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2011年5月

2011年5月27日 (金)

BURBERRY

私は、ブランド・オンチである。基本的に「ユーミン世代」の男のようには、ブランドについて知識も興味もない。今のところ、スーツやシャツはほとんどBURBERRYBLACK LABELで、あとはPaul  SmithCOMME CA MENがある程度。ネクタイやハンカチも同様である。

社会人になった頃、つまり、昭和40年代前半、BURBERRYといえば、当然コートであった。当時のサラリーマン社会で、係長とか課長になってはじめて男はBURBERRYのコートを着た。着られるようになった。当時の金で20万円くらいはしたもので、新入社員の月給の45ヶ月分といったところ。56年先輩の男がBURBERRYのコートを買った時、自分もいつかは欲しいものだと素直に羨ましかったことを覚えている。

時が流れて私が40代の半ばから後半に差し掛かった頃、日本中の女子高生が全く同じ色柄のBURBERRYの短い“首巻”(マフラー)をして通学していた。街という街にBURBERRYが溢れた。日本中の女子高生が揃いも揃って、同じ格好なのだ。私は、心底からバカバカしくなって、その時BURBERRYというブランドを私の関心の範囲から消去した。愚かなブランドであると、軽蔑もした。

ちょうどその頃、光学機器メーカー;O社の課長が赴任先のアメリカから帰国した。彼の帰国早々、打合せがあって訪問したのだが、本題を棚に上げてまぁ怒ること、怒ること。

「原田さん、何ですか! 日本の女子高生のあの体たらくは!!」

「ん??」

女子高生に対する文句は彼以上に山のようにあるが、「日本の女子高生の~」という文句を私に言われても困る。

「マフラーですよ! あの恐ろしいほどの没個性、無個性!!」

「ああ、あれね。日本の女子高生って脳みそないですから」

「娘にあの格好はさせられない! 何よりも本人が驚いてますよ」

「そりゃ、させない方がいいですよ。進んでバカの仲間になる必要はない」

「久々に帰国してみたら、あの画一ファッション! 親も教師もどういう神経してんですか!?」

「親が親で、教師が教師だから、ああいう女子高生になるんじゃないですか?」

「とにかく、腹が立って仕方がない! ナチスじゃあるまいし!!」

どう慰めていいのかと困ったが、彼の憤懣はひとしきり爆発し続けたのであった。

この時期、私自身も完璧にBURBERRYからは遠ざかっていた。女子高生のマフラーによってBURBERRYは死んだとさえ思っていた。今、クローゼットに何着かのBURBERRYのスーツが掛かっているのは、時々訪れるデパートに、偶々(たまたま)BLACK LABELの店が入っていたから、ただそれだけの経緯(いきさつ)に因るものである。いつか自分もBURBERRYのコートを、と秘かに憧れた若きあの日のBURBERRYに対する思いは全く消えている。

BURBERRYPaul  Smith、そしてCOMME CA MENにも共通していることだが、スーツにしてもシャツ、ネクタイにしても、バリエーションが驚くほど狭い。今年はこの傾向と決まれば、形状も、色、柄もその系統ばかり。例えば、スーツなら今年はセンターベンツへ戻っている。先日、わざわざサイドベンツに仕立て直してもらった。私は、基本的にサイドベンツしか着ないのだ。ネクタイの色や柄がまた、驚くほど画一的である。シャツの色にしても、例えばピンクならここ三~四年は申し訳程度の薄いピンクばかりである。ネイビーにしても同様。あれをネイビーとは言わない。これでは、毎日毎食野菜サラダばかりを食べさせられているような“気色の悪さ”があって、全く気が滅入る。真紅のシャツや抜けるようなブルーのシャツがダメになって新しいのが欲しいのだが、どのブランドのショップを覗いても、今はない。とにかく、万事が画一的なのだ。つまり、これらのブランドのメイン顧客は、あのBURBERRYのマフラー時代に高校生時代を送っている、「画一」という水槽の中でしか生きられない、実に無力な世代の者に違いない。

Paul  Smithになると、“正統的な”スーツが作れないとみえる。妙な小細工が多過ぎて、スーツで勝手な自己主張してどうするか、と思ってしまう。男のスーツなんて、所詮仕事着であって、仕事着として最低限欠かしてはいけないポイントがあるのだ。今の若造がいくら仕事ができないからといって、平日は格好だけは仕事着に合わせた生活をしなければならないのだ。また、Paul  Smithのネクタイは、中に長さが明らかにおかしいというものが存在する。BURBERRYCOMME CA MENは、さすがにネクタイの継ぎ目の位置だけは、間違ってはいない。しかし、これって、随分レベルの低い話ではある。

