« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月

2012年1月29日 (日)

風に吹かれて三度笠(其の一 稗史のヒーローたち)

動乱の幕引きには、さまざまなことが起こる。二本松少年隊の悲劇について、端折りながらも一気に続けてお話してきたが、二本松藩の始末はどのような形で行われたのか。また、この一途ともいうべき藩風はどこからきたものなのか。お話としてはそこまできっちり体裁を整えて“始末”をつけるべきであろうが、いずれ書籍としてまとめる機会もあるだろうから、ここでは以下割愛とさせていただく。

官軍と自称する薩長土の直接的な攻撃目標は、会津庄内である。二本松藩は、たまたま会津への侵攻ルートに静かに存在していただけである。彼らは、戦わずして屈することを潔しとはしなかった。この戦いは、武門の意地が前面に出たケースであり、幕末という時代には既に珍しくなっていたが、武家の本来あるべきスタンスである。結果として、狭い城下に薩長土の大軍を引き受け、少年から老人までが挙(こぞ)って戦い抜くことになった。私が改めて提起したかったことは、そもそも「武士道精神」とは何か、「武門の意地」とはどういうものか、そして、本ブログのカテゴリー名称の一つとなっているが、「武家の佇まい」とは如何なるものかということに過ぎない。特に社会問題化している「平成四十男」に向けて提示したかった。二本松藩の英雄譚を語ったつもりはない。

しかしながら、日本社会を今日に至るまで誤らせた「官軍教育」「明治維新史観」を矯正しようという意図を以て続けてきた本ブログは、やはりサブタイトル通り「無駄な抵抗」であったようだ。そろそろこの大テーマについては筆を置きたい。最後に少々、裏面史としてしか扱われない話題を取り上げ、後は“古臭い”活字の世界へ戻って“討ち死”すべきかと考える次第である。

本ブログは、単なるブログとして形だけは残しておく心算(つもり)である。

なお、二本松少年隊をシリーズで語るについては、以下の資料を参考にさせていただいた。

「幕末」          司馬遼太郎

「アームストロング砲」   司馬遼太郎

「官僚川路聖謨の生涯」   佐藤雅美

「数学者が見た二本松戦争」 渡部由輝

「上役は世良修蔵」     中村彰彦

「木村銃太郎門下」     中村彰彦

「明治という国家」(上下)  司馬遼太郎

「この国のかたち」     司馬遼太郎

奥羽は今、日本開闢以来という、人災も含めた大災害に苦しんでいる。悲痛な沈黙の叫びをあげている。自力での復興は不可能である。戊辰戦争以降、いわれのない差別を受けながら、長州軍閥のなれの果てがもたらした敗戦後の我が国の復興を支えてきた奥羽の人びと。その恩恵だけを享受しながら、がれきの受け入れ一つに猛烈に反対する阿呆な民。小シリーズ「華の二本松」は、まっとうな科学知識など皆無でありながら「安全と安心は違う」などと小賢しい屁理屈を並べて奥羽を拒否する関東及び西の阿呆な輩に対する心底からの怒りの表現である。

さて、稗史(はいし)と呼ばれる歴史がある。お上が語る歴史が「正史」であり、官軍教育による歴史などは典型的な「正史」である。木戸孝允伊藤博文西郷大久保、果ては吉田松陰如きまでが「正史」の中のヒーローなら、稗史で活躍するのは、博徒、侠客、浮浪や河原乞食(漂泊の芸能人)といったアウトローたちである。彼らは、官軍史観によるアカデミズム、公教育から徹底して排除され、或いは無視されてきた。ところが、博徒;清水の次郎長もその敵役;黒駒村の勝蔵も確かに私どもの歴史に実在し、そればかりか幕末動乱期には確固とした意志を以て戊辰の争乱に関わっていったのである。江戸期という時代そのものを抹殺しようとした官軍正史は、完璧に彼らを排除した。しかし、稗史のヒーローたちは、正史の対極にある民間伝承や大衆芸能の中に鮮やかに生き続け、その存在が正史の修正を求めることも稀なことではないのだ。正史は虚を実であると強制するのが常であるが、稗史とは虚実入り乱れて生身の人間の営みを生き生きと語り継ぎ、それ故にいつの時代も庶民を惹きつけてやまないものなのだ。

