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2012年2月

2012年2月25日 (土)

風に吹かれて三度笠(其の五 男・次郎長と咸臨丸)

日本を代表する侠客といってもいい清水次郎長は、叔父の米穀商;山本次郎八の養子に入ってその家業を継いだが、博奕と喧嘩に明け暮れたようだ。挙句に喧嘩沙汰で人を殺し、妻を離別して清水を出奔、無宿渡世に入った。その後、清水に舞い戻って一家を構えるのだが、富士川水運の利権をめぐって甲州の博徒との抗争が絶えず、安政年間に再び逃亡するが、逃亡先の尾張でまた人を殺す。その後も黒駒の勝蔵を代表とする甲州博徒との出入りを繰り返した。

博徒、侠客だからといって、人殺しが見逃されることはない。江戸期という時代は、こういうことに関しては厳格であった。武家が大小を帯びて市中を歩いていた時代であるが、武家が町民一人を斬ったとしたら、まず切腹を覚悟しなければならないのだ。喧嘩出入りの挙句の人殺しであったとしても、人一人を殺めてお上が黙っていることはない。殺人という罪科の追及が現代のように厳しく行われる仕組みの社会ではなかったと思っているのは、チープなテレビドラマを見過ぎた浅はかな現代人の誤解である。

ところが、次郎長が殺人でその罪を問われたことは、彼の生涯で一度もないのだ。次郎長に逃亡の経験があるとはいえ、彼が逃げ回って逮捕を免れたかといえば、そういう形跡もない。これは、明らかにおかしい。これについては後に触れるが、裏があると考えるのが普通であろう。次郎長は、明治も17年になってから一度逮捕され、服役しているが、この時の罪科は賭博である。それも、刑期の満了を待つことなく「仮釈放」という形で放免されている。この逮捕そのものが、一度パクッておかないと示しがつかないという、世間との折り合いをつける為に行われたものという印象を拭(ぬぐ)うことができないのだ。

しかし、この次郎長が、後世の私どもをして「さすが、侠客!」と言わしめた有名なエピソードがある。

咸臨丸という船をご存知であろう。幕府の保有する軍艦として初めて太平洋を渡った、あの咸臨丸である。勝海舟とセットにしてその名を知っているという方がほとんどであろうが、この時の勝は「軍艦操練所教授方頭取」で、一行の責任者は「軍艦奉行」木村摂津守である。軍艦や艦隊に於いて、艦長と司令官は別である。艦長は、その艦を走らせることについての責任者である。これに対して司令官は、その艦が参加する軍事行動についての責任者である。従って、両者は一見並列にみえてそうではなく、艦長はどこまでも司令官の裁量の範囲内でしか存在し得ないのだ。江戸幕藩体制に於ける一国一城も、そもそもは軍事体制であるが、「家老」「城代」の違いも同じことであって、合理を追求する軍事的な思考回路とは結局は同じようなところへ収斂するものである。咸臨丸に於ける木村と勝の関係を今流に表現すれば木村が「提督」つまり司令官、勝が「艦長」というところであろう。アメリカサイドも、そのように呼称している。どこかの稿で述べた記憶があるので改めて詳しくは繰り返さないが、この航海に於いて勝という男は艦長としての役割を全く果たしておらず、木村が自分の上位に位置づけられた不満をあからさまに態度に示し、駄々っ子のような振る舞いで木村の足を引っ張った。勝海舟好きの司馬遼太郎氏は折に付け「勝の場合は許される」などと訳の解らぬことを言っているが、この男はつくづく“小人”である。私どもは義務教育の場で、この咸臨丸の太平洋横断を、勝海舟を中心とする日本人だけの手による初の太平洋横断航海であって歴史的な偉業であると教え込まれた。しかし、これは“真っ赤なウソ”であって、太平洋を横断するに際して咸臨丸はジョン・ブルック大尉以下のアメリカ人クルーによって操船されたのである。そもそも勝海舟以下主要な任務に就いた日本人乗組員は、船酔いでものの役に立っていない。数少ない例外が、木村や福澤諭吉を除けば、笠間藩出身で幕府天文方に出仕した、優れた和算学者でもある小野友五郎と通辞として乗り組んだジョン万次郎ぐらいで、ジョン・ブルック大尉も一目置いた小野のことも既稿で触れた通りである。