レベルが低いといえば、上記のブランドのシャツは、細かい話だが、胸ポケットの下の角度が微妙におかしい。胸ポケットに、例えばタバコを入れてみれば、直ぐ判る。えっ? 今の若者はタバコを吸いません?? そうかい、そうかい・・・胸ポケットは、格好として付いていればそれでいいって訳か。なるほどねぇ・・・不要になった技術は衰退するという普遍的な原理は、こういうところで健在とみえる。

更に技術といえば、これらのブランドの仕立て技術のレベルもかなり低い。先日、サイドベンツに仕立て直したと述べたが、当然、生地を指定し、裏地も袖口の諸々もすべて注文通りに作ったもらうことになるが(かつてのイージーオーダー、今はパターンオーダーと言うところが多い)、二週間以上経って上がってきたものに袖を通した瞬間、こりゃ、ダメだ! ということになった。スーツというものは、どんな高価な生地を使おうが、着た瞬間に身体の上から下へピタッとフィットして流れなくてはダメなのだ。「流れる」ということは、あくまで上から下へ向かって、つまり重力に逆らわずに「流れる」のだ。試着の時に問題がなかったからオーダーしたにも拘らず、こういうことが起こるのは実に初歩的な話である。要するに、全ての大前提として「人は誰もが奇形である」という、洋服屋なら忘れてはならない基本原理が躾けられていないのだ。

周知の通り、ペリーが日本へ来航した頃、ギャバジンから始まったBURBERRYは、タイロッケン、トレンチなどで飛躍した、言ってみれば戦場で活躍する衣料で世に出たブランドである。Paul  Smithは、私と“タメ”であって歴史というほどのものはないが、もともとケンゾーの商品などを扱っていたのが自らデザインも手がけるようになったというものの、彼を著名にしたのは「ヤッピー」である。考えてみれば、「ヤッピー」に受けるようなセンスが私に合う訳がない。つまり、こういうブランドのスーツやシャツを身にまとおうとした私が間違っていたということだ。人間、誰しも一時(いっとき)の過ちというものは、ある。

一定の年齢に達すれば、人は「弁(わきま)え」というものが大切である。アオキやコナカは別にしても、悲しいかな、私にはせいぜい小田急百貨店、京王百貨店の「吊るし」が一番フィットしているのだろう。英国屋? それは、まだ夢としてとっておこう。

2011年5月21日 (土)

百姓たちの戦国(其の二 食糧を求めて戦へ)

百姓たちは、何故「乱獲り」を行うのか。何故合戦に積極的に参加したのか。答えは一つ、「生きる」ためである。

「生きる」と言えば、言葉としてはいささか体裁が良過ぎる。「生存する」と言った方が、言葉としては相応しいだろう。ここで言う「生きる」とは、それほど原始的な意味での「生きる」ことを意味している。戦国期とは、それほど「生きる」ことが困難な時代であった。

原因は飢饉である。中世の後期に当たるこの時代は、やたら大飢饉に見舞われた。加えて、風水害に疫病の流行。飢えが日常的であった時代なのだ。特に、正長元年1428)、文明五年1473)、永正二年1505)の大飢饉が、ほとんど日本列島全域に於いて甚大な人的被害をもたらしたことが判っている。それ以外の年も各地で飢饉が頻発し、餓死者が絶えなかったのである。十五世紀後半から十六世紀についての史料には、旱魃(かんばつ)、洪水、風害、疫病、そして飢饉を伝える情報が際限なく表われることを、戦国時代の村や百姓の研究では第一人者と目される藤木久志氏も指摘しており、同じく黒田基樹氏も、江戸期の人々が「飢饉」と呼んだ状況が戦国期に於いては「日常」そのものであったという。

何故この時代は飢饉が慢性化したのか。実は、この確たる理由が分からないのだ。この時代は気候が寒冷化していたと言われる。近年では、峰岸純夫氏をはじめとして多くの研究者がこのことを指摘しているが、この説は結構古くから存在する。大きなうねりでみれば、平安時代は温暖な気候であったようで、鎌倉後期から室町に至る時代は寒冷化の時代であったというのだ。このことは、かなり古い時代から指摘されてきたことである。しかし、データによって百年ぐらいのズレがあるとも言われ、寒冷化のみで説明できるまでには固まっていない

