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2010年12月28日 (火)

「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の二 徳川斉昭の子供じみた攘夷)

水戸藩は、とにかく貧しかった。共産主義がそうであるように、こういう土地にこそ観念論が支配する極右思想も定着する。さほど豊穣とは言えない土地にあって、実高十万石にも満たない現実を無視し、三十五万石という表高を幕府に認めさせ、その格式・体裁を維持しようというのだから困窮して当然である。その上『大日本史』という「こうあらねばならない」という観念論に拠る虚盲の歴史書編纂に血道を上げたのである。その元凶とも言うべき存在が水戸光圀、俗に言う水戸黄門であることを前稿で述べたが、その後の藩主がこれを改めたかと言えばそういう多少なりとも聡明な藩主が現れることもなく、幕末になると徳川斉昭という輪をかけて酷い藩主が登場する。

幕末水戸藩の貧窮ぶりについては、山川菊栄『武家の女性』(岩波書店)に日常の細々した部分に至るまで詳しく描写されている。山川菊栄とは、言わずと知れた戦前の社会主義者であり、激しい女性解放運動家であって、私はその点には何の関心もないが、同書は昭和十八年という戦時中に書かれたもので、多少は時局の影響もあったのか、全く肩肘張ったところはなく、淡々と幕末水戸家中の生活ぶりが描かれている。山川菊栄には『覚書 幕末の水戸藩』(昭和四十九年 岩波書店)という、徳川斉昭、藤田東湖を主要な登場人物とした語った著作もあるが、幕末水戸藩家中の生活困窮ぶりや血の報復合戦の実相は両書によって表向き語られる歴史とは違った生身の人間の史実としてよく伝えられている。蛇足ながら、山川菊栄の母;千世は、血なまぐさい動乱に明け暮れた幕末慶応年間の水戸城下で、多感な十代を送っている。

どこまで意味があるか分からぬが、一応歴代の水戸藩主を列挙しておく。

初代  頼房(よりふさ)

二代  光圀(みつくに) *俗に言う水戸黄門

三代  綱條(つなえだ) *高松藩主の次男で光圀の甥

四代  宗堯(むねたか) *高松藩主の嫡男

五代  宗翰(むねもと)

六代  治保(はるもり)

七代  治紀(はるとし)

八代  斉脩(なりのぶ)

九代  斉昭(なりあき)

十代  慶篤(よしあつ)

十一代 昭武(あきたけ) *斉昭の十八男

二代;水戸光圀については前稿で述べた通りだが、政治リアリズムを理解せず観念論を振りまわして水戸藩を壊してしまった張本人が、公家好きな光圀であった。この、“公家好き”が「尊王」に結びついて後世、薩長政権になってから光圀は誤って見直され、それが今に伝わる「水戸黄門」を生んだ背景でもある。その時、「女狂い」や「試し斬り」の光圀という実態は消去された。ここでも、歴史の改竄(かいざん)が行われている。もっと悲劇的なことは、二代目にして既に水戸藩は「壊れてしまった」ことである。藩の成立時から一体感というものが全く欠落していたこの藩が、その後藩らしいまとまりを見せたことは遂に一度たりともなかった。

三代目;綱條(つなえだ)は、讃岐高松藩から迎えた養子であるが、この人の代に光圀が一間=六尺としてまで表高だけでも大きくしようとした願望が正式に幕府に認められ、水戸藩は三十五万石となった。勿論、実高とは大きく乖離しており、ここから延々と続く水戸藩の貧困が始まった。御三家の一つとして尾張・紀州と張り合いたかったのだが、どうあがこうとも家格の上では水戸藩は御三家の中では最下位であり、このことは幕末まで動かない。綱條は、大和郡山藩や備後三次藩での財政改革で実績を上げた“売れっ子”;松波勘十郎を招聘して余剰人員の削減などを実施するが、一方で激しい年貢取り立てを行い、江戸への運河建設に大量の領民を徴用するなどした為、大規模な一揆を招き、この一揆は江戸藩邸まで押しかけた。前回述べた通り、この騒動が何か不満があると江戸まで押しかけるという水戸の行動パターンの原型となった。

四代目;宗堯(むねたか)の時代には、藩士の俸給を遅配するどころか全く支払わないという時期もあり、五代;宗翰(むねもと)の代になって心配した幕府が、分家である守山藩府中藩に対して、本家の政事(まつりごと)に介入せよとの奇妙な命令さえ出すに至っている。つまり、御三家などと言っているが、水戸藩はひとり立ちできない藩であるから、分家が介入して何とかしろという訳である。水戸藩には四つの支藩があるが、例えばそのうちの一つである宍戸藩などは、幕末の内部抗争激化時に本家が家臣団を制御できない実態を憂慮した幕府から本家家中を鎮撫せよとの命令を受けて、折悪く天狗党の反乱に巻き込まれ、藩主;松平頼徳は逆に切腹処分を受けている。宍戸藩にしてみれば、全くのとばっちりであって、どうしようもない本家としか言いようがなかったのである。

