« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011年12月20日 (火)

華の二本松(其の七 降伏か討ち死か)

棚倉が陥ち、三春が「反盟」する前に薩長土連合軍はいわき三藩を攻めた。いわき三藩とひと括りにして言われる三つの藩とは、平藩三万石泉藩二万石湯長谷(ゆながや)藩一万五千石である。石高でいえば、三藩合わせてようやく三春藩程度である。三藩の動員可能兵力は七~八百程度。これに、米沢藩仙台藩相馬藩が若干の援軍を出した。連合軍は、大村藩因幡藩なども加わり十数藩から成っていた。最終的な連合軍の兵力は一万人まで膨れている。藩の規模や動員可能兵力からみれば、それこそ一瞬にして決着がつきそうだが、そうはならなかった。連合軍は、いわき三藩を落とすのに一ヶ月を費やしたのである。薩長土以外の「恭順」した藩の兵が近代戦に慣れていなかったこと、米沢藩がスナイドル銃を装備したことなど、理由は幾つか挙げられるが、いずれにしてもいわき三藩は奮戦した。少なくとも戦ったのである。即ち、小藩故にすべてが同盟に加わらざるを得なかったということでもなく、小藩故に連合軍の走狗となって働かざるを得なかったということでもない。勿論、人質という問題は同盟藩の間でもあるが、連合軍にはもっと露骨にあった。しかし、当時の武家の精神文化というものを洞察すべきは、こういう時の解釈であろう。

三春藩があからさまに「反盟」した頃、ほぼ時を同じくしてもっと重大な「反盟」が起こった。秋田藩(久保田藩)「裏崩れ」である。この、秋田藩の「裏崩れ」が戊辰東北戦争の帰趨を決したといっても過言ではない。「裏崩れ」とは、軍事用語である。連合している軍に於いて前線で戦っている部隊や軍があるのに、後方の部隊や軍が先に降伏したり、寝返ったりすることをいう。列藩同盟は、いわき三藩のような吹けば飛ぶような小藩が今まさに戦っている。二本松藩は決意を固めつつある。そして、会津・庄内はもともと薩長の直接のターゲットで、戦う以外に選択肢は全くない。そういうタイミングに大藩・秋田藩が、裏を崩したのである。これによって、秋田藩に隣接する庄内藩、盛岡藩は、秋田藩が目の前の敵となり、戦力を秋田藩向けに割かなければならなくなった。そして、列藩同盟の間に深刻な動揺が湧き起こり、徹底抗戦の気運がかなり削がれたといっていい。現実に、仙台藩、米沢藩という列藩同盟を主導してきた二藩は、まだ戦力的には十二分に戦えるにも拘らず、藩内倒幕派が力を増し、降伏してしまったのである。

余談とも言えないが、一言庄内藩について今更ながらということではあるが、触れておきたい。会津と並んで庄内藩は、幕末の幕府の屋台骨を懸命に支えてきた。藩祖は、酒井忠次、と聞けばお分かりだろう。徳川四天王の一人として、徳川の草創期を支えた人物である。つまり、この藩は骨の髄まで譜代である。幕末には江戸市中取締りの任にあり、薩摩・西郷の放ったゲリラ;「赤報隊」の標的にもなった。二代将軍秀忠の隠し子;保科正之を藩祖とする親藩会津藩が京都守護職として、生粋の譜代庄内藩が江戸市中取締りとして、奥羽の二つの雄藩が時の政権を支える役割を担い、薩長の矢面に立ったことには、いつの時代も中央のために働かされてきた奥羽の宿命めいたものを感じ、ついつい東京電力の奥羽に対する犯罪ともいうべき事故にまで思いを馳せてしまうのである。それはさておき、庄内藩の大きな特徴は、経済的に裕福であったということだ。石高は十七万石であるから、まあ、中藩ともいうべき規模である。ところが、この藩は北前船の重要な拠点;酒田を抱えている。今でいえば、倉庫保管料、関税収入といった莫大な交易関連収入があった。更に、もともと蝦夷地との交易で財を為したあの本間家が、戊辰の動乱に際して七十万両という気の遠くなるような大金を藩に献金している。本間家とは、

