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2009年12月19日 (土)

再び、薩摩を想う(其の九 ~武家による武家の為にあらざる御一新~)

廃藩置県という日本史上最大の変革と言ってもいいクーデターは、実に奇妙な“革命”である。既に述べたように、大政奉還戊辰戦争も廃藩置県に比べれば、史上よくある出来事と言うことも出来るが、廃藩置県はその現象についても意味に於いても政権の移譲や内戦とは次元が違っているのだ。鎌倉以来七百年に及んだ武家の支配体制とそれに付随する社会体制を根底からひっくり返したのである。その点で、御一新とは突き詰めれば廃藩置県のことであるという答案用紙があれば、私はその回答者を躊躇なく合格とするだろう。

これを理解する前提として、江戸期の政治体制、即ち幕藩体制に対して誤解があってはならない。いつも紙幅の限界に慌てて稿を閉じているので、今回は簡略に述べることに留意するが、幕藩体制とは大名連合であるとみるべきなのだ。大名連合の筆頭が徳川家であって、諸国の大名が徳川家と主従関係にあったなどという誤解をしてはいけない。徳川家と主従関係にあったと言ってもいいのは譜代大名直参のみである。「譜代の臣」という言い方があるが、江戸期の譜代大名とは、狭義には関ヶ原以前から徳川家に臣従していて、戦後大名として取り立てられた武将を言う。徳川家に臣従した時期によって「安祥譜代」「岡崎譜代」「駿河譜代」に細分化される。「安祥譜代」は、石川家大久保家など七家、「岡崎譜代」は、井伊家榊原家など十六家とされている。直参というのは、徳川家の直轄軍であり、旗本御家人に別けられる。両者の違いは、お目見えかそうでないかの違いであり、俗っぽく言えば、これは司馬遼太郎さんがよく使う表現だが、旗本が士官、御家人が下士官といったところであろうか。細かく言えば、御家人は馬には乗れず、屋敷に門を構えることも禁じられている。譜代大名は外様大名に比べて石高は小さいが、老中などの幕閣に就くという格をもっている。直参旗本も、石高は最大でも五千石位であるが、二千石の旗本と言えば家格は十万石の大名に匹敵する。婚姻関係は、こういう家格によって成立するから、二千石の旗本家が十数万石の大名から嫁を娶るという実例は多々存在する。既稿にて合戦に於ける「備」のことを述べたが、旗本という言葉からも判る通り、「本陣備」を構成した直轄軍将士が直参旗本となったと考えて差し支えない。

こういう直参を配下として、大名連合の盟主の座に徳川家が位置していた。そして、徳川家に対するロイヤリティの高い譜代大名が、要衝の地に配されて連合の安泰を図ったのである。安直な歴史教育のお陰で、ややもすると徳川家が絶対君主として全ての大名の上に君臨したと思いがちだが、それは全く違う。幕藩体制とはあくまで大名連合であって、八百万石という巨大な所領を背景に徳川家が連合を牛耳っていただけである。主要な外様大名の石高が高いのも、連合の安泰を図る徳川家の政略に過ぎない。徳川家は、外様大名に対して江戸期二百七十年の間、全く油断をしていない。常に連合の破綻を防ぐべく、さまざまな策を講じてきたのである。近江という要衝の地に譜代;井伊家彦根藩を置いたのも、山陽道の堰(せき)として姫路城に池田家を配したのも、大坂城に大坂城代を置いたのも、西を警戒してのことである。西とは、どこを指すか。毛利と島津である。この明々白々とした事実は、幕府成立時の政治状況から、即ち豊臣末期の勢力関係からみて、六十余州の諸侯にとっても共通認識であった。特に、島津の豊臣期以前からの独立性というものは、豊臣秀吉にとっても徳川家康にとっても、これをどう扱うか、具体的にはどのように寄らしめるかが、天下安寧の要諦であった。姫路・彦根の位置づけより更に重要であったのが、薩摩の真上;肥後である。秀吉も家康も、まず肥後を以て薩摩・島津家に対する押さえとした。この状況を司馬遼太郎氏は、『肥後を以て薩摩の蓋とした』という表現をする。島津を封じ込めた最西端の地の閉じ込め、肥後がその蓋の役割を果たすという意味である。このことから、薩摩人にとって肥後という隣接する国はただのお隣さんではなく、特殊な感情の対象となる。この、薩摩と肥後の心理的関係というものを理解しておかないと、「西南の役」の解釈も誤ることになり、現に歴史学者などにも堂々とその誤りに気づかず役に於ける薩軍の戦略を云々している方が結構おられる。肥後については改めて一稿を設ける必要を感じているが、もともと「難治の国」と言われたこの地に、秀吉が何故加藤清正を充てたかということを想えば、自ずと両国の関係も理解できるようになる筈である。司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズに「肥薩のみち」があるが、その中から以下の唄を孫引きさせていただく。

