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2011年11月

2011年11月20日 (日)

華の二本松(其の四 一方的な虐殺)

近年、リスペクトなどという英語を使ってスマートぶっている40男が増えたが、そういう言葉の方が理解しやすいというなら、醜悪な長州人;世良修蔵には奥羽の風土や文化をリスペクトするという精神が微塵もなかったということだ。ただひたすら己の欲望のみに忠実で、制圧されるべき相手の心情に対する思いやりとか配慮といった心をもっていなかった。これは、一言でいい切れば知性の問題であり、世良には武家的な知性が全く備わっていなかったということである。人間として下等であったといっていい。

同じ討幕軍でも、薩摩の西郷隆盛などになると少し趣が異なる。西郷も、赤報隊の例で明らかなように、ずいぶんと残虐非道な手を使った。小御所会議の際も、暗殺するぞとばかりにドスをちらつかせて土佐の山内容堂たちを脅した。このあたりのやり方は、まるでヤクザ、極道の手口である。一方で、西郷という男は、百姓と区別のつきにくい程度の薩摩の田舎武士でありながら「武家の倫理観」や「武家の在り様」というものをリスペクトすると共に、自らもその属者(しょくしゃ)であるというような謙虚ながら高い誇りをもっていた。江戸開城に際して品川の薩摩屋敷で勝海舟と会談した際、勝者側の最高司令官(東征軍大総督府参謀)でありながら敗者側の代表である勝に対して決して礼を失しなかった。勝海舟という男も、もともと武家でも何でもない成り上がり御家人であり、誠に狭量な男だが、その勝でもこの時の西郷の態度に感服している。決して膝を崩すことなく、手を膝の上に乗せ、威儀を正して敗軍の代表との談判に臨んだのである。このあたりは、仙台藩重臣の前で女の膝枕で公文書を足で弄んだ長州の漁師上がりの世良とは、人間と畜生ほどの差がある。また、西郷は、江戸城に入る際、江戸城のこれまでのしきたりを尊重した。江戸城に足を踏み入れる時は、その式台に上がる時、大名といえども太刀を帯びたまま上がることは許されない。それができるのは、将軍のみである。一方で、脇差は武家のたしなみとして、帯びたままでなければならない。西郷は、従者を連れて入らなかった。まずこの点が征服者の態度ではない。そして、太刀を外し、それを手渡すべき従者がいないので、自ら両手で捧げ持って城内に入った。これまで天下の政治(まつりごと)を担ってきた徳川将軍家に対する敬意を失わなかったということだ。こういう西郷だからこそ、さんざん述べてきたように、明治新政府の成り上がり長州人の腐敗が許せず、下野して「西南の役」で起ったのである。

慶応四年四月十九日(旧暦)深夜、世良は女と寝ているところを仙台藩士らに襲われ、負傷して捕らえられ、阿武隈川河原に引っ張り出されて、二十日未明斬首された。この瞬間に二本松藩を含む奥羽諸藩は、薩長軍と実質的に交戦状態に入ったといっていい。その日二十日、二本松藩、相馬藩など福島六藩は、奥羽鎮撫総督府軍事局に対して、会津攻めの為に準備させられていた部隊の「解兵届」を提出した。つまり、もはや奥羽鎮撫総督府の指揮・命令には従わないという意思表示である。薩長側からすれば、奥羽列藩からの実質的な宣戦布告であった。

このような経緯で勃発した戊辰東北戦争の帰趨については、改めて触れる必要もないだろう。一言でいえば、薩長軍の圧勝であった。これを以て、戊辰戦争は実質的に大勢が決し、その後の函館戦争は残敵掃討戦のようなものである。東北戦争といっても、一度の会戦があって、勝者・敗者が決したわけではない。これも、幾つかの会戦・軍事衝突の総称である。白河戦争二本松戦争会津戦争などを総称して戊辰東北戦争というが、どの戦に於いても薩長軍の一方的な圧勝であった。(たった一つの例外はあるが) 例えば、最初の本格的な戦となった白河戦争に於ける薩長軍の死者は僅か十名、負傷者は三十八名であるが、奥羽列藩側の死者は七百名を超えている。当然、負傷者となると二千数百名に達し、動員した兵員のほとんど全員が死傷したことになる。通常、戦に於ける負傷者は、戦死者の三倍程度となる。これは、戦の規模、種類を問わず大体そういう比率になるものだ。

