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2009年11月20日 (金)

再び、薩摩を想う(其の五 ~無利子・二百五十年払い~)

薩長政権サイドの勝手な表現ながら「幕末の四賢公」と称されたその一人、開明派の名君と評される薩摩藩;第十一代藩主(島津家当主としては第二十八代);島津斉彬(なりあきら)、お由羅の方を母とする斉彬の異母弟;島津久光、斉彬の襲報を避けて久光に藩主の座を譲りたかった二人の父;第十代藩主;島津斉興、強引に薩摩藩の財政を見事に立て直した家老;調所広郷(ずしょひろさと)、奥小姓にして槍奉行を務めた赤山靱負(ゆきえ)、船奉行;高崎五郎右衛門。「お由羅騒動」に登場する主な顔ぶれである。家中は既に久光派と斉彬派に二分されており、西郷・大久保は斉彬派であった。但し、この騒動の時点では、西郷も大久保もまだ端役ですらなかった。

藩主;島津斉興は、悔恨と確信の狭間に身を置くだけで、ひたすら悩んだことであろう。斉彬の将軍家お目見えを早々と済ませたのは、間違いであった。これが、唯一最大の悔恨である。我が祖父に憧れる嫡子;斉彬が跡を継げば、祖父と同じ「蘭癖」である斉彬は、せっかく家老;調所広郷が立て直した財政を再び悪化させ、島津家は再び困窮するに違いない。これが確信である。そうすると、結論は自ずと絞られる。お由羅の子;久光に継がせたい。いや、家中の為にも、そうあるべきだ。

家中の重臣の殆どは、久光派であった。郷士以下の、百姓に近いような身分の者や若手が斉彬派を占めた。年を食っている重臣は、かつての財政破綻による困窮を知っている。お家の為には斉彬を何としても排すべきであるとする。一方、日頃から、節約、倹約、質素ばかりを年寄りどもから説かれる若手はうんざりしている。重臣たちが推す久光に反発し、開放的な斉彬に期待する。両者の反目は、一種の世代間抗争でもあった。久光派と斉彬派に藩を分裂させた大きな背景要因が、島津重豪(しまづしげひで)時代以来の財政破綻であった。世に「高輪下馬将軍」と評され、田沼意次とも親しかったこの島津重豪という藩主は、名君と評価されることもあるが、薩摩藩を破綻させたことは紛れもない事実である。藩校「造士館」の設立、清武館天文館の設立など、教育分野での事績は多い。尤もこれらにも多大な支出が伴った。医学院も設立し、医療の研究にも力を注いだ。自らローマ字を書き、真偽は分からぬが、オランダ語を話したとも伝わる。曾孫の斉彬を可愛がり、一緒にシーボルトと会見したこともある。大変な酒豪で薩摩領内に酒の相手をすることが出来る者が何人いるかと言われたほどであり、六十八歳の時に子を設けている。つまり、肉体的にも驚異的な絶倫ぶりを発揮した豪傑である。当然、やたら側室が多く、はっきりしているだけで十二~十三名はいる。中には、母子ともども側室になった者もいる。これが、「蘭癖大名」の筆頭とされた島津重豪という藩主である。斉彬は、この大爺さんの影響を強く受けた。重豪は、今日の満年齢で言えば、米寿まで生きた。正確には、米寿まであと僅かというところであったが、現代に置き換えても長生きしたと言える。こういう男であるから、実に野放図に金を使った。「大名貸」が金を貸すことを断ったというから、これは半端ではない。遂には、現代の「ヤミ金」のような高利貸からも金を借りた。十一(といち)の世界へ踏み込んだ大名というのも珍しい。その過程に於いて、緊縮財政路線を採ろうとした「近思録」派の樺山主税らを切腹させている。(近思録崩れ)孫の島津斉興を藩主に擁立したのは、嫡子;島津斉宣が緊縮財政路線に転換しようとしたからである。嫡子を隠居させ、その家臣を切腹させ、孫を藩主に任じ、自らがいつまでも実権を握り続けた島津重豪。そこまでして次々と側室を設け、金を使い続けようとしたその散財ぶりは筋金入りであったと、もはや“感服”するしかない。天文学をも奨励した重豪であったが、彼の残した借金五百万両も“天文学的”数字であると言わざるを得ない。これではいかん、と彼が財政再建を目指して調所広郷を抜擢したのは、その最晩年のことである。

