« 「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪) | トップページ | 「超氷河期」という大ウソ »

2011年2月27日 (日)

「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の七 昭和維新)

しつこいようだが、「明治維新」という事件なり、事変というものは、歴史上どこにも存在しない。それは些細なことではなく、この初歩的なことを無視して空論を重ねることに意味がないからである。空論は観念論へと発展し、善悪二元論へ行き着く。「明治維新」だ、「平成維新」だ、「第三の開国」だと喚いている愚者ほど「歴史」という生身の人間の刻んできた小さな、ささやかな「命の足跡」の集積に鈍感な人間はいない。

確かに、長州のテロリストたちは水戸学を拠り所とし、そのリーダーたちはこれをうまく利用した。「尊王攘夷」を呼吸するのと同じような頻度で喚きながら朝廷と同義とも言える御所を砲撃するという暴挙について、「形は足利尊氏でも心が楠正成なら許される」と言い放つ詭弁と傲慢さは、長州人ならではのものであろう。そして、政権纂脱に成功するや否や目を疑うように豹変した。欧米を神のように尊崇したのだ。見事と言うほかない。実は、このあたりの事情はイギリスやフランス、アメリカサイドからも見なければ説明できない部分もあるので、別の機会に譲りたい。

この動乱期に水戸学がうまく利用されたことは事実だが、水戸学が最ももてはやされたのは昭和の戦前である。作家の中村彰彦氏は、水戸学を突き詰めていけばテロリズムの肯定に繋がると断言し、歴史学者;山内昌之氏は、その水戸のテロリズムが幕府を滅ぼし、水戸自身をも滅ぼしたと断罪するが、この水戸学精神が「昭和維新」の名のもとに昭和に入ってから再び燃え上がった。具体的には、第一次世界大戦後から昭和前期にかけての軍部急進派と右翼団体による天皇親政による明治精神への回帰運動である。背景には、深刻な戦後不況と国際摩擦があった。この運動の代表的な事件が、五・一五事件二・二六事件である。これらの事件を引き起こした陸軍軍人たちも「討伐」「天誅」という言葉を乱発して暗殺を実行した。この時代に「維新」「維新」と叫ばれ、明治動乱期への回帰心理から「明治維新」という言葉が一般化した。この時「維新」という言葉が生まれたと言っているのではない。(最近、緻密な神経を持ち合わせず、読解力の弱い人が増えて困っている) 「昭和維新」を喚くばかりに「明治維新」という言葉が当然時の言葉となり、この言葉が一般化したのである。

もともと、「維新」という言葉そのものは水戸学が生み出した言葉である。(藤田幽谷「攘夷」という言葉も藤田幽谷の“発明”であり、戦前の陸軍お得意の「国体」もやはり水戸学から生まれた。(会沢正志斎「新論」) つまり、右翼テロリズムに直結する言葉は、その多くが水戸学から生まれている。「昭和維新」を唱える陸軍軍人たちは口を開けば「維新回天の捨て石にならん」と、まさに幕末文久年間、京でテロの嵐を引き起こした長州人たちのように喚き、叫び、遂には政府要人を暗殺するという全く同じ暴挙に出て、薩長政権の流れである時の政権が一連の維新運動の処理を誤ったことが我が国を対外膨張主義へと導き、大東亜戦争へと突き進んでいった。即ち、「明治維新」とは「昭和維新」が燃え盛ったことによって翻(ひるがえ)って一般化した言葉である。

