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2011年6月16日 (木)

百姓たちの戦国(其の四 近江全域を巻き込んだ隣村戦争)

北近江・菅浦(すがのうら)村と大浦庄(おおうらのしょう)の合戦。この二つの村は、琵琶湖の北端に在る。現在の行政区分では、両村とも西浅井町に属する。その名の通り、後の浅井家の領内であるが、ここでみようとしている両村の合戦は、茶々やお江与(江)が小谷(おだに)に居た頃の百年以上前のことである。とはいえ、世はそろそろ戦国期と呼ばれる時代に入っており、各地で飢饉が頻発し始めていた。ただ、近江という土地は他国に比べて遥かに豊かなところであり、飢饉は相対的には少なかった筈である。しかし、琵琶湖北端というこの辺りは、湖東の近江平野のように肥沃ではなく、近江の中では土地は貧しい。時に、六角氏の支配する近江平野中原でさえ飢饉に見舞われたことは、六角氏関係の史料によっても明らかである。両村の争いの原因は、やはり耕作地の領有権争いであった。

菅浦村と大浦庄は隣接している。東側が菅浦、西側が大浦で、菅浦の先端は半島のように竹生島に向かって突き出ている。両村の間に日差・諸河という地域があり、ここには耕作地が開けていた。この日差・諸河地区の領有をめぐって、両村は鎌倉中期から延々と争いを続けてきたという歴史がある。東側の菅浦は特に耕作地に乏しく、同村は特に強く日差・諸河地区の領有権を主張してきた。

文安二年(1445)三月(旧暦、以下同)、両村の衝突が発生した。以下、その経緯を簡略に並べる。

・三月、大浦が菅浦に対して、大浦の持ち山に菅浦の者の入山を認めない旨、通告

・菅浦は、日差・諸河に大浦の者を入れないと、対抗措置を大浦に通告

・六月、大浦の者が日差・諸河に入り、小競り合いが発生

・近隣の仲裁があって、ひとまず和解が成立

・和解案は、互いに山に入り合う(入会権の尊重)というものであったが、大浦では「大浦の者は菅浦の山に入るが、菅浦の者を大浦の山へは入れない」と村内で決めていた(和解案は、このあたりのことを充分詰めていなかった)

・七月二日、大浦側の村内決議を知らない菅浦の若衆二~三十人が、船十艘で大浦の山へ入る

・大浦側は菅浦の若衆を襲撃、菅浦の若衆は退避(死者は出さなかった)

・菅浦側の報復に備え、大浦は、海津東浜今津堅田八木浜各村に「合力」を要請(これらの村とは日頃から同盟関係にあった)

・菅浦側からの報復攻撃がないので、大浦は先制して菅浦に攻め込む(若衆襲撃から僅か二日後の七月四日)

・菅浦では西野村柳野村の四十~五十名を「合力」として村に入れていたが、まだ本格的な援軍を村に入れていなかった

・大浦側は、合力の八木浜、堅田勢が数十艘の船で海上(湖上)を封鎖、本隊が後ろの山から菅浦に襲いかかった

・菅浦は、奮闘して、味方に死者を出すことなくこれを撃退

・七月十日、菅浦は、河道北南西野柳野塩津飯浦(はんのうら)、海津西浜各村、及び八木公文氏、安養寺氏の合力を得て、大浦を総攻撃、この合戦で海津西浜勢から六人、柳野村;中峰氏の一族九人、そして、中二郎という者、合計十六人が討死

(菅浦には「この恩を末代まで忘れてはならない」とする記録がある)

・この年の秋の、日差・諸河地区の収穫は、菅浦の手で行うことができた

これが、北近江で起きた隣村戦争の簡単な経緯であるが、十六人もの死者を出して「たかが隣村との紛争」と言ってはいられないのだ。もはやこれは“立派な”隣村との戦争であり、合戦である。「惣村」とは、そういう「戦闘力」と「闘う意志」をもっていたことに留意しなければならない。この時の争いは、結局、両村から京都に居る領主のところへ「訴訟」として提訴された。この提訴は、更に室町幕府の裁定にまでもち込まれた。因みに、この時点の領主とは、両村とも京の公家;日野家である。そこで問題になるのは、大名や領主と村の関係である。ここにも実は、大きな誤解が誤解のまま放置されているのだが、これについては後に述べる。