役立たずの勝海舟やあまり意味のない太平洋横断のことはさておき、話は咸臨丸という船と次郎長のことである。

太平洋横断航海から八年後、戊辰戦争が勃発し薩長連合軍が東へ、東へと攻め上ってきた時、咸臨丸は幕府海軍副総裁;榎本武揚の指揮下にあったが、品川沖を脱出して更に東へ戦いの場を求めて航行中、折からの暴風雨に晒され艦隊から逸(はぐ)れてしまって下田港(しもだみなと)へ漂着した。鯉名の銀平の故郷;下田港である。ペリー来航以来、下田港というところは何かと歴史表へ登場する土地になってしまった。修理を必要とする咸臨丸は、救助に来た蟠竜丸という僚艦と共に清水港へ向かったのだが、ここでも咸臨丸の修理が遅れ、蟠竜丸は先に次の決戦場;函館を目指していった。

余談であるが、この蟠竜丸という軍艦(といっても木造である)は、日英修好通商条約の締結を記念して大英帝国;ビクトリア女王から幕府に贈呈された艦で(安政5年)、幕府の第1号軍艦ともいうべき艦であり、咸臨丸が第2号軍艦に当たる。細身のスクーナー型コルベット艦で、砲艦に改造したのは幕府である。この艦の最も華々しい戦歴は、函館戦争に於いて事実上たった一艦で奮戦し、薩長連合軍の新式戦艦;朝陽丸を撃沈したことであろう。

さて、清水港に取り残されていた咸臨丸は、追いついてきた薩長連合軍艦隊の格好の餌食となった。士官クラスは皆殺し、水兵たちも皆捕虜となったのだが、薩長軍は咸臨丸乗組員の遺体を逆賊の死体として放置したのである。よく知られているように、薩長軍というのは会津戦争などでもこういうことをよくやっている。この行為は、当時の感覚でいえば当然「士道」にもとる軽蔑すべき行為であって、薩長軍という軍隊がどういう人種で構成されていたかを示唆している。後世、近代軍隊に於いても、この「士道にもとる」行為というものは欧米に於いても激しく嫌悪されたものであって、時と国を超えて一定の普遍性を備えた感覚であると理解していいだろう。

薩長軍が、咸臨丸乗組員の遺体を意図して雨風に晒したことに対して、博徒;清水次郎長が怒った。一説によれば、薩長軍は遺体を駿河湾に放置したという。次郎長は、これを小舟を出してすべて収容したらしい。この収容作業に対しても薩長軍から逆賊に与(くみ)する行為という警告があったようだが、死者に官軍も逆賊もあるか、と次郎長はこの咎めも突っぱねた。次郎長は、乗組員の遺体を現在の清水市内築地町に埋葬したと言われている。このあたりは、侠客、清水の次郎長の面目躍如といったところであろう。この男気に、旧幕臣;山岡鉄舟がいたく感激した。

山岡鉄舟。清河八郎らと浪士隊を結成したり、江戸城開城に際しては西郷・勝会談に先立って単身西郷隆盛と交渉に及んだ傑物である。北辰一刀流;千葉周作に剣を学び、無刀流開祖でもあるが、このことは母方の祖先に塚原卜伝がいたことと無関係とは思われない。いずれにしても、ここから次郎長と山岡鉄舟、榎本武揚の交流が始まったとされる。なお、山岡は、明治になってから子爵にまで昇りつめている。

