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2012年2月25日 (土)

風に吹かれて三度笠(其の五 男・次郎長と咸臨丸)

日本を代表する侠客といってもいい清水次郎長は、叔父の米穀商;山本次郎八の養子に入ってその家業を継いだが、博奕と喧嘩に明け暮れたようだ。挙句に喧嘩沙汰で人を殺し、妻を離別して清水を出奔、無宿渡世に入った。その後、清水に舞い戻って一家を構えるのだが、富士川水運の利権をめぐって甲州の博徒との抗争が絶えず、安政年間に再び逃亡するが、逃亡先の尾張でまた人を殺す。その後も黒駒の勝蔵を代表とする甲州博徒との出入りを繰り返した。

博徒、侠客だからといって、人殺しが見逃されることはない。江戸期という時代は、こういうことに関しては厳格であった。武家が大小を帯びて市中を歩いていた時代であるが、武家が町民一人を斬ったとしたら、まず切腹を覚悟しなければならないのだ。喧嘩出入りの挙句の人殺しであったとしても、人一人を殺めてお上が黙っていることはない。殺人という罪科の追及が現代のように厳しく行われる仕組みの社会ではなかったと思っているのは、チープなテレビドラマを見過ぎた浅はかな現代人の誤解である。

ところが、次郎長が殺人でその罪を問われたことは、彼の生涯で一度もないのだ。次郎長に逃亡の経験があるとはいえ、彼が逃げ回って逮捕を免れたかといえば、そういう形跡もない。これは、明らかにおかしい。これについては後に触れるが、裏があると考えるのが普通であろう。次郎長は、明治も17年になってから一度逮捕され、服役しているが、この時の罪科は賭博である。それも、刑期の満了を待つことなく「仮釈放」という形で放免されている。この逮捕そのものが、一度パクッておかないと示しがつかないという、世間との折り合いをつける為に行われたものという印象を拭(ぬぐ)うことができないのだ。

しかし、この次郎長が、後世の私どもをして「さすが、侠客!」と言わしめた有名なエピソードがある。

咸臨丸という船をご存知であろう。幕府の保有する軍艦として初めて太平洋を渡った、あの咸臨丸である。勝海舟とセットにしてその名を知っているという方がほとんどであろうが、この時の勝は「軍艦操練所教授方頭取」で、一行の責任者は「軍艦奉行」木村摂津守である。軍艦や艦隊に於いて、艦長と司令官は別である。艦長は、その艦を走らせることについての責任者である。これに対して司令官は、その艦が参加する軍事行動についての責任者である。従って、両者は一見並列にみえてそうではなく、艦長はどこまでも司令官の裁量の範囲内でしか存在し得ないのだ。江戸幕藩体制に於ける一国一城も、そもそもは軍事体制であるが、「家老」「城代」の違いも同じことであって、合理を追求する軍事的な思考回路とは結局は同じようなところへ収斂するものである。咸臨丸に於ける木村と勝の関係を今流に表現すれば木村が「提督」つまり司令官、勝が「艦長」というところであろう。アメリカサイドも、そのように呼称している。どこかの稿で述べた記憶があるので改めて詳しくは繰り返さないが、この航海に於いて勝という男は艦長としての役割を全く果たしておらず、木村が自分の上位に位置づけられた不満をあからさまに態度に示し、駄々っ子のような振る舞いで木村の足を引っ張った。勝海舟好きの司馬遼太郎氏は折に付け「勝の場合は許される」などと訳の解らぬことを言っているが、この男はつくづく“小人”である。私どもは義務教育の場で、この咸臨丸の太平洋横断を、勝海舟を中心とする日本人だけの手による初の太平洋横断航海であって歴史的な偉業であると教え込まれた。しかし、これは“真っ赤なウソ”であって、太平洋を横断するに際して咸臨丸はジョン・ブルック大尉以下のアメリカ人クルーによって操船されたのである。そもそも勝海舟以下主要な任務に就いた日本人乗組員は、船酔いでものの役に立っていない。数少ない例外が、木村や福澤諭吉を除けば、笠間藩出身で幕府天文方に出仕した、優れた和算学者でもある小野友五郎と通辞として乗り組んだジョン万次郎ぐらいで、ジョン・ブルック大尉も一目置いた小野のことも既稿で触れた通りである。