白河戦争は、僅か一日、もっと正確にいえば実質二時間程度でこのような死傷者を出して、薩長側の勝利に終わった。戦死者十名対七百余名となると、これは真っ当な戦とはいえない。数学者であり、戦史研究家でもある渡部由輝氏は「一方的虐殺」という表現を使っている。(並木書房「二本松戦争」)戊辰東北戦争のそれぞれの合戦では、実は同じような「一方的虐殺」が繰り返されたのである。私たちは、鳥羽伏見の戦いから函館戦争に至る内戦を「戊辰戦争」と呼んでいるが、この、我が国を二分しそうになった内戦全体を通じてどれだけの戦死者が出たかご存じであろうか。約七千名である。あえていうが「僅か七千名」である。「僅か~」とは何事か、人一人の命を何と心得るか、というような、今の価値観でしかものを考えないヒステリックな非難の声が聞こえそうだが、今、私は戊辰戦争という史実を、永い歴史の中に置いてみて述べている。自殺者が年間三万人を超えていながら、それに余り関心も示さない時代の、建前としての価値観でのみ史実としての数字を評価することはナンセンスであろう。

僅か二時間程度の戦いで戊辰戦争全体の戦死者の一割に当たる死者を出した白河戦争とは、どういう戦だったのか。白河戦争だけではない、白河を落とした薩長軍は、棚倉城へ侵攻したが、その途中の金山の戦では余り積極的に戦おうとしなかったにも拘わらず、山上から防衛戦を試みた金山軍の守備を簡単に突破した。この戦での戦死者は、棚倉藩十一名、仙台藩十七名、相馬藩三名であったが、通過した薩長軍の死者はゼロであった。僅かに負傷者九名を出したに過ぎない。そして、二本松戦争の緒戦に当たる、糠沢・高木の戦では、二本松藩は一日で六十一名の死者を出し、薩長軍のそれはゼロであった。更に、本宮では二小隊五十名の守備隊のうち二十四名が戦死。二本松戦争の本戦、二本松城下での戦では、二本松藩の戦死者二百五十六名に対して薩長軍のそれは僅か十二名であった。

確かにこうなると、「一方的虐殺」という表現があながち誇張とはいえなくなる。一体、二本松戦争に於いては何故こういう悲惨な現象が起きたのか。最大の原因は、武器である。両軍の武備に決定的なレベルの差があったのだ。鳥羽伏見の戦いではそれほど差のなかった薩長軍と幕府軍の武力は、東北戦争の頃には決定的な差が生まれていた。もはや真っ当な戦いにはならないほどの差が生まれていたのである。それは、突き詰めると、主武器である小銃の性能の差であった。

戊辰東北戦争で使用された小銃は、ほとんどすべて洋銃である。即ち、輸入された銃である。薩長軍がいち早く新潟港を制圧したのも、この輸入ルートを断つことが目的であった。新潟港が制圧された後、プロシャが積極的に本国から新式銃を取り寄せるべく奔走したが、会津戦争には間に合わなかった。

戊辰戦争で使用された輸入小銃は、六十種類を超えるが、大別すれば次の四種類である。

ゲベール銃

ミニエー銃

スナイドル銃

スペンサー銃

更に、大砲の性能が違った。戊辰戦争で使用された大砲も、大きく分けて四種類ある。

前装軽砲

前装小臼砲

前装大臼砲

後装施条重砲

幕末の戦は、既に槍や刀での戦いではない。既に、日露戦争などとほとんど変わらぬ銃砲の戦いになっており、時に白兵戦が加わるのだ。

この主要武器の性能と彼我の装備の差を理解しておかないと、何故「一方的虐殺」のような戦いになってしまったか、その謎が解けないのである。

2011年11月14日 (月)

華の二本松(其の三 奥羽の潔癖、薩長のふしだら)