一方で、日本列島の人口が一千万人台に乗るのは、この戦国を含む室町時代であるとされている。その背景要因として、司馬遼太郎氏をはじめとする多くの研究者が食糧が増産されたことを挙げている。確かに、全体として食糧が不足すれば人口は増えない。ところが、生産量が増えたとか、減ったとかを検証することはできないとする考え方も根強い。この問題は、まだ明確な答えをもっていないのである。

はっきりしていることは、飢饉というものが単純に生産量が不足して起きるものではないということだ。飢饉の直接的な原因は、生産や流通に関する「社会関係」にあるとすることについては学者や研究者の間でほぼコンセンサスが成立している。それまでの荘園を中心とする生産環境では気候変動による生産環境の変化に対応できず、人びとは新しい「社会関係」を構築しようとする。一言で言えば、その新しい関係構築の動きが「戦国」であると言えるのではないか。食糧を獲得できない人びとは、食糧が自分たちに行き渡るような社会的な仕組みを求めたのである。

慢性的な飢饉の中で、百姓はどうやって生存を図ったか。典型的な形が、「口減らしの出稼ぎ」、即ち合戦である。「家中」と呼ばれる所謂「武士」階層の者に「奉公」する、つまり、中間小者となる契約を結ぶ。これが、前稿で述べた「騎馬」に付く「足軽」である。そして、食糧をはじめ「雑具」(ぞうぐ)=日用生活品、牛馬、人身(特に「足弱」=老人・女・子供)を掠奪する。この“戦果”によって、家族も在所も、果ては「領」も豊かになる。結果として、国内が平穏になる。生きるためには、合戦に出て、勝って食糧をはじめとするあらゆる物財から人身に至るまでを手に入れなければならない。豊かになれば、更なる“戦果”を求めて合戦に出る。百姓は、合戦に勝ち続けなければならない。そのため、敵地に侵攻した時は、敵の地力を衰退させるために必ず侵攻した地の作物を刈り取り(=「刈田狼藉」かりたろうぜき)、徹底した生産破壊を行う。刈田狼藉を受けた土地は、生産不能となるから飢饉となる。その地に生き残った百姓は、またどこかから掠奪してこない限り生きる糧は手に入らない。つまり、戦国の合戦が実は飢饉を発生させていたという側面があり、同時に合戦は生存の手段でもあったのだ。

以前、確か「将と参謀」をテーマにして上杉謙信の関東侵攻に触れたと記憶しているが、東日本が大飢饉と疫病の流行によって悲惨な状況を呈した永禄三年1560)、謙信軍は関東になだれ込んだ。名目としての侵攻目的は、北条氏の台頭によって没落した関東管領;山内上杉氏の支援・復権であるが、果たしてそれだけで越後から山を越えて関東へ侵略したのか。この永禄三年という年は、越後も深刻な飢饉に陥っていた。謙信の関東侵略は、秋の収穫期に始まっている。これは、明らかに収奪を目的とした侵略であろう。永禄四年春に謙信は、前年の洪水被害を理由に越後国内に「徳政令」を出している。つまり、謙信の関東侵略は、実質としては国内の口減らしと他国での食糧確保が目的であった可能性が極めて高いのだ。永禄三年以降、謙信は、永禄十年まで同七年を除くほぼ毎年関東へ侵攻している。その時期は、殆ど秋の終わりから冬である。そして、関東で冬を越し、春から初夏に越後へ引き揚げていく。越後が雪で閉ざされている間は関東で合戦をするのだ。つまり、この侵攻は端境期に於ける食糧確保が主たる目的であったとみられる。残念ながら、『愛の兜』(天地人)が描くように「義」が謙信を動かした形跡はない。事態はもっと切実であったのだ。

飢饉対策として他国へ侵攻し、掠奪によって本国のための食糧をはじめ必要な物資や人身を確保したのは何も上杉謙信だけではない。武田信玄も全く同様である。信玄が父親を追放するというクーデターによって甲斐を支配する戦国大名の地位を得たことは周知の通りであるが、このクーデターそのものが人びとから支持された。父;武田信虎は甲斐の飢饉に対して有効な手が打てず、人びとは「世直し」を求めていたのだ。即ち、信玄のクーデターは、国内世論に押されて実行したものともみられるのだ。信玄は、父親を追放するや否や直ぐ信濃侵略を開始した。そして、その後の合戦は全て国外で繰り広げた。主に信濃を舞台とする国外での掠奪によって甲斐は豊かになり、人びとは「よろしき身なり」になったのである。『甲陽軍鑑』は、それを称えた資料でもある。要するに、謙信、信玄に限らず、戦国大名の繰り広げた侵略戦争の根底には、絶えず飢饉という非常事態が横たわっていたのである。そして、侵略戦争に於ける掠奪の主役が百姓であったことは、上杉軍に於いても武田軍に於いても等しく変わらない。飢饉に苦しむ百姓は、食糧を求めて戦へ出かけていったのである。