調所の荒っぽい財政改革は、重豪が藩主に据えた孫の島津斉興の治世下で行われた。そして、天文学的規模の借金からすれば比較的短期間に財政を立て直してしまったのである。その結果だけからみれば、鳩山政権にもこういう財務大臣が欲しいところであろう。そうすれば、鳩山氏以下が金科玉条としているマニフェストやらも修正しなくて済む。もっとも、現政権下に於いても「事業仕分け」とやらで、何とか三兆円という財源をひねり出そうとしているが、断片的に伝えられるところを見るだけでもかなり荒っぽいことをやっている。ある時は仕分け人の多数決、ある時は完璧に多数決無視。文部科学省関連の事業になると、思想信条丸出しの攻め合いといった按配で、基準などありはしない。しかしまぁ、霞ヶ関はこれまで散々「公」ということを無視し、ある時は私欲に動かされ、ある時は単に怠惰によって、国家を運営するという志など微塵ももたずに日々を過ごしてきたのであるから、ここで一時(いっとき)、仕分け人の論理が無茶苦茶であれ、その手法もまた独善的であっても、それによって瀕死に陥るまで叩かれるのもよかろう。内閣総理大臣自らが「平成維新」を唱えているのだから、言葉の意味からすれば犠牲者が百人・千人単位で出ない方がおかしかろう。一興というものである。しかし、薩摩の調所広郷は、もっと荒っぽいことをやった。

調所が家老に就任した時、薩摩藩がおおよそ五百万両という、膨大、莫大な借財を抱えていたことは何度も述べた。貸し手は、初期は「大名貸」や大店(おおだな)の商人である。その後は「ヤミ金」のような高利貸しか藩の相手をしなかった。調所は、彼ら貸し手を恫喝した。調所は、各地の地頭を歴任し、町奉行を務めたこともあり、家老にまで昇り詰めて後も志布志郷の地頭を兼務していたほどで、藩内至る所の行政現場を知悉している。彼の勢力下には、いろいろなルートに、領民にとっての権力者が散らばっている。そういう実力家老が恫喝するのである。調所は、もともと「城下士」の息子である。薩摩の武家階級は細かく家格が分かれており、これについては後の稿に譲るが、「城下士」という家格は上位に属するが、本来は家老になれる家格ではない。薩摩という家中は、やたら武家の多いところで、幕末の士族は約四万三千戸という記録があり、他藩に比べてセロが一つも二つも違うほど武家が多い。国中武家だらけ、といった様相があり、従って「外城士」の末端の家は、殆ど百姓に近い。「御一門」(四家)から数えて、「城下士」の末端が順位を付ければ四千番前後であろうか。それでも、上位一割に入る家格である。そして、調所は「城下士」の家に生まれたにも拘わらず家老に抜擢された実力者である。これに脅されては抵抗出来るものではない。