吉田松陰という存在の真実については何度か述べているので重複を避けるが、要するに歴史の要点を正確に理解する上では殊更採り上げるほどの存在ではない。しかし、実態を無視して、政権中枢に成り上がった山縣有朋たちが神格化した「吉田松陰」を仮に明治動乱テロリズムの精神的支柱だとすれば、昭和維新の精神的支柱は言うまでもなく北一輝である。吉田松陰ほど「暗殺」「天誅」を主張した長州人は、好戦的な長州の中でも珍しく、やむなく長州藩は松陰から士籍すら剥奪するが、その外交思想は結局、侵略を肯定する膨張主義そのものであり、戦前日本の歩んだ道はそのまま松陰の主張していた通りの足取りを辿った。これに対して北一輝の思想は、反財閥、反特権階級で貫かれ、社会主義的要素もあって「国家社会主義」と言われるが、天皇親政を説き、天皇のもとに一元化された権力の下(もと)に議会が置かれ、内閣は議会から派生すると解釈されるところから「日本式社会民主主義」と呼ぶべきだという主張もある。いずれにしても、その思想レベルは松陰のそれよりは当然格段に高く、戦後、60年安保条約締結の主役となった岸信介(満鉄を経て内閣総理大臣)などは北一輝派と言ってもいい。北一輝の思想で注目すべき点は、「治安維持法」制定以前の日本、つまり「大逆事件」以前の日本を理想国家としていたことで、この点が「明治維新」至上主義者でもある司馬遼太郎氏の歴史観、所謂司馬史観に酷似しているという指摘が多い。保守系親米派と位置づけられる戦後知識人は、殆どこの系譜に連なる。私が司馬史観の一部を否定するのは、北一輝の主張は、結局は軍部独裁を招くことになるからである。

既稿に於いて一言触れた記憶があるが、昭和四十五年十一月の「三島事件」(市ヶ谷事件)の際、作家;三島由紀夫の割腹に際して介錯を行った学生;森田必勝は水戸学の信奉者であった。時は、高度成長期のピーク時である。これも繰り返し述べているが、薩長新政権が成立したのは、たかだか百四十年前のことである。百歳以上の行方不明者の問題はいつの間にか忘れ去られているが、全国の戸籍に厳然と存在する百歳以上の高齢者は平成の今も二十数万人もいるのだ。最高齢者は、判明している範囲で百五十八歳とも伝わる。仮に、紛れもなく百五十八歳であるならば、その方はまさに嘉永六年(1853)、ペリー来航の年に生を受けたことになる。この問題は戸籍の管理システムの問題であろうが、水戸学を拠り所とした幕末の動乱と現代との時間距離というものを肌身に感じるには格好の素材となるだろう。

実質的な日本の「開国」は、天保十三年1842)、和親条約の締結が安政元年1854)、江戸体制の終焉が慶応四年1868)年である。つまり、開国から四半世紀も経って「尊王攘夷」を叫んで「攘夷の実行」を政治課題として突きつけ幕政を揺さぶった反体制派の目的は明白であろう。反体制はいいとしても、この勢力がどのタイミングで「倒幕」を意識したのか。このテーマを乗り越えるには「一会桑」の動き、考え方と徳川斉昭とその子;徳川慶喜(十五代将軍)の将軍継嗣に対する野心を明確にしなければ理解できないとするのが、近年の学者のほぼ一致した考え方である。「一会桑」とは、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津・桑名のことを言う。最後の将軍;徳川慶喜については、以前「動乱余話」という小シリーズで一稿を設けたことがある。あの時点では多少抑えめに述べたつもりだが、この人の武家政権の棟梁としての低劣さについては改めて述べる気力もない。最近、この人の決断があって江戸城は無血開城できたとか、駿府へ移ってからあの生き方をしたから旧士族の反乱が起きなかったなどという話が多くなったが、このことについては前出の山内氏をはじめ多くの歴史家が「そういう“神話”を信じている人が意外に多い」とにべもない。真山青果作の「将軍江戸を去る」という歌舞伎作品があるが、大河ドラマ「江」と同様、こういう“神話”と言われるような話は芝居の世界だけで十分であろう。「鳥羽伏見の戦い」の後、幕兵を捨て去り、松平容保について来いと命令して幕府軍艦で江戸に逃げ帰った件については、既に驚くべき内容の一次資料も明らかになっており、ただただ唖然とするが、本シリーズは水戸藩と水戸学がテーマであって本筋ではない人の話は必要があれば別稿に譲りたい。

人が故郷を愛するのは、単にその地の風景がその地に在るからではない。その愛とは「風土」に対する愛であると思っている。「風土」とは生身の人間の関わり無しでは成立しない。そして、「風土」を愛する大前提はその地の先人の足跡を真正面から直視することである。その上で、水戸には水戸の、誇るべき「風土」が存在することは当然である。何事に於いても真摯に向き合うことからしか、愛も誇りも生まれないのではないか。水戸の知人を思い浮かべながら、ふと感じた次第である。

« 「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪) | トップページ | 「超氷河期」という大ウソ »