2011年5月17日 (火)

百姓たちの戦国(其の一 百姓による百姓に対する乱獲り)

私の古里の姫である「お江」については、大河ドラマが始まる前、つまり昨年中、またはそれ以前に何度か扱っているので今更触れるつもりはないが、個人的に質問を受けることもあったので再び戦国期へ、つまりお江の生きていた時代へ、一時(いっとき)戻ることにする。ただ、今NHKで行われているのは「時代コメディ」とも言うべき創作であって、歴史上のお江と関係はない。ところが「姫たちの戦国」という盗作めいたショルダータイトルを使っているので、一般の視聴者に誤解を与えているだけである。このショルダーが永井路子さんの長編『姫の戦国』(平成九年)からとられたことは明白であり(そうではないとすれば、関係者は余程の本嫌いが集まったものとみえる)、いささか人を不愉快にさせる小細工であると言わざるを得ない。永井路子さんの長編『姫の戦国』が歴とした歴史長編であり、今川義元の母;寿桂尼を主人公とした力作であることは、改めて私如きが解説する必要もないことである。

さて、個人的に受けた質問のことだが、サル(豊臣秀吉)が百姓から成り上がった。いや、百姓以下の身分から関白にまで成り上がった。このことがきっかけとなった話である。この事実に興味を抱く人は多い。また、それが太閤の人気の根源である。尤も、関白という朝廷爵位と武家社会の身分の区別が明確になっている人は意外に少ない。しかし、このサルの成り上がりを戦国特有の現象と受け止める人も、また多い。何故なら、江戸期に入ると「士農工商」というしっかりとした身分制度がガチガチに社会を縛っていたと、学校で教えるからである。実は、江戸期のガチガチの身分制度というものも、そのような理解は江戸期の実態とはかなりかけ離れている。しかし、サルのような現象が江戸期に起こるかと言えば、それはない。それは、一言で言い切るとすれば、中世と近世の違いである。

要するに、百姓は侍になれたのか、百姓はどこまで“成り上がる”ことができたのかという話であり、アカデミックな装いをもたせた言い方をするなら、戦国期に於ける百姓の実態、村の姿とは実際にどういう風であったのか、とでも表現できる実は難解な話なのである。

既に書籍化されている稿も含めれば、本稿は通算318回目に当たる。この性懲りもなく続けている四方山話の中で、武家というもののルーツが百姓であること(「帰農」の話)、合戦に於ける侍身分の者の割合、戦国大名の軍事編成「備」にみられる侍の人数、そして、戦国期の「乱獲り」という現象などについて述べてきた。それは、いろいろなテーマの中に混在して散らばっているが、全部拾い上げて継ぎ足していただければ、戦国期の百姓の実態というものを大体理解していただける筈である。と、こういう言い方をするのは真に不親切極まりないことなので、多少重複することがあったとしても、一度百姓にスポットを当てて戦国という時代を再度見直してみたいと考えた次第である。

そもそも“戦国時代”とは、いつからいつまでのことを指して言う言葉か、これをはっきりさせておかないと話は始まらない。こういうことに諸説があることは言うまでもなく、学者はこのテーマだけで膨大な論文を書くだろう。ここでは、戦国期と呼ばれる時代の百姓の有態(ありてい)を浮き彫りにすることがメインテーマなので、戦国時代という時代区分の特定については一般的な説に従うことにする。即ち、それは「応仁の乱」1467)から豊臣秀吉による「天下一統」が成立した天正十八年(1590)までの大体百二十年余りとする。「応仁の乱」や秀吉による「天下一統」事業については、ここでは割愛させていただく。ただ、「応仁の乱」や「文明の乱」は京都で勃発した乱であり、ここからを戦国時代とするのは畿内に限った歴史区分であるとも言える。関東に於いては「享徳の乱」14551482)を戦国のスタートとするのが一般的である。いずれにしても、十五世紀半ばから我が国は、戦国時代という全国域で日常的に戦争が発生した争乱の時代を迎える。