だらしがないことを「ふしだら」という。広辞苑をひくと「しまりのないこと。特に男女関係にけじめがなく、品行のおさまらないこと」とある。因みに「しだら」とはサンスクリット語のsutraからきた言葉だとする説が有力であり、「秩序」「しまり」といった意味である。「だらし」は「しだら」の倒語であり、やはり「しまり」の意がある。

世良修蔵というたった一人のふしだらな長州人の存在が、戊辰東北戦争の直接の原因であったことは確かである。学者の説く歴史=正史というものは、時に歴史を無機質に扱う。だが、生身の人間の行動の軌跡である歴史とは、生身の人間のそれだからこそ生々しい感情やドクドクと流れる赤い血の肉感をもったものである。時に稗史(はいし)というものを無視することができないのは、私たちと同じように歴史を構成した者が生身の人間であったからであろう。世良が生身の人間の欲望のまま、酒と女に溺れるという余りにもふしだらな成り上がり者であったことが、特に道徳的規律を重視する東北の武士階級の怒りに触れ、同じように生々しいその怒りが時の現実を縛る政治的、軍事的制約を突き破るほど大きくなった時、世良暗殺という奥羽諸藩の態度を決する重大な事件を惹き起こしたのである。世良は、福島藩内の金沢屋という遊女を置く旅籠に入り浸っている時、仙台藩士に襲撃されたが、その時も女と同褥(どうきん)中であった。生々しい現実をいえば、こういう支払いはすべて仙台藩が行っていたのである。

奥羽越列藩同盟の中で、二本松藩のみが文字通り「城を枕に討ち死」するような、薩長軍の侵略に対する激しい抵抗戦を繰り広げたが、すんなり「恭順」せず戦った藩は他にもある。楢山佐渡(家老)の南部藩河井継之助(家老)の長岡藩が、その代表格であろう。抵抗戦を主導したこの二人には、ある共通点がある。まだ藩のスタンスを決する前に京都へ“視察”に行っていることだ。そこで二人は、“勤王志士”などと自称する長州の跳ね上がり者の行状を知った。彼らは、祇園島原に入り浸りである。その金は藩の公金が一部、後は大坂辺りまで出かけ、商人たちを脅してゆすり取った金である。現代に例えていえば、山口県の地方公務員が勝手に東京へ公費で出張してきて、県庁の指示を無視して長期滞在し、県民の税金で歌舞伎町や六本木辺りで女を買いまくり、金が足りなくなると著名な企業に押しかけ、いろいろ難癖をつけて寄付を強要する、といった具合である。そして、飲んでは「地方主権を確立しよう!」などと体裁作りに喚いているといった様を想像すればいい。こういう連中が天下をとったら、どういう世の中になるのか。楢山も河井も、とても天下国家を論じるような輩ではないことを知ったのである。そこで二人は、自藩の藩論を「抗戦」に導くに至った。長岡藩(河井)の「武装中立」は余りにも有名だが、七万五千石で「武装中立」ができる訳がない。河井ともあろう者が、それが解らぬ訳もないのだ。それでも長岡藩は、結果的に会津・二本松に次ぐ損耗率を出すほどに戦い抜き、城下は灰燼に帰した。既稿に於いて、人口一万人当たりの戦死者という指標を出したが、長岡藩のそれは、会津・二本松に次いで多いというのは、正確には推計であって、城下が焼き尽くされた長岡藩には人口に関する資料が残っていないのだ。そのことはともかく、ここで気づいておきたいことは、酒や女に耽る、所謂淫楽に溺れるということについて、長州や薩摩の人間と東北の武家との間には決定的な感覚のギャップがあったということだろう。潔癖な東北の武家にとっては、薩長の人間の酒色に対するいい加減さ、よくいえば大らかさなど絶対に許せないことであったのだ。河井にも楢山にもそれがある。そのことは、藩を抗戦に導く決意をさせるほど強い憤りとなったものと思われる。特に河井のことは、とかく豪放に描かれたり、合理主義的な側面ばかりを強調されたりするが、根底にあったものは東北人特有の潔癖性ではなかったか。(詳細は割愛するが、河井のルーツは近江;膳所藩であるが)