『本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に』

と謳われた、あの本間家である。同じ時期の二本松藩の年間予算が、凡そ七万両である。二本松藩を十年間支えることのできる大金を一度に献金できる本間家の財力とは、六十余州を見渡しても他には例をみないものであった。庄内藩が列藩同盟では珍しく、スナイドル銃ばかりかスペンサー銃まで保有していたのは、こういう財力が背景にあったからだ。豊かな資金によって作り上げられた庄内藩の軍事力は強大ではあったが、それは秋田藩、天童藩新庄藩との戦いにしか使う機会がなかった。ただ、やはりこの軍事力は威力があり、これらの藩と約二十度に及ぶ戦を行いながら一度も負けていない。表高二十万石、実高四十万石といわれる秋田藩も全く歯が立たず、庄内軍が城下にまで侵攻、落城寸前というところまで追い詰められたが、ここで会津が落城し、庄内軍が急遽撤退し、佐賀藩の支援を受けていた秋田藩は辛うじて助かった。日本の原風景ともいわれる長閑な庄内平野を擁する、藤沢文学のふるさと;庄内藩とは、実は斯様に激しく、鮮烈な藩であった。

降伏か討ち死か・・・二本松藩に決断の時が迫っていた。

既稿にて、本宮、糠沢などという地名に触れたが、高木、小浜を含めてこれらは二本松領である。藩境ともいうべきこれらの防衛地点が破られたら、後は二本松城下で戦うか、或いは降伏するか、選択肢は二つしかない。二本松藩は、籠城できるような本格的な城をもっていない。「お城」とはいっても、それは陣屋と城の中間のようなものと考えた方が分かり易い程度のものであった。即ち、戦うとなれば城下で戦うしかなく、城下で戦うとは実質的にはなだれ込んでくる敵の前で死ぬということである。この旧暦七月末までの間に、既に二本松藩は、白河戦争で二名、その後の白河奪還戦で十七名、棚倉で一名、三春藩小野新町で七名、糠沢・高木・本宮・小沢地区の一日の戦いで九十名、合計百十七名もの戦死者を出している。藩境が破られた時点で、いわば前哨戦でこれだけの死者を出し、この上いよいよ「本戦」を構えるとすれば、軍勢の規模、装備からみて文字通り総動員体制をかけ、全員玉砕の覚悟で臨むしかなかろう。戊辰東北戦争のターゲットは、つまり薩長土が直接ターゲットとしているのは会津藩と庄内藩である。二本松藩は、同盟の義に従って戦っているに過ぎない。列藩同盟に対する義という面のみで考えれば、ここまででもう十分であろう。ここまで同盟を主導してきた仙台藩も米沢藩も、義理は果たしたということか、既に降伏しているのだ。

二本松藩には六人の家老がいた。この時、藩主丹羽長国は病床に臥せっており、家老たち重臣が大書院会議を開いて藩論を決した。

『三春藩、信に背きて敵を城中に引く。神人ともそれを怒る~』

という三春藩の「反盟」を糾弾することに始まる結論は、「列藩の信を守って滅びん」とするものであった。この結論を出す会議に向かう朝、小城代;服部久左衛門は家人に

『二心(ふたごころ)なし』

と簡潔に告げて邸を出ている。

二本松藩の家中は三百数十家、武家以外も含めた動員可能兵力は二千弱とされている。既に百十七名が死し、負傷者は五百名は軽く超えていたろう。戦える者が総動員体制で狭い城下に敵を迎え撃つ・・・二本松家中は、不本意ながら二本松少年隊を列記とした正規部隊として出撃させざるを得なかったのである。

2011年12月 9日 (金)

華の二本松(其の六 三春ミツネに騙された)

奥羽越列藩同盟と薩摩・長州・土佐連合軍の戦い=戊辰東北戦争が、兵器の性能の差によって「一方的な虐殺」のような様相を繰り返して、連合軍の圧勝に終わったことはお話してきた通りである。ここでいう兵器とは、前稿で詳述した小銃と、これから簡単にでも触れざるを得ない大砲を指す。

当時の大砲も、大体四種類に分けられることは既に述べたが、改めて整理しておくと以下の四種類に分けられる。

A 前装軽砲   有効射程=500800

B 前装小臼砲  有効射程=500600

C 前装大臼砲  有効射程=8001,200

D 後装施条重砲 有効射程=2,5003,000

あらかじめお話しておくと、二本松藩はAしかもっていなかった。奥羽越列藩同盟全体をみても、幾つかの藩に多少Bがあったが、実戦で使用できたのはほとんどAである。これに対して連合軍は、A・B・Cすべてを保有しており、B・Cを実戦で活用している。簡単に表現すれば、Aは「軽砲」、B・Cは「重砲」であり、Dが今日でいう「大砲」と言えるものであろう。かの佐賀藩のアームストロング砲がDに当たり、これは上野戦争会津戦争に使われたのみである。