♪清水港の名物は、お茶の香りと男伊達~♪

咸臨丸の一件に限っては、次郎長は紛れもなく男であった。

次郎長直系の清水一家は、私が大学へ入った頃に解散した(当時;五代目)はずであったが、最近、といってももう5年ほど前になるが、山口組系の某組長が六代目清水次郎長を襲名した。この組長は闇金融の元締めであったらしいが、咸臨丸始末のような侠客としてのエピソードは理解できるが、次郎長の系譜がどういう論拠で山口組に繋がるのか、博徒、ヤクザの論理は私には解らぬ。折しも数日前、アメリカ財務省は、オバマ大統領の指示を受けて、山口組の資産凍結に踏み切ることを発表した。仁侠の世界も国際的になったものだが、同時にトゲトゲしくなったものである。

2012年2月13日 (月)

風に吹かれて三度笠(其の四 次郎長三国志)

股旅、三度笠を語って清水次郎長を無視して通る訳にもいかない。実際のところ、長谷川伸の生み出した番場の忠太郎沓掛時次郎、はたまた鯉名の銀平関の弥太郎たちに並んで、映画・芝居の世界で次郎長は大活躍していたのである。映画の全盛期に至るまでの長い時代を通して、むしろ次郎長がその中心にいたといっていい。次郎長は、実在の侠客である。明治26年まで生き永らえた実在の博徒が、長谷川伸の筆が生み出した番場の忠太郎や沓掛時次郎といったヒーローたちと全く違和感なく横一線となって、銀幕で活躍していたのだ。勿論、次郎長もまた正義のヒーローであった。ただ、忠太郎や時次郎が、孤独な、どこまでも個としてのヒーローであったのに対して、次郎長は一家を束ねるリーダーとしてフィクションの世界へ“なぐり込み”をかけてきて活躍したのである。

例によって股旅演歌を挙げるが、次郎長に関するもっともポピュラーな歌謡曲は『旅姿三人男』(宮本旅人詞・鈴木哲夫曲)である。もともとは、昭和14年にディック・ミネが唄って大ヒットしたものだが、この唄ほど多くの歌手によって唄われた股旅演歌は他にはないであろう。

旅姿三人男

♪ 清水湊の名物は

お茶の香りと男伊達

見たか聞いたか あの啖呵

粋な小政の 粋な小政の

旅姿

♪ 富士の高嶺の白雪が

とけて流れる真清水で

男磨いた 勇み肌

なんで大政 なんで大政

国を売る

♪ 腕と度胸じゃ負けないが

人情からめばついほろり

見えぬ片眼に 出る涙

森の石松 森の石松

よい男

蛇足に過ぎるが、大政小政森の石松は、次郎長一家の主要な子分たちである。私は、少年時代、桶屋の鬼吉の方が好きだった。

ディック・ミネは、戦後もこれを唄い続けたが、鶴田浩二石原裕次郎橋幸夫石川さゆり、そして、近年では天童よしみ氷川きよしも“参入”している。

そもそも「次郎長もの」は、村上元三の長編小説『次郎長三国志』がベースとなっている。歌も舞台も映画も、すべてこの小説があってこそ存在し得たのだ。村上元三は、既述した通り長谷川伸の門下生の一人であった。

村上元三の『次郎長三国志』が『オール読物』に登場したのは昭和27年であった。昭和27年・・・ようやく日本が独立した年である。独立していなかったら、この小説を長期に亘って連載することは不可能であったろう。GHQは、「チャンバラもの」は軍国主義の礼賛に通じるとして、厳しい統制を布(し)いていたからだ。尤も、村上はそれ以前に朝日新聞に『佐々木小次郎』を連載しているが、これもGHQを通すのに大変だったらしい。

