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2012年1月22日 (日)

華の二本松(其の十 少年隊、壊滅!)

大壇口で連合軍と交戦状態に入った二本松少年隊は、僅か三十分ばかりで戦闘部隊としては制圧されてしまった。しかし、十三、四の少年たちとしては決死の奮戦であった。この大壇口での戦闘で、隊長;木村銃太郎が戦死。少年たちの中では、奥田牛之助(15歳)が戦死した。他の少年たちは、ほとんどが重軽傷を負った模様である。大壇口から城下へ引いて、彼らは決死の斬り込みを繰り広げた。

大壇口に於いて、連合軍に簡単に撃破されたのは、やはり砲の威力の差であった。連合軍は、時限式信管を使った榴弾、更には小臼砲を使用して榴散弾を打ち込んできたが、木村隊の砲は着発式信管を取り付けた榴弾を撃つのが精一杯で、中実弾がほとんどであった。そもそも火薬が違った。木村隊が使用していた火薬は、木炭の混合比率の高い旧火薬である。少年たちは、全身煤(すす)まみれとなり、顔も手も真っ黒になって戦っていたという。

書物によっては、少年隊の発射した砲弾が敵兵の頭上で炸裂し、多大な損害を与えた、というような記述をしているものがあるが、これはウソである。確かに、砲弾というものは敵の頭上で炸裂すれば大きな損耗を強いることができるが、それは時限式信管を装着した榴弾または榴散弾を撃ち込まない限り不可能である。前述した通り、奥羽列藩には時限式信管装着の技術はまだなかったのだ。薩摩軍の記録によれば、この砲撃戦で薩摩の小隊指揮官;日高郷左衛門が砲弾の直撃を受けて戦死している。記録に残る連合軍の戦死者はこれのみで、砲弾の直撃を受けて一人のみが死亡するというこの状況は、少年隊が発射した砲弾が中実弾であったことを示している。

一方、木村銃太郎は、左上腕部に貫通銃創を受け、右手しか使えなくなった。この時点で砲の火門に釘を打ち込んで使用不能とした上で、城下への退却命令を出した。そこへ今度は腰を撃たれた。スナイドル銃で狙撃されたらしい。連合軍が保有していたスナイドル銃の射程は八百メートル前後あり、狙撃兵も用意していた。城下まで走れぬことを悟った木村は、少年たちに自分の首を刎(は)ねることを命じたが、結局副隊長の二階堂が介錯することになった。しかし、二階堂は一太刀で首を落とすことができず、三太刀目でようやく首を落とした。少年たちは、素手や木片で穴を掘って木村の死体を埋め、二人の少年が左右から髪の房を握って、木村の首だけを持って敗走を開始したのである。

二階堂を中心とする敗残の少年たちが、二本松の名刹;曹洞宗大隣寺へ辿り着こうとした時、山門下馬先に黒ずくめの兵が四名、休息しているように見えた。笑みを浮かべ、手招きしたとも言われているが、二階堂以下少年たちが味方だと錯覚して近づいた途端、兵たちは一斉射撃を浴びせてきた。四名が持っていた銃は、七連発スペンサー銃であった。副隊長;二階堂衛守即死。岡山篤次郎(13歳)も撃たれ、敵に捕らわれて野戦病院へ運ばれたが、そこで戦死した。このような、黒い筒袖、洋袴によって敵味方を錯覚するという現象は、実は戊辰戦争のあちこちの局面で見られた史実である。

この岡山篤次郎は、山奉行;岡山持(よし)の次男で、木村銃太郎の最初の門下生である。菊人形のような美男であったと伝わる。彼は、出陣前夜(二十六日夜)、母;おなおに、装束、持ち物すべてに「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いて欲しいと頼んだ。討ち死にした時、下手な字では敵に恥を晒すし、母親が自分の死体を探す時、母自身の筆なら探し易いだろうというのである。確かに、岡山篤次郎の筒袖服、白鉢巻には女文字で姓名が書き込まれていたという。篤次郎は、あまりの幼さに驚いた薩摩隊によって野戦病院に運ばれたのだが、絶命するまでの数日間、昏睡状態にありながらも「鉄砲だ! 鉄砲を持ってこい! 無念だ!」と呻き続けた。篤次郎の最期を看取った薩摩藩士が一首の歌を手向けている。