大砲の威力というものは、手っ取り早くは砲の口径に表われる。Aは最大のもので約8cm程度であった。長さは小銃とほぼ同じであったから、Aは小銃をそのまま太くしたような砲であったと思えばいい。臼砲とは、文字通り臼のようにずんぐりした形状で砲身は短い。しかし、砲の口径はAより長い。つまり、太いのだ。Bは、砲身は50cmほどであるが、口径は12cmCは、砲身1m強、口径は20cmもあった。Dになると、砲身が短いもので3m、長いものだと4m以上あり、口径はやはり20cm前後あった。砲口径が大きいということは、より大きな砲弾が撃てるということである。砲弾の大きさは、口径の3乗に比例する。Aの口径を最大の8cmDの口径を20cmとすると、820で、Dの口径はAの2.5倍であるが、撃てる砲弾の大きさは約16倍となる。

砲の「威力」となと、更に決定的な違いがあった。砲弾の構造である。Aは、中実弾榴弾しか撃てなかった。ところが、B・Cになると、榴散弾が撃てるのである。中実弾とは、砲丸投げの小さめの砲丸と思えばいい。直撃されない限り、死傷することはない。飛んでくるのが見えるので、小銃よりも怖くなかったというのが前線の実感であったようだ。榴弾というのは、中をくり抜いて火薬を詰めた弾で、着弾すると破裂して幾つかの破片が飛び散る。ただ、破片の数は多くなく、何よりも当時は不発弾が多かった。砲弾もテニスボールくらいであり、当然飛んでくるのが目視できる。破片は水平に飛ぶことは少ないので、仮に近くに着弾しても瞬間的に身を伏せれば何とかなる。これに対して、榴散弾は恐ろしい。着弾すると破裂し、多数の小銃弾が周囲に飛び散るのである。着弾点から1020m範囲の人馬を殺傷したという。

このような技術的背景を考えると、砲撃戦に於いて、Aの軽砲しかもたない列藩同盟軍がB・Cの重砲を主力とする連合軍に太刀打ちできなかったことは語るまでもないことであろう。砲の威力というものが違い過ぎたのである。これに、既稿で述べた小銃の性能差が加わる。つまり、この戦いは兵器の性能差によって、どこからみても列藩同盟軍に勝ち目はなく、「一方的虐殺」と言われるような惨劇を繰り返すのみであったのだ。

戊辰東北戦争の緒戦とも言うべき白河戦争で、列藩同盟軍が700名以上という大量の死者を出したのに対して、連合軍の死者は僅か10名であった。負傷者に至っては、同盟軍が2,000名強に対して、連合軍は38名という軽微なものであった。この結果をもたらした主要因が、砲の差であった。この時、連合軍はCの大臼砲を主として使用している。この重砲は、台座も含めると700キロ以上もある巨大なもので、当時の兵員では8名前後、馬なら2頭でないと牽引できなかったほどである。連合軍は、この大臼砲で大榴散弾を同盟軍に撃ち込んだ。仙台藩の記録には、大榴散弾が炸裂して、砲もろとも10数名の兵卒が吹き飛ばされたと記されている。ここでいう仙台藩の砲とは「軽砲」であり、同盟軍の軽砲は、連合軍の大榴散弾によって砲手砲護員もろとも吹き飛ばされたのである。更に、この戦いには大垣藩が火箭(かせん)砲を持ち込んでいた。火箭砲とは、焼夷弾を撃ち込む砲だと考えればいい。これが、同盟軍陣地を焼き、逃げる兵に対して、射程の長いスナイドル銃が火を吹くといった様相であった。ゲベール銃の同盟軍兵士は立ち上がって弾を込めており、これを伏せたままの連合軍兵士が狙い撃つ。つまり、これはもはや「戦い」とは言えなかったのである。

当時、「花は白河、人は武士」という言葉(俗謡の形か?)が流行った。確かに連合軍にしてみれば、白河戦争で兵は花のように輝いたであろう。面白いように、まるでゲームのように敵兵を倒せたのである。この“流行語”は、奥羽越列藩にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。