今、平成人は一時期とはいえ日本が独立国家ではなく、外国軍に占領されていた事実を知らないであろう。知識として知っていたとしても、歴史事実としてほとんど実感をもっていないと見受けられる。占領軍は、学校教育をも厳しく統制し、「書道」「華道」「柔道」「剣道」など、「道」と名の付くものはすべて軍国主義に結びつくとして排除した。独立後も日教組が「反日」という占領軍精神のお先棒を担ぎ、私どもは書道や柔道といった「道」と名の付く教科の教育を、公教育の場では全く受けていない。(それでも平成人よりましな文字を書くが) そのような「反日」精神こそが国際正義だとする気狂いじみた日教組メンタリティが、今の政権与党;民主党の根幹を為す構成要素となっていることをゆめゆめ忘れてはならない。

さて、村上元三の『次郎長三国志』を原作として映画もシリーズで製作されたのだが、これがまたけたたましい。まず東宝が製作したのだが、昭和2712月に公開された『次郎長三国志 次郎長売出す』を皮切りに昭和297月公開の『次郎長三国志第九部 荒神山』に至るまで、僅か一年半の間に9本もの作品がシリーズとして製作された。すべてモノクロであったと記憶している。監督は、昭和日本映画の祖とされるマキノ雅弘である。マキノは「早撮りの名人」と言われた監督でもあるが、当時の映画会社(配給会社)は、現場に対して無茶苦茶な要求をした。美空ひばりなども、一年間に1213本の主演作を撮ったことがある。それが当たり前の時代であった。こういうスケジュールで製作していくと、シリーズといいながらキャストが途中で交代するなどということも起こる。更にこの『次郎長三国志』では、村上元三の小説を原作としてスタートしながら映画が原作を追い越してしまったのだ。従って、このシリーズは、途中から“オリジナル”であったといっていい。無茶苦茶というか、大らかというべきか、とにかく日本映画の全盛期にはマキノの『次郎長三国志』は大車輪で公開され続けたのである。では、このシリーズが粗製乱造であったかというとそうでもない。『キネマ旬報』の編集長などを務め、我が国映画評論の第一人者であった白井佳夫は、この東宝版『次郎長三国志』を我が国映画界の最高峰に位置する作品であると評している。

余談ながら、俳優;津川雅彦はマキノの甥に当たる。平成になってから彼が監督を務め、『次郎長三国志』を撮ったのも、身内の歴史に突き動かされてのことであったろう。

映画『次郎長三国志』は、60年代に入ると今度は東映で製作された。監督は、やはりマキノ雅弘であった。東映版は、昭和3810月から同408月までの110ヶ月の間に4本が製作された。このシリーズも、村上元三の小説を原作としている。この時も、他の作品とのバッティングで、キャストが途中で変わるという事態が頻出した。さすがに、次郎長は鶴田浩二でシリーズ全体を通した。

かくして、私どもは『次郎長三国志』を通して、清水の次郎長の正義漢としての大活躍を知り、次郎長一家の個性溢れる子分たちを、そのキャラクターの細部に至るまでを知悉するようになり、認識としては番場の忠太郎や沓掛時次郎と同じ仁侠に生きる渡世人として同列に位置づけていたのである。

ところが、既述した通り、また誰もが知っている通り、次郎長は実在した博徒である。ちょっと詳細に調べれば、『次郎長三国志』に於ける次郎長とは余りにも乖離した次郎長が幕末に存在したのである。そして、映画『次郎長三国志』では、常に竹居の安五郎黒駒の勝蔵が憎っくき敵(かたき)であった。映画では、顔つきからして如何にもワルであった。(東映版では後に名優となった方が勝蔵を演じていたが、昔の記憶のこと故、ご容赦願いたい)実は、竹居の安五郎、黒駒の勝蔵も実在の博徒である。しかも近年、竹居の安五郎の生家から約400点にものぼる貴重な資料が公にされ、幕末博徒の動向がかなり詳しく解ってきたのだ。

さあ、そうなると次郎長を「街道(海道)一の大親分」として、単純に勧善懲悪の正義のヒーローとしてのみ捉えることができなくなってくるのだ。次郎長は文政3年(1820)生まれである。つまり、幕末の動乱を生き抜き、御一新をくぐり抜けているのだ。竹居の安五郎や黒駒の勝蔵も同様である。彼ら、幕末の無宿渡世の博徒が、この動乱期をどう生きたか。御一新の動乱とは、決して武士階級の者たちだけが関与したものではない。実はこの時代の無宿渡世の博徒もまた、この大動乱の渦に巻き込まれ、時に能動的に関わっていったのである。