肥後の加藤が来るならば

焔硝肴(さかな)に団子(だご)会釈

団子は何たど鉛団子

それでも聞かずに来るならば

首に刀の引出物

肥薩の県堺;久七峠を越えて薩摩へ入れば、そこは大口郷である。大口のご年配の方なら、この唄を耳にされたことがあるものと思われる。

さて、江戸幕藩体制に於いて、大名連合を政治的に支配していたのは徳川家という武門一族郎党である。諸大名は、八百万石という徳川家を相手にすることは「天下の軍勢」を一手に引き受けることになる公算が大きいから、連合に留(とど)まっていただけである。根強い誤解を多少でも溶解させるために、敢えてこういう言い方をさせていただく。諸大名は諸大名独自に己の領内の土地・百姓を、盟主;徳川家による制約を受けながらも独自の支配コンセプトを以て支配していたのである。つまり、幕藩体制の担い手は武家であって、その体制は武家のための体制である。この体制では、今日で言うところの国民とか市民という存在は、概念上も存在しない。百姓が一定の土地に付属して生産を継続しないと、武家の生活は成り立たないのである。

ところが、外圧を感じて中央集権への必要性が痛感され、やむなくクーデターの形をとって断行された廃藩置県は、こういう武家の在り方そのものを一気にひっくり返したのである。これをやったのは、武家である。長州の伊藤や山縣を武家とするのは微妙であるが、本人たちは武家のつもりでいる。わざわざ「藩」という公式用語まで創って、僅か二年でそれを中央集権体制に基づく「県」へと生まれ変わらせたのは、「藩」に拠って生きてきた武家自身なのだ。武家が自ら武家の生き方そのものを抹殺したのである。廃藩置県の意味も意義も、そしてその歴史の上での重要性もこの一点にあるのだ。大政奉還や戊辰戦争はともかく、この廃藩置県だけはまさしく「革命」であったと言えるだろう。簡略に言えば、人口の僅か七パーセント程度とはいえ、鎌倉から数えれば六百七十余年の長きに亘って維持されてきた武家支配という社会の基本的な骨組みを、それを維持してきた武家自身が葬ってしまったということになる。無血革命という言葉があるが、この変革は真っ赤な血を流す多くの動乱よりも次元を異にする大きな世替わりであったのだ。不思議なことに、この時抹殺される階級に属していた武家が蜂起し、廃藩置県を阻止する目的で乱が勃発し、内戦が発生したということもなかった。人類の歴史上、極めて希有な事例と言わざるを得ない。

しかし、太政官政府(大久保政権)はと言えば、当然これを恐れていた。そこで、それを未然に防ぐために「完全失業」する武家に対して手当を支給した。約二百七十名の大名に対しては、家禄の十分の一を支給することにした。これは一時金ではなく、毎年支給される。これは、まずまず分のいい話で、藩主にとっては常に財政問題に悩まされてきた苦痛から解放されるという側面もあった。大反乱が起きなかったのも、この大名手当とも言うべき経済支援策があったからだと言ってもいい。問題は、直参旗本や御家人、そして各藩の藩士である。つまり、大名ではない普通の武家である。太政官政府は、彼らに対しては一時金を支給した。「家禄奉還金」と呼ばれた一時金で、大体家禄の数年分である。これを使って、商いを始める武家もいたのだが、大概は失敗した。「武家の商法」という言葉があるが、これは当時の流行語である。旗本の娘が、吉原で花魁になったという話も残されている。

