« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月29日 (土)

華の二本松(其の一 全藩挙げて戦い、全藩壊滅した唯一の藩)

NTTに対する怒りは収まらぬが、三陸から東海、南海と地震の連動が指摘されるように、怒りもまた連動する。東京電力が“しゃあしゃあ”と営業していることが不思議であり、何故この犯罪企業を放置しておくのか、私には理解不能である。津波の来襲を受けてのこととはいえ、放射性物質の大量散逸は明白にこの企業の「重大な失態」であり、事故が発生した瞬間に国は東京電力を管理下に置き、この企業は事故収拾のみを専一目的とした機関としてのみ存続させ、少なくとも福島原発着工時点にまで遡って歴代経営陣(全役員)に“腹を切らせる”べきであった。今からでも、断固処分すべきであろう。それが「正義」を成立させるスジというものである。この企業は、今もなお放射性物質を排出し続けている。と私は考えている。事故の収拾とは、狭義に限定しても、放射能の排出をまず停止させることから、被害者への一次的な補償まですべてを含む。企業のトップや政治家が不祥事の度に、「二度と繰り返さない仕組みを作ることが私の責任」などと言って居座ることがままあるが、今回のことはそういう従来の言語回路で対処できる範囲を遥かに超えているのだ。放射能や原子力に関しては、今の40代以下の世代はその極めて初歩的な知識を義務教育時代に全く与えられていない。何も教わっていないのである。核分裂と核融合の違いも知らぬど素人が、どこまで正確か専門家も危惧する中国製の10万円もしない安価なガイガーカウンターを持ち歩き、通学路がどうの、側溝がどうのと騒いでいるが、まずやるべきことは加害者である、そして今なお加害中である東京電力の「始末」であろう。対処の順逆を間違えてはいけない。というより、対処の順逆ということを考えるべきであろう。今では、ど素人の分際で放射能や原発について、あちこちの資料からデータを引っ張ってきて、ブログなどの場で専門家気取りで解説する輩が溢れているが、こういう輩こそ風評被害の一つの発生源なのだ。中には、アメリカの原発所在地をプロットで示し、乳がんの発生率の高いエリアと一致するとして、元キャンディーズのスーちゃんの死因をチェルノブイリ事故に求めるという、実に“非科学的”で乱暴極まりない論を吐く輩まで現れている。夏場の狂気の「節電ファシズム」が如何に的外れであるかについては、改めて触れる機会もあろうが、いずれにしても私どもは被災地域の苦難を1グラムでも減少させることに今後も精力を注いでいきたいし、一方で犯罪企業である東京電力の「解体」を強く求めていきたい。

思えば、奥羽の地は常に南方勢力の犠牲となってきた。加害者は、常に南方から押し寄せてきたのである。そして、南方勢力が打ち立てた覇権に対しては、いつの世も、その耐え忍ぶ特性を発揮して貢献してきたといえる。

「奥州三関」という。勿来(なこそ)の関、念珠(ねず)ケ関、そして、白河の関のことであることは、中学の歴史の時間に教わった通りである。これらが設けられたのは、乱暴な言い方をするが、平安時代のことである。当時、東北の人々が蝦夷(えみし)と呼ばれて、南方人から蔑視、敵視されていたことも周知の通りである。即ち、奥州三関は、北に住む蝦夷の南下を食い止めるために設けられたものである。しかし、奥州三関がその目的に照らして役割を果たしたことは、歴史上一度もなかった。正しくは、蝦夷と呼ばれた人々が南へ攻め込んできたことはただの一度もなかったのである。奥州三関が存在したから南下しなかったのではないことは、いうまでもない。

歴史上の事実は、真逆である。攻め込むのは、常に南方人であった。世界遺産に登録された平泉を攻め、藤原氏の華麗な文化を滅亡させたのは源頼朝であった。豊臣秀吉は、小田原攻めの後、「奥州仕置」と称して軍事力を以て奥州を己の勢力下に置き、これによって天下を掌中に収めるという野望ともいえる事業を完成させた。もっとも新しい南方人による東北侵略が、戊辰東北戦争である。

戊辰戦争については、さまざまにアングルを変え何度も述べてきたので、改めて述べることは避ける。これからしばらくは、戊辰戦争の中でももっとも激しい戦いを繰り広げた東北戦争について、それも薩摩・長州にとっては直接のターゲットでも何でもなかった二本松武士の戦いについて、その壮絶な抵抗魂を振り返っておきたい。「判断すべきことを何も判断できない」とアメリカを怒らせている平成日本人は、僻遠の地;奥羽の小さな家中が押し寄せる薩摩・長州・土佐という「官賊」大軍に対してどう振る舞ったかを知っておいて無駄ではなかろう。勿論、二本松もまた今日東京電力による被害地域の一つである。

