木村摂津守の場合
依然として「武家の佇まい」というものにこだわっている。
幕臣;木村芥舟(かいしゅう)、通称;木村勘助。官位が摂津守であったところから、木村摂津守として広く知られている。温和な人柄で知られたが、なかなか腹の据わった旗本である。因縁浅からぬ御家人;勝海舟と、一字しか違わぬ同じ名前であったというのも、それこそ因縁と言うべきか。
この人を「目付」として登用したのは、老中;阿部正弘である。この時、木村はまだ二十六歳という若さであったが、昌平坂の先輩格;岩瀬忠震の強力な推薦があったと伝わる。木村は、直ぐ長崎海軍伝習所の「取締」として長崎に赴任することになる。安政四年のことであるから、戊辰戦争の十年前のことである。この長崎時代に、ライケンやカッティンディーケらと交友関係をもったことが木村を交際人にしたと言えよう。
長崎海軍伝習所は、木村が赴任する二年ほど前に開設された幕府の海軍士官養成機関であるが、木村が赴任する前はとても教育機関とは言えなかった。学びに来ていたのは、幕臣だけでなく肥前佐賀藩、薩摩藩、津藩、肥後藩、長州藩、福山藩などから幅広く遊学生を受け入れていたのだが、学生たちの風紀がすこぶる悪く、彼らは殆ど丸山遊郭に入り浸るという毎日を過ごしていたのである。この中には勝海舟もいた。一つには、前例のない幕府機関であったところから、長崎奉行所が彼らをどう扱っていいか分からなかったということもあったようだ。遠慮があったのだ。ところが、さすがに木村は旗本、物事の判断基準というものをもっている。風紀の取り締まりを厳しく行った。ただその際、宿舎を広げたり、所謂待遇改善というか、学ぶ環境の改善に意を配ったのである。操船訓練の海域も随分と広くした。
勝海舟は、その恩恵を受けて海事知識を得た人間である。ところが、そう感じないところがこの男の器量の劣るところで、それは所詮根が武家ではない勝の限界とみていい。
徹底した官軍教育を受けてきた私どもは(現在もそうなのだが)、勝が咸臨丸を率いて初めて太平洋を横断した“偉業”を、いやと言うほど叩き込まれている。江戸城の無血開城と併せて、勝を偉人として崇(あが)める教育を受けてきたのである。実はこのことが史実と大いに違っているのだが、勝海舟好きの司馬遼太郎さんまでが勝の「えぐい」性格を指摘しながらも『勝の場合は許される』などと訳の分からぬことを述べている。
確かに、江戸社会は身分制の社会であり、それがかなり緩んでいた幕末期とはいえ制度としてそれが消滅した訳ではない。長崎海軍伝習所に取締として赴任してきた木村は、勝より若かった。確か、六、七歳年下である。木村は、旗本として決して高位の家の出ではないが、長崎海軍伝習所の取締に就くことのできる程度の家格の旗本であった。ところが、勝は、自分より若い木村が取締として江戸から赴任してきたこと自体が気に入らない。勝は、カッティンディーケの信頼が篤かったとはいえ、正確に言えば学ぶ立場である。木村は、勝らが学ぶ機関の運営責任者として赴任してきている。土台、立場・役割が違うのだ。これが理解できないところが、勝の人間的欠陥なのだ。
例えば、福澤諭吉は、木村の「従者」「中間」のような立場で咸臨丸に乗船を許された。そうでもしなければ、乗船できなかったからである。世の中ではこういうことを「方便」と言う。福澤は、航海中当然そのように振る舞う。ところが、木村は、福澤と二人きりになると福澤のことを「先生」と呼んだ。木村と福澤は、世間・社会と折り合いをつけながら、双方の人間としての真の力というものを認識し合って、終世付き合ったのである。勝海舟という男には、そういう器量が全く備わっていない。何でも「俺が~」「俺だけが~」の男であって、木村も厄介な学生を抱えたものである。
