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2012年3月

2012年3月26日 (月)

風に吹かれて三度笠(其の八 韮山代官;江川英龍と博徒たち)

伊豆・韮山代官所は、江戸期東国の天領を統治するために置かれた役所で、その管轄は伊豆だけにとどまらず、駿河・相模・武蔵・甲斐に及んだ。伊豆諸島がその管轄に組み込まれた時期もある。江戸幕藩体制を支える上で、全国でもっとも重要な代官所であったといっていい。通常、代官は勘定奉行所から派遣されるが、韮山代官だけは江川家が世襲してこれを務めた。

伊豆国・江川家。平安期以来伊豆国江川荘を地盤としてきた清和源氏の名門豪族であった。当主は、代々江川太郎左衛門を名乗り、ここで採り上げている幕末四天王と謳われた江川太郎左衛門英龍36代目に当たる。

早くから海防問題に目覚めた英龍は、自らが学んだ高島流西洋砲術を更に進化させ、反射炉を創り、大砲、鉄砲の製造を行うまでになった。世襲代官とは思えぬ開明派であり、外航船が頻繁に近海に出没するようになって以来、この男は下級官吏でありながら次第にその存在感を増していったのである。保守派の目付;鳥居耀蔵が英龍や渡辺崋山高野長英らを抹殺するためにでっち上げた「蛮社の獄」で失脚しそうになったが、英龍の能力を高く評価する老中;水野忠邦に救われ、西洋砲術の普及に力を入れ、彼の死後も引き継がれた韮山代官所の指導は、後に「江川砲兵塾」と通称され、ここで学んだ者は、木戸孝允(桂小五郎)大鳥圭介佐久間象山大山巌など倒幕派、佐幕派の別なく、戊辰戦争を戦った砲術指揮官はほとんどこの塾の出身者である。前シリーズで触れた二本松少年隊を率いた木村銃太郎もその一人である。江川英龍は多才な男で、砲術以外にも蘭学に通じ、市川米庵から書を、谷文晃から絵画を、岡田十松(神道無念流)から剣を学んでいる。剣は、神道無念流免許皆伝であり、後に韮山代官所の手代となった同門の斎藤弥九郎は、江戸三剣客といわれた、あの斎藤である。また、日本で初めてパンを焼いたと言われている。更に、初めて農兵を組織して西洋式軍隊を創設したのも英龍とされており、今日も使われている「回れ!右!」とか「気を付け!」という号令は英龍が考案したものらしい。福澤諭吉とは近しく、江川家江戸屋敷跡地は明治になって福澤の慶応義塾に払い下げられたという経緯がある。新撰組;土方が西洋式の軍の動かし方に長けていたのは、英龍の影響であるとする研究者もいる。新撰組を生んだ多摩地方は、韮山代官所の管轄である。更に付け加えれば、あまり知られていないが、あの中浜万次郎(ジョン万次郎)の幕臣への登用を建議し、自らの手付けとしている。

安五郎の「島抜け」から4日目の612日、英龍はかねて建議していた反射炉建設を命じられ、その1週間後の19日には「勘定吟味役格」に抜擢された。英龍の身辺は、多忙を極めたはずである。「島抜け」に関わっていられなかった、特殊なタイミングといえばその通りであったのだ。更に8月になると、勘定奉行;松平河内守、同じく川路聖謨、目付;堀綾部、勘定奉行吟味役;竹内清太郎と共に「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒鋳立御用」を命じられた。急遽、江戸湾周りに11ヶ所の砲台(台場)を建設することになったのだ。打ち手としての是非はともかく、幕府のこの対応は実にスピーディであったといえよう。江川英龍たちが下命されると同時に、工事の入札まで手際よく行われている。土建屋と政治の癒着はつきものとはいえ、震災から一年も経ってまだ瓦礫の処理さえできない民主党政権と政府への依存しか知らぬ各自治体の無能とは雲泥の差である。総工費75万両。このうちの1割が埋め立てのみに使われるという予算組みであった。幕府の財政を揺るがす規模の出費だが、来春ペリーが再びやってくるまでに突貫工事で完成させなければならない。

