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2011年9月

2011年9月28日 (水)

荷風がライバル(其の三 終の棲家)

この小シリーズ(と意図して始めた訳ではなかったが)、三年ぶりの再開となる。今更ながら、荷風とは永井荷風のことであり、何故荷風がお前如きにとってライバルなのかと訊かれると、今は、改めてあれこれ“申し開き”をする精神的なゆとりがない。

先にお断りすべきだが、戦国の話はまだ終えたとは思っていない。長くなったので、間に異質の刺激を盛り込み、読者各位が倦むことを防止しようという、あまり効果の期待できそうにない姑息な作戦である。

10月頭に引越しを敢行する。いよいよ最後の引越しである。つまり、私は来月より「終の棲家」へ移ることにした。

「終の棲家」と言うからには、私はそこで人生を終えることになる。果たして、うまくいくかどうか。計算通りいかないのが人生であるということは、さすがの私でもこの歳になると十二分に解っているが、嫌でも計算を立てなければならないのがまた、人生というものであろう。うまく成就した暁には、「お見事!」と一声いただけたら望外の喜びである。

今の地は、徳富蘆花先生所縁(ゆかり)の芦花公園である。特に大きな不満がある訳ではない。そして、最後とはいえ、今直ぐ引越さなければならない理由も特にない。ただ、蘆花先生には申し訳ないことながら、今の芦花公園を「終の棲家」とする気持は当初からなかった。

昔から、さしたる用事もないのによく井の頭公園界隈へ遊びに出かけていた。桜が咲くと、ボートを出して池の中から花見と洒落こんでいた。ソメイヨシノがたわわに成って、花弁が水面に触れんばかりになると、池が狭くなったようで、それは見事なものである。尤も近年は、満開の夜ともなると必ず若造どもの集団乱痴気騒ぎが始まるので、その時期は昼間花を見て、夜は公園の傍の飲み屋で飲むことが多かった。

日頃はあまり飾りっ気のないこの公園は、池の周り以外に見た目以上に奥が深く、秋、特に晩秋がまたいい。武蔵野の雑木林の面影は、そこかしこに残されている。いつの頃からか、最後はここにしようと、漠と考えていたのだ。はっきり意識して計画したというのではなく、何となくイメージしていたといった程度であったが、前時代に田舎から花の東京へ出てきた次男坊鴉というものは、いつか、何らかの形で己を始末する地を己の意志で決めなければならないのだ。そういうことになっている。

残暑厳しい8月の終わり頃、吉祥寺駅近くのとある不動産仲介業の店に立ち寄ってみた。これも、何気なくといったところで明確な目的意識をもっていた訳ではなかった。吉祥寺へ引っ越す、井の頭公園の傍へ引っ越すという計画をもった客を演じて、今の住まいを頭に描きながら何平米以上だ、駅から徒歩何分以内だなどと適当に条件を出して店の女性の出してくる物件資料を順番に眺めてみたのである。詳しく見る、比較するといった姿勢はなく、文字通り眺めていたのである。吉祥寺というところは近年人気が高く、若者の住みたい街ランキング第1位だそうである。第2位が下北。どちらも私はよく出かける街であるが、あまり年寄りがうろつくところではなさそうである。そういう背景もあって、吉祥寺の駅近くや公園近くに新築マンションでも建てようものなら、土地が高いので建築費用は高くつき、若者が許容する家賃のマンションなど建てられない。その結果、吉祥寺駅近くには新築マンションは少ない。かくして、吉祥寺の不動産屋に掲げられている物件には、築年数の古いものがやたら多いのだ。店の女性が出してくれる物件資料を見ると、どれもこれも築30年、35年といったものばかり。若者向けのワンルームマンションの類以外は、概して古い。中に2LDK70平米強というのがあって、築年度を見ると19694月とあった。私が、社会人になった時に竣工した11階建てマンションである。築43年ということになる。妙に懐かしさを覚えて、候補の一つにしようとした。しかし、私と同期といっていいこのマンションは、如何に内装を新しく整えたとはいえ、私がかなり老衰したことと合わせて考えると、同じようにその骨格に於いてかなり疲弊しているに違いない。昨今は、地震だ、液状化だといって多摩地区の人気が高まっているとはいえ、40年以上も風雪に耐えてきたこのマンションは果たして震度5ともなれば耐えられるのか。震度6ともなれば、恐らく倒壊するのではないか。己の余命を考えれば余計な心配かも知れぬが、果たして、と思って、