同盟軍は、その後、大規模なものだけに限っても七次に亘って白河城奪回作戦を敢行しているが、同じ要因によってことごとくはね返されている。そして、この戦闘に於ける様相は、その後の戦に於いても基本的に変わることはなかったのである。土佐の板垣退助、薩摩の伊地知正治率いる連合軍(総督は鷲尾侍従)は、白河戦争後は「奥羽鎮撫総督府」から「奥羽征討総督府」と名称と性格を変え、棚倉城へと進攻した。須賀川に白河戦の敗残兵など4,0005000が集結していたが、征討軍はこれを無視して棚倉へ進軍した。白河を拠点とする征討軍の兵力は1,500程度であったが、須賀川軍を無視し、棚倉へ進軍したのは僅か700名の板垣支隊であり、伊地知の800は白河城に居残って、須賀川軍に睨みをきかせているだけ。この時点で、既に征討軍は圧倒的な兵器の威力差を十分認識していたものと思われる。棚倉兵は、金山という小高い丘の上から迎撃しようとしたが、板垣支隊は丘の下から一応応戦はするが、これも無視する形で棚倉城下へ一気になだれ込んだのである。「金山の戦い」とも言われるこの迎撃戦は、本来なら丘の上に陣取った方が有利なはずであるが、戦死者は棚倉藩11名、仙台藩17名、相馬藩3と丘の上の同盟軍に多大な損耗が出ており、適当に応戦しながら通過した板垣支隊には負傷者が9名出ただけで一人の戦死者も出ていない。基本的には、ゲベール銃とスナイドル銃の差ではあるが、ここまで徹底的に敗北するとなると、兵器の性能差に加えて、また差があればこそ、棚倉側の「戦う迫力」というものを問題にせざるを得ない。僅か700の板垣支隊を街道正面を封鎖して迎え撃つということを避け、丘の上へ引いているのだ。既に腰が引けていると言わざるを得ない。このことについては、ここではひとまず措いておく。

征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。

三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。更に、二本松侵攻の緒戦となった「糠沢の戦い」では薩摩・長州200名の連合部隊が40名の二本松部隊に夜襲をかけた。地理の判らぬ薩摩・長州部隊のみで夜襲は不可能で、先導したのは三春藩兵である。二本松兵は26名が殺害され、壊滅した。この夜襲に、後の海軍常備艦隊司令長官となる薩摩の日高壮之丞が参加していたが、彼は「夜が明けようとする時不意打ちをかけたが、二本松勢はほとんど全滅した、ただ、一人だけ赤鞘の大小を帯びた若い藩士が逃げずに立ち向かってきたのが印象的だった」という内容の証言を残している。この若い武士が、和田悦蔵という藩士であることも判っている。勿論、彼はこの場で戦死した。ここから阿武隈川を渡って「本宮侵攻作戦」へと移るわけだが、当時、二本松領と三春領の境界となるこの川に橋は存在しない。当時としては普通の「舟渡し」である。幅100m、水深10m以上という川の渡河作戦も、渡し口を知っている三春藩兵の先導なくしては不可能である。渡し口の三春側(高木と呼ばれる地区)を固めていた50名の二本松守備隊が三春藩兵を先頭とする部隊が山側から下ってくるのを見て、糠沢から敗走してきた同盟軍と思って近づくと、それは敵(薩長土連合軍)の大部隊であったという笑えぬ笑い話のような事態となり、二本松守備隊は一気に35名が惨殺された。結局、糠沢・高木エリアの一日の戦いだけで二本松藩は60名を超える死者を出したが、薩長側の死者はゼロである。負傷者の記録も、記録としては存在しない。

奥羽越列藩同盟は、31藩の盟約によって成立したが、戊辰東北戦争を通じて一人の死者も出さなかったのは31藩中、唯一つ、三春藩のみである。死者の数を競うのではない。三春藩は嬉々として薩長の走狗となって働いた、と言われるが、まさに三春藩は積極的に「反盟」に走り、同盟藩を明白な意志を以て裏切ったのである。

実は、これには歴史的な背景がある。この藩は公家の大原家との結びつきが深く、もともと「反徳川」の感情をもっている。その経緯を述べようとすると関ヶ原まで遡る必要があり、ここではそれには触れない。母から、時代錯誤も甚だしい「士族の躾」を叩き込まれた私としては、「武家の倫理観」の欠落を忌々しく思うだけである。「反徳川」を、或いは時節柄「倒幕」を藩のポジショニングとするならば、はなから同盟に加わらなければいい。盟約とは約束である。命と引き換えてでも約束を守ることは、武家の倫理観の基本中の基本である。盟約に加わったがために、二本松も仙台も相馬も、福島も、そして、会津、庄内も三春を同じ奥羽の仲間だと信じた。二本松兵、仙台兵などは、三春のために命を落とした。三春人は、そういう奥羽の友藩をあからさまに裏切ったのである。幼い藩主に代わってこれを首謀したのは、家老の秋田主悦。奥羽の恥さらしと言うべきであろう。二本松藩などは、盟約を守る、その一点のみで城を枕に藩ごと討ち死したのである。金銭しか基準にしない平成人からすればバカであろうが、盟約、約束とは武家の精神文化を尊ぶ者にとってはそういうものである。