蛤御門の変で御所(朝廷)に向かって、つまり天皇に向かって大砲をぶっ放すという狂気の本性をさらけ出した長州は朝敵と断罪され、第一次長州征伐に於いては戦わずしてうまく降伏の体裁をとった。その“講和条件”の一つに萩城の取り壊しがあった。遡れば、元和元年(1615)、徳川幕府の草創期に定められた一国一城という大原則に従って、萩城は廃城となっていた筈である。ところが、したたかな長州人は幕府に内緒で秘かにこれを修復していた。幕末になると幕府もこのことは承知していたが、この萩城を“講和条件”に従って再び廃城にするにつき、幕府の使者がそれを確認するために長州入りした。長州とすれば、降伏の体裁をとっただけで、再び倒幕に立ち上がる意志を固めている。その時は、萩城は討幕軍の本拠となる。ここで廃城とする訳にはいかない。そこで、長州側は幕府の使者(査察官)一行を萩に行かせないようにした。山口に足止めし、徹底して「接待漬け」にした。かつて、日本の企業社会では「飲ませる・抱かせる・掴ませる」という「三せる」営業が幅を利かせていた。典型的な営業マンなら、誰でもやったものである。公務員や官僚相手には特に盛んに行われた営業手法である。本来こんなものを手法とは言わないが、酒を飲ませ、女を抱かせて、金を懐にねじ込む・・・これをやられると大概の相手は陥落するのである。長州は、幕府官吏に対してこれをやった。徹底してやった。結局、幕府の使者は萩へは足を延ばすことなく、何と「萩城の破壊を確認した」とのでたらめな報告書まで書いたのである。このことが、第二次長州征伐の失敗に繋がったことは言うまでもない。長州人にしてみれば、萩城死守という目的の為には、必要なら女など幾らでも抱かせておけばいのである。酒を惜しんでも始まらない。賄賂など、いってみれば必要経費である。司馬遼太郎氏は「長州法人説」を唱えたが、ある意味で長州人にはこぞって商人的気風が染みついており、司馬さんの言うところとは違った意味で「法人」であったと言えるかも知れない。薩摩にはここまでの割り切りはなく、これは長州の大きな特性である。

東北の武家に、これができたか。無理である。考えようによっては、世良の淫楽、放蕩三昧など放っておけばよかったのだ。女を抱いていれば満足している下劣な男なら、とことん抱かせて、骨抜きにしてやればよかったのである。更にいえば、藩の軍事費を削ってでも世良に掴ませればよかったのだ。その上で、のらりくらりと会津攻めを延ばし、和平工作にもっていく。そうすれば、二本松十万石は滅ぶことはなかった。十万石の存続ということを片方の天秤にかけるならば、世良にあてがう女や金など軽いものであった筈だ。しかし、東北の武家にはこのような長州人に通用するような商人的発想は微塵も湧かなかった。彼らは、余りにも強靭な武家気質を身にまとっていたのである。

しかし、これを責めることができるか。世良が酒色に耽り過ぎたことは紛れもない事実であり、それが東北武家の憤怒を買ったことも事実だが、薩長軍に恭順するか、これを迎え撃つかという岐路に立った時、これだけが暗殺の理由にはならないだろう。いくら東北武家が薩長の連中とは対照的に潔癖であったとしても、事は藩の存亡に関わることである。世良の行為は「武士にあるまじき振舞い」であったとしても、彼は武家ではないが鎮撫軍の参謀であり、実質的な総指揮官である。東北武家は、忍耐力も標準以上に強い。結局、戊辰東北戦争を惹起した世良の暗殺とは、東北武家にとって「武家の面目」に関わる理由があって、やむにやまれず実行されたものであったのだ。このことは、藩の壊滅を顧みずとことん薩長軍と戦った二本松武士による二本松戦争を読み解く一つの鍵であると思われる。

2011年11月 7日 (月)

華の二本松(其の二 もっとも下劣な長州人)

この醜悪な長州人がいなければ、戊辰東北戦争は起きていなかったかも知れない。

幕末長州人の下劣さは、井上馨伊藤博文を事例としてこれまでに詳述してきた通りであるが、この男の品性の下劣さは井上・伊藤に勝るとも劣らない。男の名は世良修蔵。周防大島の郷士などとする書物もあるが、単なる漁師上がりである。