『昭和44年か・・・石器時代にできたようなマンションだな。。。』

と呟くと、女性は噴き出した。そして、この客は真面目に家を探している客ではない、と判断したようで、噴き出した余韻を残しながら、

『こんなのもありますけど・・』

といって新たな物件シートを差し出した。

一軒家である。それも、妙な一軒家で3階建てとなっている。当然、占有面積は十分だ。そして、シートに書かれている売り文句が私の目を捉えた。

『井の頭公園がプライベートなお庭のような立地です』

これは、私が真っ先に挙げた条件である。何故これを早く出さぬ!?

数日後に引っ越す「終の棲家」は、このようなふとしたことで遭遇した家である。確かに、公園に文字通り隣接している。3階建てといっても、メゾネット風でもあり、畳の部屋はなくすべてフローリングであり、その点は気持ちがいい。ただ、「畳の上で死ぬ」という究極の目的は適えられそうにない。しかしそれはまぁ、毛唐流の表現に置き換えれば「ブーツを脱いで死ぬ」ということであり、主旨に於いて許容の範囲と言うべきであろう。何よりも玄関を出て十秒も歩けば公園に入ってしまうのが、いい。

池を挟んで対角線の方角に、万助橋がある。太宰治が万助橋の近くに居を構えていたことは、太宰ファンならずともよくご存知であろう。彼は、ここから阿佐ヶ谷辺りまで出っ張って飲み歩いた。彼が女と身を投げた玉川上水は、今も公園の傍を走っている。私は、公然と「太宰には駄作が多い」と書いてきたが、どうやら太宰という人間が好きなようだ。作品は、殆どのものを認めない。ただ、人間・太宰は、常に気になる存在であり、素直になった近年は太宰という人間を好きなのだと内心認めるようになった。駄作に事欠かない太宰ではあるが、数少ない秀作に『東京八景』がある。

――私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。――

そして、太宰は、東京八景の最初の一つをこう表現した。

――毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。――

更に、次のように書き足した。

――ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。――

因みに、太宰の東京八景の候補は、戸塚の梅雨、本郷の黄昏、神田の祭礼、八丁堀の花火、芝の満月、天沼の蜩(ひぐらし)、銀座の稲妻などである。勿論、彼の東京八景の趣意は別にある。

晩秋の公園の林に、今も武蔵野の夕陽は、ぶるぶる煮えたぎって落ちるであろう。その残照に身を置く幸せは、何ものにも換え難い恍惚に違いない。

生きていれば今年102歳を迎えたはずの太宰は、その駄作の多さ故にライバルではない。ライバルは、あくまで荷風先生である。しかし、私はやはりどこかで、無頼派;太宰を、いや津島修治を愛しているのかも知れない。

2011年9月19日 (月)

百姓たちの戦国(其の十四 安全は金で買うもの)

七度(しちど)の餓死に遭うとも、一度の戦いに遭うな

飢饉が日常化し、それによってまた合戦が繰り返された室町という時代。その当時から言い継がれてきた言葉である。餓死を免れるのも大変なことだが、その悲惨な餓死に七度遭うよりたった一度の合戦に遭う方がもっと悲惨だということを言っている。合戦に於ける「乱獲り」「濫妨狼藉」は、それほど残酷であったのだ。住み家は焼かれ、食糧も人も掠奪され、女、子供まで売り飛ばされた。戦国の合戦の多くは、放火合戦、刈田合戦、掠奪合戦であったのだ。徳川家康も、「刈田」「濫妨狼藉」のためだけに軍勢を遠征させたことがある。

百姓は、合戦が起こり、敵の侵攻があると、戦国大名や領主の城へ逃れた。或いは、山へ逃れた。自ら砦を築いて立て籠もるということもあった。前稿に於いては、こういう「城あがり」「山あがり」「小屋あがり」という避難の仕方について述べた。