稗史の中心にいるのは、博徒、侠客である。渡世人股旅といった方が解り易く、身近でもあろう。

「縞の合羽に三度笠、無宿渡世に命を賭けて~」

このような渡世人は、アニメもゲームもなかった私どもの少年時代にはヒーロー中のヒーローであった。私ども以前の時代には、浪曲・講談が彼らの活躍を伝えた。例えば、明治に入るや否や、清水次郎長の養子が『東海遊侠伝』を世に出し、これをベースに二代目広沢虎造が浪曲で、三代目神田伯山が講談で語って人気を博し、誰もが清水一家の子分の名前からキャラクターに至るまでを常識として知るまでになった。因みに、次郎長はどちらかといえば「倒幕派」に属したが、後に英雄となったことについてはこのことが幸いしたともいえる。

私どもの少年時代になると、彼らの活躍する舞台は映画となった。特に、東映時代劇の中心は「股旅もの」であった。東千代之介中村錦之助大川橋蔵から美空ひばりに至るまでのスターが次郎長、石松大政小政吉良の仁吉を演じ、私どもは一宿一飯の恩義によって喧嘩出入りに命を賭ける任侠の道の厳しさ、切なさに胸を痛め、理不尽に対しては弱者の味方となって強きを挫(くじ)く男気に喝采を送ったものである。何よりも縞の合羽に三度笠といういでたちがカッコ良かった。その合羽をさっと翻して、三度笠を眼深に被って女に背を向け、決して振り返ることなく街道を去って行く。これを男と言わずして何というか。映画を観た日などは、家へ帰っても股旅気分の余韻が去らず、今日から俺も一汁一菜でいくなどと気張っていたことを覚えている。

ヒーローは、当然次郎長だけではなかった。沓掛時次郎、番場の忠太郎駒形茂兵衛関の弥太っぺなど、大衆小説作家;長谷川伸が生み出した若い渡世人こそ、実在の次郎長や黒駒の勝蔵、竹居の安五郎会津小鉄国定忠治笹川の繁蔵大前田英五郎以上に庶民の心を掴んだのである。

一宿一飯の義理から喧嘩出入りでやむなく六つ田の三蔵を斬った信州・沓掛村無宿;時次郎は、三蔵の女房子供を守りながら切なくも必死の旅を続ける。(沓掛は今の中軽井沢)

♪すねてなったか 性分なのか

旅から旅へと 渡り鳥

浅間三筋の煙の下に

生まれ故郷もあるっていうに

男 沓掛時次郎♪

♪女知らずが 女の世話を

その上 坊やの手をひけば

すまぬ、すまぬと いう眼が辛い

旅だ、旅だよ 許してくんな

これがおいらの せい一杯♪

♪男意地づく 生命をかけて

キリリと結んだ 三度笠

義理はすんだが、泣かずにきたが

またも今日から 行きさきゃ知れぬ

旅の合羽を 風が吹く♪

          (作詞;佐伯孝夫)

私は、今でもカラオケでこれを唄うから、歌詞は空(そら)で綴れるのだ。

この「沓掛時次郎」は、長谷川伸の原作である。私どもの年代ならずとも読者諸兄が長谷川伸の名を知らぬとは思えないが、彼が我が国の文学界のみならず演劇界、映画界に与えた影響は言いようもなく大きく、夏目漱石三島由紀夫などの比ではない。明治十七年生まれ。四歳で生母と生き別れ、五十代に乗ってから再会する。土方、石工、鳶、出前持ちなどの職業を転々として少年時代を生き抜いた長谷川伸の作品には、社会の底辺で生きる者への共感があるのだ。そして、常に日本人のどうしようもない情感の根っこにテーマを置いている。生涯に書いた小説は500作品、戯曲150作、映画化された作品は150作。こういう作家は他にいない。長谷川の門人には、村上元三山手樹一郎山岡荘八池波正太郎平岩弓枝など後に大家と呼ばれる作家が顔を揃えている。

沓掛時次郎や佐久の鯉太郎という無宿渡世の股旅は長谷川伸の創作であるが、実在した次郎長や黒駒の勝蔵の渡世と実はほとんど変わらない。ただ、次郎長や勝蔵は、御一新の動乱に深く関わっている点があまり知られておらず、ここが稗史を取り上げるポイントでもある。

ただ、最後でもあるので、気楽に私の好きな股旅ものの話を織り交ぜながら、話を進めてみたい。

2012年1月22日 (日)

華の二本松(其の十 少年隊、壊滅!)