幕府は、この国の海軍行政の確立を木村に賭けた。長崎から木村を呼び戻し、「軍艦奉行並」という身分を与えたのである。安政六年、日米修好通商条約が締結されるが、その批准書をアメリカに届ける使節団が編成される。正使は新見正興。この正使一行は、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米することになった。この一行に、大老;井伊直弼が小栗上野介を「目付」として抜擢、乗り込ませるのである。この時、長崎海軍伝習所が練習艦として使っていた咸臨丸を随行させることになった。この一件について、勝海舟が建議して実現したとされているが、勝はこういうことを建議できる立場にはない。これを建議したのは、軍艦奉行;水野忠徳とされる。或いは、勝はその実現を運動したかも知れないが、“上司”に何かを意見具申してそれが実現するという例なら他にも幾つもある訳で、勝に関しては何でも勝の功績にするのが官軍教育というものである。咸臨丸の随行が決まると、幕府は木村を遣米副使とし、軍艦奉行に任じて咸臨丸の“司令官”とした。アメリカ側はこの時、木村を「提督」と位置づけている。
蛇足ながら、提督とか司令官という立場は、軍の身分の裏付けをもつ職制呼称である。艦長も同様である。例えば、巡洋艦の艦長は、大概大佐という身分クラスの者が任命されるといった具合である。日本海海戦に於いて、聯合艦隊司令長官;東郷平八郎は旗艦「三笠」に乗った。この時、東郷の身分は海軍大将(前年、大将に昇格したばかり)であり、“職制”が司令長官である。当然、三笠には三笠の艦長がいる。
勝海舟にどの程度の海軍知識があったか分からないが、勝は、木村が自分の上にくるのが不満であった。単に不満だけならまだしも、この男は直ぐふて腐れる。この時、勝は咸臨丸の艦長であり、与えられた身分は「両御番上席」というものである。この身分について私どもは簡単には理解しづらいところがあるが、司馬さん自身が勝の身分、出自からすれば『家門の名誉としてもいいほどのもの』であったとしている。更に氏は、次のように述べている。
『勝は艦長であるからにはもっと高い身分を考えたかも知れませんが、まあこれでいいかとも思ったはずです』(NHK)
と述べている。つまり、勝が駄々っ子のようにふて腐れたのは、艦長である自分の上に“司令官”(当時の呼称では「船将」=アドミラル)として木村が任命されたからなのだ。勝の思考には、全長四十八メートル、幅九メートル、排水量六百二十トンという小さな咸臨丸のことしか入っていないのだ。木村は、幕府が派遣する遣米副使である。国家を代表する外交使節としての任務を帯びているのだ。己の上昇欲求に支配されている勝には、そういう当然の視野が欠落しているのである。木村が乗るなら、操船は木村摂津守様にやらせろ、とか、部下が指示を仰ぐと摂津守様に聞けばいいだろう、とか、とにかく駄々をこねる。挙句に、部屋に閉じ籠ってしまって出てこない。海路の途中で、ここから帰るからボートを降ろせなどと、職務怠慢も甚だしい態度に終始するのである。航海中のこの勝の言動を、木村の従者としての立場で乗船していた福澤諭吉は冷静に観察している。木村は木村で、勝の器というものを見切った筈である。
当然のことではあるが、咸臨丸に乗り込む“士官”クラスは木村が選抜した。木村は、殆どを海軍伝習所出身者を選ぶことで、この任務を全うしようとした。軍艦操練所教授になっていた勝も木村に選ばれた一人に過ぎないのだが、この男は何を考え違いしていたのだろうか。日本人だけで太平洋を渡り切ることによって、大いに国威を発揚する・・・これが勝海舟の咸臨丸に賭けた意思であり、偉大さであるというようなことを私どもは学校教育で叩き込まれた。しかし、現実には咸臨丸にはジョン・ブルックをはじめとするアメリカ人士官が乗り込んでいる。これは、木村が考え、幕府に申請して認めさせたもので、猛反対する日本人乗組員や幕閣を抑え込んだのも木村である。勝が反対派の先頭に立ったという記録等は残されていないが、私は勝も猛反対したと推測している。というのも、この一件そのものが“官軍正史”から抹殺されているのである。事実というものはさすがに隠しようもなく、ブルック一行の乗艦については、偶々(たまたま)帰国する彼らに便宜を図ってやっただけという“歴史”が伝えられている。木村の意図通り、ブルックたちの航海リードがあって咸臨丸は正使一行を乗せたポーハタン号より早くサンフランシスコに到着したのである。
