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2010年12月19日 (日)

「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の一 狂気のルーツ;水戸黄門)

歴史家・イスラム学者;山内昌之氏と作家;中村彰彦氏が興味のある発言をされている。曰く、

『歴史とは、現実の果てしない積み重ねをどう解釈するかであって、人間がひとつの理念で均質に作り上げるものではない』(山内氏)

『(水戸学は)理念が展開していくのが歴史だと決めつけているから、そこから外れる要素が出てくると、歴史そのものを修正しようとする。そこで観念的な精神の高揚が生まれ、天誅という名のテロリズムへ走ることにつながる』(中村氏)

これは、黒船以降の時代を世界史的視野から読み解こうとした『政治家と官僚の条件』(中央公論新社)の中での発言であったかと思う。主旨は、幕末の狂気に満ちた水戸藩の血塗られた実相を浮かび上がらせ、歴史上の責任を追及しようとしたものと受け止められる。上記の発言は、水戸藩が藩を挙げて明治以降まで編纂作業を続けた『大日本史』が如何にナンセンスであるか、如何にテロリズムを助長したものであったかを指弾している。

長州テロリストたちが“師”と仰ぎ、テロリズムを正当化する論拠とした「水戸学」とは、実は「学」というような代物ではなかった。空虚な観念論を積み重ね、それに反する「生身の人間の史実」を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に陥るためだけの“檄文”程度のものと考えて差し支えない。この気分によって水戸藩内自身が四分五裂、幕末には互いに粛清を繰り返すという悲惨な状況を呈し、愚かというには余りにも愚劣な藩であった。「水戸学」こそが「日本学」であるとする浅薄な狂気思想は、倒幕という果実を“弟子”である筈の長州・薩摩にもっていかれ、その挫折感が却って「水戸学」を美化し、井上日召、菱沼五郎、橘孝三郎など水戸藩ゆかりの人間たちによって日本ファシズム運動として脈々と受け継がれていくことになる。この流れが五・一五事件二・二六事件を引き起こし、日本を無謀な大東亜戦争へと導いていく。戦後に至っても、三島由紀夫「楯の会」森田必勝(三島を介錯した学生)たちは「水戸学」の信奉者であった。以前、「明治維新」という言葉は昭和になってから成立した言葉であることを述べたが、「維新」という概念と言葉そのものは、幕末の水戸藩主;徳川斉昭の時代に生まれている。昭和になって「明治維新」という表現が確立し、その流れに「昭和維新」を唱えた皇道派青年将校たちの存在がある。

因みに、三島が割腹した時、私は西銀座のオフィスで仕事をしていたが、この頃「よど号乗っ取り事件」「三菱重工ビル爆破事件」などが相次ぎ、「大阪万博」で浮かれ騒いでいる一方で、世情はまだまだ騒然としていた。

もともと水戸という地は佐竹家が領していたが、関ヶ原の際、佐竹義宣(よしのぶ)がなかなか態度をはっきりさせず、それが影響して戦後秋田へ転封となった。徳川家康は、五男;信吉を十五万石でこの地に入れたが、病弱な信吉は江戸幕府が成立した慶長八年(1603)に病没、その後に十男;頼宣(よりのぶ)が二十万石で入ったが、頼宣は直ぐ駿河五十万石へ転封となる。その後に十一男;頼房(よりふさ)が二十八万石で封じられ、これが水戸藩の初代ということになっている。当初から家臣団の構成が複雑で、武田の遺臣、佐竹家の遺臣、家康がつけた徳川直参、更には北条の遺臣や百姓か山賊か分からないような地元の土豪たちといった具合で、一体性が全くなかったのである。頼房を次いで二代目の藩主となったのが、ご存じ光圀(みつくに)、俗にいう「水戸黄門」である。「黄門」というのは固有名詞ではなく何人もいるが、そのことに触れているゆとりは、今はない。この光圀が、藩予算三分の一という巨費を投じて『大日本史』の編纂事業を開始したことはご存じの通りであるが、この光圀こそが「水戸の狂気」のルーツと言っていいだろう。