鳥羽伏見の戦いから凡そ二ヶ月後、「奥羽鎮撫総督府」が設けられ、その一行はまず仙台藩へ入ったのである。この「奥羽鎮撫軍」とは何者か。仙台藩では、まだその性格を理解しかねていたのである。仙台藩だけでなく、福島藩米沢藩など近隣諸藩にとっても、これが「官軍」であるとか、「新政府軍」であるなどという認識はまだ浸透していなかった。単なる「薩長の軍」であった。この時期、薩長軍は「鎮撫」などと傲慢な名称を使っているが、鎮撫される側の奥羽諸藩には「官軍」を名乗る賊軍ではないかという見方さえ強かったことを知っておく必要がある。

そして、各地へ派遣されて戊辰戦争という内戦を繰り広げたこの幾つかの「鎮撫軍」(鎮撫総督府)には、名目上の総督をはじめとする司令官クラスに、軍事は勿論、行政のことなど何も解らぬ公家を置いた。この奥羽鎮撫軍の場合は、総督=九条道孝副総督=沢為量(ためかず)、上参謀=醍醐忠敬(ただゆき)となっていたが、この三人には何の実権もなかった。また、こういう無能力な連中に実権をもたせたら、侵略するにしても事は何も進まない。つまり、彼らは単なる飾りものであって、小沢一郎流に言えば「神輿は軽くてバカがいい」ということにほかならず、三人は小沢の言う「バカ」に当たる。では、誰が鎮撫軍の実権を握っていたか。下参謀の大山格之助と同じく世良修蔵である。こういう構図、形式は、すべての鎮撫軍に共通のものであって、江戸へ侵攻してきた西郷隆盛も、形は決して総督ではなく、参謀である。しかし、実質的には西郷が全実権を握り、実質的な司令官であったことは周知のところである。なお、大山は薩摩人である。

話を簡略に進めると、大山が先に庄内へ向かった後、この世良という下劣な長州人の振る舞いが純朴な奥州人の神経を逆なでしたのである。

世良修蔵。数えで三十四歳という、今で言えば若造。典型的な成り上がり者である。幕末長州人には成り上がり者が多いが、世良は絵に描いたような成り上がり者で、第二奇兵隊出身である。第二奇兵隊の隊士のほとんどは、百姓、漁師、凶状持ちなどの荒くれ者である。その中で世良は、多少読み書きができた。それだけで幹部になっただけの男である。同じ長州藩士である広沢兵助(後の真臣)が、第二奇兵隊の連中を称し、「中等以下くらいの馬鹿者」と断じたことがある。また、同じく長州の品川弥二郎仙台藩家老;但木土佐に対して、世良が奥羽鎮撫軍の下参謀に就任したことを指して、「世良とはひどいのが行くな」と同情したのは、余りにも有名な話である。同じ長州人の間でも、普通の長州人からみて世良とはそれほど「ひどい人物」であったということだ。

世良のどこが「ひどかった」のか。一言で言えば「品性」である。第二奇兵隊のならず者に「品性」を求める方が間違っていると言われればそれまでだが、とにかく粗暴、女とみれば見境がない。礼儀というものも知らない。仙台藩士、米沢藩士、福島藩士、二本松藩士、そして連絡役として派遣されてきていた会津藩士たちは、「奥羽鎮撫とは女を抱くことか」と激昂した。特に、仙台・松島に上陸するや否や、仙台藩六十二万石の藩主;伊達慶邦(よしくに)が挨拶に来た時、上段に座ったまま答礼も返さず、傲慢にも「仙台中将!」と呼び捨てにしたのである。これには、仙台藩士が「薩長のやつばらを皆殺しにしてやる!」と切れてしまって、一時不穏な空気となった。