石や土砂の建築資材の調達をどうするのか。忽(たちま)ち、難題が立ち塞がる。更に、5,000人と見込まれた土工、石工、人足をどうやって集めるのか。5,000人の人足の動員となると、エリート;川路聖謨にも、彼がエリートであるが故に難しい。事は、国家危急の一大事である。となれば、実務官僚;江川英龍がやるしかないのだ。

ここで、甲州境村の天野海蔵が登場する。江川は、かねてより近しい天野海蔵に頼った。しかし、この事業は天野海蔵にとっても期限を考えるとかなりの難題であり、金蔵は間宮の久八を引っ張り込んだのである。5,000人の人足の差配まで考えると、金蔵・久八は、竹居の安五郎をも引っ張り込みたいところであったろうが、「島抜け」直後の人間を天下を揺るがすほどの大土木工事に使うわけにはいかなかったに違いない。この時点で、久八自身が「中追放」されていた身である。つまり、武蔵・山城・摂津・和泉・甲斐・駿河などに立ち入ることができない。いってみれば、刑に服している身であったのだ。後述する機会があれば触れるが、この処分も実は不自然で、奇妙なのだ。

未曾有の原発事故の後処理に、山谷や釜ケ崎から送り込まれた作業員が奮闘している。この嘉永6年にも、江戸築城工事以来という国家的一大土木事業が行われようとする時、ヤクザであろうと何であろうと、とにかく誰の手を借りてでもこれをやり遂げなければならなかったのだ。なお、この1年後、安政大地震が発生し、伊豆は大津波に襲われ、下田全域が壊滅した。津波を伴う国難、西では維新の実態も知らず「維新」を叫ぶ勢力が台頭している昨今・・・時代が酷似している。

韮山代官所の手代たちには、結構猛者(もさ)が多い。珍しい代官所である。彼らのうちの誰かが、間宮の久八と通じていた可能性は高い。そして、いざという時のためのその関係は、台場建設という国家プロジェクト遂行に当たって有効に機能した。安五郎の「島抜け」を知っても、安五郎が間宮の久八を頼ることが解っていても、天野海蔵を必要とする韮山代官所はこれを放置した、というのが真相ではないかといわれている。

2012年3月23日 (金)

風に吹かれて三度笠(其の七 黒船来航と島抜け)

島流しにあった流人が、御法度の「島抜け」を命がけで試みたことは、安五郎たちの事例が唯一のものではない。国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏によれば、新島だけで19件発生している。延べ挑戦者数は78名。19件中、本土まで逃げ延びた事例は3件のみ。本土まで逃げることに成功したことを以て「島抜け」の成功とするならば、成功率は15.8%である。そこそこの成功率だというべきかも知れない。しかし、島は抜けたとしても、ほとんど皆、本土で捕縛されるか、追い詰められて自決している。本土で捕まった場合、市中引き回しの上、獄門晒し首となる。(一部、行方不明のままの事例がある)ところが、竹居村無宿;安五郎たちは違った。網代に上陸し、捕縛されなかったのである。

安五郎たち七人は、漁船を奪い、キャリアのある水主(かこ)二人を人質にとって操船させ、網代に向かったのである。網代・屏風岩辺りに着岸した時、小田原藩の御用船が通りかかり、人質の市郎左衛門と喜兵衛が海に飛び込んで逃走、御用船に「島抜け」を訴えたのだが、小田原藩役人は念入りな探索をすることなく下田に向かって去っていった。二人は、韮山代官所の吟味を受けた後、二ヶ月近く経ってようやく新島へ戻った。

安五郎=「ども安」とは、私どもが少年時代に観ていた映画では常に清水次郎長に敵対する「悪もん」であった。黒駒の勝蔵と共に、いつも如何にもという凶悪な人相をした役者(敢えて名前は伏せる)が演じていたものである。この「島抜け」の時点で、安五郎は数え42歳であったと伝わる。極道として脂の乗り切った年齢であったといえよう。この後の消息を先に述べれば、七人は網代・屏風岩、または近くの山中で別れ、別々に逃走を図ったはずである。しかし、源次郎、造酒蔵、貞蔵の三人が召捕らえられ、処刑された。その他三人が行方不明である。そして、安五郎は、無事甲州竹居村に舞い戻り、黒駒の勝蔵たちを配下として、侠客として以前にも増して博徒の世界では名を挙げていったのである。