2012年2月 8日 (水)

風に吹かれて三度笠(其の三 意地と情と男と女)

番場の忠太郎(『瞼の母』)、沓掛時次郎といった長谷川伸の生み出した股旅ヒーローの系譜には、その他に、駒形茂兵衛(『一本刀土俵入り』)、関本の弥太郎(『関の弥太っぺ』)、鯉名の銀平(『雪の渡り鳥』)、木場の政吉(『中山七里』)などがいる。私の中では、橋幸夫のヒット曲でお馴染みの佐久の鯉太郎なども同系のヒーローである。いずれも、映画、舞台、股旅歌謡で大衆の心を強く摑んだ、忘れ得ぬヒーローである。それぞれが何度も映画化され、舞台化され、何人もの歌手によって唄われた。

例えば、「沓掛時次郎」の場合。

股旅演歌としては、お馴染み;橋幸夫以外に、天童よしみ坂本冬美、古くはフランク永井の作品がある。(坂本の楽曲は橋・天童の佐伯孝夫・吉田正作品とは全く別作品) 映画になると、昭和4年を皮切りに戦前に4回、戦後に4回、合計8回も映画化されており、テレビのドラマ化は5回、その他近年ではマンガにもなっている。この中でもっとも評価の高いのが、昭和36年、大映から公開された市川雷蔵主演の作品で、相方は新珠三千代。この時の主題歌を橋幸夫が唄い、不滅の大ヒット曲となった。市川雷蔵という伝説の映画俳優の、伝説の名作である。この時の撮影(カメラマン)が宮川一夫と聞けば、映画好きならずとも驚かれるであろう。

この作品の大映京都の宣伝コピーが面白い。

恋の長ドス浅間に光る、

意地と度胸の渡り鳥!

原作に想いを至せば、コピーとしてはこれはちょっといただけないが、映画が大衆娯楽の王様で、日本映画の黄金期のことである。原作者;長谷川伸先生はこの時まだご存命であったが、苦笑いをされていたことであろう。時次郎の故里;長野電鉄・追分駅に中軽井沢商工会の建立した記念碑があるが、この碑文の方がまだ上等である。

千両万両 枉(ま)げない意地も

人情搦(から)めば 弱くなる

浅間三筋のけむりの下で

男 沓掛時次郎

また、鯉名の銀平(原作は「雪の渡り鳥」)の場合。

何といっても、三波春夫の大ヒット曲がある。このヒットは、昭和32年のことであった。最近、中村美津子がカバーしている。(中村の方が上手い) 三波春夫の『雪の渡り鳥』(清水みのる作詞、陸奥明作曲)は、昭和32年に公開された大映映画『雪の渡り鳥』の主題歌であった。映画では、鯉名の銀平を長谷川一夫、お市を山本富士子が演じた。当代一の美男美女コンビの映画が当たらない訳がない。私の知る限りでは、この作品の映画化はこの時が三度目であった。昭和32年といえば、私は小学校四年生であったはずだが、この唄は『沓掛時次郎』と同様、今でもソラで唄えるから恐ろしい。

♪合羽からげて 三度笠

どこをねぐらの 渡り鳥

ぐちじゃなけれど この俺にゃ

帰る瀬もない 伊豆の下田の

灯が恋し

♪はらい除けても 降りかかる

何をうらみの 雪しぐれ

俺も鯉名の 銀平さ

抜くか長どす 抜けば白刃に

血の吹雪

股旅ものには必ずご当地がある。沓掛時次郎なら信州・沓掛、瞼の母なら近江・番場、雪の渡り鳥は伊豆・下田といった具合である。他国を知らぬ田舎の少年は、股旅歌謡を聞きながらまだ行ったことも、見たこともない下田という鯉名の銀平の故里を、鮮やかなビジュアルとして思い浮かべるのだ。ストーリーと歌詞から思い浮かべるその地の雰囲気は、独特の精緻さを以て後年に至るまで私の内で生々しく生きており、後に現地を訪れることがあっても失望した例(ためし)は一度もない。