元亀三年(1572)、九州でのことだが、敵の侵攻に備えて百姓たちは要害を構えて立て籠もっていた。来襲した敵軍は、この要害が「村要害」であることを知ると、攻撃せずに引き揚げたというのである。

『この要害は百姓村と聞く。然々(しかじか)の大将はおわすまじ。これを攻め人を損じて何の詮ぞ』

織田信長なら怒って攻め落とし、相手が百姓でも皆殺しにしたことだろうが、上記の記録は、特に「兵農未分離」であったと説く人は、しっかり受け止めるべきであろう。完璧に「武家の論理」「武家の精神構造」が成立していたことを示している。

そのことはともかく、戦国期の百姓は、大規模なものではないとはいえ自前で城を造る技術をもっていたということだ。このことは、既に触れたが、村ごとに城の塀の補修などを割り当てられていたことと無関係ではない。そして、百姓が日常的に武装していたことも既に述べた。戦国の百姓が、常に武器を保有し、自ら砦を築く技術をもっていたことに改めて注目しておきたい。村の平和は自力で守る、というのがこの時代の常識である。勝手に侵入して来るよそ者は、その武器をはぎ取って村から追い出し、抵抗すれば殺す。これは、掟といってもいい、戦国期の村の常識であった。この観点から、黒澤明監督の『七人の侍』を再見されると、この映画のメインテーマが浮かび上がってくるはずである。別途触れることもあろうが、村が傭兵を抱えることも普通に存在したのである。

よく語られる落人狩りは、このような「自衛」に徹する戦国期の村の掟の延長線上にある。「山崎の合戦」で敗れた明智光秀が土民に討たれたことは誰もが知っていようが、光秀は伏見に逃げ込み、そこで「一揆」として落人狩りを行った百姓たちに攻撃されて最期を遂げたのである。同じ時期、徳川家康は同じ危険を察知して近江・甲賀の里に逃げ込み、甲賀衆に助けられて伊賀を越えて畿内を脱出した。更に、武田の一族;穴山梅雪は、宇治田原で百姓たちの襲撃、掠奪に遭い、あえなく殺害されてしまった。更に、上杉と武田の川中島合戦の際には、上杉軍の小荷駄隊が百姓たちに襲撃されるシーンが屏風絵に残されているが、襲いかかる百姓たちは手に手に弓や槍を持っている。この百姓たちは、信州;篠ノ井・塩崎辺りの郷の者たちで、武田軍とは関係なく、武田方という訳でもない。

戦国大名が兵力に窮して、百姓を戦闘員として動員することがあったが、その際武器は自前である。武器を手にして召集されるのである。つまり、百姓が武装していることは武家にとっても周知の事実であったのだ。この、百姓の戦闘員としての動員については、機会があれば補足しておきたい。

さて、「城あがり」「山あがり」しても、それで必ず無事に生き永らえることができる保証はない。城の曲輪へ逃げ込み、そこで「小屋がけ」したとしても、そもそも長期の食糧を持ち込めるケースは少ない。また、「山あがり」しても、断りなく「山あがり」したことは「曲事」(くせごと=違反行為、犯罪行為)だとして山狩りに遭うことも多かった。どうやって村の安全を維持するのか=「安堵」(あんど)を得るのかは、百姓にとっては避難すること、自力で武器をとって防衛することだけでは叶わなかったのである。何といっても、武士に率いられた軍というものは強大であり、百姓が幾らしたたかで、武装していたとしても最終的には適うものではない。侵攻してくる軍には、ひれ伏した方が安全に生き延びることができるケースもあるだろう。ただ、黙ってひれ伏すだけでは「乱獲り」の被害に遭うだけである。侵攻してくる軍が、たとえ進軍の途中に過ぎなくても、放火、掠奪、強姦、殺害、刈田の類を全く行わないということは、戦国に於いては百パーセントあり得ないのである。そこで、「制札」というものが登場する。「制札」とは、一言でいえば村にとっての「安全保証証」であった。この村に手出しをしてはいけない、違反した者は処罰するといった内容の保証証明である。この保証証明の内容は、誰の「濫妨狼藉」を想定しているかといえば、侵攻してくる軍の雑兵である。つまり、秀吉の軍が侵攻してくる場合、放っておけば秀吉軍の雑兵は必ず「乱獲り」に及ぶ。これは、「必ず」そうなるのだ。そこで、秀吉に自軍の兵の「乱獲り」を想定した「制札」を出してもらう。多くの村が、生命、財産を守る為に大金を払ってこの「制札」を発行してもらい、安全に生き延びようとした。

