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2012年1月12日 (木)

華の二本松(其の九 少年隊、出陣!)

薩長土を中心とする連合軍約二千五百が三春に集結した七月二十六日、二本松にはせいぜい五百の守備隊しか残っていなかった。これは、今日でいう予備役のような位置づけであり、老人が多く含まれていた。進退きわまった藩庁は、数え十三歳以上十七歳以下の少年たちに遂に出陣命令を発した。

連合軍の間に戯れ歌が流行ったのは、この時点である。

『馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐にだまされた♪』

『仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松♪

東北戦争の全貌からいえば、二本松藩は連合軍の進撃路に独り取り残されたような格好となったのである。このような戯れ歌が陣中で流行るほど、連合軍兵士は勝利を確信していたといえる。指揮官クラスでなく雑兵ともいえる一兵卒に至るまでが勝利を確信するほど、戦線の趨勢は明白であったのだ。どちらかがこの趨勢というものを見誤るということはなく、二本松サイドは全藩死を決して抵抗戦を繰り広げようとしている。

少年たちに出撃命令が下って、ここに木村銃太郎門下十六名に九名を加えた二十五名の銃隊一小隊が成立した。これが、世にいう「二本松少年隊」である。世界の戦史の中で、最も幼い少年たちで構成された正規の一部隊である。隊長;木村銃太郎、副隊長;二階堂衛守。七月二十七日早朝、集合場所;藩校敬学館前庭。少年たちの戦闘服はバラバラ。全員共通していたのは、髪を結んで背に垂らしていることと、白鉢巻を巻いていること、そして、左肩に丹羽家家紋(違い棒)を付けていることだけであったという。

ここで、二本松藩の「番入り」「入れ年」について触れておく必要がある。

藩士の子弟は、数え二十歳になると「番入り」と称して何らかの武人としての職務を与えられる。元服とは違って、実質的に「番入り」してはじめて一人前の武家となる。大人の武家として扱われるのである。もともと「番」という言葉には、「武人」「戦闘員」という意味が含まれている。番入り年齢=二十歳というのが平時の姿であった。ところが、ここに「入れ年」という慣習が存在した。研究者たちがよくいうように、これは一種の“上げ底”制度であり、数え十八歳になると「番入り」を認めるのだ。こういう「入れ年」という慣例は、何も二本松藩だけの特殊な慣習ではない。多くの藩で行われていたことである。そうすると、「番入り」年齢を十八歳に引き下げると、入れ年によって十六歳の者でも正式に出陣できることになる。兵力が乏しくなった二本松藩は、現実に棚倉が落ちた直後=三春藩の離反直前に「番入り」年齢を十七歳に引き下げている。つまり、入れ年して十五歳の少年までが正式に「番」に入って出陣できるようにしたのである。この時、三春藩を牽制する目的で百七十名を出陣させたが、その中に田中三治=十六歳武藤定助=十五歳が含まれている。藩庁は、この部隊が出撃していく直前に、更に「番入り」年齢を引き下げた。何と、十五歳で「番入り」としたのである。ということは、入れ年によって実際には十三歳の幼い少年が公式に正規の戦闘員となってしまったのだ。木村銃太郎門下の少年たち全員が「少年隊」として出撃することになったのは、この時期の、兵力寡少に苦しんだ藩庁の、このような戦時緊急措置によるものであった。

誤解していけないことは、何も嫌がる少年たちを藩が無理やり「番入り」させたのではないということだ。家中の武家やその子弟、即ち当の少年たちからの嘆願も、それ以前から強く寄せられていたのである。武家の子弟は、常日頃、武士とは戦場で死するものという教育、躾けを受けている。拙著『夏が逝く瞬間(とき)』で描いた通り、私自身が小学生の終わり頃、母から切腹の作法を教え込まれている。それは、昭和も既に三十年代に入った頃である。それによって私は、その後一年間ほど恐怖に慄くという異常な精神の日々を送ることになったが、武家の躾けとは常に「死」を前提としたところから始まるのである。「さようなことでは戦では役立たぬ」などと言われれば、武家の子供は傷つく。このあたりの精神風土、その上に成立していた教育環境というものは、少年法という天下の悪法で子供たちを曲げてしまって今なお放置している平成のモンスターペアレントの感覚で思考しても無駄である。洞察するという作業にも、それなりの素地が必要となることを強く指摘しておきたい。戦時措置としての「番入り」年齢の引き下げが実施されて、木村門下の少年たちも歓喜したのである。彼らは、ご家老たちは自分たちを武士として扱ってくださると無邪気に感激したのである。

出陣に当たって、木村隊に四ポンド山砲一門と少年たち全員にエンフィールド銃(元込め式)が支給された。少年たちは歓喜したが、木村には何故これを今までしまい込んでおいたのかという怒りも湧いた。更に、一人当たり一両三分という軍用金が支給された。子供が見たこともない大金である。しかし、この金は、討ち死にして野に屍を晒した時、領民の誰かが埋葬でもしてくれるとなった時、埋葬料、回向(えこう)料として使ってもらう為のものであって、こういう金を身にまとって出陣するのも、死を覚悟した武家のたしなみである。

木村隊の持ち場は、城南の大壇口。奥州街道の真上に位置する要所で、連合軍は本宮を経てこの主街道を進軍してくる。二本松藩は、連合軍別働部隊の北上にも備えていたので、そちらにも兵力を割いており、主戦場となることが確実な大壇口に配備したのは、僅か三小隊と木村隊のみであった。小さな丘の上に設置した四ポンド山砲とは、口径86.5mm、最大射程二千五百メートル、信管付きとそれなりの威力を発揮する砲であるが、榴弾を発射するには手順が多く、ややこしい。一言で言い切れば、一発の榴弾を発射するのに十人がかりで五分を要したという。木村が少年たちに速成の指導を行う。決死の修羅場を前にした時、人は不可能と思われることでも何とかするものである。少年たちは必死で手順を習得した。

七月二十九日早朝、奥州街道に遂に姿を現した連合軍隊列に向かって、木村隊から一発の榴弾が放たれた。六町先の尼子台高地に陣を敷いた小川平助隊が戦端を開いたのに呼応したものである。少年たちの修羅場が始まった。

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