君がため 二心(ふたごころ)なき武士(もののふ)の 

命は捨てよ 名は残るらん

お城(霞ケ城)は紅蓮の炎を上げている。城下には既に敵兵が充満している。哀れにも、残った少年たちは地獄を彷徨ったのである。木村隊以外の部隊に配属された少年たちも、城下へ敗走してきていた。しかし、一人でも多く敵を倒すと、決死の覚悟を定めて家を出てきた彼らは、修羅場に慄きながらも決して発狂することはなかった。戦場という修羅場で、幼い少年たちが発狂しなかったことは、実は驚嘆すべきことである。

木村隊;成田才次郎(14歳)成田外記右衛門の次男。敵に相まみえたら、斬ってはならぬ、ひたすら突け! と日頃から叩き込まれていた。重傷を負い、意識も朦朧とする中、フラフラと燃え盛る城下を彷徨っていた。連合軍兵卒たちは、彼を狂人とみて道を開けた。成田はそのまま長州兵の一団に近づき、やっとの思いで身長からすれば長過ぎる刀を抜き払い、白熊(はぐま)の冠りものを付けた隊長と思しき者だけを眼中に収めて突きかかった。この指揮官が、長州藩士;白井小四郎31歳)であったことが判っている。白井に油断があり、成田の剣は父の教え通り、白井を斬らずに真っ直ぐ突いた。白井はその場で絶命。絶える息の間に「己の不覚。少年を殺すな」と言ったらしいが、周囲の兵たちは銃を逆手にとり、成田を撲殺した。

髙橋辰治(13歳)。既に連合軍兵卒で溢れる二十九日夕刻の城下。とある邸の前の堀の中に転がっていたが、泥まみれになってヨタヨタと這い上がり、刀を構えて敵兵の中に突っ込んでいったが、忽ち斬り殺された。この時の様子を、その邸に潜んでいた下僕が目撃しており、この事実が伝わったものである。

徳田鉄吉(13歳)。彼の父;徳田茂承(もちつぐ)は永らく病床にあり、文久三年(1863)、藩が江戸湾警備を命じられた際、富津へ赴くはずが適わず、これを恥じて自害した。祖父母もその後を追った。家督を継いだ兄;伝七郎は既に前線へ出ている。母;おひでは、「お祖父様や父上の分まで働かねばなりませぬ」といって、鉄吉を送り出した。鉄吉の死体は、新丁登り口の自宅近くで発見されている。恐らく、深手を負って、母に別れを告げに必死に自邸近くまで辿り着いて息絶えたのであろう。

既稿で触れたことのある上崎鉄蔵(16歳)。出陣を見送る母・祖母が「行ってきなさい」と言ったのに対して、「今日は『行け』だけでしょう」と応じた少年である。上崎家は四人扶持という薄禄で、当主の上崎織衛が出陣したので家には刀が一本も残っていなかった。出陣の命を受けた鉄蔵はふさぎ込んでしまったが、母;おすまが実家に走り、相州物の銘のある刀を借りてきてくれた。それを背負った鉄蔵は、大谷志摩隊に属し、城下を転戦し、新町で戦死した。「今日は『行け』だけでしょう」と言って母と祖母を泣かせた16歳の少年は、本当に還ってこなかったのである。母;おすまの句が残されている。

言の葉の耳に残るや 今朝の秋

上げれば、まだまだある。遊佐辰弥(13歳)木村丈太郎(14歳)大桶勝十郎(17歳))。以上は、木村隊所属である。その他の隊では、根来梶之助(16歳)小沢幾弥(17歳)。彼らは皆、城門に至る前に立ちはだかるように戦死していた。重傷を負った身で、最後の絶望的な斬り込みを敢行して戦死したものとみられている。

過日、根来梶之助の根来家の子孫に当たるM氏から突然メールを頂戴した。少年たちの過酷な戦いは、百四十余年前の出来事であるが、決して遠い、遠い昔の絵空事か事実か定かでないような話ではない。戦死した一族のご子孫が、先祖を想って平成の世を生々しく、凛々しく生きておられるのである。歴史とは、人間の悲しみの堆積であるかも知れない。それは、紛れもなく、絶えることなく今日まで脈々と受け継がれている。そして、同じようにこの先へ引き継がれていく。

二本松戦争当日一日だけで、二本松藩全体で戦死者二百八名、負傷者二十九名。少年兵の戦死者十六名、負傷者六名。応援の仙台藩兵の戦死者三十一名、負傷者一名。会津藩兵戦死者約三十名。これに対して、連合軍の戦死者は僅かに十九名、負傷者五十三名であった。

この二十三日後、会津にて、あの有名な白虎二番士中隊十九名が飯盛山で自刃した。

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