« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月30日 (土)

幕末日米通貨戦争(其の四 立ちはだかる水野忠徳)

幕府は横浜開港に伴って何故二朱銀を発行したか。それは、一分銀(=四朱)の価値を元に戻して開港に伴う通貨交換に備えようとしたからに他ならない。

慢性的な財政難に陥っていた幕府は、たびたび貨幣を改鋳した。改鋳といっても、実態は一分銀の銀含有量をどんどん減らしていったのである。銀貨というものは、もともと重さを量って使う銀地金のような通貨であり、基準となる単位は重さである。

今や尺貫法はすっかり忘れ去られてしまったが、(もんめ)・という重さの単位が、私の子供時代にはまだ生きていた。私の祖父は勿論、父母も「匁」や「貫」という単位は日常的に口にしていたし、学校では1貫=3.75kgなどと尺貫法とメートル法の換算を教え込まれた。広さや量についても同様で、水田の「反」(たん)をアールに換算し、1升は1.8ℓなどと、私どもは余計な勉強を強いられたのである。日本人にメートル法を叩き込むことは、占領軍の基本方針の一つであったのだ。子供はまだ頭が柔らかいから、1間=1.8m、1坪=3.3㎡と、歴史の年号を暗記するのと全く同じ要領で直ぐ覚えるのだが、祖父や父にしてみれば、「町」と「反」と「坪」の関係は解ってもアールやヘクタールとの関係が解らない。祖父が桶や籠(かご)を造る時に使っていた金尺は、メートルでは成り立っていなかったのである。私でさえ、1反と言われれば大体の広さは感覚的に解るが、1アールと言われるとどの程度の広さか、頭の中で換算式を呟かないと直ぐには解らない。

そのことはともかく、江戸期の幣制ではもともと1両は銀60匁であった。即ち、本位貨幣である小判1両は丁銀60匁であったのだ。これが幕末になると、1両=64匁に変動していた。一分銀について幕府(水野忠徳)が主張する「政府の刻印を打つことによって三倍の価値を与えていた」というのはその通りであって、銀貨である一分銀の量を維持する、或いは増やす為に幕府は刻印を証拠として銀の量を減らしながらも以前と同じ価値で通用させてきたのである。幕末の天保一分銀とは、そういう銀貨である。即ち、一分銀は本位貨幣である小判の補助通貨に当たるとも言えるのだ。グレシャムの法則通り、悪貨は良貨を駆逐し、小判は屋敷の奥深くしまい込まれ、市中に出回っていたのは一分銀であったというのが実情である。幕府は、横浜開港に当たって本来の銀含有量をもつ二朱銀を用意した。二朱ということは、額面は一分の半分である。しかし、「安政二朱銀」と呼ばれるこの銀貨は一分銀の約1.34倍の銀含有量をもち、水野の主張する通り、「双方の通貨が実質その通りの価値を有していなければ通商に差し障る」との考えで、またハリスオールコックの主張に屈すれば金貨の流出に繋がることが明白であったから、それを阻止する目的で鋳造されたものである。しかし、ハリスとオールコックは、これをペテンだ、ドルの価値を不当に引き下げるものだとして全く取り合わず、幕閣に対する恫喝を強めた。所詮、ハリスもオールコックも水野の主張する江戸日本の通貨体系というものが理解できなかったのである。

時代劇などで「文」という単位の(ぜに)がよく登場する。銭形平次の投げるのも「銭」であり、その単位は「文」である。「銭」(せん)は、もともと1匁を表わす重さの単位である。1銭は3.75gであり、中国の貨幣もこの重さを基準に造られていた。銅貨であるお馴染みの「寛永通宝」は、この基準で鋳造された貨幣である。ところが、田沼意次時代に鋳造された四文銭などがこの価値を落としていき、幕末のこの時期には一分=1,600文(銭)に落ち着いていた。イギリスによる阿片貿易によって銀の流出が続いていた中国では銀高銭安傾向が定着していたが、それでも1ドル=1,200である。もし、日本がハリスたちの恫喝に屈し、1ドル=3イチブという誤ったレートを受け容れたら1ドルは4,800文という法外な銭安、即ち邦貨安に陥り、日本は交易によって本来の三倍の値段で外国産品を購入することになる。日本の産品の価値は三分の一に下落し、これを裏返せば日本は三倍の物価高騰に見舞われるのである。銀貨とはもともと重さを量って使う銀地金のような通貨であり、基準となる単位は重さであることを前提とし、1ドル=1,200文(銭)であることを理解させる為に、水野はわざとハリス、オールコックに対して中国の銭相場の調査を要請した。そのことを通じて二人に日本の通貨体系というものを解らせようとしたのである。しかし、ハリスもオールコックもこれを無視した。バカほど勉強しないという見本のようなものであった。かくして、水野が金流出防止策として用意した二朱銀は、僅か三週間の寿命しかもち得なかったのである。