私どもの受けた歴史教育は実(まこと)に誤りが多く、日本の文部省(現在の文部科学省)ほど自国の歴史に対して不真面目な役所というのも世界的にみて珍しいのではないか。「官軍教育」という偏りの激しい価値観に基づく歴史教育にしても、御一新直後の「日本に歴史はない。これから創るのだ」などと言って江戸期以前の我が国そのものを全否定したところから始まっているので、民族の伝統的価値観は言うに及ばず、自国の歴史そのものを平気で抹殺してしまった。あまつさえ、新政権の正当性を説くことのみに腐心したので、私たちは高々数百年前の先人のことを解らなくなってしまったのだ。アメリカに敗戦してからは更に自虐性が加わったので余計にひどくなり、私どもの若い時代は、日本的なるもの、古いもの=悪 であったと言っていい。今の人たちの民族の歴史に関する知的貧困については、私どもやそれ以前の世代が大きな責任を有しているのだ。

そういう過程で定着した戦国期の百姓像とは、常に被害者のそれであった。合戦に明け暮れる大名や武士、田畑を荒らされ、巻き添えで縁者を失うことも珍しくなかった哀れな百姓たち。まず、これが基本であったはずだ。この機会に、こういう基本中の基本からして改めていただかねばならない。

黒澤明監督の『七人の侍』をとり上げたことがあったと記憶しているが、あの映画の中で、実は村の百姓たちがおびただしい武器を隠し持っていたことが判明するというシーンがある。あれが、戦国期百姓の一面の実の姿である。常に武器を備え、いざという時は攻撃するのだ。どこを攻撃する? 隣村を攻めるのだ。百姓が村を構成し、武備を整え、隣村を攻撃したり、隣村からの来襲を防いだりしたことは、戦国期の百姓のごく普通の在り様であった。鉄砲を備えている村さえ存在した。我が国の農村に受け継がれてきた「若衆」組とは、村の戦闘部隊という一面をもっていたのである。

今日はプロローグ程度にしか触れることはできないが、以前とり上げた「乱獲り」もその主役は百姓であって、「乱獲り」の被害者もまた百姓である。戦場では、農地の破壊、人家への放火、人と物の掠奪、強姦が当たり前のように繰り広げられた。戦場に於いてだけではない。そもそも軍が移動するということは、掠奪が行く先々で行われるということを意味する。後世の軍隊では「兵站」ということが機能として確立するが、戦国期の軍の掠奪とは「兵站」という側面をも含んでいたと言える。

天正二年(1574)、北条軍が下総関宿・猿島(さしま)へ侵攻した際、北条軍は夏麦や苗代、作付けされていた秋作を全て破壊した。刈り取った夏麦のみは、自軍の兵糧にするのだが、他は侵攻した土地の収穫を不可能にするだけの容赦のない生産破壊である。

天文十六年(1547)、武田信玄は佐久の志賀城を攻めた。この合戦では、武田軍は男女を問わず志賀の村人を掠奪し、全員を甲斐に連れ帰り、一人当たり二貫文から十貫文で売り払っている。信玄は翌年も佐久へ攻め入り、敵兵五千人の首を取り、男女無数の村人を掠奪して甲斐に連れ帰っている。

上杉謙信だって負けてはいない。永禄九年(1566)、謙信は常陸・小田城を攻略したが、この時上杉軍の兵たちは敵地の村人を掠奪し、謙信の許可を得て二十銭から三十銭で売買している。

これらは全て合戦に於ける「手柄」なのだ。掠奪や敵地の生産破壊は、「手柄」であることを知っておかなければならない。歴史家からも資料的価値が高いと評価されている『甲陽軍鑑』も、武田軍の掠奪・放火などを信玄の武威が高まったからだと誇らしげに伝えている。ただ、以下のような正直な記述もある。