水戸光圀の時代は、三代将軍;家光の治世下であるが、水戸藩は諸侯のように藩主が参勤交代で江戸と国許で交互に暮らすのではなく「江戸定府」(じょうふ)となった。藩主は、恒常的に江戸に在住するのだ。水戸が「副将軍」などと自称するようになったのは、このことがあったからだと言われている。「副将軍」などというポジションは公式には存在しない。そのような定めも役職も何もない。水戸が勝手に言っているだけのことで、テレビドラマなどではこれが水戸光圀の形容詞のように使われている。ドラマとは全く違って実在した水戸光圀とは、若い頃はかなりの“かぶき者”であったらしい。女遊びの激しかったことはともかく、単なる“かぶき者”で済まされないことは、頻繁に「試し斬り」をやったことである。武家が人を斬るということは、江戸期になると現実には滅多にないのだが、この男は別で、人を斬ることに快感を覚えていたのではないかと思える。藩主になってからも、大名や直参を招待して開催した能を観る接待の場で、家老の藤井紋太夫を斬り殺している。こういう場で家臣などを斬殺した例は、直江兼続とこの水戸光圀ぐらいであろう。光圀のやったことで領民にとって有益になったことは何一つないが、中でも酷かったのは検地である。一間とは六尺三寸である。こんなことは、藩が違っても原則として変わってはいけない。ところが、光圀は一間を六尺として検地した。そうすると、計算の上だけでは二十八万石の水戸藩が三十六万九千石となるのだ。見せかけである。換言すれば「見栄」である。この石高は、光圀の次の綱條(つなえだ)の代に幕府から公認された。となると、大名行列の人数から盆暮の贈答に至るまで石高に相応しい形を整えなければならなくなる。当然、実高からすれば割に合わない出費がかさむことになる。光圀の動機は、御三家の一角として尾張六十二万石紀州五十五万五千石に張り合いたかったのである。間の悪いことに、光圀の検地の年から三年続けて水戸は飢饉に襲われ、実際の取れ高は十五万石程度に落ち込んだ。芳賀登氏の研究によれば、幕末の水戸藩の実高は五万七千七百三十石であったという。俄かには信じられない数字だが、水戸藩に於いては内実と表向きの乖離がかくの如く酷かったのである。領民や家臣団は堪ったものではない。農民は架空の農地に課税されているようなもので、家臣団は既に減俸されている俸給を六代目;治保(はるもり)の代には更に「半知」とされた。「半知」とは、藩が藩士から知行・俸給の五十パーセント=半分を「借り上げる」ことを言うが、「借りる」とは体裁のみで、実質的には俸給の五十パーセント削減である。更に豪商豪農からは献金を募り、献金した者には「郷士」という身分を与えた。つまり、藩が公然と「売官」を行っているのだ。これによって、江戸体制の骨格とも言うべき「封建制」の前提である身分制というものが崩壊していく。(「封建制」というものを現代教育流に解釈して、この現象を喜んではいけない)

領民や家臣団は、益々困窮していく。相次ぐ倹約令。「幕末の狂気」=水戸斉昭(烈公)は、次のような触れを出している。

一、近頃風俗奢侈甚だしく、全て華麗を好み、倹素を失ひ候段御聴に達し、此度御家中一統綿服着用仕るべき旨仰せ出され候

一、諸士以上、絹紬(けんちゅう)下着苦しからず候、妻女の儀も右に準じ着用致すべく候、且男女共七十以上太織着苦しからず候

一、諸士以下軽き者全て綿服着用、帯の儀は太織紬苦しからず候、且男女共七十以上、太織紬下着御許し遊ばされ候

とにかくこの藩は貧乏であった。土地そのものが豊穣とは言えない領土でありながら、見栄と体裁のために一間を六尺に変えるという暴挙を平然と行った上、藩財政に過大な負担を強いて無意味な『大日本史』編纂に執着した水戸光圀が、その元凶である。

実は、光圀の次の綱條(つなえだ)の代に既に藩士から借入れを行っているのだ。この時は上士で年収の十分の一程度、下へいくほど緩くなっていたが、借入れとは名ばかりで、藩がそれを返済したことはない。この最初の藩士からの借り入れの直接の原因は、光圀が悪化させた藩財政の立て直しができず、水戸藩は幕府から八万両の借金をして、年に一万両ずつ返済することになっていたのである。返済のあてなど全くない。単なる本家に対する甘えである。こういう時だけ本家に甘え、そういう分家がその初期から「倒幕」の芽をせっせと育てるという、実(まこと)に皮肉な構図が現出することになる。領民と家中の困窮はこの頃から本格化するが、その後の「半知」で単なる困窮の域を超えてしまう。貧乏の度が増すと、観念論が益々濃縮され、空論に空論を重ねるようになる。

三代目の時代に、早くも大規模な一揆が発生している、ところが、藩主は「江戸定府」である。一揆は江戸の藩邸に押し掛けることになる。千名を超える一揆勢が藩邸に直訴に及んだこともある。このように、不満があると江戸に押し掛けるということも水戸の行動パターンとして常態化するのだが、この延長線上に「桜田門外の変」がある。司馬遼太郎氏の「桜田門外の変」肯定論には、この視点が完全に欠落しているのだ。

端から一体感に欠ける家臣団、極度の貧困、観念論の積み重ね。これらが絡まって収拾のつかなくなったのが幕末の水戸藩の実態である。

水戸藩藩儒の家に生まれた山川菊栄女史の『武家の女性』(岩波文庫)には、幕末・水戸藩の貧窮の状況が極めて具体的に描かれており、この記録は、水戸藩の狂気を理解する上では一助となる著作である。

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コメント

おめでとうございます。
今年も懲りずに「無駄な抵抗」を続けることになりそうですが、よろしくお願い致します。
水戸光圀は、救い難いですね。特に、彼の「試し斬り」好きには定評があるのですが、人格的な問題がありそうです。
「勧善懲悪」・・・確かに影をひそめましたね。複雑に「こねくりまわす」ものがスタンダードになった感があります。
私が20代の頃からでしょうか、犯罪が起こるとメディアは「何が彼をそうさせたか」という取り上げ方をするようになり、常に「社会に問題がある」という結論づけを行うことが常態化しました。それは、現在、益々“高度に”なってきていますが、ここらで一度「初心に戻って」、悪は悪であるというシンプルな認識を起点にすることを取り戻す必要があるような気が致します。
今年もよろしくご教示ください。

あけましておめでとうございます。

水戸光圀って実際はとんでもない暗君だったんですね。こいつが藩も民も維新に至るまで苦しむ下地を作ったその実像は現在も時代劇でやってる水戸のご老公のイメージとは大違いです。

それはともかく、勧善懲悪タイプの時代劇がめっきり少なくなりましたね。こんな鬱憤のたまりそうな時代はむしろ増えるかな、と思うのですが…。

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