現代流に言えば、水野忠徳は官僚である。“政治主導”で外交交渉を行おうとすれば、老中;間部詮勝(まなべあきかつ)・中務安宅(なかつかさやすおり)が、初代駐日公使となったハリスに対峙しなければならない。だが、老中とは大名である。通貨問題に関して交渉できるだけの知識・論理の持ち合わせがない。外交交渉に於いては、慣例として交渉相手には同格の者を求めることができる。公使となったハリスは水野を避け、専ら間部や中務を相手とした。ハリスもオールコックも、水野が苦手であった。それは、水野が何やら論理的であること、恫喝が効かないこと、簡単には引き下がらないことに因る。水野には「屏風水野」の渾名がある。屏風の陰から老中たちに回答、発言を助言したことからつけられたもので、水野抜きで幕閣はハリスやオールコックには全く対峙できなかった。

その水野抜きの場で、老中;間部が残した有名なハリスに対する発言がある。「我々はダイミョー(大名)と申し、金銭のことなど存ぜぬ」というもので、この発言は当時関係幕臣の間でも流行語のように話題となった。勿論、嘲笑と侮蔑を伴って広まったものである。

そもそもハリスと岩瀬忠震(ただなり)との間で合意されていた通貨の「同種同量交換」とは、期限付きの但書として盛り込まれたもので、期限は開港後一年に限り「日本人が外国通貨に慣れていない」ことを根拠としている。水野も外交団の心証を良くしておきたいとの配慮から「新二朱銀との両替交渉が整うまで」という条件付きで1ドル=3イチブでの両替を認めた。ところがこれによって小判の買い漁りという異常事態が発生し、物価の高騰が始まった。水野にしてみれば、最大限の譲歩をして、外交交渉の決着に向けて誠意を以て対応した結果が、ハリスたちのこの仕打ちである。この時と水野の罷免された後の外国商人たちの両替申請書類のサインには、「ナンセンス」「イズ イット ノット」(Is it not?)などと、日本側役人を小馬鹿にしたものが多数残されている。後に坂本龍馬が“営業マン”的な立場で関わりをもったグラバー商会などがその筆頭であり、グラバー商会はアヘン貿易を仕掛けて中国侵略の実質的な主役を務めたジャーディン・マセソン社の配下にある存在であって、常に東洋侵略の手先となったのである。直ちに両替を停止しなければならない事態を迎え、水野は即断して両替を停止した。その論拠は、「日本人が外国通貨に慣れていない」間、という但書を逆手にとったもので、「もう外国通貨に慣れたから」1ドル=3イチブでの両替を停止するというものであった。決して条約に違反していないのだ。恫喝を外交交渉の手段とする英米に対しては、外交官としては見事である。後述する機会があるかも知れないが、水野という男は非常に腹の据わった男で、頭脳明晰な上に肝が据わっている点がハリスとオールコックにとっては目の上のたんこぶとも言うべき存在であった。

ハリスとオールコックは、何とか水野を排除したい。間部のようなボンクラ老中を相手にして、自在に要求を通したい。既にコバング漁りのうま味を知った。もっと、もっと甘い汁が吸える筈だ。水野筑後守忠徳という外国奉行(ブギョー)さえいなければ、事は都合よく運ぶ。

こういうタイミングに、ハリスとオールコックにとっては絶好の機会とも言うべき事件が発生した。

2011年4月15日 (金)

幕末日米通貨戦争(其の三 コバング大流出)

幕末の通貨交渉を振り返る時、二つの言葉を知っておかなければならない。「コバング」「イチブ」である。「コバング」とは「小判」を英語化したもので、「イチブ」も同様に「一分」をそのまま単位としたものである。つまり、1コバングとは1両のことであり、例えば三分のことを「3イチブ」と言った。この「コバング」と「イチブ」のドルとの交換比率が、幕末日米英通貨交渉の唯一と言っていい最大の争点であった。