世良は、解っていなかった。薩長軍が天朝の担ぎ出しに成功しただけで、まだ「反乱軍」に過ぎないことを忘れ、薩長が天下をとったと錯覚していたようである。そして、六十余州くまなく自分たちにひれ伏すのが礼儀であり、「天下の形勢」であると思い込んでいたようだ。そもそも僅か二ヶ月前の鳥羽伏見の戦いの時点では、中央に於いても薩長が「官軍」であるという認識は全く存在しなかったのである。後世の歴史家の多くも、この点を見事に理解していない。鳥羽伏見の戦端が開かれようとする時、土佐藩主;山内容堂は「この戦は薩摩・長州と一(一橋=幕府)・会(会津)・桑(桑名)の私戦であるから動いてはならぬ」と厳命を出し、土佐藩兵を伏見に留め、一兵も動かしてはいない。後に薩・長・土として「官軍」の主力となる土佐藩でさえそうであった時期から僅か二ヶ月、奥羽諸藩が時の情勢に疎かった訳ではない。現に、如何に反乱軍の成り上がり者とはいえ天朝を担いでいるからこそ伊達慶邦は挨拶に出向いてきたのである。下賤の身に急に権力を付与された小人の常として、世良にはそういう情勢が俯瞰できていなかった。武家社会の倫理性というものについて余りにも無神経であったのは、彼が島の漁師であったことと無関係ではなかろう。

世良が公卿を神輿として担いできた奥羽鎮撫軍とは、薩摩兵・長州兵・筑前兵から成る僅か五百四十九名の軍勢であった。その中心が、第二奇兵隊であった。世良にしてみれば、行く先々で「会津征討軍に加われ」と命令すれば、会津征討は簡単に成立すると思い込んでいる。当然、仙台藩主;伊達慶邦に対しても、無礼極まりない態度で、「右! 早々に人数差し出し、会津へ討ち入るべし」と「命令」したのである。身の程を顧みぬ傲岸不遜な指揮官が、権力をもてば女などいつでも調達できると思い込んで、現に文字通り酒色に耽(ふけ)る日々を過ごすのであるから、鎮撫軍兵士たちにも規律など全く存在しない。藩校に陣取りした上で、夜な夜な城下に繰り出し、遊里でやりたい放題を繰り広げ、果ては良家の子女までを強姦するに至ったのである。因みに、仙台藩では藩士が遊里に足を踏み入れることは禁じられており、福島藩では武家が登楼でもしようものなら即改易、二本松藩には遊里そのものが存在しない。

仙台藩内には怒りと共に、疑念を抱く者が多くなった。「これは本当に官軍か?」「官軍の名を語る薩長のならず者ではないか?」「鎮撫三卿と言っているあの公家たちも偽物ではないか?」などと、純真に疑い始めたのである。

その後、さまざまな複雑な経緯も存在したが、女を抱くことのみに執心した世良はどうなったかといえば、仙台藩士に斬り殺された。その死体を見た会津藩士二名は、感涙を流して、その首を国許へ持ち帰りたいから譲ってくれと懇願したほどである。それほど、奥羽諸藩は、世良の横暴に一時(いっとき)とはいえ耐え忍んできたのである。

米沢藩戊辰文書に曰く、

『~閏四月十九日仙台藩士瀬上主膳等が奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵の暴慢を憤り福島の旅寓に襲いてこれを暗殺するや形成俄然一変、忽ちにして白石会盟となり、奥羽列藩相結び西軍に抗し、遂に戊辰東北大戦争を惹起するに至る』

つまり、奥羽鎮撫軍の主眼は会津藩と庄内藩の討伐であるが、奥羽各藩は「官軍」を名乗る薩長に協力して親しい会津・庄内を攻めることにまだ躊躇し、藩の公式な態度を決めかねていたのである。大勢としては和平論が強く、戦争を回避して穏便に事を収める方策があるとして、その具体策を模索していた。そこへ鎮撫軍参謀として世良という下劣な成り上がり者が現れ、暴虐の限りを尽くした。これに憤激した仙台藩士が世良を斬り、これがきっかけとなって奥羽列藩の同盟が成立し、後に越後・長岡藩など六藩も加わって奥羽越列藩同盟となり、戊辰東北戦争という事態をもたらしたということなのだ。即ち、元凶は世良修蔵という悪辣な長州人一人にあるというのである。

この認識は、客観的にみて間違っていない。世良でなくもう少し真っ当な人物を参謀として派遣していれば、戊辰東北戦争は、あの会津の悲劇を含めて回避できたのである。勿論、二本松の悲劇も起こり得なかったのだ。

次回、これについて若干の補足をさせていただく。

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