乱獲りなどにばかり気をよせ敵の勝利もみしらず。

乱獲りばかりにふけり、人を討つべき心いささかもなく・・

これらの悲惨な現実の主役は誰かといえば、加害者も被害者も直接的には百姓であった。この時代の軍の構成とは決して複雑ではなく、基本は一人の騎馬に徒(かち)の中間・小者と呼ばれる奉公人が五~六人とか七~八人付く。これが所謂「足軽」である。そこへ、兵糧などを運搬する陣夫(じんぷ)が、やはり同数程度徴用されている。つまり、軍勢の中心である武士である騎馬兵というものは全体の一割程度しかいないのだ。戦国期の合戦に於ける軍とは大体どこでもこのような形であって、一万の軍勢といっても戦闘を職務とする武士階級(騎馬となり得る階層の者)は千名いるかいないか、といったところであろう。残りの九割が中間・小者たちであって、一部の傭兵的な者も含めて彼らの実態は百姓である。そして、彼らこそが乱獲りの主役なのだ。間違ってはいけないのは、乱獲りする百姓たちは、単に勝利に浮かれて、或いは酔狂でそれをやっている訳ではないということだ。彼らも、生きることを目的として必死になって合戦に参加し、掠奪しているのである。

「生きる」・・・最も基本的なこのことが、必死にならないと叶えられなかったのが戦国という時代であったのだ。

2011年5月 4日 (水)

幕末日米通貨戦争(其の五 敗北、水野筑後守憤死)

意味も分からぬまま「攘夷!」「ジョーイ!」と喚き、「天誅」と称するテロを繰り広げた輩は、何も京だけを舞台として殺戮を重ねた訳ではない。江戸や江戸近辺にも進出してきた。横浜、江戸、そして鎌倉などで、直接外国人をターゲットとしたテロが何件も発生している。

ロシアの東シベリア総督;ニコライ・ムラヴィヨフが七隻の艦船を引き連れ横浜へ来航したのは、安政六年(1859)のことである。後から三隻が合流し、四艦が江戸へ向かい、六艦が横浜に停泊していた頃、ちょうど一分銀の両替騒動が勃発した。当時の在日外国人の言う「ゴールドラッシュ」が始まったのである。この時、数名の士官と水兵が買い出しの為に上陸した。その帰路、何者かに襲撃され、士官一名と水兵一名が斬殺された。これが、幕末の外国人殺傷事件の第一号である。この事件の犯人は、分かっていない。

英国公使;オールコックがこれに飛びついた。ハリスと共に、事件の責任は奉行にあると、間部詮勝(まなべあきかつ)等の幕閣を攻め立てた。犯人が分からぬのも初動捜査の誤りが原因であり、突き詰めれば奉行の怠慢であると、ターゲットを外国奉行;水野忠徳に絞って攻め立てた。オールコックはムラヴィヨフをも抱き込み、外交団は水野の罷免を強く要求したのである。間部はいつの間にか、水野を罷免すればこのような外交団との摩擦も、自分がハリスから罵倒されることもなくなるとでも思ったようで、水野の罷免を決めると同時に、ドルとイチブの同量交換を、一日につき横浜で一万個、長崎・函館でそれぞれ六千個認めると通告してしまったのである。通貨のことなど何も分からぬ大老;井伊直弼が水野罷免を主とする間部の献策を承認してしまった。水野は軍艦奉行へ“左遷”され、通貨問題の当事者ではなくなった。オールコックとハリスにとっては、倒幕勢力のロシア人殺害事件は、天敵;水野忠徳排除の絶好のチャンスとなり、彼らはこれを見事に生かしたのである。ドルと一分銀の両替は水野左遷の一週間ほど前に始まっており、間部は水野に洩れぬよう秘かに事を運んだことになる。ここから、いよいよ本格的なゴールドラッシュ=小判流出が始まったのである。

イチブを手に入れれば大儲けができる・・・外国人は目の色を変えてイチブを手に入れようとした。横浜では一日一万個とされていたが、凄まじい両替要求に押されて最初から一日、一万二千~一万六千個というレベルで両替が行われたのである。両替所の役人にしてみれば、両替させられたといった方が当たっているような、それは血に飢えた狼を相手にするようなもので、この時彼らは既稿で述べたように、申請書にはデタラメな名前(言葉)をサインし、申請額も二百万ドル、三百万ドルといった巨額は当たり前で、中には「セクスティリオン」という単位(ゼロが21)で申請する者まで出る始末であった。多量のイチブが外国人の手に渡ると、今度は小判の値が急速に上っていった。公定レートは一両=四分である。これが、六イチブで取引されるようになり、八イチブまで上昇した。そうすると、江戸市中に眠っていた小判までもが横浜へ流れ始めたのである。当然であろう。本来四イチブの小判が八イチブで売れるとなれば、利益率は100%である。さすがに一両=八イチブとか九イチブになると、外国人にしてみればまだまだ利益は出るが、ボロ儲けというレベルではなくなる。何せ、彼らの神経は既に麻痺している。4050%程度の利益率では魅力を感じなくなっている。そうすると彼らは、絹、海産物などを買い漁り始めたのである。そして、中国沿岸で売りさばけると思った物を手当たり次第に買い漁った。つまり、間部が認めてしまった1ドル=3イチブのお陰で、外国人は日本産品を不当に安く買うことができ、これらを中国沿岸や香港あたりで売りさばけば小判で得られる利益を上回る暴利が得られたのである。このことは、侵略商社;ジャーディン・マセソン社の記録に残されている。かくして、日本国内ではけたたましい物価上昇が始まり、幕末日本に記録的なインフレーションが始まったのである。