例えば、秀吉の小田原征伐(北条攻め)の際、箱根の大平台村底倉村は、秀吉の朱印状を手に入れた。底倉村が手に入れた朱印状は、秀吉軍の「濫妨狼藉」・放火・非分を禁じたもので、秀吉の朱印が押されている。押し寄せる軍勢に対してこれを示し、「濫妨狼藉」から村を守る守り札となるこの「制札」を「庇(かば)いの制札」という。

「地獄の沙汰も金次第」である。秀吉が、この「庇いの制札」をタダで出す訳がない。通常、取次銭(口利き料)、筆功料、判銭(はんせん)などを支払う必要がある。筆功料とは、「制札」の書き賃であり、判銭とはハンコ代とでも言えようか。朱印を押してもらうとなれば、ハンコ代が要るということである。この時、底倉村は徳川家康ルートを経て秀吉の「制札」を得ているから、かなりのモノ入りであったに違いない。これだけでは済まない。「制札」を発行してもらって「味方の村」として庇護を受けるとなると、別に課役がかかる。村にしてみれば、秀吉に自軍の雑兵の「濫妨狼藉」を禁止してもらっているだけなのに、ずいぶんと筋違いな要求であるとも受けとれるが、そもそも軍勢が動けば雑兵が「濫妨狼藉」を働くのは“当たり前”であるから、「制札」を発行することはやはり「庇護」に当たるのだ。底倉村は、早速、奉行の浅野長吉から「関白様の御馬のかい料」という名目で、馬の飼料十俵の供出命令を受けた。ところが、苦境にあった底倉村には十俵もの飼料の余裕がない。そこで、大平台村の山上がりする小屋に蓄えられていた穀物を借用し、何とか役を果たした。それだけの効果はあるもので、底倉村は秀吉から、「百姓取り候儀もこれあるまじ」と明記された「制札」も得ることができたのである。つまり、底倉村に対しては百姓の人身掠奪も行ってはならない、ということで、村は重要な“安全保証”を取り付けたのである。因みに、大平台村の山小屋に蓄えられていた穀物とは、大平台村の村要害に備蓄されていた、山あがりした時の籠城用の兵糧であったと思われる。大平台村も、大金を支払って秀吉の朱印付き制札の発給を受けていた。

秀吉もしっかりしている。その後、「制札」発行料の“定価表”を定めた。『ご制札ご判銭の掟』がそれである。それによると、村を規模によって上・中・下の三種に分け、上の村は永楽銭三千二百枚、中が二千~二千百枚、下が千枚と定められた。これに、筆功料=二百枚が別途必要で、秀吉の朱印代とも言うべき「御判銭」は「相場まかせ」とされた。「相場まかせ」とは、寿司屋の「時価」よりタチが悪く、如何にも秀吉らしいと言えよう。この掟では、「取次銭」(口利き料)は不要としているが、この点を以て秀吉の狙いは家臣の中間搾取封じにあったとする学者も多い。いずれにしても、上の村といっても永楽銭三千二百枚というのは決して簡単に用立てることのできる額ではなかったのだ。

「制札」は各種に渡って、当時のものが現存している。ここから逆に軍勢の「濫妨狼藉」の実態が裏付けられるのだが、次稿に於いて更に二、三の実例を挙げてみたい。安全保証には、それが理不尽なものであったとしてもいつの時代も金がかかるということである。空気と水と安全はタダだと思っているのは、戦後日本人だけである。

2011年9月 6日 (火)

百姓たちの戦国(其の十三 城あがり・山あがり)