二本松・丹羽家十万石武家の数三百五十四家。卒家(足軽や中間クラス)同じく三百数十家。薩摩・長州軍にしてみれば、会津・庄内を攻める通り道にひっそりと佇むこの小さな藩は攻撃のターゲットでも何でもなかった。近づけば直ぐ降伏すると思っていただろう。慶応四年(1868729日(旧暦)、あと四十日ばかりで「明治」になろうというこの時期に、奥州街道を会津に向かって進軍してきた薩長連合軍(反乱軍=新政府軍)に対して、旧式軽砲ながら小高い丘に陣取っていた二本松藩砲兵隊から一発の砲弾が撃ち込まれた。これが、二本松戦争の始まりであった。この戦端を開いたのが通称「二本松少年隊」と呼ばれる、一人の青年武士に率いられた少年たちばかりの部隊である。よく知られる会津・白虎隊の少年たちは、その中心が十六~十七歳であったが、「二本松少年隊」は更に幼く、最年少十二歳、最年長十七歳、中核は十三~十四歳であった。しかもこれは「数え年」であって、現代流にいえば十二歳~十三歳、即ち、小学六年生~中学一年生という少年たちであった。最初の戦闘は僅か三十分ばかりでケリがつく。その理由は追々触れていくとして、少年たちは城下へ敗走する。しかし、彼らは単なる敗残兵ではなかった。城下に入っていた新政府軍別働隊に向かって、健気にも白兵戦を挑んでいったのである。

少年隊の一人;上崎鉄蔵、十六歳。前日の728日朝、出陣した。この時期、どの家も男たち(武家)はすべて前線へ出陣しており、家には女しかいない。鉄蔵の母と祖母が見送る際、

『行ってきなさい』

と最後の声をかけた。これに対して、鉄蔵少年は、

『今日は、行け、だけでしょう』

と応えたという。つまり、二度とここへ還ることはないという覚悟はできているという意味である。その通り、その足で大谷志摩隊に属した彼は、竹田門辺りで討ち死にした。幼い少年たちが一人、二人という例外的な事例と言える数ではなく、数十人という規模で一隊を組織し、藩の正規部隊として戦ったという例は、世界の戦史にもほかにはないといわれている。「二本松少年隊」と呼ばれた少年たちは、はっきり記録に残っている者だけで六十二名である。

戊辰東北戦争だけでなく、戊辰戦争全体の中で、全国で三百弱存在した大名家=藩のうち全藩挙げて総動員体制で新政府軍に抵抗し、文字通り壊滅したのは二本松藩ただ一藩である。

ここに一つの数字がある。

二本松藩は、戊辰東北戦争に於いて三百三十八名の人命を失った。これを人口一万人当たりでみると、約五十名である。同じく会津は、人口一万人当たり百五十名という甚大な損耗を蒙っている。この二藩の戦死者の割合が、奥羽越列藩同盟の中で傑出して高いのだ。攻める薩摩・長州はといえば、両藩とも戦死者は戊辰戦争全体を通じて人口一万人当たり六人であった。土佐藩は更に少なく、二人である。この数字は、会津・二本松両藩が、如何に苛烈な抵抗戦を繰り広げたかを示している。

二本松を攻撃した新政府軍の指揮官(参謀);土佐の板垣退助の言葉。

『一藩こぞって身命を擲(なげう)ち、斃れてのち已むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする』

また、明治から大正を経て昭和初期に至るまで我が国論壇をリードした徳富蘇峰徳富蘆花の兄)は、

『会津・二本松の卓越した政治姿勢があったから、日本は植民地にならずに済んだ』

と述懐した。

会津のことは、相対的にはよく知られているので、ここでは二本松という山間の小藩の事情に立ち入ってみようと思うが、彼らは少年を動員してまで何故徹底抗戦を貫いたのか。「奥羽僻遠(へきえん)の地にして天下の形勢に疎」かっただけなのか。

あれから百四十余年を経て、再び大きな困難に見舞われたこの地の中で、会津と共に、小藩であるが故に会津以上に強烈な一瞬の光を放って滅びた二本松藩には、今の困窮を乗り切る奥羽の魂の素が静かながら確固と脈打っていたように思われる。

2011年10月23日 (日)