前稿の繰り返しになるが、金本位制を採る日本(幕府)に於いては、国内の“基軸通貨”は1両小判、即ちコバングであり、この通貨は金56.77対銀43.23から成る金貨である。この含有量から、1両=4の日本での金銀比価は15となる。この時点の国際的な金銀比価は、大体116であり、日本のコバング(金)は相対的に安かったのだ。もし、イギリスのオールコックより先に赴任しているハリスが“善意の交渉者”であったなら、交渉を始めるに当たって彼はこのことを日本側に通知すべきであった。しかし、彼は、“意図的に”これを行わなかった。“意図的”であったことは、後の彼の「コバング漁り」という“浅ましい”行動をみれば明白である。

一方、当時のドル貨幣はメキシコドルであり、イチブと同じ銀貨である。金貨としては20ドル金貨があり、金含有量でみると20ドル金貨は小判5枚に等しく、ここから1両=4ドルという「公定レート」が成立した。1両=4という日本の幣制と1両=4ドルという「公定レート」が共に認められたものであるならば、当然1分=1ドルである。水野忠徳は、徹底してこの主張をハリスに投げ続けた。

ところが、重量比較をすれば、メキシコドルはイチブ貨の3倍である。これを盾に、ハリスは1ドル=3イチブを主張して譲らなかった。これについて、水野は主張する。一分銀なる貨幣は、政府(幕府)が刻印を打つことによって、3倍の価値を付与している、と。つまり、現代の不換紙幣と同じようなもので、小判の補助通貨であって政府の刻印によってその価値を維持している通貨だという訳だ。その性格が紙幣と同じなら、同量交換などできる訳がない。水野は更に主張する。同種同量交換するには、双方の貨幣の品位や価値を等しくしておく必要がある。品位や価値を等しくすることに何故非があるというのか、と。

水野が品位や価値を等しく、ということにこだわるのは、実は幕府は横浜開港に備えて新しい「二朱銀」を発行していたからである。この二朱銀の正当性について水野は実に論理的にハリス、オールコックに説明しているが、彼らは水野の的を得た論理は常に無視した。「二朱銀」については、改めて触れる機会をもちたい。

通貨の話というものは、いつの時代でもややこしい。私は、自分自身の為にできるだけ簡略に述べているが、1ドルが3イチブか、1イチブかという争点の背景にはさまざまな経緯があり、一分銀の複雑な歴史も横たわっている。しかし、結論だけ述べれば、水野の主張が論理的に正しい。後に英国大蔵省顧問;アーバスナットも、自国のオールコックをはじめとする対日外交団の誤りであって、日本側(水野)の主張が正しいと裁定している。

ハリスやオールコックには、理解できなかったのだ。有史以来、世界のどこをみてもそのような貨幣を流通させている国などどこにもない、と彼らは全て水野の「二枚舌」だ、「陰謀」だ、「子供じみたペテン」だと非難し、恫喝交渉を続けたのである。これは、ハリスやオールコックと岩瀬や水野との頭脳の差であると言えるが、彼らにしてみれば、自分たち欧米文明圏からみれば未開地である極東の、支那の更に奥地の小さな島国でこのようなある意味で“先進性”の高い幣制を採っていることなど想像だにできなかったとしても無理はない。政府の刻印を打つことによって3倍の価値を付与するなどということを欧米で行ったらどういうことになるか。ハリスやオールコックが主張する通り、たちまち贋金(にせがね)作りが横行し、大混乱が起こるだろう。しかし、日本では金銀の採掘権、専売権は幕府が握っている。市中に出回る金銀など存在しない。贋金を作りたくても、金銀は市中に存在しないのだ。更に言えば、日本は既に「黄金の国ジパング」ではなかった。江戸中期より貨幣鋳造のための金銀を輸入に頼っていたのである。そして、その貿易は管制貿易である。どこからみても、贋金作りのための金銀など一般市民には手に入らないのだ。更に決定的なことを付け加えれば、江戸期日本とはアメリカなどと違って実に高度な倫理社会である。政府の刻印を真似て贋金を作って儲けようという発想が出現する確率は、格段の違いで低いと言い切ることができるだろう。

通貨の同種同量交換・・・圧力に屈して但し書き付きとはいえ条約の条項に盛り込まれたこの一項は、当時のヨーロッパに於いても国際間の基本的な外交原則に違反している。ハリスは既述の通り商人上がりであり、オールコックはと言えば、彼は元々医者である。外交官として来日していても、共に外交官としての基本を踏襲して対日交渉に当たったかといえばそういう事実はなく、ハリスは私欲が絡んで狡猾であり、オールコックにはイギリス人らしい日本、東洋に対する偏見が根底にある。二人に共通していたのは、日本に対しては恫喝外交が有効だと信じ込んでいたことである。安政六年(1959)夏、恫喝に屈した幕府首脳は、横浜の外国商人に対して「ドルとイチブの同量交換」を認めてしまった。(水野にしてみれば、あくまで一時的な措置であった)この瞬間から、史上に残る横浜からの「コバング大流出」が始まったのである。