大浦・菅浦両村は、その後もたびたび「相論」を繰り返し、両村とも少なからず死者を出しており、「乱獲り」に付き物の「苅田狼藉」といった生産破壊もやり合っている。そのことは少し措くとして、この文安二年の合戦の際の「合力」関係には驚くべきものがある。前述した通り、両村とも多くの村から「合力」を得ている。このこと自体は、当時の村同士の合戦に於いては普通のことであるが、滋賀県の方なら、或いは滋賀県の地理に詳しい方なら既にお気づきであろう。両村に合力した村々は、決して両村の近在に在る村だけではないのだ。菅浦に合力した村で言うなら、塩津、飯浦といったところはまだ分からぬでもない。ところが、安養寺、八木、河道となると、現在の長浜市の北;びわ町に在る村だ。竹生島の湖東対岸に位置し、菅浦へ駆けつけるには陸路をとれば湖北町高月町を経て「賤ケ岳の合戦」で有名な賤ケ岳を越え、琵琶湖北端で塩津へ出て、塩津から今度は南下しなければならない。そうなると、琵琶湖を渡海した方が遥かに早いのだ。安養寺、八木、河道の在るびわ町の対岸に今津が在る。今津は大浦に合力したが、湖東と湖西という対称形を為すだけで陸路をとれば安養寺、八木、河道と同じことが言える訳で、やはり渡海して援軍を送った。一言で対岸と言うが、舞台は近江;琵琶湖である。芦ノ湖や諏訪湖、十和田湖のような“池”のような湖とは訳が違うのだ。周囲は二百キロメートルを超える。南北の長さは約七~八十キロメートルである。私は、高校時代に自転車で琵琶湖一周にチャレンジしたことがあるが、早暁五時に彦根城下;佐和山の麓を出発して、彦根へ帰り着いたのは夜八時か九時頃であったという記憶がある。近江の人びとにとって、琵琶湖とはもはや海なのだ。その対岸とは、平気で二~三十キロはあるのだ。更に驚くべきことは、堅田が大浦に合力しているという事実である。堅田ばかりは、滋賀県とは縁も所縁(ゆかり)もない方でもその名はご存じであろう。近江八景「堅田の落雁」で著名であり、「浮御堂」の優雅な美しさで今も観光名所の一つである。現在の行政区分でいえば大津市であり、ここは琵琶湖の南端と言ってもいい。巨大な琵琶湖の北端の二つの村の相論に、南端の堅田が合力しているのだ。大浦・菅浦両村の争いは、全近江を巻き込んでいたのである。

更に、塩津が菅浦に合力したと述べたが、塩津は琵琶湖の湖上運輸の拠点である。そして、今津も湖上運輸の名だたる拠点であったが、今津は大浦に合力している。塩津と今津は、湖上運輸をめぐってライバル関係にあり、この合力関係の図式は言ってみれば「敵の敵は味方」なのだ。湖上運輸という生業上の関係が合力関係に影響したという点では、琵琶湖南端の堅田が大浦に合力したことも、堅田と今津、堅田と塩津の関係が影響している。琵琶湖西岸の海津の場合は、海津東浜が大浦に、海津西浜は菅浦に付いた。海津の東浜と西浜という隣接した二つの村は、日頃から対立関係にあったのである。湖東の現在のびわ町に属する安養寺、八木、河道が菅浦に合力したと前述したが、同じびわ町に在る湖岸の八木浜は大浦に合力した。八木浜は、八木と河道に挟まれており、それぞれ対立関係にあったのである。近江の至るところで隣接した村同士の対立関係がみられたが、そういう日頃の対立関係、ライバル関係、或いは生業上の友好関係が、やはり隣接して対立する大浦と菅浦の相論に乗じて複雑な合力関係を形成し、琵琶湖を取り巻く近江全域を巻き込んで両村の紛争を一気に拡大させたのである。戦国期に於ける村と村との相論が領主同士の大規模合戦に拡大することはよくあったが、この大浦・菅浦両村を取り巻く合力関係をみれば容易に納得できることであろう。

海津西浜村が菅浦に送った書状を、黒田基樹氏が『百姓から見た戦国大名』(ちくま書房)で紹介している。

―其元境目御相論の由、千万御心元無く存じ候、自然人数等御用に付いては、御さう次第若輩遣わすべく候、様体具に承り度候―

(そちらでは境界をめぐる争いだそうで、いろいろ心配申し上げている。万一軍勢が必要な時は、ご連絡あり次第若衆を派遣するので、状況を詳しくお知らせいただきたい)

まるで戦国大名同士のやり取りを思わせるが、これは百姓が百姓に宛てた書状である。そして、注目すべきことは、合力するということを決して義理で行っていた訳ではないということだ。海津西浜村は大浦と菅浦との間に相論発生との情報を聞きつけ、積極的に合力を申し出ているのだ。明日は我が身・・・我が身に同じことが降りかかった時は、菅浦に助けてもらうことも出てくるかも知れない。村人の生死に関わることとなれば、日頃こそが大事である。

それにしても、戦いには戦費が必要である。この年の合戦で菅浦は、合力の援軍のための兵糧として米五十石、酒代五十貫文、そして、京都での訴訟経費二百貫文を費やしている。同村ではこれを借金に頼り、その返済に約六年を要した。当時の相場では一石=一貫文であるから、直接戦費は合計で三百貫文となる。また、当時の利息の相場は五~六割。同村の年貢は二十石・二十貫文、合計四十貫文であったから、相論は村にとって如何に大きな財政負担を強いたかが分かるだろう。

それでも、村は戦った。戦闘を担う若衆組だけでなく、敵の村から襲撃を受ければ、女は水を汲み、食糧を補給し、楯を持って走った。老人も、槍をとり、矢を背負って防戦に務めた。村として生き永らえるために。

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