戦国の城は、その外郭(二の曲輪、三の曲輪)に限っていえば常に領民は言うに及ばず、商人たちにも開かれているものであった。そして、いざという時には領域の百姓たちの緊急避難所となったのである。

城が公共の避難所であればこそ、その維持管理には百姓も労働力を提供した。それは、奉仕とか大名による単純な強制によって行われたのではなく、仕組みができていたのである。北条氏の領内では「末代請切」(まつだいうけきり)という仕組みが存在した。城のどの部分を受け持って補修するか、日頃から村ごとに持ち場が割り当てられていたのである。北条氏康が玉縄城(現在の大船市)の塀を普請する時(永禄六年 1563)、村高十六貫文につき一間の割合で、各村に普請が割り当てられている。例えば、田名村の村高は八十貫、従って同村は五間の造営と維持管理を受け持つことになる。田名村は、中城の曲輪の厚さ八寸の塀五間を受け持ち、これを造り、その後補修にも当たった。資材は、城に出向く百姓が持っていく。資材とは、材木や竹、縄などであり、萱や俵なども持っていく。塀の基本的な材料となる石と赤土は、別途用意されたようである。ここでかかった資材費と手間賃に相当する分は、後で他の「村役」(大普請など)と呼ばれる税から控除される。また、五年に一度の割合で「大普請」が行われていた。更に「末代請切」であるから、台風や他の災害で被害を受けた時は補修しなければならないし、日頃から城に出入りして、自主的に受け持ち部分の維持管理に努めなければならなかった。

今風に言うならば、敵の襲来という非常時に百姓は、「城あがり」という形で城を避難所として難を逃れる「権利」をもっている。いつの世も「権利」と「義務」は表裏を為して同量である。「城あがり」をする百姓は、城の補修、維持管理という「義務」を課せられているということだ。こういう感覚について、興味ある事例がある。

鎌倉の人びとは、敵襲があると城ではなく鶴岡八幡宮へ逃げて、籠るのが習わしで、これも「城あがり」と同じことである。当時は、寺社が領主となる例も多く、戦国期に於いて寺社は宗教的権威である前に戦国領主であった。鶴岡八幡宮の領民は、八幡宮のことを「宮中」と言った。そして、八幡宮の掃除は、鎌倉の町衆の「末代請切」となっていたのである。北条早雲が上杉勢を追い払った時、北条軍は上杉軍を追って鎌倉へ攻め込んだ。永正九年(1512)のことである。鎌倉の人びとは宮中へ逃げ込んだ。この時、北条早雲は、敵地・鎌倉=鶴岡八幡宮に対して、公物(くもつ)=(一種の税)を払えば鎌倉に於いて掠奪を行わず、庇護すると条件提示を行った。交渉の結果、鎌倉の百姓が八幡宮に隠した俵物(穀物)に対して課税することを八幡宮が受諾し、鎌倉は北条氏の庇護を受けることになったのである。つまり、上杉から北条へ領主を切り替えたのである。

ところが、天文四年(1535)、即ち二十三年後のことだが、鎌倉は上杉朝興(ともおき)から逆襲を受けた。鎌倉から湘南一帯の人びとは、持てるだけの俵物、家財を持って八幡宮の境内へ逃げ、籠ったのである。すると北条氏の鎌倉代官が、百姓が八幡宮へ持ち込んだ俵物に対して公料(くりょう)、即ち、庇護料としての税をかけると言い出したのである。これに対して八幡宮は、強く抗議した。二十三年前とは筋目が違う、という訳である。あの時、鎌倉は、北条氏にとっては敵の下地であったから、北条氏の庇護を求めて課税に応じたのである。ところが、今は鎌倉の領民は「御成敗の地(北条領)の者」ではないか。守るべき味方の衆から税(庇護料)をとろうとするのは、いかなる料簡か、合点がいかぬ、という筋論で断固課税には応じられぬと突っぱねたのだ。

この八幡宮の反撥は、論理的である。当時の通念として、「敵の下地」(=敵地)と「御成敗の地」(=味方の地)とは絶対的に違うものであり、大名は味方の地と衆を守る義務がある。これは、当時確立していた「領主観」であったと言える。敵襲を恐れ、寺へ駆け上がった味方の衆を庇護するからといって、そこから庇護料をとるというのは大名の義務を放棄していると言われても仕方がないのだ。