こういう狂想曲に迎えられるように横浜へ来航したのが、アメリカ東印度艦隊の旗艦;ポーハタン号であった。新見正興を正使とする幕府の条約批准使節を乗せて太平洋を渡った、あのポーハタン号である。この時、目付として小栗忠順が同行したことは余りにも有名である。またこの艦は、ペリーの二回目の来航の時に一度江戸へ来航している。提督は、ジョシア・タットノール。横浜へ来航したのは、本国へ帰る途中にまさにその批准使節を乗艦させる為である。ところが、この艦は直ぐに横浜を出港し、上海へ行って石炭を積み、再び横浜へ戻って、更にまた後任者との交代手続きの為香港へ出港した。(アメリカ東印度艦隊の任期は二年) 使節団七十七名を乗せて太平洋へ乗り出したのは、その後である。短期間の間に何故このような“複雑な”行動をとったのか。実は、横浜へ来航した時、ポーハタン号はあまりドルをもっていなかった。そこで、直ぐ上海へ出かけてドルを手当てし、横浜へ戻ってコバングを買い漁った。そのコバングを売りさばく為に香港へ出向いたのである。同艦が上海で手当てしたドルは、四十五万ドル(メキシコドル)と言われ、幕府が同艦に認めた両替額は外国商人に公式に認めている額の十五日分=十五万イチブであったとされている。これには、当然ハリスの口添えがあった。幕府にしてみれば、使節団をアメリカへ連れていってもらうお礼であったのかも知れない。

そもそも当時アメリカ船に限らず、外国船が石炭を補給するのは長崎である。上海で石炭を補給することは、まずない。ロシア艦も長崎で石炭を補給している。理由は簡単で、長崎では艦船の恫喝を受け、艦船に対してのみ1ドル=3イチブの両替を以前から行っており、長崎での石炭価格は1トンあたり5ドルと、上海の三分の一であったからである。このことは、日本の外国人社会ではよく知られており、ポーハタン号のタットノールが「上海で石炭を積み込む」と言った時、誰もが首をひねった。四十五万ドルのメキシコドルを積んで帰ってきて、皆、納得したという訳で、一連の経緯は全て横浜を中心とした外国人社会へ漏洩している。

また、当時のヨーロッパやアメリカと東アジアとの間の航路は、喜望峰回りが普通である。蒸気船は石炭を補給しなければならない。補給地は、ケープタウンを出ると、モーリシャス、ガル、シンガポール、香港となるが、いずれも大英帝国の植民地であって補給に困難はない。もし、太平洋を横断するとなるとどうなるか。南米最南端のホーン岬を回ることになるのだ。そうなると、ブエノスアイレスを出ると、ホノルルしか補給地はない。つまり、かなりの困難とそれに備えた覚悟を要することなのだ。蒸気艦船で太平洋ルートを採った例は、これ以前にはなかった筈である。ペリーも、当然喜望峰回りで来航している。しかし、この時のポーハタン号は「後任者と交代手続きをとるため」既に香港へ出かけている。日本の使節団を乗せて、再び香港へは、つまり喜望峰回りの通常コースは採れないのだ。一枚かんでいる公使のハリスが用意した答えは、日本の使節が太平洋横断コースを強く希望しているというものであった。

このポーハタン号のコバング買い漁りには、座礁して横浜に居たアメリカ測量船;クーパー号の副官;ソルバーンも一枚かんでおり、ハリスやポーハタン号のコバング買い漁りそのものは、上海で発行されていた『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙が掴んでいただけでなく、アメリカ国務省も把握していた。