先に、当時の日本の金銀比価は15と述べたが、正確にはこの15というのは、あくまで金貨コバングと銀貨イチブの比価であって鉱物としての金銀比価ではない。しかし、横浜では金1グラム=銀5グラムとなった。国際的な金銀比価は、おおよそ116である。即ち、金1グラム≒銀16グラムである。そうすると、例えば次のようなことが起こる。手元に銀5グラムを用意して横浜へ来ると、金1グラムと交換することができる。この金1グラムを上海へ持ち込むと、国際比価に従って銀16グラムを得ることができる。この銀16グラムを持って、再び横浜へ来ると金3グラムを買うことができる。この3グラムの金を持って、再度上海で売却すると48グラムの銀が手に入る。それを持ってまたまた横浜へ・・・。つまり、横浜と上海を行ったり来たりするだけで、金も銀も際限なく増え続けるのである。横浜へ来た外国商人たちは、直ぐこのことに気づいた。これが、史上名高い「コバング大流出」の基本原理である。後述することになろうが、現実にハリスの要請を受けて横浜を出て、また戻ってきて、ということを行った、日本人もよく知っている幕末史上有名な艦船が存在する。

ふ~っ・・・、私のような拙劣な頭脳しか持ち合わせていない者にとっては、通貨の話はややこしい。その点、ハリスはさすがに商人! 巧妙に「コバング漁り」に参戦した。ハリスの年間支出は、安政四年(1857)時点で1,500ドルである。これは、本人の記録に明記されている。彼の雇った日本人家僕の月額給金が12分、中国人バトラーが月15ドル、裁縫師、洗濯夫は月14ドル、そして、例のお吉の月々の手当が10両、支度金は25両・・・これらをすべて含んで年間1,500ドルであった。ハリスの年俸は、前稿で述べた通り5,000ドルである。ということは、一年に3,500ドルを残すことができる。ところが、これも本人が記録に残しているのだが――

「私は5,000ドルの年俸でありながら、私の貯蓄として年額6,000ドルをニューヨークに送金することができる」(「大君の通貨」―佐藤雅美)

年俸を上回る額の金をどうして送金することができたのか。言うまでもなく「コバング漁り」によって得た利益があったからである。ハリスは私欲に動かされて同種同量交換をゴリ押しした・・・そのように指弾されてもこの男には一切の言い訳が許されない筈である。

余談ながら、お吉の手当・月額10両というのは、破格である。10両あれば、江戸の町人一家がごく普通の借家で一年は暮らせる。ハリスは女にはそういう金を支払ったのだが、それとて1ドル=3イチブになることを前提とすれば、中国人家僕より安くなるのである。

先に、コバング流出の基本原理を簡潔に述べたが、現実には同種同量交換を認めさせ、手に入れたイチブ貨を公定レートでコバングに換えるだけで、ドルは簡単に三倍に膨れ上がるのである。このことに気づきながら、大君政府(幕府)に対して、外交官の義務である「国際的な金銀比価を知らせ、対策を講じる必要性を通告する」ということをハリスが行わなかったのは、何の苦労もなしに利ザヤが稼げる絶好の機会を逃したくなかったからに他ならない。そして、彼はその通りこの機会を逃さず、巨利を得たのである。

2011年4月 9日 (土)

幕末日米通貨戦争(其の二 一ドル=一分か一ドル=三分か)

「幕末の三傑」という表現がある。岩瀬忠震(ただなり)、水野忠徳小栗忠順(ただまさ)のことを言う。私にはこれに若干異論があり、言うとすれば「幕末の四傑」ではないかと思っている。川路聖謨(としあきら)が抜けているのだ。いずれも幕臣であり、幕末の特に外交に奮闘した優秀な官僚たちである。岩瀬や水野は、先に述べた「瓢箪なまず」;阿部正弘に抜擢・登用された人物で、二人の存在は阿部正弘の唯一最大の功績であると言っても過言ではない。