そういえば、『一本刀土俵入り』で、水戸街道・取手宿の旅籠「我孫子屋」の二階から空腹でふらつきながら通りかかった茂兵衛に情けをかけた酌婦;お蔦の故里は越中・八尾であった。今や「小原風の盆」ですっかり有名になった、あの八尾である。お蔦も、母を想い語る茂兵衛につられて思わず生まれ故郷の「小原節」を口ずさんでいたのである。

『関の弥太っぺ』;弥太郎の故里は、常陸・関本である。彼は、妹を探して信州まで足を延ばしたが・・・最後まで自分を慕っていたと聞かされた妹は既に死んでいた。ここから目的を失った弥太郎は、無宿渡世に命を張ることになる。昭和38年に公開された、中村銀之助主演の映画(東映)のラストシーンと垣根越しの男と女のカットは、あまりにも有名である。

「旅人さん、私のお兄さんになってくれませんか」

「あっしは妹のところへ行くだけが願いで」

「妹さんが羨ましい」

女は十朱幸代さん(彼女には「さん」をつけなければいけない)であったが、ここでまたまた錦之助の名セリフ。

「お嬢さん、この娑婆は辛えこと、悲しいことばっかりだ。だが、忘れるこった。忘れて日が暮れりゃ、また明日になる・・・ああ、明日も天気か・・・」

そして、ラストは、たった一人で飯岡一家の待つ行き止まりの一本道を行く弥太郎。カメラが引いて、三度笠をぽんと空に投げる後姿の弥太郎と彼岸花。「死人花」ともいわれる彼岸花は、弥太郎の目の前の運命を暗示している。勿論、こういう時は遠くで鐘の音がぼ~んと響く。

そうなのだ、股旅ものにはご当地があって、その土地との柵(しがらみ)を舞台装置として必ず男と女がいるのだ。そして、男と女を引き立てる存在として妹や母がいる。凶状もちの男は堅気の女の気持ちを知っても決して口説きはしない。背では泣いても涙は見せず、女一人が涙に咽ぶ。そして、行き着くところで女のために命を棒に振る。大概、そういうことになっている。

股旅というものを創り上げた長谷川伸は、無宿渡世の股旅を次のように定義している。

『男で、非生産的で、多くは無学で、孤独で、いばらを背負っていることを知っているものたちである』

浮世の義理、渡世の義理に縛られ、意地を通すが情には勝てず、だからといって決して男と女が“できたり”しない、無宿渡世の渡り鳥と女の恋は必ず純愛なのである。この社会では一時(いっとき)「3K」「3高」などといわれる男がもてたが、男と女の間に普遍と呼べる何ものかが存在するならば、そんなものは直ぐ廃(すた)る。結局男は、無宿渡世に限るのだ。

2012年2月 5日 (日)

風に吹かれて三度笠(其の二 番場の忠太郎)

「股旅」とは、どこからそういう表現が生まれたのか。

まだ小学生であったと記憶しているが、母が明快に言い切るように教えてくれたことがあった。旅から帰ったと思ったら、「また旅に出ていく」から「また旅」と言うようになったのだと。実に単純な解説であったが、底辺に生きる無宿人の世界のことであるからそういうことかも知れないと、私はその後長い間、母のこの説をほとんど信じていた。

勿論、これは誤りである。「股旅」という言葉は、長谷川伸の造語で、「旅から旅と、旅を股にかける」という意味らしい。今ではこれが定説となっている。母の解説とは全く意味が違っているが、現象としては同じことだと、私は内心で母を弁護している。