官民挙げてのコバング漁りを繰り広げつつ、ハリスとオールコックは幕府にとって致命的な行為に出た。と言うより、水野を左遷して幕府のタガが外れたとでも言った方が当たっているだろう、恫喝に疲れ果てた幕府はハリス・オールコックの金価格引き上げ勧告を受け容れてしまったのである。オールコックなどは、金価格の引き上げ勧告に日本政府(幕府)が早く従っていればコバング流出は起きなかったと主張していたようだが、幕府側=水野は初期の段階から本位貨幣である金貨の価格を引き上げれば、その分だけの物価上昇をもたらすとして頑として受けつけなかった。どちらが正解かは、改めて述べるまでもない。モノの値段が来る日も来る日も上昇を続ける時、商人は商品価格に転嫁するという手段をもっている。それをもたない市中の民と支配階級としての武家はどうして生き延びるのか。物価上昇のメカニズムなど、武家も民も解らない。民の怒りは、貿易・開港を許した幕府と外国人に向けられる。作家の佐藤雅美氏によれば、幕府は天保一分銀などの代用通貨を発行することによって、文政元年(1818)から安政四年(1857)までの四十年間に平均すると年間約四十五万両の益金を得ていた。寛政三年(1791)から安政三年(1856)までの幕府の平均歳入額は百十九両弱であったから、歳入の約38%を占めていた益金を、ハリス、オールコックの恫喝外交に屈することで一挙に失ったのである。長州征伐の頃には幕府は既にフラフラの状態であり、北海道を担保にフランスから借金をしようとしたほど財政に苦しみ、そこへけたたましいインフレの恨みを一身に買うことになった。放っておいても崩壊は見えていたと言ってもいい。佐藤氏が、ハリスとオールコックが幕府を倒した、と言うのはこういうことである。

批准使節は、当初岩瀬忠震が正使としてワシントンへ出向くことになっていたが、岩瀬は作事奉行に追われた。松平春嶽の拙劣な政治行動のとばっちりである。代わって、水野が赴くことになっていた。ところが、オールコックらの猛烈な妨害があり、外国奉行から引きづり降ろされて成らなかった。それ以前に、両港両都開港開市延期交渉でヨーロッパに使節団を派遣する際も、オールコックらは「副使;水野筑後守忠徳」に強硬に反対し、水野は使節団から外されている。ただ、水野は遣欧使節団に訓令を持たせた。その訓令で、新二朱銀を新たに発行し、流通させたいと提起している。金価格が引き上げられた後のことで、ここで新たに新二朱銀を蘇らせたとしてももはや意味はない。しかし、この提起によって英本国政府が何かを察知するかも知れない。本国政府に、考えることによって理解させたかったのである。日本の通貨体系と共に、何が起きているのか、何故そうなったかということを理解させたかったに違いないのだ。それは、ハリス、オールコックに中国の銭相場の調査を要請したのと同じ手法である。事実、この訓令があってこそ、大蔵省顧問;アーバスナットは、自国の駐日公使;オールコック、アメリカ公使;ハリスの非と幕府の主張の正当性を理解したのである。アーバスナットが問題にしたのは、通貨の同種同量交換という日本側に認めさせた条項はあらゆる国際間の原則に違反するものであること、日本に於ける通貨の混乱は、日本側の意向を無視したハリスやオールコックを主とする外交団のゴリ押しに原因があることなどであるが、最も大きな問題としたのは、訓令に違反して幕府を恫喝し、通貨に関する幕府の主張に一切耳を貸そうとしなかった点である。水野の持たせた訓令の存在によってアーバスナットが理解するに至ったとしても、既に事態は回復しない。しかし、この「理解」は水野忠徳の怨念の為させたものではなかったか。

敬虔なプロテスタントが建国したことを誇るアメリカという新興国家の公使;ハリスは、アメリカ人が最も蔑(さげす)む、恥ずべき行為を極東の島国で繰り広げ、国務省もこれを承知していた。横浜在留のアメリカ人からはハリス解任の請願書まで提出されていた。しかし、南北戦争のゴタゴタで、その処分はうやむやになった。経済評論家;神崎倫一氏は、ハリスを「確信主犯」、オールコックを「事後従犯」とする。

水野筑後守忠徳。高々五百石の旗本であった。京王線の調布の手前に布田(ふだ)という地がある。律令時代にまで遡る古く、由緒ある土地であるが、甲州街道沿いの布田五宿の一つとして知られる。薩長軍に対する徹底抗戦も徳川慶喜に受け容れられず、この地に隠遁した水野は、慶応四年(1868)、五十八歳で病死した。水野の死こそ、憤死と言うべきであろう。

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