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2011年7月23日 (土)

百姓たちの戦国(其の九 人狩りの戦場)

まともに田を耕しても食うことができなかった飢饉と戦争の時代、戦場は百姓たちの切羽詰まった稼ぎ場であったと述べた。戦国という時代の戦場は、「乱獲り」「乱妨」という名の掠奪と非道な虐殺をも含む無法に満ちていたのである。

戦場に於ける食糧や雑具(ぞうぐ)の掠奪が「稼ぎ」になることは、現代の私たちでも容易に理解できる。我が領内は飢饉で食べ物がない。百姓は、次々と餓死していく。領主・大名としては、己の勢力を維持し、安全に生き抜く為には百姓の「成り立ち」を図らなければならない。即ち、百姓を食わさなければならない。そこで、合戦となる。とりあえず隣国へ攻め入り、食糧を奪ってくるしかないのだ。餓死を免れる為の、即ち直接的な意味での「生きる」為の食糧の掠奪である。この種の食糧の掠奪は、確かに激しく行われた。そして、こういう種類の掠奪だけなら、被害に遭う側に同情しながらも話としてはシンプルで解り易い。ところが、この種の掠奪は合戦に於ける「乱獲り」「乱妨」の中心を為すものではなかった。敵地に侵攻していった侍(=奉公人としての雑兵)下人百姓がより“精を出した”のは、米や麦の農作物については「刈田」、掠奪に関しては人の「生捕り」であったのだ。

「刈田」については、農作業をやったこともなく、土の匂いを知らぬ平成の都会人にこまごまと説明したところで、それがその土地と百姓にどれほどのダメージを与えるかは理解できないであろう。百姓は、窮したら芋の蔓(つる)でも、本来は家畜しか食べない野菜の茎でも、果ては稲の株でも食べるのだ。それは、昭和になってからも時に存在したことである。そういう生活のやるせない匂いを洞察できない限り、「刈田」に遭った痛みは解らないであろう。

以下は、後の長州;萩藩藩祖;毛利元就の攻城戦法についての記録である。

――春は、苗代草・麦を返して、田畠を荒らし、夏は、麦作を刈り、植田を混うに民を労し、秋は、畠作を取り、刈田をして、年貢を障り、冬は、倉廩(そうりん)を破り、民屋を焼き、餓凍(がとう)に至らしむる――

つまり、春先には苗代(なわしろ)の早苗やまだ青い麦を根こそぎ荒らし、夏には実った麦は勿論、田植えの済んだ田を荒らし、秋は実った畠作、稲を奪い取り、冬には収穫物を収めた倉や家屋に放火して穀物を奪って、飢えと寒さで生きられないようにしてしまう。これを、戦術として行うことを、誇らしげに伝えているのだ。

戦国の雄;武田信玄の軍にも「敵をつかれしむる三ヶ条」という教えとも言うべき条項があった。それは、「春は早苗をこなし」、「夏は植え田、或いは麦作をこなし」、「民百姓の家を焼く」というものであった。どこの戦国大名も同じだったのだ。「刈田」のことを「作薙ぎ」とも言うが、「薙ぐ」(なぐ)とは「横に払って切る」という語意をもっており、「薙刀」(なぎなた)の「薙ぎ」である。要するに、「作薙ぎ」は、米や麦を奪うということを直接的に主たる目的としておらず、兵糧攻めと同じ効果を狙ったものである。そして、「作薙ぎ」「刈田」に押し寄せることは、敵の村々に対しては非常に効果の高い脅しとなった。その恐ろしさ故に、敵の村が寝返ることも多かったようである。このような正規軍も戦術として採り入れていた「刈田狼藉」は、その手としての主役は百姓であった。効果的に田を「こなす」ことは、その恐ろしさを知る百姓がやってこそ効果も高いということである。

一方、掠奪の対象の中心が物より人であったとは、どういうことなのか。餓死を防ぐには、とりあえず食糧を掠奪すればそれで事足りるではないか。そもそも人の掠奪が、何故、どういう形で「稼ぎ」になったのか

女をかどわかして遊女として売る、という稼ぎ方は、現代人の貧困な想像力の域を超えていない。確かに遊女として売られるということは普通にあったが、戦国期の戦場で繰り広げられた男女の生捕りは、そのような生易しい規模ではなかったのだ。ここに、何かにつけて過去を抹殺してしまう官軍教育の創り上げた“取り繕う”という文化風土の中で、私たちがこれまでタブー視して語らなかった戦国の生々しくも悲惨な歴史事実が、厳然と存在するのである。

慶長元年(1596)、大坂の町で一人の商人が十八歳の美しい遊女二人を買った。二人は、豊後で生捕りに遭い、売り飛ばされたキリシタンの娘であった。豊後という出身地、時期からして、彼女たちは大友氏が秀吉軍に攻められた時に「乱獲り」によって生捕りにされ、ブローカー(人買い商人)を通じて大坂へ売られてきたのであろう。

豊後に限らず、九州で繰り広げられた殺戮と「乱獲り」の様子については、ポルトガル人宣教師;フロイスが豊富な記録を残している。ルイス・フロイス。ポルトガル出身の宣教師、イエズス会会員として戦国期の日本で布教活動を行い、織田信長豊臣秀吉とも会見したことで知られる。彼のことは、このブログでも一度触れたことがあるが、その著作『日本史』は特に著名である。その他、永禄六年(1563)、長崎・横瀬浦に上陸し、慶長二年(1597)長崎で没するまでの三十四年の間に『イエズス会日本通信』『日欧文化比較論』『二十六聖人の殉教記録』など戦国期社会の解明に欠かせない貴重な資料を残している。