くたばれ! NTT ―まだ人間が民営化されていない低劣な企業―

NTTのことについては、以前どこかで書いた気がする。ここで再び俎上に乗せなければならないことは、この企業が依然として低劣で、進化していないことの証明である。

最近、「終の棲家」へ引越したことは既にご報告した通りであるが、引越しとなると、NTT東日本や東京ガスなどと、否応なしに接することになる。今回も始まる前から気が重かったが、案の定NTT東日本は人を小馬鹿にしたような対応をして、またまた私を怒らせた。

結論からいえば、この会社はまだ人間が民営化されていないのである。人間が民営化されていない組織が、民営化された企業になることはない。電電公社時代を知っている年配社員が一人残らず消えない限り、この企業が「モラルと社会に対する愛情をもった、普通の民間企業」に生まれ変わることはないのだ。

電話移転の連絡を入れたら、万事デジタル化時代のこと、オペレーターは、光電話、光TV、そしてPCと、すべて“連動”している回線で暮らすことを、「今の当たり前」として対応した。私も、それはやむを得ないな、と思って了承したのだが、工事日が引越しから1週間後、と少し間が空くことになった。今更、焦っても仕方がない。1週間の間、TVは見られないし、PCも使えない。勿論、電話はダメである。しかし、TVの連続ドラマに夢中になっている訳じゃなし、PCに触っていないと身体が震えるなどという“中毒”にかかっている訳でもない。たまには、新聞と読書だけで過ごす夜もいいだろう。せっかく「終の棲家」に相応しい環境を選んだのだから。ただ、学生たちのデジタル遊びと違って、PCだけは仕事道具であるから1日程度ならともかく1週間もの間「使えない」では済まされない。やむなくこれは、Eモバイルを使って乗り切ることにした。

やっと工事日。

オッサンが一人でやってきた。結論からいえば、電話回線の開設しかやらなかった。テレビもPCもセットでやることになっているだろうが! と抗議しても、「電話だけ」になっていると取り合わない。更に、恩着せがましく、解ればやってあげるが、自分は電話のことしか解らない、などとほざく。

まず、この電話回線の開設に来たオッサンについていうと、このオッサンの所為(せい)ではないが、如何にもNTTらしい不条理なことをやってくれる。今回、併せて新しい受話器とFAX機をNTTから購入したのだが、機器そのものは数日前に宅急便で届いていた。業務用の車で乗りつけたオッサンは、ただルーターを持参して、電話・FAXを取り付けただけである。取り付けたはいいが、一言も何の説明もしない。まぁ、説明書ぐらいは付いているはずだからそれを読めばいいのだが、説明書はどこにあるんだ!? 恐らく、機器の入っていた段ボールの底にでも入っているのだろう。ここまででも通常の民間企業ならあり得ないことである。新しい受話器・FAXを何故わざわざ別便で送るのか。普通の企業なら、無駄な配送費はかけない。どうせオッサンがルーター持参で来るではないか。一緒に持ってくればいいではないか。工事担当のオッサンたちが嫌がるから? 保管倉庫が全く異なる場所にあるから? バカも休み休み言うがいい。コスト圧縮は、民間企業の初歩的な命題である。更に、新しいルーターを持参したオッサンは、これまでのルーターを引き取らない。これまでのルーターは、当方が別便で送り返すことになっている。しかも、送料は客に負担させる。この理由をオッサンに糺すと、「担当エリアが違うから」・・・アホか!! 加えて言えば、空になった段ボール箱だけを置いて帰るな!! 民間のどんな会社でも、配送した者は空き段ボールは持ち帰るものだ!!

要するに、NTTという企業にはコスト意識利用者は顧客であるという初歩的な意識が、まだ存在しないのである。電話を付けてやっている、のだ。諸々のオッサンの対応が民間企業ではあり得ないことは言うまでないが、これらはすべてオッサン個人の問題ではなく、いつまで経っても「人間が民営化されない」NTTという欠陥企業の仕組みの問題である。このことは、東京電力などの電力会社と全く変わらない。

23日後だったと思うが、受注したオペレーターTに抗議の電話を入れた。Tは、自分のメモには電話だけとなっていると頑強に突っぱねる。大したものである。「自分のメモ」が、自分が誤っていない証明になるとでも言うのか。その上、勝ち誇ったように「こちらでは、どこがどういう回線か、一戸一戸解っています!」などとぬかす。ならば、最初から教えろ! 我が家がどういう回線で、私はどうすべきかを!!