武家の佇まい」カテゴリの記事

コメント

右京が誰に当たるか・・・私は、これから「若い右京」が出てきてくれることを期待するのですが。

こんばんは。

>「形は足利尊氏でも心が楠正成なら許される」

この手の「大義の為には多少の犯罪やえげつないやり方も許される」と言う理論はテロリスト共通ですね。
「えげつないやり方」だけならテロリスト以外にも使う奴らはいますが。

人気刑事ドラマ「相棒」でも主人公、杉下右京と時に対立する官房室長、小野田の理屈も後者に近いです。(ちなみに右京は「大義の為と言えど、犯罪は絶対に許されない」と言う信念の持ち主です)。
幕末で言えば大久保利通に近いタイプかもしれません。右京が誰にあたるのかは…難しい問題です。

ご指摘の通りかと思います。
「御一新」という言葉も、初めて使ったのは藤田幽谷であるというのが定説となっているようです。つまり、水戸学から出ているということになります。
そして、司馬遼太郎氏は「御一新」の直接の対象となる事象は、「版籍奉還」と「廃藩置県」であったと指摘しています。これは、私も納得できるところです。
「維新」について「詩経」が語源とのご教示、ありがとうございます。

いわゆる「明治維新」は、当の明治時代には単に「維新」「御一新」と呼ばれてたそうです。
そう考えると「『明治』維新」と呼ばれるようになったのが「昭和維新」と言うテロ事件の呼び方に対応する形で生まれたと言う伊織様の言葉にもすんなり納得できました。

ちなみに、「維新」と言う言葉の語源は中国最古の詩篇でもある『詩経』の一節「周雖旧邦 其命維新」が語源と言われています。おそらくはそれが水戸経由で日本に伝わったのでしょうね。

厚生労働省は2011年1月26日、経済連携協定(EPA)のもとでインドネシアとフィリピンから受け入れた外国人看護師のうち3人が、日本の看護士国家試験に合格したと発表した。
合格したのはインドネシア人2人とフィリピン人1人で、受け入れ事業が始まってから初の合格者となった。しかし残りの251人は不合格となった。全員が母国ですでに看護師の資格を持っているので、日本語が壁になったとみられる。同じ試験を受けた日本人受験者の合格率は約90%だった。

我々日本人は、英語を通して世界中の人々に理解されている。
かな・漢字を通して理解を得ているわけではない。
我が国の開国は、英語を通して日本人が世界の人々から理解してもらえるかの努力に他ならない。
我が国民のメンタリティを変えることなく、ただ、法律だけを変えて交流したのでは、実質的な開国の効果は得られない。
鎖国日本に開かれた唯一の窓ともいうべき英語を無視すると、我が国の開国も国際交流もはかばかしくは進展しない。
この基本方針にしたがって、我々は耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで、万世のために太平を開く必要がある。

英米人は、「我々は、どこから来たか」「我々は、何者であるか」「我々は、どこに行くか」といった考え方をする。
我々日本人にしてみれば、奇妙な考え方であるが、彼らにしてみれば当然の考え方になる。
それは、英語には時制というものがあって、構文は、過去時制、現在時制、未来時制に分かれているからである。
3時制の構文は考えの枠組みのようなものとなっていて、その内容は白紙の状態にある。
その穴埋め作業に相当するものが、思索の過程である。

ところが、日本語には時制というものがない。
時制のない脳裏には、刹那は永遠のように見えている。
だから、構文の内容は、「今、ここ」オンリーになる。新天地に移住する意思はない。
思索の過程がなく能天気であるので、未来には筋道がなく不安ばかりが存在する。
TPPの内容に、行き着く先の理想と希望が見出せないので改革の力が出ない。

必要なものは自分で手に入れるのが大人の態度である。
だのに日本人には意思がない。それで、意思決定はできない。無為無策でいる。
常に子供じみた他力本願・神頼みとなる。
意思がなければ、意思疎通もはかどらない。それで、察しを遣う。
だから、日本人の独りよがり・勝手な解釈は避けられない。

問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力を持っている。
だから、我々日本人は、自重に自重を重ねて、常に事態を静観する必要に迫られていた。
我々は、変わらなくてはならない。

http://koshin.blog.ocn.ne.jp/koshinblog/2011/02/nago_7890.html

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の七 昭和維新):

« 「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪) | トップページ | 「超氷河期」という大ウソ »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