八幡宮がこれほど強く北条氏に抗議したのは、八幡宮と領民がやはり同じ関係にあるからだ。八幡宮の維持管理を「末代請切」の形で義務として負担している領民を、八幡宮は庇護する義務があるのだ。だから、大名に対して必死の抗議を行うことになる。この論争は、八幡宮の勝ちである。

「城あがり」「山あがり」と並んで、「小屋あがり」という言葉もあった。これは、「山あがり」と一体となるケースが多かった。百姓たちは、自力で敵に備える要害を造ることがあったのだ。中には、村の城と言ってもいい堅固なものもあったが、多くは簡単な砦のようなものである。それでも百姓たちは、戦国の掟の通り自力で自分自身を守ろうとしたのである。「むらよふがい」(村要害)と言われた、こういう砦に籠ることを「小屋あがり」と言った。

この小シリーズの初めに、北近江・菅浦村大浦庄の隣村合戦について述べたが、菅浦村が要害を築いていたことが分かっている。『要害をこしらえ相待つ~』とか『~わづかに老若百四、五十人にて城を固め~』といった記録が残されているのだ。

しかし、「山あがり」「小屋あがり」も一つ間違うと大変なことになる。六甲山脈沿いの村々の百姓たちが、織田信長の侵攻を恐れ甲山(かぶとやま)へ「小屋あがり」をしたことがある。

『在々所々の百姓等悉く甲山へ小屋上がり仕る』

信長はこれを敵対行為とみなし、「乱妨人」を動員して徹底した山狩りを行わせ、「濫妨」の限りを尽くさせたのである。

『山々をさがし、或いは切り捨て、或いは兵糧その外思ひ思ひに取り来ること、際限なし』

「乱妨人」は、甲山の村要害から掠奪の限りを尽くしたのである。如何にもヒステリックな信長らしい掠奪、虐殺であるが、信長は各地でこれをやっている。しかし、「小屋あがり」が敵対行為とみなされ、「濫妨」の対象となったのは、何も信長の場合だけではなく、多くの事例がある。例えば、武田信玄も同じことをやっている。

『伊奈の百姓、よき小屋要害へ入り、二千ばかり御手に従わざる』

というようなケースがそれである。それにしても、二千人もが立て籠ったとすれば、これはかなり本格的な要害=砦であったことが推察される。

「小屋あがり」をするにしても、徹底抗戦を貫くことを決意した場合はともかく、通常は金を出して「制札」を出してもらうことが、安全を確保するには最低限の打ち手である。これについては、機会を改めさせていただく。

天正七年(1579)秋、筑前の立花氏と肥前・龍造寺氏が衝突した時、筑前・早良(さわら)郡(今の福岡市早良区辺り)で鳥飼村の百姓が砦に立て籠って立花の軍に抵抗したことがある。このあからさまな敵対行為に怒った立花軍は、足弱(女子供、老人)を生捕りにし、食糧を奪って味方の岩屋城、宝満城へ運び込むよう全軍勢に命令した。軍による「濫妨」を命じたのである。ところが、この村要害がなかなか落とせない。

『郷人とは申しながら持ちささえ候故、破りかね、手負い数人~』

掠奪は全くままならず、逆に負傷者を出す始末であった。鳥飼村一帯は、山地ではない。当時は、入り組んだ入海であったと言われている。地勢をうまく生かして要害を築いたであろうことは想像に難くないが、要するに平地のような場所でも百姓は自力で戦国大名に対抗できるほどの“城”を築いていたということだ。最終的に立花軍がこの砦を落としたのは、翌年の二月のことであった。

百姓は戦乱を生き抜くために、権利・義務の関係とも言える「労役」と「庇護」の関係を大名との間に成立させて大名の城を避難所とし、時に自ら要害を築いて「山あがり」「小屋あがり」して生き残りを賭けた抵抗戦を繰り広げたのである。秀吉は言う。

『城をこしらえ候ことは、弱味の時もつべきために候』

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