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2012年1月 1日 (日)

華の二本松(其の八 木村銃太郎門下)

二本松藩は、死を選択した。

改めてお断りするまでもないことであるが、本シリーズはこの二本松藩の決断やそれに伴って発生した戦場(いくさば)に於けるさまざまな出来事を殊更賛美したり、逆に不必要に非難したりすることを目的としていない。このスタンスは、このブログエッセーそのものの立ち位置でもあるが、史実を史実として整理し、延々と確信するところを綴っているに過ぎない。勿論、ベースにある主張が、俗にいう「明治維新」の否定、官軍教育の否定にあることは、既に明白にしている通りである。不必要に褒めたたえるような言辞を並べるかと思えば、手のひらを返して非難に転じるという風な、己の稚拙な現代論理に縛られ、軸をもたない読者から露骨な嫌がらせを受けることがあるので改めてお断りしておく。

藩論を決した二本松藩に、所謂「二本松少年隊」が結成された。会津の白虎隊より更に幼い少年たちを、死を選択した藩が正規部隊として戦場に送り出すのは如何なものかという主張がある。それは、どこまでも平成人の感覚による論であって、武家の精神文化が社会の重しとなって秩序が保たれてきた江戸期社会に於いて、当の武家の心情を洞察すればあまり意味を為さない論であるように思われる。二本松藩は、藩ごと死を選択したのである。

とはいえ、現実の前線では武家クラスの藩士たちは、できるだけ少年たちを後ろへ、後ろへ下げた。最前線に立たせることを避けようと心掛け、できることなら逃げ延びることを願ったのである。後述するが、このことは、敵味方を問わず少年たちに対する情として見られた事実である。薩長土連合軍には武家の精神文化とは程遠いならず者が多数含まれていたが、少なくとも武家には敵味方の区別なく「士道」というものが鮮烈に生きていた時代である。しかし、少年たちは背伸びをした。できるだけ死に近づくように背伸びしたといえよう。これもまた、武家の子弟なら当然の士道というものであろう。

二本松少年隊という名称は、あくまで通称である。正式には、木村銃太郎を隊長とする砲隊一小隊のことをいう。木村と副隊長格の二階堂衛守(藩との連絡官)のもとに二十五名の少年たちが配属された。木村は、二本松藩砲術師範;木村貫治の嫡男で、この時点で数え二十二歳。木村家の家禄は六十五石であった。六十五石という家禄は、決して重いとはいえないが、砲術師範らしい低くはないものである。木村は、体格のいい男であったようで、身長は五尺八寸(百七十六センチ)もあったらしく、筋骨逞しく、色も浅黒かった。要するに、威風堂々とした青年であった。同輩の間では、借金を申し込む時は木村を連れて行け、といわれていた。偉丈夫といわれた彼が傍に黙って座っているだけで、相手は信用するというのである。しかし、木村という青年は単なる大男ではなかった。所謂文武両道の典型のような男で、特に理数系の頭脳が秀でていた。木村の家系そのものが理数系に強い家系であったようで、父方の曽祖父は和算の権威;渡辺東岳である。江戸期日本の和算とは、計量数学としては圧倒的に世界最高の水準にあったことを、この際知っておかれた方がいい。識字率に於いても同様であるが、江戸期の武家や一般庶民の基礎知識レベルとは、例えば大英帝国などと比較しても、理科・文科両面に於いて相当に高かったのである。渡辺東岳の家系である木村家では、今でいう数学が家学となっていたという環境も影響したのか、とにかく木村銃太郎の理数系能力は極めて高かった。この点を買われて、彼は藩命によって韮山代官所へ留学していた。

韮山代官所といえば、お分かりであろう。特に幕末に於いては、単なる代官所ではない。武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐五カ国二十六万石を所管する代官所であるが、この時期は「江川砲兵塾」といった方が解り易いかも知れない。代官;江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、幕末四傑の一人;川路聖謨(としあきら)、鬼才;佐久間象山、日露戦争の陸軍総司令官;大山巌など錚々たる面々に西洋砲術を教えた我が国砲兵学の祖である。この代官所は銃砲鋳造の為の反射炉まで備えており、佐幕派・倒幕派を問わず各藩から留学生が集まったのである。戊辰戦争で砲兵部隊を指揮した者は、大概江川塾の出身であり、同学が敵味方に分かれて戦ったというケースもあった。余白があれば後述するが、二本松戦争に於いてもそれがあった。いずれにしても、各藩の秀才が集まった、特異な代官所であったといえるだろう。江川英龍その人は、安政二年(1855)に世を去っていたが、代官所手代たちが農兵から成る銃隊を組織するほどであったから、英龍亡き後も各藩の留学生を吸引する韮山代官所の特異な機能には全く変化がなかったのである。(代官所「手代」については、小シリーズ「五条代官所の悲劇」(200811月)を参照されたい)