明治になって「三春キツネに騙された」という俗謡が流行った。二本松と三春の婚姻は、彦根と水戸と同じように、会津と長州と同じように、長らく成立しなかった。先の「平成の大合併」(平成17年)の際も、地理的条件の妥当性に反して、二本松と三春の合併話は成立しなかった。三春藩は、二本松藩の兵備、配置、地理地形などを知悉している。この裏切りは、二本松藩に極めて具体的な、また重大な損害、被害をもたらした点でも許されるものではない。武人の心得として、己がもう助からぬとなった時でも敵にできるだけ損害を強いることが初歩的な振る舞いである。何故なら、己が斃れた後の仲間の被害を、僅かでも少なくするためである。この後、二本松藩士が城下で繰り広げた決死の斬り込みとは、そういう武家の心得に沿って敢行されたものであった。三春藩の反盟行為については、間違ってもこれを平成の感覚で解釈してはならない。

三春には、日本五大桜の一つ、樹齢千年以上とされる「三春の滝桜」がある。このたびの大震災にも耐えたこの巨大な枝垂桜は、三春藩主の御用木であった。この桜が、郷土の歴史を、それがもたらした二本松少年隊の悲劇を具(つぶさ)に知っている。

2011年12月 2日 (金)

華の二本松(其の五 火縄銃とライフル銃の戦い)

火縄銃部隊とライフル銃部隊が正面きって戦えばどういう結果になるか。火縄銃もライフルも実際に使ったことなど一度もないが、使わなくても結果は明らかであろう。百回戦えば、ライフル銃部隊が百連勝する。一対一で戦っても、ライフルに故障でも発生しない限り、結果は同じである。部隊と部隊の衝突となれば、数丁のライフルが同時に故障しても結果は変わらない。戊辰東北戦争とは、そういう戦いであったのだ。

以下は、当時の銃の有効射程距離である。

ゲベール銃・マスケット銃  =80100

ミニエー銃・エンフィールド銃=300500

スナイドル銃・シャープス銃 =600800

スペンサー銃        =300500

また、当時の銃は「滑腔(かっこう)式」と「施条式」に分けられる。滑腔式とは、腔内弾道が単に円筒状になっているもので、銃口から弾丸を入れる場合、当然弾丸の直径は銃の口径より小さくなる。そうでなければ、銃口から弾丸を入れることはできない。そういう弾丸が発射された場合、正確にいえば弾丸は弾道の中をガタガタと揺れて進むことになる。銃の中心線上を真っ直ぐに進むことはないのだ。中心線から上でも下でも僅かにずれて発射される。そのずれの角度がほんの僅かであっても、50m、100m先へ行けば大きなずれになることは、理系ではない私でも解る。射程ギリギリの100m先では、12mのずれは簡単に生じてしまうのである。従って、滑腔式銃の命中精度は極めて低い。

これに対して、施条式とは弾道にらせん状の溝をつけたもので、弾丸は溝に食い込んで、その傷をつけながら回転して発射される。溝に食い込むので、弾丸は弾道の中心線からあまりずれることがなく、ターゲットとした方向に正確に飛ぶ。つまり、命中精度が高い。弾丸に傷がついていると、流体力学でいうところの「ベルヌーイの法則」によってより大きな浮力が発生する。そして、回転して飛ぶ物体は「マグナス効果」によってより大きな揚力を得るので、結局施条式銃の弾丸の飛距離は格段に長くなるのだ。傷があって回転して飛ぶ物体の飛距離というものは、無傷で無回転のものの通常3倍前後とされている。滑腔式銃にはらせんの溝はないので、その弾丸は無傷で、飛ぶ時は無回転である。野球の投手の投げる球を“科学する”時も、この「ベルヌーイの法則」や「マグナス効果」はお馴染みであって、例えば「重い球」というのは滑腔式銃の弾丸のように無回転、或いはほとんど無回転に近いのである。ゴルフボールのディンプル(表面のくぼみ)も同様の論拠によって施されているものであって、もしゴルフボールにディンプルがなかったら、如何に石川遼選手といえども150ヤードも飛ばせなくなってしまうだろう。戦国期、或いはそれ以前の合戦に使う弓矢の表面には傷がつけてある。この国の武士は、経験的に流体力学を会得していたことになる。