役立たずの勝海舟やあまり意味のない太平洋横断のことはさておき、話は咸臨丸という船と次郎長のことである。

太平洋横断航海から八年後、戊辰戦争が勃発し薩長連合軍が東へ、東へと攻め上ってきた時、咸臨丸は幕府海軍副総裁;榎本武揚の指揮下にあったが、品川沖を脱出して更に東へ戦いの場を求めて航行中、折からの暴風雨に晒され艦隊から逸(はぐ)れてしまって下田港(しもだみなと)へ漂着した。鯉名の銀平の故郷;下田港である。ペリー来航以来、下田港というところは何かと歴史表へ登場する土地になってしまった。修理を必要とする咸臨丸は、救助に来た蟠竜丸という僚艦と共に清水港へ向かったのだが、ここでも咸臨丸の修理が遅れ、蟠竜丸は先に次の決戦場;函館を目指していった。

余談であるが、この蟠竜丸という軍艦(といっても木造である)は、日英修好通商条約の締結を記念して大英帝国;ビクトリア女王から幕府に贈呈された艦で(安政5年)、幕府の第1号軍艦ともいうべき艦であり、咸臨丸が第2号軍艦に当たる。細身のスクーナー型コルベット艦で、砲艦に改造したのは幕府である。この艦の最も華々しい戦歴は、函館戦争に於いて事実上たった一艦で奮戦し、薩長連合軍の新式戦艦;朝陽丸を撃沈したことであろう。

さて、清水港に取り残されていた咸臨丸は、追いついてきた薩長連合軍艦隊の格好の餌食となった。士官クラスは皆殺し、水兵たちも皆捕虜となったのだが、薩長軍は咸臨丸乗組員の遺体を逆賊の死体として放置したのである。よく知られているように、薩長軍というのは会津戦争などでもこういうことをよくやっている。この行為は、当時の感覚でいえば当然「士道」にもとる軽蔑すべき行為であって、薩長軍という軍隊がどういう人種で構成されていたかを示唆している。後世、近代軍隊に於いても、この「士道にもとる」行為というものは欧米に於いても激しく嫌悪されたものであって、時と国を超えて一定の普遍性を備えた感覚であると理解していいだろう。

薩長軍が、咸臨丸乗組員の遺体を意図して雨風に晒したことに対して、博徒;清水次郎長が怒った。一説によれば、薩長軍は遺体を駿河湾に放置したという。次郎長は、これを小舟を出してすべて収容したらしい。この収容作業に対しても薩長軍から逆賊に与(くみ)する行為という警告があったようだが、死者に官軍も逆賊もあるか、と次郎長はこの咎めも突っぱねた。次郎長は、乗組員の遺体を現在の清水市内築地町に埋葬したと言われている。このあたりは、侠客、清水の次郎長の面目躍如といったところであろう。この男気に、旧幕臣;山岡鉄舟がいたく感激した。

山岡鉄舟。清河八郎らと浪士隊を結成したり、江戸城開城に際しては西郷・勝会談に先立って単身西郷隆盛と交渉に及んだ傑物である。北辰一刀流;千葉周作に剣を学び、無刀流開祖でもあるが、このことは母方の祖先に塚原卜伝がいたことと無関係とは思われない。いずれにしても、ここから次郎長と山岡鉄舟、榎本武揚の交流が始まったとされる。なお、山岡は、明治になってから子爵にまで昇りつめている。

♪清水港の名物は、お茶の香りと男伊達~♪

咸臨丸の一件に限っては、次郎長は紛れもなく男であった。

次郎長直系の清水一家は、私が大学へ入った頃に解散した(当時;五代目)はずであったが、最近、といってももう5年ほど前になるが、山口組系の某組長が六代目清水次郎長を襲名した。この組長は闇金融の元締めであったらしいが、咸臨丸始末のような侠客としてのエピソードは理解できるが、次郎長の系譜がどういう論拠で山口組に繋がるのか、博徒、ヤクザの論理は私には解らぬ。折しも数日前、アメリカ財務省は、オバマ大統領の指示を受けて、山口組の資産凍結に踏み切ることを発表した。仁侠の世界も国際的になったものだが、同時にトゲトゲしくなったものである。

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