大壇口で連合軍と交戦状態に入った二本松少年隊は、僅か三十分ばかりで戦闘部隊としては制圧されてしまった。しかし、十三、四の少年たちとしては決死の奮戦であった。この大壇口での戦闘で、隊長;木村銃太郎が戦死。少年たちの中では、奥田牛之助(15歳)が戦死した。他の少年たちは、ほとんどが重軽傷を負った模様である。大壇口から城下へ引いて、彼らは決死の斬り込みを繰り広げた。

大壇口に於いて、連合軍に簡単に撃破されたのは、やはり砲の威力の差であった。連合軍は、時限式信管を使った榴弾、更には小臼砲を使用して榴散弾を打ち込んできたが、木村隊の砲は着発式信管を取り付けた榴弾を撃つのが精一杯で、中実弾がほとんどであった。そもそも火薬が違った。木村隊が使用していた火薬は、木炭の混合比率の高い旧火薬である。少年たちは、全身煤(すす)まみれとなり、顔も手も真っ黒になって戦っていたという。

書物によっては、少年隊の発射した砲弾が敵兵の頭上で炸裂し、多大な損害を与えた、というような記述をしているものがあるが、これはウソである。確かに、砲弾というものは敵の頭上で炸裂すれば大きな損耗を強いることができるが、それは時限式信管を装着した榴弾または榴散弾を撃ち込まない限り不可能である。前述した通り、奥羽列藩には時限式信管装着の技術はまだなかったのだ。薩摩軍の記録によれば、この砲撃戦で薩摩の小隊指揮官;日高郷左衛門が砲弾の直撃を受けて戦死している。記録に残る連合軍の戦死者はこれのみで、砲弾の直撃を受けて一人のみが死亡するというこの状況は、少年隊が発射した砲弾が中実弾であったことを示している。

一方、木村銃太郎は、左上腕部に貫通銃創を受け、右手しか使えなくなった。この時点で砲の火門に釘を打ち込んで使用不能とした上で、城下への退却命令を出した。そこへ今度は腰を撃たれた。スナイドル銃で狙撃されたらしい。連合軍が保有していたスナイドル銃の射程は八百メートル前後あり、狙撃兵も用意していた。城下まで走れぬことを悟った木村は、少年たちに自分の首を刎(は)ねることを命じたが、結局副隊長の二階堂が介錯することになった。しかし、二階堂は一太刀で首を落とすことができず、三太刀目でようやく首を落とした。少年たちは、素手や木片で穴を掘って木村の死体を埋め、二人の少年が左右から髪の房を握って、木村の首だけを持って敗走を開始したのである。

二階堂を中心とする敗残の少年たちが、二本松の名刹;曹洞宗大隣寺へ辿り着こうとした時、山門下馬先に黒ずくめの兵が四名、休息しているように見えた。笑みを浮かべ、手招きしたとも言われているが、二階堂以下少年たちが味方だと錯覚して近づいた途端、兵たちは一斉射撃を浴びせてきた。四名が持っていた銃は、七連発スペンサー銃であった。副隊長;二階堂衛守即死。岡山篤次郎(13歳)も撃たれ、敵に捕らわれて野戦病院へ運ばれたが、そこで戦死した。このような、黒い筒袖、洋袴によって敵味方を錯覚するという現象は、実は戊辰戦争のあちこちの局面で見られた史実である。

この岡山篤次郎は、山奉行;岡山持(よし)の次男で、木村銃太郎の最初の門下生である。菊人形のような美男であったと伝わる。彼は、出陣前夜(二十六日夜)、母;おなおに、装束、持ち物すべてに「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いて欲しいと頼んだ。討ち死にした時、下手な字では敵に恥を晒すし、母親が自分の死体を探す時、母自身の筆なら探し易いだろうというのである。確かに、岡山篤次郎の筒袖服、白鉢巻には女文字で姓名が書き込まれていたという。篤次郎は、あまりの幼さに驚いた薩摩隊によって野戦病院に運ばれたのだが、絶命するまでの数日間、昏睡状態にありながらも「鉄砲だ! 鉄砲を持ってこい! 無念だ!」と呻き続けた。篤次郎の最期を看取った薩摩藩士が一首の歌を手向けている。