ハリスを全権とするアメリカ合衆国との日米修好通商条約に署名したのは、井上清直と岩瀬である。岩瀬は、その前にロシアとの間に日露和親条約を締結している。水野忠徳は、その後の日露交渉で川路聖謨を補佐すると共に、日英修好通商条約日仏修好通商条約に日本側全権委員として署名した。ハリスと英国の初代駐日外交代表;オールコックが組んだ米英連合と通貨の交換比率問題で渡り合ったのが水野である。

日米修好通商条約には「貨幣の同種同量交換」という条項が盛り込まれている。実に馬鹿げた条項で、国際的にこういう条項が盛り込まれた条約など例がないのではないか。いかなる国も自国の通貨と他国の通貨を自由に両替・流通させるものである。この「貨幣の同種同量交換」という条項を強引に差し挟んだのは、ハリスである。岩瀬には、その不利がよく解っていたが、時はアヘン戦争アロー号事件の直後であり、アメリカとの合意を急がなければあの恐ろしい無法者;イギリスがやって来る。当時の幕府の方針に従って岩瀬は動かなければならなかった。

当時の幕府のイギリスに対する恐怖心というものは生半可なものではなかった。清国を侵略する手段としてアヘン貿易を仕掛け、極東の眠れる獅子を喰いにかかったのだ。ここではアヘン戦争について述べることは本題ではないので避けるが、この残虐な事実は、共産主義者による数多くの虐殺以外では、アメリカによる原爆投下を含む無差別空爆による日本市民の虐殺、ナチスによるユダヤ人虐殺と並んで世界史に残る「人道に対する三大犯罪」として永く記憶されなければならない。知人の複数の中国人によれば今でも中国人はこの歴史事実を根深く忘れておらず、それは中国南部や重慶を中心とする反日感情とは異質のものらしい。

イギリスの、極東に於けるこの侵略行為が幕府に対して大いなるプレッシャーをかけ、日本は開国し、所謂不平等条約に署名せざる得なかったと、これまでの官軍教育では簡単に教えるが、これは間違いとは言えないが、必ずしも正確ではない。アヘン戦争そのものについてもそうだが、引き続き惹き起こしたアロー号事件に対して、イギリス世論は政府及び極東に展開した自国のさまざまな勢力に対して非常に厳しかった。さすがのイギリス人も自国のやり方が余りにも正義や良識に反するものであると、自責感情を抱かざるを得なかったのである。こういう国内世論を受けて、イギリス政府は広東領事から初代駐日外交代表として日本に赴任しようとしていたオールコックに対して、次の内容を含む訓令を発している。曰く、

・日本人の信頼を勝ち取ること

・日本政府への要求や忠告は、性急であってはならない

・江戸条約は遵守されなければならないが、それについて攻撃的であってはならない

清国に対しては武力を背景とした恫喝外交に終始し、事実武力を行使してあからさまな侵略をエスカレートさせていたイギリスが、これから付き合いの始まる日本に赴任しようとする自国の外交代表に出した訓令とはとても思えない内容を含んでいたのだ。同じ頃、中国沿岸や長崎を舞台として活動するイギリス商船や商人たちに対して、イギリス政府は以下の内容を含む「王室布告」を発令している。

・政府は、イギリス臣民が日本の法律を侵害し、日本政府によって船舶を没収されたり、罰金を科されたとしても保護しない。

同時に、艦船指揮官に対しても王室布告が発せられている。

・イギリス臣民が日本の国内法や条約を侵害するという行為を防ぐために、あらゆる手段で日本政府を支えること

幕府中枢は、アヘン戦争をはじめとするイギリスの情け無用の清国侵略の事実を知っている。そして、英仏を、大袈裟に聞こえるかも知れないが悪魔のように恐れた。このことは、英仏の侵略事実をみれば、無理もないことで、むしろ認識としては間違っていない。ただ、その後巻き起こった国内世論とそれに対応せざるをえなくなった英国政府の対日方針の修正には気付いていなかったのではないか。尤も、オールコックが訓令を忠実に守らなかったことも一因として挙げておかなければならないだろう。ハリスはここを衝いた。「ひな形」としての通商条約の締結を急がせ、そのことが予想されるイギリスの強硬な対日要求に対するディフェンスになると幕閣に信じ込ませたのである。アメリカがどうあれ、フランスがどう出てこようが、また日本が如何に無防備であったとしても、イギリスはアヘン戦争とアロー戦争に対する激しい国内世論の足かせをはめられて日本侵略は不可能であったのだ。東洋の出先が無理やりやろうとすれば不可能とは言えなかったかも知れないが、少なくとも容易ではなかったのである。このことに、幕閣や主だった官僚が気付いていたかどうか、それは定かではない。