では、「三度笠」とはどこからきた言葉なのか。

江戸・大坂・京都の三カ所を毎月三度ずつ往復する「定飛脚」がいたが、彼らが被っていたところから「三度笠」と呼ばれるようになったという説がある。三度往復するから「三度笠」である。なお、「定飛脚」とは江戸の言葉で、京では「順番飛脚」、大坂では「三度飛脚」と言った。江戸の「定飛脚」と京の「順番飛脚」、大坂の「三度飛脚」が提携して通信ネットワークを形成したのだ。

また、「三度笠」はもともと女用の笠であったともされ、だからあのように目深い形状(江戸期の言葉では「大深」)になったのかと一瞬納得しそうになるのだが、では、「妻折笠」と「三度笠」は同じものなのか、ちょっと混乱している。またまた、文化年間以前は「旅商」(たびあきない)がこれを被り、文化以降はこれが「菅笠」を用いるようになったが、「定飛脚」は一貫して「三度笠」を被っていたという話もある。行商人が何故「菅笠」を被るようになったのかも、私にはまだ理解できない。「菅笠」は、どちらかといえばすり鉢状であり、「目深」である点は共通しているが「三度笠」とはかなり形状が異なるのだ。ますます解らなくなっているが、ここでは「定飛脚」が三度ずつ往復するから「三度笠」、とするに留めておくことにしよう。

どっちにしても、少年時代の私どもは「縞の合羽に三度笠」に憧れた。清水の次郎長が年代を問わず一番人気であったことは間違いなく、清水の次郎長はヒーローと呼ぶに相応しい「任侠」の男であった。ヤクザなのに、常に正義のヒーローであった。次郎長は実在の人物である。確かに幕末動乱期にその世界では“活躍”した。しかし、この男の実の姿は、映画や演劇などで定型となっているそれとはかなり異なる。次郎長といえば、その敵役(かたきやく)は「ども安」「黒駒の勝蔵」である。彼らも実在の無宿人であるが、股旅ものといわれる映画では常に悪役であった。そもそも無宿渡世で悪事を働かなかったヤツはいない。次郎長とて同様。しかし、映画・演劇を問わずほとんどすべての作品で、次郎長と勝蔵たちは、白黒はっきり分けて描かれてきた。このことについては改めて触れることにするが、結論めいていえば次郎長という男は体制側とうまくつき合った男である。御一新といわれる通り、彼らの時代に体制そのものが転換した。世の中が一瞬にして変わったのである。次郎長は、この変革期をうまく波に乗って世渡りしたといえる。文字通り「渡世」がうまかったといえよう。

私の故郷;中仙道鳥居本宿の一つ手前(江戸寄り)に番場宿がある。摺針峠の、あの番場である。中学生の頃、学校を抜け出して摺針峠に遊ぶことがあったが、美濃から近江に入るにはこの峠を越えることになる。即ち、この峠は東国から近江への、更にいえば畿内への玄関口に当たる。峠に立つと、足許に琵琶湖が広がる。まるで近江全体を視野に入れたような、そんな錯覚に陥る文字通り絶景の峠である。織田信長もこの峠から初めて近江へ入った。信長も、この峠に立った時、思わず嘆声を挙げたことだろう。その番場宿生まれの渡世人が番場の忠太郎である。いうまでもなく、忠太郎は実在の渡世人ではない。長谷川伸が生み出した、もっとも人気のある股旅の一人である。しかし、私どもの年代で「番場の忠太郎」を知らぬ人はあまりいないだろう。長谷川伸の原作名は『瞼の母』である。

近江・番場宿生まれの忠太郎。五歳の時に母と生き別れ、十二歳で父と死別し、無宿渡世の道へ。母への想いが捨てられぬ忠太郎は旅から旅へと渡り鳥の生活を続けながらも、遂に母の居所を突き止めるが・・・。