君がため 二心(ふたごころ)なき武士(もののふ)の 

命は捨てよ 名は残るらん

お城(霞ケ城)は紅蓮の炎を上げている。城下には既に敵兵が充満している。哀れにも、残った少年たちは地獄を彷徨ったのである。木村隊以外の部隊に配属された少年たちも、城下へ敗走してきていた。しかし、一人でも多く敵を倒すと、決死の覚悟を定めて家を出てきた彼らは、修羅場に慄きながらも決して発狂することはなかった。戦場という修羅場で、幼い少年たちが発狂しなかったことは、実は驚嘆すべきことである。

木村隊;成田才次郎(14歳)成田外記右衛門の次男。敵に相まみえたら、斬ってはならぬ、ひたすら突け! と日頃から叩き込まれていた。重傷を負い、意識も朦朧とする中、フラフラと燃え盛る城下を彷徨っていた。連合軍兵卒たちは、彼を狂人とみて道を開けた。成田はそのまま長州兵の一団に近づき、やっとの思いで身長からすれば長過ぎる刀を抜き払い、白熊(はぐま)の冠りものを付けた隊長と思しき者だけを眼中に収めて突きかかった。この指揮官が、長州藩士;白井小四郎31歳)であったことが判っている。白井に油断があり、成田の剣は父の教え通り、白井を斬らずに真っ直ぐ突いた。白井はその場で絶命。絶える息の間に「己の不覚。少年を殺すな」と言ったらしいが、周囲の兵たちは銃を逆手にとり、成田を撲殺した。

髙橋辰治(13歳)。既に連合軍兵卒で溢れる二十九日夕刻の城下。とある邸の前の堀の中に転がっていたが、泥まみれになってヨタヨタと這い上がり、刀を構えて敵兵の中に突っ込んでいったが、忽ち斬り殺された。この時の様子を、その邸に潜んでいた下僕が目撃しており、この事実が伝わったものである。

徳田鉄吉(13歳)。彼の父;徳田茂承(もちつぐ)は永らく病床にあり、文久三年(1863)、藩が江戸湾警備を命じられた際、富津へ赴くはずが適わず、これを恥じて自害した。祖父母もその後を追った。家督を継いだ兄;伝七郎は既に前線へ出ている。母;おひでは、「お祖父様や父上の分まで働かねばなりませぬ」といって、鉄吉を送り出した。鉄吉の死体は、新丁登り口の自宅近くで発見されている。恐らく、深手を負って、母に別れを告げに必死に自邸近くまで辿り着いて息絶えたのであろう。

既稿で触れたことのある上崎鉄蔵(16歳)。出陣を見送る母・祖母が「行ってきなさい」と言ったのに対して、「今日は『行け』だけでしょう」と応じた少年である。上崎家は四人扶持という薄禄で、当主の上崎織衛が出陣したので家には刀が一本も残っていなかった。出陣の命を受けた鉄蔵はふさぎ込んでしまったが、母;おすまが実家に走り、相州物の銘のある刀を借りてきてくれた。それを背負った鉄蔵は、大谷志摩隊に属し、城下を転戦し、新町で戦死した。「今日は『行け』だけでしょう」と言って母と祖母を泣かせた16歳の少年は、本当に還ってこなかったのである。母;おすまの句が残されている。

言の葉の耳に残るや 今朝の秋

上げれば、まだまだある。遊佐辰弥(13歳)木村丈太郎(14歳)大桶勝十郎(17歳))。以上は、木村隊所属である。その他の隊では、根来梶之助(16歳)小沢幾弥(17歳)。彼らは皆、城門に至る前に立ちはだかるように戦死していた。重傷を負った身で、最後の絶望的な斬り込みを敢行して戦死したものとみられている。

過日、根来梶之助の根来家の子孫に当たるM氏から突然メールを頂戴した。少年たちの過酷な戦いは、百四十余年前の出来事であるが、決して遠い、遠い昔の絵空事か事実か定かでないような話ではない。戦死した一族のご子孫が、先祖を想って平成の世を生々しく、凛々しく生きておられるのである。歴史とは、人間の悲しみの堆積であるかも知れない。それは、紛れもなく、絶えることなく今日まで脈々と受け継がれている。そして、同じようにこの先へ引き継がれていく。

二本松戦争当日一日だけで、二本松藩全体で戦死者二百八名、負傷者二十九名。少年兵の戦死者十六名、負傷者六名。応援の仙台藩兵の戦死者三十一名、負傷者一名。会津藩兵戦死者約三十名。これに対して、連合軍の戦死者は僅かに十九名、負傷者五十三名であった。

この二十三日後、会津にて、あの有名な白虎二番士中隊十九名が飯盛山で自刃した。

2012年1月12日 (木)

華の二本松(其の九 少年隊、出陣!)