所詮、オペレーターはNTTの正社員ではない。そこはNTTにとってはうまく、つまり無責任にできている。以前、NTTの管理職が頼みごとで私の会社へ来たことがある。その時、この50男は膝をあぐら状に組んで、ふんぞり返って「頼みごと」をした。恐らく、この男の過去に於いて、人さまにものを頼むということがなかったのであろう。また、礼儀として頭を下げるという経験もなかったに違いない。あまりの無礼な態度に怒った私は、門前払いを喰らわせたが、この無知な50は逆にこちらの態度に怒りを露わにして帰って行った。その日の夜、同行してきていた若い女性社員から詫びのメールが入った。この女性が民営化されてからの入社であることは、一目瞭然であった。オペレーターTは、正社員ではないが、声からしてかなりの年配である。この企業は、オペレーターから管理職、果ては恐らくトップに至るまで、低劣としか言いようがないのである。民営化されたとはいえ、回線はまだこの企業グループが独占している。KDDIだって、NTTの回線を借りるしかないのである。

NTTの前身である電電公社JTの前身である専売公社など三公社五現業とは、昭和23年頃制定された法律を根拠として存在していたもので、戦後のドサクサの産物である。これを民営化するのに40年~50年もかかった。この間に、腐り切った「官」の悪弊だけを身に沁み込ませた。誤解を恐れずにいえば、民営化以前に入社した連中が死に絶えない限り、これらの企業が実を伴って真っ当な民間企業になることは不可能な気がする。

さて、テレビは勝手に接続して地上デジタルだけは見られるようにしたが、BSがまだ見られない。民放のくだらなさに愛想を尽かして、これまで、私はほとんどBSしか見ていなかった。また、PC3階の仕事場にあるので2階のリビングから無線LANを飛ばすしかなかろう。それはそれで、NTTの別の“部署”へ一から申込みをやり直し、その指示のもと、ルーターの中をそれ用に設定し直さなければならない。(彼らは、電話で指示だけするらしい) あまりにもバカバカしいので、まだ再申込みする気にもならない。FAXもオッサンが機器を接続していっただけで、まだ使えるような設定にはなっていない。

東京電力などと同様、地域独占にあぐらをかき、絶対儲かる料金設定システムによって安穏と暮らす連中を掃除する術はないものか。

2011年10月10日 (月)

戦国合戦余話(其の三 女たちの戦国ー前篇)

今ほど女性の幸せな時代は、かつてなかった。といえば、また文句が殺到するに違いない。男からみると、可哀そうに、不幸せなことだ、と思うことが多いが、当の女性が圧倒的に自分たち女性は幸せだと思っているようだから、余計なお節介をやくことはない。

平成の女性のことはさておき、戦国期の女性がどういう目に遭ってきたかについては、知られているようで、実はあまり正確に語られたことが少ない。

戦国期から江戸初期まで、そもそも戦場で人をさらう=略奪することがことさら“悪事”であるとは思われていなかった。人をさらって売り飛ばし、それを利益、手柄としてきたことは何度もその事例を出して述べてきた。略奪する主役は、所謂「雑兵」(ぞうひょう)たちであった。

合戦になって女性が受ける被害は、略奪と強姦である。大概の場合、それらはセットである。『大坂夏の陣図屏風』には、大坂夏の陣で徳川軍が町中の女を略奪する様子が“堂々と”描かれている。身ぐるみを剥がされて裸にされている女も描かれている。この絵の通りであったとするなら、雑兵や「濫妨人」たちだけでなく、徳川正規軍の武士までもがこれに参加している。大坂夏の陣といえば、慶長20年(1615)に勃発した戦役である。徳川家康が征夷大将軍というポジションを朝廷から認められたことを以て「徳川幕府」の成立とするならば、幕府成立から既に12年の月日が流れており、世は二代将軍;徳川秀忠の時代である。つまり、私たちが学校で教えられる歴史では、江戸時代に入っている。そういう時代に起きた戦乱の現場とは、まだそれ以前の戦国期のそれと全く変わっていなかったのである。

なお、「濫妨人(らんぼうにん)」について改めて触れておくと、彼らは「悪党」とも呼ばれ、どこの大名にでも雇われた。とはいっても、正面切って戦う武力衝突の為の傭兵ではなく、彼らの主たる仕事は「乱獲り」や忍びや夜討ち、放火といったゲリラ戦である。武士は、打ち取った敵の首を取る。これは、武士にとっては手柄の証明になるものであり、どの合戦に於いても正確に数えられ、記録にも残される。これが「恩賞」に結びつくのである。ところが、侍=雑兵や濫妨人には、命令によって人を生捕りにしようが、刈田をやろうが、恩賞というものがない。作戦としての放火を実行しても、褒美=ギャラがないのだ。その代り、彼らは略奪を“公認”されていたのである。人を含めて好き放題奪い取ったものが彼らの稼ぎであったのだ。いつの世もノーギャラで戦争に参加する者は、特殊な例外を除いては存在しない。彼らにとっては、略奪物がギャラ代わりであったのだ。武士だけで軍勢を組織しようとしても大した数にはならない。大軍を成立させる為には、氏素性も定かでないこういう連中を組み込む必要があったのだ。