ポルトガル人宣教師;フロイスは、「乱獲り」「生捕り」などについても生々しい記録を残しているが、彼の記録もその都度引用するとして、戦場で掠奪に遭った者はその後どうなるのか。物と全く同じように売られるのだ。召使いとして掠奪した側に使役されるということも勿論あったが、その種の需要だけならあれほど大規模な合戦に於ける「生捕り」は起きないはずである。物として売ることによって初めて「稼ぎ」になるのだ。前述した豊後の若いキリシタンの娘は、生捕りに遭って売られて、大坂で遊女として働かされていた。この時代、遊女は、自ら身売りして、或いは親兄弟に売られてその境遇に落ちてきた者も多かったが、このような戦場の捕獲物として売られてくる者も多数いたようだ。しかし、生捕りの対象は若い女だけではない。「足弱」(あしよわ)と呼ばれる女・子供・老人が先ず“獲物”となるが、老若男女、誰もがその対象となった。前稿で述べた漁師や薪を採りにきた男たちがいい例である。その多くが、下僕として、下僕以下の労働者として売られ、買われていった。更に、かなりの数の生捕りに遭った日本人が東南アジアで売りさばかれた。このことは、誰も否定できない、記録にも残る明白な事実である。一説によれば、その数は少なくとも十万人を超えるという。海外へ売られた日本人の実態については、岩生成一氏や加藤栄一氏の研究が最も新しい。彼らの多くは、「軍役に堪える奴隷」「軍事に従う奴隷」として重宝されたのである。その中心地は、マニラ、マカオ、シンガポール、シャムなどであった。彼らを東南アジアに運んだのは、主にポルトガルの黒船である。そして、初期に於いてはイエズス会自身が、この奴隷売買に加担したことが判明している。このことについては、改めて別稿を設ける必要があるだろう。何せ、神の名をかたり、奴隷売買に加担していたのである。

では、「乱獲り」で捕獲された主に百姓たちは、幾ら位の値で売りさばかれたのであろうか。戦国期の“奴隷売買”の研究では第一人者とされる磯貝富士男氏によれば、凡そ二貫文であったという。人間の値段に高い、安いもないが、随分安い気もする。しかし、“奴隷”の値段だと思えば、そこそこの相場ではないかというイメージもある。しかし、先に紹介した北条氏の直轄領;武蔵岩附領三保谷郷の年貢が、天正六年(1578)時点で百六十貫であったことを思うと、やはり「人間の値段」とも思えない。ブローカーの中間搾取を無視して単純計算すれば、三保谷郷の年貢を合戦で捕獲した奴隷だけで賄おうとすれば八十人の生捕りが必要であったということになる。こういう見方をすると、二貫文という相場は安い。

ところが、永禄九年(1566)の上杉謙信の関東侵略に伴って行われた人身売買の相場は、驚くべき低価格で行われている。余程大量の生捕りを行ったとみえて、一人二十文から三十文で売買された。相場の百分の一という、驚くべき安値であった。これは、現在のつくば市に在った小田氏治常陸小田城を落とした時と、藤岡城を滅ぼした時の例である。謙信は、城下に人身売買の市を開かせ、小田城攻略の後などは「春中、人を売買」させたというから、かなりの規模の奴隷売買であった。藤岡城の時は、籠城していた敵は僅か数十名であり、これを皆殺しにした後、城下では「人馬際限なく取る」という人の掠奪を繰り広げたのである。飢えた越後の百姓たちを引き連れた、「義」の武将;上杉謙信(長尾景虎時代を含む)の攻城戦というのは、まず村々や城下に放火し、食糧、雑具、牛馬、そして男女を徹底的に掠奪し、その上で城に籠った敵を皆殺しにするというのがパターンであった。籠城している武士は数十名からせいぜい二百~三百名という、攻城戦そのものはどちらかと言えば小規模なものが多く、その割には人の掠奪だけは相当の期間市が立つほどの規模となっており、明らかに人買い商人(奴隷商人)が常に軍に群がっていたことを裏付けている。因みに、前年の永禄八年(1565)、東国は大飢饉に見舞われていた。

ここでは、人の売買についてその値段のことに触れているが、前述したルイス・フロイスは「奴隷売買」についても多くの記録を残した。以下も、その一つである。

――三会(みえ)や島原の地では、時に四十名もの売り手が集まり、彼らは豊後の婦人や男女の子供たちを、貧困から免れようと、二束三文で売却した。売られた人びとの数は夥(おびただ)しかった――

これは、肥後の者が島津軍から戦争奴隷を買い取ったものの、飢饉となって奴隷すらも養い切れず、島原で転売した時の様子である。フロイスは「二束三文」と表現するが、具体的には一~二文が売値であったという。何と、上杉謙信の奴隷市の相場より更に安く、相場の千分の一~二というレベルであり、文字通り「二束三文」で売られている。こういう安値で叩き買ったのは誰か。この点だけはフロイスは黙しているが、それはポルトガル商船であったというのが、藤木久志氏をはじめとする複数の研究者の見解、推断である。

私たちは、「奴隷」という言葉に疎い。アメリカへ売られてきたアフリカからの奴隷のことは知っていても、自国の長い歴史の中に「奴隷」の存在があったことを知ろうとしない。「乱獲り」に遭って捕獲物として二束三文で売り買いされた人びとは明らかに「戦争奴隷」である。そして、この存在がバテレン禁止令鎖国と深く結びついていることを知らなければならない。同時に、戦国期の百姓たちは、捕獲した百姓たちを奴隷として売って稼ぐだけでなく、実はもっと「高度な」稼ぎ方をしていたことも併せて知っておくべきであろう。そのことは、次稿に譲りたい。

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