薩長土を中心とする連合軍約二千五百が三春に集結した七月二十六日、二本松にはせいぜい五百の守備隊しか残っていなかった。これは、今日でいう予備役のような位置づけであり、老人が多く含まれていた。進退きわまった藩庁は、数え十三歳以上十七歳以下の少年たちに遂に出陣命令を発した。

連合軍の間に戯れ歌が流行ったのは、この時点である。

『馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐にだまされた♪』

『仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松♪

東北戦争の全貌からいえば、二本松藩は連合軍の進撃路に独り取り残されたような格好となったのである。このような戯れ歌が陣中で流行るほど、連合軍兵士は勝利を確信していたといえる。指揮官クラスでなく雑兵ともいえる一兵卒に至るまでが勝利を確信するほど、戦線の趨勢は明白であったのだ。どちらかがこの趨勢というものを見誤るということはなく、二本松サイドは全藩死を決して抵抗戦を繰り広げようとしている。

少年たちに出撃命令が下って、ここに木村銃太郎門下十六名に九名を加えた二十五名の銃隊一小隊が成立した。これが、世にいう「二本松少年隊」である。世界の戦史の中で、最も幼い少年たちで構成された正規の一部隊である。隊長;木村銃太郎、副隊長;二階堂衛守。七月二十七日早朝、集合場所;藩校敬学館前庭。少年たちの戦闘服はバラバラ。全員共通していたのは、髪を結んで背に垂らしていることと、白鉢巻を巻いていること、そして、左肩に丹羽家家紋(違い棒)を付けていることだけであったという。

ここで、二本松藩の「番入り」「入れ年」について触れておく必要がある。

藩士の子弟は、数え二十歳になると「番入り」と称して何らかの武人としての職務を与えられる。元服とは違って、実質的に「番入り」してはじめて一人前の武家となる。大人の武家として扱われるのである。もともと「番」という言葉には、「武人」「戦闘員」という意味が含まれている。番入り年齢=二十歳というのが平時の姿であった。ところが、ここに「入れ年」という慣習が存在した。研究者たちがよくいうように、これは一種の“上げ底”制度であり、数え十八歳になると「番入り」を認めるのだ。こういう「入れ年」という慣例は、何も二本松藩だけの特殊な慣習ではない。多くの藩で行われていたことである。そうすると、「番入り」年齢を十八歳に引き下げると、入れ年によって十六歳の者でも正式に出陣できることになる。兵力が乏しくなった二本松藩は、現実に棚倉が落ちた直後=三春藩の離反直前に「番入り」年齢を十七歳に引き下げている。つまり、入れ年して十五歳の少年までが正式に「番」に入って出陣できるようにしたのである。この時、三春藩を牽制する目的で百七十名を出陣させたが、その中に田中三治=十六歳武藤定助=十五歳が含まれている。藩庁は、この部隊が出撃していく直前に、更に「番入り」年齢を引き下げた。何と、十五歳で「番入り」としたのである。ということは、入れ年によって実際には十三歳の幼い少年が公式に正規の戦闘員となってしまったのだ。木村銃太郎門下の少年たち全員が「少年隊」として出撃することになったのは、この時期の、兵力寡少に苦しんだ藩庁の、このような戦時緊急措置によるものであった。