大坂夏の陣に参戦した蜂須賀軍は、170人の男女を捕獲した。その内訳は、男38人、女68人、童64人となっており、8割が女と子供であった。合戦で捕獲される人間の多くが女と子供であったという傾向は、蜂須賀軍に限らず、またどの合戦かに拘わらず、大体共通していたことである。男より女・子供の方が捕獲し易いことは、説明するまでもないだろう。また、女には性的欲望のはけ口としての“需要”もあり、男より価値が高かった。子供が数多く捕獲されたのは、男色の盛んな時代であったという背景があるとする説もあるが、果たしてどうであったのか。それについては、私は十分な資料を見たことがない。

徳川軍は、京都の寺社にも陣取りをしていたが、合戦を終えて大坂から引き揚げてくる部隊を見て、

『女・童部を取りて陣衆帰る。あさまし』

と書き残した僧の記録がある。

また、映画やドラマでお馴染みの大久保彦左衛門もこの合戦に参戦していたが、

『悉く女子をば北国、四国、九国、中国、五畿内、関東、出羽、奥州までちりぢりに捕られけり』

と書き残している。(有名な「三河物語」)つまり、大坂で捕獲された女が大名、人買い商人によって全国各地に連れ去られたことを言っているのだ。私たちは、学校の歴史の時間に「三河物語」のことを聞かされている筈である。しかし、その「三河物語」にこういう記述が明確に存在することについては、何も教えられてこなかったのである。

女性が暴行、生捕りに遭うのは、戦国期の戦場の常であり、大坂夏の陣に限ったことではない。織田信長が越前の一向一揆を制圧した時も、殺された一揆側の一向衆の数より捕獲された者の数の方が遥かに多く、2万人とも3万人とも言われている。また、下総の結城家には人狩り=奴隷狩りとしての女狩りを禁じた珍しい法度があった。結城軍が雇った「濫妨人」の類のプロ集団には、当然のこととして人狩り、女狩りも認められていたのだが、結城家近臣の若者たちがそれに便乗して女狩りに熱中したのである。それが余りにもひど過ぎるといいので結城家では家中の女狩りを法度で禁止したという訳である。こういう法度の存在が、逆に女たちの被害が尋常ではなかったことを図らずも示すことになった。九州では、島津軍の激しい人狩り、女狩りがあったことを、ルイス・フロイスの記録が伝えている。彼の記録にある「異常なほどの残虐行為」とは、強姦のことである。また、前にも触れたが、豊臣秀吉は北条攻めに際して上杉軍に対してわざわざ命令を発している。

・勝手に(下知なくして)乱獲りするな

・女、子供をさらって売買する者がいたら処分する

このことは、逆に「認められた」乱獲りなら構わない、ということを意味している。そして、「愛の兜」の上杉軍では他の大名軍同様、女、子供の捕獲、売買が行われていたことを裏付けている。

では、女たちはただ強姦され、売り飛ばされるだけで、唯々諾々とその運命を受け容れていたのか。当然、そのようなことはない。その災難から逃れる為に必死で避難した。先に述べた「城上がり」「山上がり」も、必死の避難行動であった。避難しながらも、押し寄せる敵軍を迎えて、勇敢にも武器を持って防戦に加わった女たちもいる。

天正17年(1589)、小西行長の軍勢が天草の本渡(ほんど)城を攻めた時、近在の村々の百姓たちは城に籠るしか生き延びる術はないとして、女、子供も悉く「城上がり」した。この籠城戦で女たちが勇敢にも侵入してくる敵兵と戦い、「その箇所の濠は女たちが殺した敵兵で埋まった」と言われるほど奮戦したのである。勿論、濠が埋まるとは誇張であるが、この戦は、女たちも武器をとって戦った籠城側が勝利したことは史実である。その他、女、子供ばかり400人が立て籠った村の要害で、女たちが一斉に太鼓を打ち鳴らして、鬨(とき)の声を挙げ、防戦に努めた例、城下に侵入してきた敵兵に向かって、女・子供20人が取って返して敵と激しく白兵戦を演じた例などが記録に残されている。また、既稿で述べた近江の「隣村戦争」では、女たちは水をもって、楯をもって走り回り、戦う男たちの後方支援を担った。

しかし、女の力で武装した軍勢を撃退できることは、ほとんどない。結局は、大多数の女性が戦場の性暴力の犠牲となり、戦争奴隷として各地に売られていったのである。

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