今、NHKがスペシャルドラマと銘打ち、『坂の上の雲』を放映しているが、このドラマの軸となる三人の人物、秋山兄弟、正岡子規は、伊予・松山藩十五万石の士族である。両家とも士分と言うにはギリギリの身分であって、大小姓;正岡家の方が僅かに上位と考えていい。それでも家禄は、十四石に過ぎなかった。この、十四石という家禄の下級武家が明治八年に支給された家禄奉還金は、千二百円である。大金である。これをどう使うかで、失業した武家の運命が分かれた。正岡家では、この大金を子規の父親が亡くなっていたこともあって母方の実家が管理したと伝わる。そして、幼くして家督を継いだ子規が身を立てるまで、この金で細々と生きるという生き方を選択したのである。当時の士族の子弟たちが身を立てるということに必死になった背景には、こういう経済事情がある。ドラマでは、子規の看病のこともあって母と妹が上京してきたことになっているが、実は千二百円が底をつき、子規を頼らざるを得なかったのである。今で言えば、小学生であった子規が大学予備門に入る頃までこの千二百円で生きられたという事実によって、当時の千二百円の価値が理解できるであろう。秋山家はもっと酷(ひど)い。秋山家は、家禄十石の徒歩(かち)である。家禄奉還金は、千円には届かない。ただ、兄弟の父;秋山久敬に多少学問があり、新しく出来た県の下級職員の職を得ることが出来たために飢え死を免れたと言っていい状況であった。しかし、好古(よしふる)・真之(さねゆき)二人を学校に入れるなどということが出来るゆとりはなく、兄;好古は、新しく開校した松山中学にも行けず、やはり士族が開業した風呂屋で風呂焚きのアルバイトをして本を買った。日当は、天保銭一枚であったと言われている。秋山好古も実之も学費の要らない学校へ進んだ。陸軍士官学校海軍兵学校である。余談ながら、子規と一緒に大学予備門へ入った弟;実之を海軍兵学校へ転校させたのは、兄;好古である。

斯様(かよう)に廃藩置県に遭遇した士族は、困窮した。しかし、秋山家はまだ恵まれていた方である。父;久敬が“地方公務員”(官員)の職を得て、奉還金の目減りスピードが正岡家より緩やかだったのである。秋山好古は、日当天保銭一枚とはいえ、それを家計に入れるまでには困窮しておらず本が買えたのである。各地には、もっと困窮した武家が溢れていた。秋山家や正岡家の周囲にもいた。松山藩士;土屋久明は、子規の漢学の師でもあったが、家禄奉還金を「殿様から頂戴した金」だと言い、それが尽きるまでは生きると公言し、事実、それが尽きて餓死した。妙な言い方だが、覚悟の上の餓死と言えるだろう。私は、これも一つの武家の佇まいだと思っている。「明治六年の政変」以降、次第に「没落士族」の不満が社会に充満した。彼ら「没落士族」は「不平士族」へと変貌していく。「不平士族」という言葉もまた、当時の流行語であった。

武家の手による、武家の存在を抹殺する廃藩置県という「革命」は、大規模な抵抗もなく不思議なほど穏便に実行された歴史上の大変革であるが、存在を否定された武家に全く不平不満がなかったということではない。「明治六年の政変」や廃刀令が直接のきっかけになった感があるが、背景にあった極端な欧化政策も影響している。昨夜まで「復古」「攘夷」を旗印にしておきながら、夜が明けた途端に百八十度転換し、卑しいほどの西欧崇拝を新しい「お上」が押しつけたのであるから無理もない。明治の欧化主義は後々まで続くことになるが、「西南の役」の五年後に浮世絵に憧れて来日したフランス人;ジョルジュ・ピゴーでさえ、十五年以上の滞在の後、嫌気がさして離婚までして日本を去っている。彼の妻は、士族の娘である。

不平士族は、当然反乱を起こすに至る。「佐賀の乱」(明治七年)、「神風連の乱」(明治九年)、「秋月の乱」(明治九年)「萩の乱」(明治九年)などがそれである。しかし、これらは「佐賀の乱」(江藤新平・島義勇)を除いては、いずれも勢力としては百数十名から二百名強という小規模な反乱であった。熊本鎮台広島鎮台の幾つかの連隊や大隊が出動して簡単に制圧している。この反乱の流れが、後の自由民権運動に姿を変えるのである。即ち、自由民権運動とは、純粋に「自由」と「民権」を求めて発生したものではなく、本意としては士族特権廃絶に対する反発、長州閥の専横に対する抵抗であったのだ。そのことはひとまず措くとして、不平士族の最後の反乱が「西南の役」であった。武家の手による武家のためにあらざる御一新は、遂に伝統的な“独立国”;薩摩の中央政府に対する反乱を引き起こしたのである。

田原坂への道には、不平士族の発生と困窮、極端な欧化政策への反発、薩摩と肥後の歴史的関係、征韓論の真実、関ヶ原以来の怨念等々、さまざまな武家の思いと思惑、生態が転がっているのだ。そして、「西南の役」によって確実に一つの時代が終焉を迎えるのである。

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