六代目;治保(はるもり)の時に、前述した「半知」が行われ、水戸藩の貧窮はもはや尋常の域を超えた。それでも、七代目;治紀(はるとし)が何か手を打ったという足跡はなく、八代目;斉脩(なりのぶ)に至っては病弱で一度も水戸に行かない間に病没している。

そして、九代目;斉昭(なりあき)の登場となるのだが、普通どの藩でも十代前後家督が続けば一人ぐらいは真っ当な人物が出てくるものである。中には「中興の祖」などと言われる人物が登場し、一時的にせよ組織を建て直すものである。ところが、水戸藩にはそういう人物は一人も出てこない。見事なほど出てこないのである。水戸は十一代;昭武(あきたけ)の代に版籍奉還(明治二年)となって、その困窮と観念論の歴史を閉じるが、パリ万博に将軍名代として出席し、フランス語で日記を書いたと言われる、この最後の藩主;昭武が一番真っ当であったかも知れない。水戸のキャラクターを「染酒の旧制」と断罪し、それを一新する必要性を説いた唯一の藩主である。しかし、時は既に遅かった。

水戸では藩主個々に贈り名を付ける習いがある。例えば、光圀は「義公」である。女と試し斬りに狂った男に「義公」とは恐れ入るが、「尊王」の元祖という訳である。一度も水戸入りすることなく病没した八代;斉脩は「哀公」。笑い話のような史実である。そして、九代;斉昭は、お馴染み「烈公」。これだけはぴったりの贈り名と言える。「烈公」の跡を継いだ慶篤は、粛清合戦もリンチ合戦も止めず、何もせずただ父「烈公」の言うことを素直に聞いただけであったから(?)「順公」という訳だ。

幕末の幕政をかき回し、「攘夷」運動の火をつけるという混乱だけを残して隠居させられた徳川斉昭という人物は、大奥では最も嫌われた男であった。幕政を動かす時、大奥に嫌われる者は殆ど影響力を発揮できなくなる。斉昭が何故大奥から嫌われたか。それは、女癖が常軌を逸して悪かったからである。二代;光圀とこの斉昭は、非常によく似た点があり、異常な女狂いもその一点である。斉昭は、とにかく誰にでも手を出した。長男の嫁(線姫)にも手を出したほどで、その淫乱ぶりが窺い知れよう。線姫は、これが原因で自害している。大奥に対しては、今でいうセクハラ行為なども多く、将軍継嗣問題で我が子;慶喜(後の十五代将軍)を将軍に就かせようとしてこれに反対する井伊直弼(彦根藩主)を大奥が全面的にバックアップしたのも、実に素朴な話で斉昭の下劣さを大奥が嫌ったからに他ならない。参考までに付言すれば、斉昭には判明しているだけで九人の側室がおり、作った子供は、これもはっきりしているだけで三十七人である。

水戸の攘夷論の特徴は、誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如に尽きる。つまり、ロマンチシズムとリアリズムの区別さえできず、大言壮語しているうちに自己陶酔に陥っていく。この傾向は、後の長州陸軍にそのまま当てはまり、昭和陸軍が結局軍事という最も論理を必要とする領域で論理性を放棄して自己陶酔と膨張本能だけで中国戦線を拡大していった様と余りにも酷似している。斉昭もまた、御三家という立場にありながら強烈な攘夷論者であったが、この男の説く攘夷とは余りにも稚拙で、同時代人の智者;横井小楠竹越三叉などは「道理を見極めない」「智術の計策」「無責任な扇動家」「権略好たる性質」などという意味のことを述べ、口をきわめて非難している。

無理もない。斉昭の喚く攘夷とは、正直なところ子供じみているのだ。例えば、黒船に対抗する為に水戸でも大砲を作ろうとする。その材料として藩内の寺の鐘を全て潰せということになり、水戸藩ではこれが妙な方向へずれて一足早く「廃仏毀釈」が起きてしまうのだ。この点でも水戸は薩長政権の“先生”であった。青銅で作られた鐘を材料にした大砲が役に立つ訳はなく、発射したら大砲そのものが破裂するか、運よく弾が飛んだとしてもその飛距離は百メートルにも達しなかった。また、大砲に撃たれて死ぬのも銃に打たれて死ぬのも同じである、ならば、銃の方が火薬が少なくて済むなどと、訳の分からぬ主張をする。挙句に、交渉に応じるように見せかけてペリーの艦に乗り込み、いきなり刀と槍で斬りつければ、相手が意表を衝かれて逆襲できず、攘夷が成功するとか、ペリーとの交渉の場に町奉行配下の狐使いを潜ませておき、ペリーの腹を読んで対策を立てよなどと幕閣が口をあんぐりさせるようなバカげた提言ばかりを大真面目に行い、幕府の足を引っ張った。

斉昭と斉昭が抜擢した藤田東湖こそ、長州テロリストにとっては「神様」のような存在である。その神の実像が、この様であったのだ。一体、誰がこのような低劣な人物を幕政に参加させたのか。

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