誤解していけないことは、何も嫌がる少年たちを藩が無理やり「番入り」させたのではないということだ。家中の武家やその子弟、即ち当の少年たちからの嘆願も、それ以前から強く寄せられていたのである。武家の子弟は、常日頃、武士とは戦場で死するものという教育、躾けを受けている。拙著『夏が逝く瞬間(とき)』で描いた通り、私自身が小学生の終わり頃、母から切腹の作法を教え込まれている。それは、昭和も既に三十年代に入った頃である。それによって私は、その後一年間ほど恐怖に慄くという異常な精神の日々を送ることになったが、武家の躾けとは常に「死」を前提としたところから始まるのである。「さようなことでは戦では役立たぬ」などと言われれば、武家の子供は傷つく。このあたりの精神風土、その上に成立していた教育環境というものは、少年法という天下の悪法で子供たちを曲げてしまって今なお放置している平成のモンスターペアレントの感覚で思考しても無駄である。洞察するという作業にも、それなりの素地が必要となることを強く指摘しておきたい。戦時措置としての「番入り」年齢の引き下げが実施されて、木村門下の少年たちも歓喜したのである。彼らは、ご家老たちは自分たちを武士として扱ってくださると無邪気に感激したのである。

出陣に当たって、木村隊に四ポンド山砲一門と少年たち全員にエンフィールド銃(元込め式)が支給された。少年たちは歓喜したが、木村には何故これを今までしまい込んでおいたのかという怒りも湧いた。更に、一人当たり一両三分という軍用金が支給された。子供が見たこともない大金である。しかし、この金は、討ち死にして野に屍を晒した時、領民の誰かが埋葬でもしてくれるとなった時、埋葬料、回向(えこう)料として使ってもらう為のものであって、こういう金を身にまとって出陣するのも、死を覚悟した武家のたしなみである。

木村隊の持ち場は、城南の大壇口。奥州街道の真上に位置する要所で、連合軍は本宮を経てこの主街道を進軍してくる。二本松藩は、連合軍別働部隊の北上にも備えていたので、そちらにも兵力を割いており、主戦場となることが確実な大壇口に配備したのは、僅か三小隊と木村隊のみであった。小さな丘の上に設置した四ポンド山砲とは、口径86.5mm、最大射程二千五百メートル、信管付きとそれなりの威力を発揮する砲であるが、榴弾を発射するには手順が多く、ややこしい。一言で言い切れば、一発の榴弾を発射するのに十人がかりで五分を要したという。木村が少年たちに速成の指導を行う。決死の修羅場を前にした時、人は不可能と思われることでも何とかするものである。少年たちは必死で手順を習得した。

七月二十九日早朝、奥州街道に遂に姿を現した連合軍隊列に向かって、木村隊から一発の榴弾が放たれた。六町先の尼子台高地に陣を敷いた小川平助隊が戦端を開いたのに呼応したものである。少年たちの修羅場が始まった。

2012年1月 1日 (日)

華の二本松(其の八 木村銃太郎門下)

二本松藩は、死を選択した。

改めてお断りするまでもないことであるが、本シリーズはこの二本松藩の決断やそれに伴って発生した戦場(いくさば)に於けるさまざまな出来事を殊更賛美したり、逆に不必要に非難したりすることを目的としていない。このスタンスは、このブログエッセーそのものの立ち位置でもあるが、史実を史実として整理し、延々と確信するところを綴っているに過ぎない。勿論、ベースにある主張が、俗にいう「明治維新」の否定、官軍教育の否定にあることは、既に明白にしている通りである。不必要に褒めたたえるような言辞を並べるかと思えば、手のひらを返して非難に転じるという風な、己の稚拙な現代論理に縛られ、軸をもたない読者から露骨な嫌がらせを受けることがあるので改めてお断りしておく。

藩論を決した二本松藩に、所謂「二本松少年隊」が結成された。会津の白虎隊より更に幼い少年たちを、死を選択した藩が正規部隊として戦場に送り出すのは如何なものかという主張がある。それは、どこまでも平成人の感覚による論であって、武家の精神文化が社会の重しとなって秩序が保たれてきた江戸期社会に於いて、当の武家の心情を洞察すればあまり意味を為さない論であるように思われる。二本松藩は、藩ごと死を選択したのである。

とはいえ、現実の前線では武家クラスの藩士たちは、できるだけ少年たちを後ろへ、後ろへ下げた。最前線に立たせることを避けようと心掛け、できることなら逃げ延びることを願ったのである。後述するが、このことは、敵味方を問わず少年たちに対する情として見られた事実である。薩長土連合軍には武家の精神文化とは程遠いならず者が多数含まれていたが、少なくとも武家には敵味方の区別なく「士道」というものが鮮烈に生きていた時代である。しかし、少年たちは背伸びをした。できるだけ死に近づくように背伸びしたといえよう。これもまた、武家の子弟なら当然の士道というものであろう。