但し、恫喝したとはいっても、調所は借金を棒引きさせた訳ではない。そこは武家である。今の大企業とは訳が違う。平成の大企業は、直ぐ公金の投入と借金の棒引きをセットで要求する。調所は、大名貸をはじめとする貸し手に対して、借金は払う、とした。但し、無利子とすること、二百五十年払いの分割払いとすること、これを認めさせたのである。繰り返すが、分割で支払うのはいいが、二百五十年の分割である。これを認めさせたのが、天保六年(1835年)とされるから、完済するのは何と西暦2085年となる。不敬と謗(そし)られるかも知れないが、そこまで「平成」は続いていないであろうから、西暦でしか表現しようがないのだ。今年から数えても、まだ七十六年、つまり人一人の一生分残っているのだ。しかし、脅迫して成立させたとはいえ、約定は約定、藩は毎年“誠実に”返済を続けた。その後、三十五年間に亘って支払を続けたのである。言い換えれば、三十五年しか支払わなかった。何故、三十五年間で終わったかといえば、廃藩置県という天地の引っくり返るような大変革が起こり「藩」というものが消滅したからである。約定を結んだ片方の存在そのものがなくなった、ということである。そして、新政府が明治五年(1872年)、旧薩摩藩の債務の無効を宣言してしまったのである。これでは、貸し手は踏んだり蹴ったりではないか、と言われそうだが、実はそうでもない。薩摩藩の“お家芸”は、密貿易である。調所は、琉球を通じて行っている密貿易を、交換条件として貸し手に優先的に扱わせ、彼らはそれによって大きな利益を上げることが出来たのである。調所のような人物を、酸(す)いも甘いも噛み分けた~と言うのかも知れないが、評価していいのか、批判すべきか、よく分からないという人物であった。しかし、家老就任の目的に照らせば、現代流に言えば「結果を出した」のである。調所は、奄美大島や徳之島などの砂糖を専売制にしたが、現地の農民に対しては徹底して買値を叩き、藩は大きな利益を出した。これにも利権を絡ませたことは言うまでもない。島の農民にしてみれば、調所は「極悪人」であった。一方で、薩摩焼の増産に力を入れ、朝鮮人陶工の生活改善に尽力したという事実もある。薩摩焼の生産地では調所の招魂墓を建て、密かに祀り続けたという。

こういう人物であるから、藩論が久光派と斉彬派に分裂した時、調所は当然久光派に与(くみ)した。財政を建て直し、藩の金庫には相当な蓄えも作った。これを、また蘭癖の斉彬が藩主になって食い潰されては堪らない。二百五十年払いが三百年にもなりかねない。当然、調所は、久光派の中心人物と目されるようになった。斉彬派の中心人物は、斉彬自身であったと言っていい。斉彬は、「藩主(父)斉興隠居、調所失脚」を目的として、遂に動いた。嘉永元年(1848年)、斉彬は何と幕府老中;阿部正弘に藩の琉球経由密貿易を密告するという手に出たのである。これは、一種の賭けとも言うべき手段と言える。それほど斉彬派は、藩内では劣勢であったという証左である。薩摩藩が悪名高き琉球攻めを行ったのは、徳川幕府成立も間もない慶長十四年(1609年)のことである。家康は、この出兵に暗黙の了解を与えている。薩摩藩の密貿易は、この出兵直後から行われ続けてきた“歴史”をもち、言わば公然の秘密である。老中;阿部正弘にしても初耳であったとは思われない。しかし、江戸社会というのは職人技で建てられた、一見大黒柱のない五重塔のような、いつ倒壊してもおかしくないようで決して倒れない高層建築のような微妙かつ精緻な社会であって、KYでは世渡り出来ない、うまく出来た社会である。公然の秘密ではあったが、証拠を掴まれてはいけない。証拠を掴んだ方が、それを放置することは出来ないのである。江戸期を通じて多くの、時代劇でいうところの公儀隠密、つまり乱破(草)が薩摩に侵入したが、薩摩藩はこれらを見つけ出すと必ず殺した。決して生きては返さなかったのである。知る限りでは、生きて帰ったのは、探検家として知られる間宮林蔵ぐらいである。しかし、表向き堂々と「密告」という形をとられると、これはもう「建前」の次元で対応せざるを得なくなる。阿部は、やむを得ず薩摩藩家老;調所広郷から事情聴取を行った。ところが、その直後、調所は芝の江戸藩邸で急死する。嘉永元年暮のことである。これは、服毒自殺説したものとする説が有力である。言うまでもなく、藩主斉興にまで糾問の手が及ぶのを防ぎ、責任を一人で被ったものとされる。

この一件は、島津斉彬が事前に老中;阿部正弘と図って実行した可能性が高い。阿部にはまた、島津家は斉興より斉彬の方がいいという事情があったのである。斉彬が派手に切って落とした「お由羅騒動」の序幕は、調所の排斥には成功したものの、父;斉興の隠居には至らず、斉彬の敗北に終わった。

二百五十年払いも長過ぎるが、そういう長期分割払いをもたらした財政破綻を背景とするこのお家騒動も、簡単には決着せず、若干長引く。また、次稿が必要になった次第である。

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