このお話のクライマックスは、今は料亭の女将となっている母;お浜に忠太郎が再会するシーンである。懐かしい母は、忠太郎の期待に反してつれない態度を示した。目の前に現れたのは、確かに自分が腹を痛めた忠太郎、しかし、近々娘が大店(おおだな)相手の晴れの婚儀、父親違いとはいえ凶状持ちの兄がいては娘の幸せに差障る、心を鬼にして、金が目当てかと忠太郎をなじり追い返そうとする。悔し涙の忠太郎、探し訪ねた母に再会した時、母が貧窮した身の上にあるやも知れず、その時の為にと賭場で稼いでせっせと貯め込んだ百両もの大金を悔し涙で投げつける。

「こうやって両の瞼をそって合わせりゃ、合わなかった頃のおっかさんの姿が浮かんでくらぁ・・・俺のおっかさんは今も俺の心の中に生きている」

新国劇でも映画でも、はたまた浪曲でも、忠太郎、一世一代の名セリフ。

再び飯岡の助五郎一家の追手に囲まれた忠太郎。

「お前ら、親はいねえか!? 子はいるか!? 親も子もいねえヤツは叩っ斬るぞ!!」

と怒りの長脇差(ながどす)を振り回す。

何度も映画化されたこの名作、昭和30年に公開された『番場の忠太郎』が原作にもっとも忠実といわれるが、この時の忠太郎は若山富三郎、母;お浜が山田五十鈴であった。私は、後年の中村錦之助の忠太郎がもっとも鮮烈に記憶に残っている。錦之助の、あの艶っぽい声質こそ母に恨みごとを吐き出す忠太郎にピッタリなのだ。

演歌の世界でも、忠太郎はいろいろな歌手に唄われてきた。近年では氷川きよしも唄っているが、一番人気は中村美津子であろう。やはり、こういうものになると世代の差というべきか、氷川ではこの世界は表現できない。You Tubeでも聞けるから、聴き比べてみると面白い。

♪軒下三寸 借り受けまして

 申し上げます おっかさん

 たった一言忠太郎と

 呼んでくだせぇ 呼んでくだせぇ

 たのみやす

♪世間の噂が気になるならば

 こんなやくざを何故生んだ

 つれのうござんす おっかさん

 月も雲間で 月も雲間で

 もらい泣き

♪会わなきゃあ良かった 泣かずに済んだ

 これが浮世というものか

 水熊横町は遠明かり

 縞の合羽に 縞の合羽に

 雪が散る

股旅演歌にセリフは付きものだが、中村のセリフがまたいいのだ。お決まりといえば余りにお決まりの“熱演”なのだが、こういうものは定型を外してはいけない。氷川の忠太郎が軽くて心に響かないのは、この定型に徹するという覚悟のようなものが身についていないからであろう。

 ~おかみさん

  今、何とか言いなすったねぇ

  親子の名乗りがしたかったなら

  堅気の姿でたずねてこいと言いなすったが

  笑わしちゃいけねえぜ

  親にはぐれた小雀が ぐれたを叱るは無理な話よ

  愚痴じゃねぇ 未練じゃねぇよ おかみさん

  俺の言うことをよ~く聞きなせぇ

  尋ね 尋ねた母親に

  倅と呼んでもらえねぇような

  こんなやくざに誰がしたんでぇ~

いまどきは、そんなこと自己責任だろ、で終わりかも知れぬが、この国は御一新の時と敗戦の時の二度に亘って価値観をガラっと変えた。人びとは、一夜にして豹変したのだ。私には、その豹変が醜く見えて、連綿と続くもの、特に連綿と続く言語世界に対する愛情が深くなっていったような気がする。私が、堅気とか道中合羽、長脇差、出入り、或いは、無宿、島抜け、関東取締出役、お固め等々、無宿渡世の世界馴染みの言葉を覚えたのは小学生時代であるが、それらはすべて股旅演歌や股旅ものの映画が先生であった。勿論、これらの言葉は江戸期に実際に使われていた言葉である。

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