二本松少年隊という名称は、あくまで通称である。正式には、木村銃太郎を隊長とする砲隊一小隊のことをいう。木村と副隊長格の二階堂衛守(藩との連絡官)のもとに二十五名の少年たちが配属された。木村は、二本松藩砲術師範;木村貫治の嫡男で、この時点で数え二十二歳。木村家の家禄は六十五石であった。六十五石という家禄は、決して重いとはいえないが、砲術師範らしい低くはないものである。木村は、体格のいい男であったようで、身長は五尺八寸(百七十六センチ)もあったらしく、筋骨逞しく、色も浅黒かった。要するに、威風堂々とした青年であった。同輩の間では、借金を申し込む時は木村を連れて行け、といわれていた。偉丈夫といわれた彼が傍に黙って座っているだけで、相手は信用するというのである。しかし、木村という青年は単なる大男ではなかった。所謂文武両道の典型のような男で、特に理数系の頭脳が秀でていた。木村の家系そのものが理数系に強い家系であったようで、父方の曽祖父は和算の権威;渡辺東岳である。江戸期日本の和算とは、計量数学としては圧倒的に世界最高の水準にあったことを、この際知っておかれた方がいい。識字率に於いても同様であるが、江戸期の武家や一般庶民の基礎知識レベルとは、例えば大英帝国などと比較しても、理科・文科両面に於いて相当に高かったのである。渡辺東岳の家系である木村家では、今でいう数学が家学となっていたという環境も影響したのか、とにかく木村銃太郎の理数系能力は極めて高かった。この点を買われて、彼は藩命によって韮山代官所へ留学していた。

韮山代官所といえば、お分かりであろう。特に幕末に於いては、単なる代官所ではない。武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐五カ国二十六万石を所管する代官所であるが、この時期は「江川砲兵塾」といった方が解り易いかも知れない。代官;江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、幕末四傑の一人;川路聖謨(としあきら)、鬼才;佐久間象山、日露戦争の陸軍総司令官;大山巌など錚々たる面々に西洋砲術を教えた我が国砲兵学の祖である。この代官所は銃砲鋳造の為の反射炉まで備えており、佐幕派・倒幕派を問わず各藩から留学生が集まったのである。戊辰戦争で砲兵部隊を指揮した者は、大概江川塾の出身であり、同学が敵味方に分かれて戦ったというケースもあった。余白があれば後述するが、二本松戦争に於いてもそれがあった。いずれにしても、各藩の秀才が集まった、特異な代官所であったといえるだろう。江川英龍その人は、安政二年(1855)に世を去っていたが、代官所手代たちが農兵から成る銃隊を組織するほどであったから、英龍亡き後も各藩の留学生を吸引する韮山代官所の特異な機能には全く変化がなかったのである。(代官所「手代」については、小シリーズ「五条代官所の悲劇」(200811月)を参照されたい)

余談ながら、江川太郎左衛門英龍とは、幕末史を語るについては避けて通れない“重要人物”である。決して、“読書人”タイプの単なる優秀な代官ではない。この人物は、立体的に掘り下げて解明する必要があり、私は幕末裏面史にもほとんど登場しないヤクザ(博徒)との職業上の繋がりも無視できないと考えている。幕末のヤクザといえば、清水次郎長しか語られないが、当時のその世界では次郎長などはむしろ脇役であり、竹居村無宿;安五郎(ども安)黒駒村無宿;勝蔵など、主役はほかにいる。「ども安」は新島に流されていたが、ちょうど黒船が来航したまさにそのタイミングに「島抜け」を見事に成功させている。しかし、普通に考えれば「島抜け」が成功裡に完結することなどあり得ない。この時、韮山代官所は、どういう意志を以てこの「島抜け」に対処しようとしたのか。また、黒駒勝蔵の宿敵;清水次郎長の犯罪(今日でいう殺人事件)を何故放置したのか。この時期の韮山代官所の動きは、幕府の真意というものを敏感に反映させていると思えて、機会があれば小シリーズとして採り上げたいと考えている。