余談ながら、江川太郎左衛門英龍とは、幕末史を語るについては避けて通れない“重要人物”である。決して、“読書人”タイプの単なる優秀な代官ではない。この人物は、立体的に掘り下げて解明する必要があり、私は幕末裏面史にもほとんど登場しないヤクザ(博徒)との職業上の繋がりも無視できないと考えている。幕末のヤクザといえば、清水次郎長しか語られないが、当時のその世界では次郎長などはむしろ脇役であり、竹居村無宿;安五郎(ども安)黒駒村無宿;勝蔵など、主役はほかにいる。「ども安」は新島に流されていたが、ちょうど黒船が来航したまさにそのタイミングに「島抜け」を見事に成功させている。しかし、普通に考えれば「島抜け」が成功裡に完結することなどあり得ない。この時、韮山代官所は、どういう意志を以てこの「島抜け」に対処しようとしたのか。また、黒駒勝蔵の宿敵;清水次郎長の犯罪(今日でいう殺人事件)を何故放置したのか。この時期の韮山代官所の動きは、幕府の真意というものを敏感に反映させていると思えて、機会があれば小シリーズとして採り上げたいと考えている。

さて、木村銃太郎は、そういう、海軍伝習所以上に戊辰戦争に直結する影響を各所に与えた“江川塾”に学んだ。そもそも当時の砲術、特に洋式重砲の操作には、かなり高度な理数系の能力が求められた。重砲の砲弾は、簡潔にいえば放物線を描いて飛ぶ。どのあたりに着弾するか、また着弾させるか。それを決めるのは、砲の射角初速度であるが、大体秒速二百~二百五十メートルという当時の重砲弾の初速を決めるのは、火薬の量であった。当時の火薬は、硝石・硫黄・木炭を混ぜて製造されたが、その混合比は751510とされる。つまり、最も多く使用するのは硝石であるが、天然の硝石は我が国には存在しなかった。そこで各藩は、動物の死骸を湿地帯に埋めて腐食させ、その土を沈殿させ、濾過して硝石の主成分である硝酸カリウムを抽出するという方法と採っていた。この方法では、死骸を埋めてから硝酸カリウムを抽出するまでに凡そ三ヶ月を要したという。従って、急に火薬を増産するということが難しかったのである。火薬の備蓄量が少なかった奥羽列藩では、この時期各藩とも火薬の製造を大いに急がせていたが、このような製造法の事情で簡単にはいかなかったのである。火薬が十分手当てできたとして、重砲とはその火薬を爆発させて大きな砲弾を飛ばす訳であるから、砲身の強度が問題となる。鋼鉄か、少なくとも青銅(銅とスズの合金)でなければならなかった。ところが、鋼鉄・青銅を鋳造できる施設は佐賀藩薩摩藩にしかなく、奥羽列藩には存在しなかった。長州は、清国から輸入している。更に砲弾となると、もっと精密技術を要する。既稿で述べた通り、単なる大きな鉄の弾を飛ばしても意味はなく、砲弾というものは榴散弾でなければ効果はほとんどない。ということは、弾頭に信管を備えている必要があるのだ。この信管の製造技術も佐賀藩と薩摩藩しかもっていなかった。薩摩藩がこの技術を身に付けたのは、薩英戦争後の英国からの技術供与によるものである。

斯様に重砲とは、当時としては最先端の科学技術の結晶であったのだ。これを独自に製造することができないとなると、完成品を、砲弾を含めて輸入するしかなかったのだが、では輸入すればそれで済むかといえば、当然そうはいかない。これを武器として使いこなす、即ち、砲弾を発射させるという技術がまた容易なことではなかったのである。スプリングという衝撃を吸収する装置がまだ存在しなかった時代のこと、臼砲などの重砲は台座に固定しないと発射の衝撃で砲そのものが吹っ飛んでしまう。となると、重砲は常に一定の角度でしか撃てないのである。その角度で発射された弾丸は放物線を描いて飛び、着弾地点を調節するのは火薬の量である。つまり、砲術には数学、度学(幾何学)、弾道学(力学)、化学、火薬学をはじめとする最先端の数学、科学知識が求められたのである。以前述べたように、アームストロング砲を自前で開発した佐賀藩では、あまりに厳しい藩校での藩士教育を行った為、発狂する者さえ出た。西郷隆盛の放ったテロ集団「赤報隊」の江戸市中での無差別テロに怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き打ちにしたという事件をご存じであろうが、この時庄内藩は重砲を使用している。しかし、江戸詰藩士の中にこれを操作できる者がおらず、実際に砲を撃ったのは庄内藩から依頼された幕府のフランス人砲術顧問であった。

二本松藩のエリート;木村銃太郎は、こういう難解な西洋砲術を江川塾で指導された。しかし、藩論が決して、彼は急遽呼び戻されたのである。彼の父;木村貫治は、前述した通り藩の砲術師範であり、十人ほどの弟子を抱えていたが、帰国した木村がこの道場の指導を補佐することとなった。そして、父;貫治が木村個人の弟子をとることを許し、木村は「全くの初心者に限る」ことを条件に弟子をとり、鳥羽伏見で幕軍が敗れた頃には入門者は十六名となっていた。「全くの初心者に限る」という条件をつけたのは、二本松藩には父;貫治以外に二名の砲術師範がおり、それへの遠慮、配慮に他ならない。この条件の為に、木村門下となった者は、すべて藩校敬学館で学ぶ、まだ前髪立ての少年たちばかりとなってしまったのである。このことが、木村の門下生で構成された木村銃砲隊が「二本松少年隊」と呼ばれるに至ったそもそもの発端である。

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