司馬遼太郎氏は、明治国家の「設計者」として、小栗上野介、勝海舟、福澤諭吉の三人を挙げる。私には異存があるが、司馬さんは建物に例えれば勝は「解体の設計者」であるとする。何を解体したかといえば、勿論江戸幕府を解体したのである。この見解は“皮肉”としてなら通用するだろうが、今はこのことには触れない。このことに関連して司馬さんは次のようにも述べている。
『三人の設計者の中に。木村摂津守を含めなかったのは、或いは当を得ていないかも知れません』(NHK)
つまり、司馬さん自身も木村の重みというものに引っ掛かっているのである。続けて曰く、
『彼は明治国家成立の時は身を引き、栄達よりも貧窮を選び、幕府に殉じて、自ら生ける屍になったからです』(同)
私が木村に「武家の佇まい」を感じるのは、直参旗本として幕府に殉じたということも確かにあるが、この咸臨丸を率いて出ていく時の覚悟である。
彼は、木村家の財産を全て金貨と米ドルに換えた。代々伝わる書画骨董の類も全て金に換えて、いざという時の費用に充てようとしたのである。幕府からは渡航費用として五百両が出ている。一説に、乗艦する士分の者を加増する為とか、乗員の手当てに宛てたなどと伝わるが、私は、それは違うと考えている。如何にアドミラルである、軍艦奉行であるといっても、木村が公儀の立場で勝手に加増できる訳がない。それをやれば、越権行為も甚だしい。そのような見識のない木村ではない。武家とは本来、陣ぶれがあれば馬を整え、兵卒を構成し、武器・食料も用意して馳せ参じるものである。いや、陣ぶれがあってからでは遅いのだ。日頃からいつ陣ぶれがあってもいいようにそれらを整えておくべきものである。その為に「知行」が存在する。木村が幕府から下賜された経費以外に、後のことを無視して一家の財産を全て金に換えたのは、あくまでこの航海の「いざという時」の為に備えたのである。つまり、木村にとってこの使命は「戦」であったということだ。航海中、時化(しけ)に遭った時、この金貨が戸棚から袋を破って飛び出し、床に散乱したことを福澤諭吉が目撃している。
再び司馬さん曰く、
『木村のように、私財をあげてこれに充てるというのはなまなかな精神ではできないことです。福澤は、木村摂津守に於いて、真の武士を見たのでしょう』(同)
咸臨丸という小さなコルベット艦に、勝にとっては数にも入らぬ小者として福澤諭吉が乗船していたことは、『勝にとっては災難』(司馬氏)であったと言えよう。このことによって、勝の実像というものを知ることができるからである。この時点で木村は、従者として乗船を許した福澤を、自分の船室では「先生」と呼んでいる。
御一新が成立した時、新政府は、幕閣であった木村に対して新政府に加わることを求めた。しかし、木村はこれを断った。江戸城空け渡しの際、木村は勘定奉行という高官に進んでおり、新政府への空け渡しに際する事務処理を統括した。薩摩・長州には、木村の能力、人柄が理解できたのであろう。明治二十七年、日清戦争に木村の嫡男が出征した。福澤は、嫡男;浩吉に宛て、万一君が討ち死にしたとしてもご両親の面倒は自分の命の続く限り責任を以てみるから安心するように、との手紙を書き送っている。
木村が発案した日本の海防計画の骨子、海軍の人材登用計画などは、幕府には受け入れられなかったが、明治政府がこれを採用した。木村が「帝國海軍の祖」とされる所以である。
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