さて、木村銃太郎は、そういう、海軍伝習所以上に戊辰戦争に直結する影響を各所に与えた“江川塾”に学んだ。そもそも当時の砲術、特に洋式重砲の操作には、かなり高度な理数系の能力が求められた。重砲の砲弾は、簡潔にいえば放物線を描いて飛ぶ。どのあたりに着弾するか、また着弾させるか。それを決めるのは、砲の射角初速度であるが、大体秒速二百~二百五十メートルという当時の重砲弾の初速を決めるのは、火薬の量であった。当時の火薬は、硝石・硫黄・木炭を混ぜて製造されたが、その混合比は751510とされる。つまり、最も多く使用するのは硝石であるが、天然の硝石は我が国には存在しなかった。そこで各藩は、動物の死骸を湿地帯に埋めて腐食させ、その土を沈殿させ、濾過して硝石の主成分である硝酸カリウムを抽出するという方法と採っていた。この方法では、死骸を埋めてから硝酸カリウムを抽出するまでに凡そ三ヶ月を要したという。従って、急に火薬を増産するということが難しかったのである。火薬の備蓄量が少なかった奥羽列藩では、この時期各藩とも火薬の製造を大いに急がせていたが、このような製造法の事情で簡単にはいかなかったのである。火薬が十分手当てできたとして、重砲とはその火薬を爆発させて大きな砲弾を飛ばす訳であるから、砲身の強度が問題となる。鋼鉄か、少なくとも青銅(銅とスズの合金)でなければならなかった。ところが、鋼鉄・青銅を鋳造できる施設は佐賀藩薩摩藩にしかなく、奥羽列藩には存在しなかった。長州は、清国から輸入している。更に砲弾となると、もっと精密技術を要する。既稿で述べた通り、単なる大きな鉄の弾を飛ばしても意味はなく、砲弾というものは榴散弾でなければ効果はほとんどない。ということは、弾頭に信管を備えている必要があるのだ。この信管の製造技術も佐賀藩と薩摩藩しかもっていなかった。薩摩藩がこの技術を身に付けたのは、薩英戦争後の英国からの技術供与によるものである。

斯様に重砲とは、当時としては最先端の科学技術の結晶であったのだ。これを独自に製造することができないとなると、完成品を、砲弾を含めて輸入するしかなかったのだが、では輸入すればそれで済むかといえば、当然そうはいかない。これを武器として使いこなす、即ち、砲弾を発射させるという技術がまた容易なことではなかったのである。スプリングという衝撃を吸収する装置がまだ存在しなかった時代のこと、臼砲などの重砲は台座に固定しないと発射の衝撃で砲そのものが吹っ飛んでしまう。となると、重砲は常に一定の角度でしか撃てないのである。その角度で発射された弾丸は放物線を描いて飛び、着弾地点を調節するのは火薬の量である。つまり、砲術には数学、度学(幾何学)、弾道学(力学)、化学、火薬学をはじめとする最先端の数学、科学知識が求められたのである。以前述べたように、アームストロング砲を自前で開発した佐賀藩では、あまりに厳しい藩校での藩士教育を行った為、発狂する者さえ出た。西郷隆盛の放ったテロ集団「赤報隊」の江戸市中での無差別テロに怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き打ちにしたという事件をご存じであろうが、この時庄内藩は重砲を使用している。しかし、江戸詰藩士の中にこれを操作できる者がおらず、実際に砲を撃ったのは庄内藩から依頼された幕府のフランス人砲術顧問であった。

二本松藩のエリート;木村銃太郎は、こういう難解な西洋砲術を江川塾で指導された。しかし、藩論が決して、彼は急遽呼び戻されたのである。彼の父;木村貫治は、前述した通り藩の砲術師範であり、十人ほどの弟子を抱えていたが、帰国した木村がこの道場の指導を補佐することとなった。そして、父;貫治が木村個人の弟子をとることを許し、木村は「全くの初心者に限る」ことを条件に弟子をとり、鳥羽伏見で幕軍が敗れた頃には入門者は十六名となっていた。「全くの初心者に限る」という条件をつけたのは、二本松藩には父;貫治以外に二名の砲術師範がおり、それへの遠慮、配慮に他ならない。この条件の為に、木村門下となった者は、すべて藩校敬学館で学ぶ、まだ前髪立ての少年たちばかりとなってしまったのである。このことが、木村の門下生で構成された木村銃砲隊が「二本松少年隊」と呼ばれるに至ったそもそもの発端である。

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