上記の銃の中で、ゲベール銃が滑腔式で、ミニエー銃スナイドル銃が施条式、スペンサー銃は施条式の連発銃である。つまり、ゲベール銃は他の銃に比べて射程距離が短く、命中精度も極めて低い。二本松藩仙台藩など奥羽越列藩同盟軍の主力はゲベール銃であり、薩長と土佐連合軍のそれはミニエー銃とスナイドル銃であり、スペンサー銃も備えていた。施条式銃であるミニエー銃とスナイドル銃の場合、100m先の人体程度の大きさのターゲットに対する命中率は当時で80%程度といわれている。ゲベール銃の性能とは、要するに火縄銃とあまり変わらず100m先の敵兵に命中するのはほとんど“まぐれ”か“偶然”に近いものであった。

実戦では更に重要な違いがあった。前装式後装式かという、弾丸を込める方式の違いである。上記の銃では、ゲベール銃とミニエー銃が前装式、スナイドル銃とスペンサー銃は後装式である。当時の弾丸は、鉄の弾頭部と紙包の火薬部と鉛の拡張部から成っている。これが、一発の弾丸として完璧に一体となっていればまだ問題は少ないが、ゲベール銃の場合、弾頭部と火薬部は別々であり、当然銃口から別々に入れる必要があり、発射後には弾道に火薬のカスが残るので、それを掃除しなければならない。もっと深刻なことは、前装式とは文字通り弾丸を前から、つまり銃口から装填する方式であるから、弾を入れる時、銃身を真っ直ぐ立てる必要があるということだ。敵の銃弾が飛んでくる前線でこれをやることになるのだ。更に、銃口から弾丸を入れるというやり方では、銃身を傾けたり、激しく振動させると込めた弾丸が底からずれる。下手をすると、外に落ちてしまう。これを防ぐために、弾丸を入れた後、厚紙を口で噛んで湿らせさく杖(樫の木で作った棒のようなもの)で押し込んで、少々の振動では弾丸が動かないようにするのだ。実(まこと)に厄介な手順を踏んで一発の弾丸が発射されるのが、前装式銃であり、特にゲベール銃なのである。その操作手順は、ミニエー銃の場合で十一ステップ、といわれている。

これに対して、後装式のスナイドル銃やスペンサー銃になると、弾頭部・火薬部・鉛部・信管部が一体となったカートリッジ状の弾丸を銃尾の弾倉へ装填すれば、あとは引き金を引くだけであって、操作は遥かに簡単である。何よりも、次の弾を撃つまでの間隔が短い。即ち、発射速度が前装式とは全然違うのだ。スナイドル銃の発射速度は、通常ミニエー銃の3倍、ゲベール銃の6とされている。つまり、発射速度だけでいっても、スナイドル銃1丁はゲベール銃6丁に匹敵するのである。更にいえば、前線ではこのような単純な差では済まなくなる。前述した通り、敵のスナイドル銃の銃弾が激しく飛んでくる中で、ゲベール銃の銃身を立てて自らも立ち上がって弾丸を入れ、さく杖で厚紙などを押し込んでいられるか。弾を込めるのに決死の覚悟を要する。現実に、多くの二本松藩兵、仙台藩兵がそれでやられているのだ。

奥羽諸藩と薩長・土佐連合軍の最初の本格的な衝突は「本沼の戦い」である。僅か20名の長州斥候部隊200名から成る二本松・会津連合部隊と遭遇し、本格的な銃撃戦となった。僅か1時間の銃撃戦で200名の二本松・会津軍は20名近くの死傷者を出して、敗走した。この時、20名の長州斥候部隊は死者1名、負傷者1を出したが、10倍の兵力をもつ部隊を撃破したのである。

この結果は、ほとんどすべて主力武器であった小銃の性能の差によるものであった。そして、この図式は戊辰東北戦争終結まで一貫して変わらなかったのである。

更に付け加えると、小銃の性能の違いだけでなく、砲にも性能の差があった。二本松藩の悲劇、特に「二本松少年隊」の悲劇は、武器の性能の差と、二本松武士の意気地が生んだものである。

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