そもそもハリスとは、何者であったのか。

この、幕末史に於いて最も有名なアメリカ人は、もともとニューヨークの商人である。陶器を扱っていたらしい。兄と共同経営をしていたが、その兄と金銭トラブルを起こした。平たく言えば、店の金を持ち逃げしたのだ。そういう場合、アメリカでは西へ逃げることが多い。彼はサンフランシスコへ逃れ、更に東アジアへ流れた。そして、貿易船をチャーターして「スーパーカーゴー」となって、何とか生きていた。「スーパーカーゴー」とは、例えば、シャムで仕入れた荷物を香港あたりで売りさばいて利を得るという商売で、海の行商人といったところである。要するに、東アジア沿岸を漂うしがない行商人であったのだ。何年かこういう生活をしていて、齢五十を目前にすると何を考えるか。老後の生活のことであろう。ハリスも例外ではなく、“定職”を求めた。それが、広東や上海といった中国沿岸都市の「領事」であるが、偶々(たまたま)ペリーが日本の下田開港に成功し、下田もハリスのターゲットとなったのである。しかも、当時、中国沿岸の領事の年俸が千ドルであったのに対して、新しく開かれた下田赴任の領事の年俸は五千ドルという好条件であったという。

当時は、商人と外交官との間に明確な職業区分が確立していなかった。ヨーロッパ諸国から中国にやってくる“外交官”という人種は、官僚なのか商人なのか、明確な区分ができない時代であった。彼らは、“領事”として赴任してきても商売もやっている。更に、“領事”としては、入港してくる自国の貿易船から入港手数料とも言うべき手数料をとったりする。これは官庫に入ることはなく、“領事”個人の懐へ入る。つまり、商売をしながら“領事”という肩書を得れば、更に副収入が増えるというだけのことであった。幕末の外交を考える時、このような基本背景を無視するととんでもない“麗しき誤解”を仕出かすことになるのだ。

余談ながら、ペリーが日本へ向かう時、ハリスは上海で同乗を希望したが、軍人ではないという理由で拒否されている。

では、何故下田領事の年俸が、中国沿岸部に比べれば破格の五千ドルと設定されたのか。それは、下田ではまだ中国沿岸部のような「領事の副収入」が期待できなかったからである。ということは、本国政府も領事というものが商行為を含め年俸以外にさまざまな副収入を得ることを認識していたということになる。定説のレートでは、当時の一ドルは現在の邦貨四万円とされている。つまり、ハリスの年俸は現在価値でいえば二億円となる。

ハリスは、下田領事という“定職”を得るために借金までして本国へ帰り、熱心な猟官活動を展開したようだ。分かり易くいえば、金で領事という職を買ったのである。年俸二億円の職となれば、多少の金をつぎ込んでも十分元はとれる勘定である。これ以外に、ハリスは後述するようにドルと一分の交換レートを利用し、日本の金流出に繋がる「コバング漁り」に精を出し、佐藤雅美氏によれは年間、現在の邦貨価値にして三億四千万円程度を稼いでいたのである。こういうハリスが、日米通貨交渉の一方の当事者であったのだ。

実は、先に所謂“黒船”で来航したペリーは、滞在が長引くにつれ帰国を急ぐようになり、為替レートに関しては「暫定」という条件ながら日本側と妥協点に達していたのである。それは、一ドル=一分という日本側の主張を受け容れたレートであった。周知の通り、当時の日本の幣制は、一両=四分、一分=四朱である。そして、金貨で比較すると二十ドル金貨が五両に等しい。これは、金含有量の比較によるもので、このことは後任のハリスも調査済みで反論できる余地はなかった。ということで、一両=四ドルが公定の為替レートであった。ところが、当時のドルはメキシコドルであり、一分貨もメキシコドル貨も共に銀貨である。金貨の比較で二十ドル=五両となれば、二十ドル=二十分となり、一ドルはまさに一分に等しい。水野がハリスとの交渉で徹底して衝いたのが、この点であった。ところが、一ドル貨が銀貨であることから、同じ銀貨同士、同種同量交換というハリスサイドの主張に沿って比較すると、一ドルは一分の三倍となるのだ。米英外交団の主張する一ドル=三分とは、この根拠による。一ドル=一分か、一ドル=三分か。ハリス・オールコックの米英連合と水野は、これを巡って熾烈な交渉を展開したのである。

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