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2011年5月21日 (土)

百姓たちの戦国(其の二 食糧を求めて戦へ)

百姓たちは、何故「乱獲り」を行うのか。何故合戦に積極的に参加したのか。答えは一つ、「生きる」ためである。

「生きる」と言えば、言葉としてはいささか体裁が良過ぎる。「生存する」と言った方が、言葉としては相応しいだろう。ここで言う「生きる」とは、それほど原始的な意味での「生きる」ことを意味している。戦国期とは、それほど「生きる」ことが困難な時代であった。

原因は飢饉である。中世の後期に当たるこの時代は、やたら大飢饉に見舞われた。加えて、風水害に疫病の流行。飢えが日常的であった時代なのだ。特に、正長元年1428)、文明五年1473)、永正二年1505)の大飢饉が、ほとんど日本列島全域に於いて甚大な人的被害をもたらしたことが判っている。それ以外の年も各地で飢饉が頻発し、餓死者が絶えなかったのである。十五世紀後半から十六世紀についての史料には、旱魃(かんばつ)、洪水、風害、疫病、そして飢饉を伝える情報が際限なく表われることを、戦国時代の村や百姓の研究では第一人者と目される藤木久志氏も指摘しており、同じく黒田基樹氏も、江戸期の人々が「飢饉」と呼んだ状況が戦国期に於いては「日常」そのものであったという。

何故この時代は飢饉が慢性化したのか。実は、この確たる理由が分からないのだ。この時代は気候が寒冷化していたと言われる。近年では、峰岸純夫氏をはじめとして多くの研究者がこのことを指摘しているが、この説は結構古くから存在する。大きなうねりでみれば、平安時代は温暖な気候であったようで、鎌倉後期から室町に至る時代は寒冷化の時代であったというのだ。このことは、かなり古い時代から指摘されてきたことである。しかし、データによって百年ぐらいのズレがあるとも言われ、寒冷化のみで説明できるまでには固まっていない

一方で、日本列島の人口が一千万人台に乗るのは、この戦国を含む室町時代であるとされている。その背景要因として、司馬遼太郎氏をはじめとする多くの研究者が食糧が増産されたことを挙げている。確かに、全体として食糧が不足すれば人口は増えない。ところが、生産量が増えたとか、減ったとかを検証することはできないとする考え方も根強い。この問題は、まだ明確な答えをもっていないのである。

はっきりしていることは、飢饉というものが単純に生産量が不足して起きるものではないということだ。飢饉の直接的な原因は、生産や流通に関する「社会関係」にあるとすることについては学者や研究者の間でほぼコンセンサスが成立している。それまでの荘園を中心とする生産環境では気候変動による生産環境の変化に対応できず、人びとは新しい「社会関係」を構築しようとする。一言で言えば、その新しい関係構築の動きが「戦国」であると言えるのではないか。食糧を獲得できない人びとは、食糧が自分たちに行き渡るような社会的な仕組みを求めたのである。

慢性的な飢饉の中で、百姓はどうやって生存を図ったか。典型的な形が、「口減らしの出稼ぎ」、即ち合戦である。「家中」と呼ばれる所謂「武士」階層の者に「奉公」する、つまり、中間小者となる契約を結ぶ。これが、前稿で述べた「騎馬」に付く「足軽」である。そして、食糧をはじめ「雑具」(ぞうぐ)=日用生活品、牛馬、人身(特に「足弱」=老人・女・子供)を掠奪する。この“戦果”によって、家族も在所も、果ては「領」も豊かになる。結果として、国内が平穏になる。生きるためには、合戦に出て、勝って食糧をはじめとするあらゆる物財から人身に至るまでを手に入れなければならない。豊かになれば、更なる“戦果”を求めて合戦に出る。百姓は、合戦に勝ち続けなければならない。そのため、敵地に侵攻した時は、敵の地力を衰退させるために必ず侵攻した地の作物を刈り取り(=「刈田狼藉」かりたろうぜき)、徹底した生産破壊を行う。刈田狼藉を受けた土地は、生産不能となるから飢饉となる。その地に生き残った百姓は、またどこかから掠奪してこない限り生きる糧は手に入らない。つまり、戦国の合戦が実は飢饉を発生させていたという側面があり、同時に合戦は生存の手段でもあったのだ。

以前、確か「将と参謀」をテーマにして上杉謙信の関東侵攻に触れたと記憶しているが、東日本が大飢饉と疫病の流行によって悲惨な状況を呈した永禄三年1560)、謙信軍は関東になだれ込んだ。名目としての侵攻目的は、北条氏の台頭によって没落した関東管領;山内上杉氏の支援・復権であるが、果たしてそれだけで越後から山を越えて関東へ侵略したのか。この永禄三年という年は、越後も深刻な飢饉に陥っていた。謙信の関東侵略は、秋の収穫期に始まっている。これは、明らかに収奪を目的とした侵略であろう。永禄四年春に謙信は、前年の洪水被害を理由に越後国内に「徳政令」を出している。つまり、謙信の関東侵略は、実質としては国内の口減らしと他国での食糧確保が目的であった可能性が極めて高いのだ。永禄三年以降、謙信は、永禄十年まで同七年を除くほぼ毎年関東へ侵攻している。その時期は、殆ど秋の終わりから冬である。そして、関東で冬を越し、春から初夏に越後へ引き揚げていく。越後が雪で閉ざされている間は関東で合戦をするのだ。つまり、この侵攻は端境期に於ける食糧確保が主たる目的であったとみられる。残念ながら、『愛の兜』(天地人)が描くように「義」が謙信を動かした形跡はない。事態はもっと切実であったのだ。

飢饉対策として他国へ侵攻し、掠奪によって本国のための食糧をはじめ必要な物資や人身を確保したのは何も上杉謙信だけではない。武田信玄も全く同様である。信玄が父親を追放するというクーデターによって甲斐を支配する戦国大名の地位を得たことは周知の通りであるが、このクーデターそのものが人びとから支持された。父;武田信虎は甲斐の飢饉に対して有効な手が打てず、人びとは「世直し」を求めていたのだ。即ち、信玄のクーデターは、国内世論に押されて実行したものともみられるのだ。信玄は、父親を追放するや否や直ぐ信濃侵略を開始した。そして、その後の合戦は全て国外で繰り広げた。主に信濃を舞台とする国外での掠奪によって甲斐は豊かになり、人びとは「よろしき身なり」になったのである。『甲陽軍鑑』は、それを称えた資料でもある。要するに、謙信、信玄に限らず、戦国大名の繰り広げた侵略戦争の根底には、絶えず飢饉という非常事態が横たわっていたのである。そして、侵略戦争に於ける掠奪の主役が百姓であったことは、上杉軍に於いても武田軍に於いても等しく変わらない。飢饉に苦しむ百姓は、食糧を求めて戦へ出かけていったのである。

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