川は、これを「たっぴみさき」と唄っている。勿論、阿久悠がそう書いた。津軽半島最北端の岬のことである。正確には、「たっぴざき」と言う。しかし、正しい地名通り「たっぴざき」と書き、また唄うと字余りならぬ“字足らず”になってしまう。また、「たっぴみさき」とした方が、この場合はこの地名がより詩的となる。コピーライター;阿久悠としては“平凡な仕事”であるが、どうしても「竜飛崎」という地名を使いたかった彼の気持が伝わってくる。彼がこの楽曲で、津軽半島という言葉以外に点としての地名を使ったのは、この「竜飛崎」だけである。「竜飛崎」という一つの地名には、それほど詩的な重みがある。勿論、それは「最果て」の代名詞である。

余談ながら、石川さゆりという魅力的な歌い手については、確か書籍版で触れた記憶がある。イニシャルで登場させたことで気づかなかった方が多いだろうが、私の若い頃の予感通り彼女は演歌界を代表する歌い手までに大きくなった。

妙な因縁だが、この竜飛崎辺りまで長州テロリストの一人;吉田松陰が足を踏み入れたことがある。このことは、松陰の考えた日本国家の対外戦略と無縁であるとは思えない。彼は、この地から更に北方の樺太までを視野に入れていた。しかし、その対外戦略というのは誠に危険極まりなく、また稚拙なもので、朝鮮・台湾を属国と為し、北は樺太までを占領せよというのである。愚かなことに、薩摩長州政権は、その行き着く先に於いてこれをそのまま推進したのである。その結果、日本はどういう末路を迎えたか。そのことは、今や小学生でも知っている。

智の巨人と称される司馬良太郎という、私にとっては同学の大先輩は、この吉田松陰や、坂本竜馬勝海舟が「好き」である。「好意」をもっているのだ。そのことは、自らあちこちで述べ、書いている。私は、司馬さんに「智の巨人」という形容を付けることを誠に尤もなことであると思うし、この大先輩を心から尊敬している。しかし、松陰、竜馬、海舟に対する評価だけは、間違っていると確信している。もし、彼等をして御一新を成立させ、「近代日本」を成立させた人物として高く評価することが「司馬史観」というものの髄を為すものだとすれば、私は「司馬史観」なるものを否定せざるを得ない。

今はそのことはさておき、津軽半島・竜飛崎という岬のことである。源義経が、ここから蝦夷地へ渡ったという。勿論、民間伝承である。義経が奥州藤原氏の庇護を受けた史実から、東北、特に津軽・南部には義経伝説が多い。太宰治は、津軽に義経伝説が多いことを“ぼやいて”いる。

周知の通り、華々しく平家を討ち破った義経は、義兄;源頼朝に疎(うと)まれ奥州に逃れる。しかし、義経が平泉に逃れてきた文治三年(1187年)、義経の後ろ盾、奥州の覇者;藤原秀衡(ひでひら)が没すると、その子泰衡(やすひら)は、頼朝の義経追討令を受けて南部・衣川で義経を殺害する。秀衡が没して二年後のことである。後の世で義経の悲劇を人々に広めたのは『平家物語』である。言うまでもなく、それは書物によってではなく、琵琶法師の弾き語りという形をとって広まっていく。読み物としては『源平盛衰記』があるが、『平家物語』と『源平盛衰記』のどちらが先に生まれたかについては諸説があり、今なお決着はついていない。そして、室町時代に入ると『義経記』が生まれる。この『義経記』に至って初めて義経が主人公となるのだが、何せ義経が没して二百年以上経って成立したものであり、記述に矛盾点なども多々存在するところから、資料的価値は殆どないとされている。しかし、『義経記』なるものが生まれた背景を考えると、義経の一般的人気というものが義経没後、さほどの年月を経ず生まれていたと考えていいだろう。つまり、世に言う「判官贔屓」は、永い歴史をもっているということになる。ところが、“困った”ことに、『平家物語』に拠っても、『義経記』に拠っても、義経は衣川で死んでしまうのである。奥羽には義経贔屓が特に多かったようで、その後「いや、判官は死んでいない」という人々の願望とも言うべき伝承が、口移しに伝えられていくことになる。つまり、口碑である。津軽・斗南の重い雪の下で、人々は脈々と「義経のその後」を語り継いできたのである。そして、この地の人々は、遂に義経を竜飛崎のある津軽半島北端の村、三厩(みんまや)村から蝦夷地へ渡らせてしまったのである。

それで終わった訳ではない。かつて売れに売れた高木彬光という推理作家をご存じだろうが、氏の作品に『成吉思汗の秘密』がある。実は、成吉思汗(ジンギスハーン)は義経である、という話を、お馴染み;神津恭介がアームチェア・ディテクティブの形式で立証していく話である。これは、実に面白かった記憶がある。最終的に神津恭介は、ある女性の協力によって成吉思汗という名前そのものに決定的なヒントが隠されていることに辿り着く。「成吉思汗」・・・これを漢文読みすると、「吉成りて水干を思う」と読める。「汗」は、サンズイに干、つまり「水干」である。そして、周知の通り「水干」とは白拍子の衣装である。義経と白拍子・・・即ち、「水干」とは義経が愛した白拍子;静(静御前)を意味している。義経と静は、雪の吉野山で別れた。静は歌を詠む。

吉野山 峰の白雪踏み分けて

入りにし人の跡ぞ恋しき

歌を詠みかけられたら返歌を贈るのが往時の常識。シンギス・ハーンとなった義経は返した。「吉野山での誓いが成って、静よ、お前のことを思っている」

つまり、「成吉思汗」という名前そのものに、『成吉思汗の秘密』が隠されているというのである。義経とジンギス・ハーンの背丈、軍旗の共通点、「八紘一宇」の意味などを順次解いていった最後に、この名前の秘密を明らかにするものだから、少年にとっては大変な説得力があったのだ。

余談ながら、義経=成吉思汗説そのものは、高木氏の創作ではない。本格的なものは、大正十三年に発表された小谷部全一郎氏の『成吉思汗ハ源義経也』である。更に、説そのものは江戸期から存在した。『大日本史』という歴史的な愚書を編纂した水戸藩・水戸光圀(水戸黄門)などは、その編纂作業の一環として蝦夷地まで調査船を派遣している。

因みに、私の母と同年の高木彬光氏は、青森市の生まれである。氏もまた、津軽の人だったのだ。

岬の先は、未知の世界である。津軽半島の北端が竜飛崎なら、斗南半島(下北半島)の北端は、大間崎であり、東端は尻屋崎である。そして、大間崎は、本州最北端に当たる岬である。これらの岬の北は、北斗であってもはやヤマトではないのだ。今、大間崎から北海道・汐首岬まではぜいぜい十数キロである。だが、往時の津軽・斗南の人々にとって、未知の北斗は、どこまでも未知の世界であったろう。未知の世界までの距離など誰にも分からない。

やはり津軽出身の異能の人;寺山修司は、肝硬変による死期を悟った時、距離をタイトルとして綴った。

『墓場まで何マイル?』

――寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。ホステスの万理さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。従弟の辰夫は刺されて死に、同人雑誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。同級生のカメラマン沢田はベトナムで流れ弾に当たって死に、アパートの隣人の芳江さんは溺死した。

私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、十分。――

岬から常に外界を、未知の世界を、眺め、夢想していた人々の生きてきた「北のまほろば」とは、実に言の葉の豊かな国であり、「言の葉のまほろば」と呼ぶべき地である。

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