妙な話である。如何に幕末近くとはいえ、江戸幕府の支配体制はまだまだ健在のはずである。既に露見した犯罪の首謀者が、何故のうのうと生き永らえることができたのか。益して、「島抜け」は天下の大罪である。江戸期の管理体制とは、こういうことを決して見逃したりはしない。今の検察や警察とは違うのだ。

時は嘉永61853)である。そうなのだ、既述した通り、旧暦嘉永663日、ペリー率いる黒船四艘が城ケ嶋沖合いに来航した。安五郎たちが「島抜け」を敢行したのが8日の夜。翌9日、ペリーは久里浜に上陸した。新島の島役人が安五郎の流人小屋を家宅捜索したのがようやく12日のことである。

幕府は、ペリーの来航を、情報としてはかなり前から掴んでいた。しかし、いざそれが目の前に出現すると、かなり慌てふためいた。安五郎たちが網代に辿り着いた時、小田原藩の御用船が通り過ぎたが、この役船は幕命によって下田へ急行する途中であった。人質の市郎左衛門と喜兵衛の訴えに付き合っている暇がなかったのである。この時点で、伊豆沖や新島近海には黒船を監視する幕府の艦や諸藩の御用船がウロウロしていたのだ。その渦中に決行された「島抜け」。しかし、如何に海岸線が騒然としていたとしても、伊豆・韮山代官所が七人を即座に指名手配し、持ち前のその警察力を総動員すれば全員忽ちにして捕縛されたはずである。韮山代官とは、凄腕で天下に知られた、かの江川太郎左衛門英龍である。ところが、この時、韮山代官は「島抜け」で動くことはなかった。それは、代官が江川だったからだといってもいい。今更説明するまでもなく、幕府の黒船対応に江川は欠かせない人物であったのだ。つまり、韮山代官所は「島抜け」どころではなかったのである。

では、安五郎は黒船の来航を知って、同じタイミングで「島抜け」を敢行したのか。さすがに、それはうがち過ぎというものであろう。偶然であったとしかいえない。しかし・・・。

新島の島役人が安五郎の小屋から押収した品物のリストが記録に残っている。

どてら   一つ

小鍋    三つ

銭箱    一つ

黒砂糖   一桶

むしろ   二枚

徳利    二つ

擂鉢    一つ

茶呑茶碗  五つ

屏風    一枚

 たらい   一つ

等々であった。そして、何と書籍が九冊

これも既述した通り、安五郎の実家;中村家は百姓身分とはいえ、名主はもとより郡中取締まで務める名家である。村内の争論はもとより、隣村との間の「相論」に於いても常に武居村をリードする立場にあった。安五郎自身も、兄に協力して訴訟のため江戸まで出向いたことさえある。つまり、家としては中村家というのは教養人である。教養人にならねば、中村家の人間は村のリーダーとしての立場を維持していくことができなかった。江戸期庶民(百姓・町人)のリテラシーの高さは、ヨーロッパ各国の比ではない。同時に、村と村の「相論」を乗り越えていくには、力も必要となる。武力である。ここに、安五郎が後世「侠客」として名を残し、また「無宿人」として島流しとなるに至った環境要因としての背景がある。従って、安五郎の流人小屋に書籍が残されていたとしても、決して不思議なことではないのだ。安五郎は、代官所手代八州廻りクラスと同程度の知識・情報レベルをもっていた人物であるとみるべきなのだ。これまでの時代劇の安五郎の描き方は、博徒とはいえ安五郎に失礼であるといってもいい。もし彼が江戸にいれば、いや、甲州でも捕縛されずに武居村のリーダーとして無事であったなら、黒船が来航するような日本を取り巻く国際情勢の一端は認識していたのではないか。しかし、現実にペリーが来航した時、安五郎は島に流されていた・・・。やはり、安五郎の「島抜け」とペリーの来航の時期が一致し、そのことが「島抜け」成功の要因となったのは、あくまで偶然の一致なのだ・・・。

しかし、まだ奇妙なことがある。

安五郎が網代を目指し、網代に上陸したのは決して偶然ではないはずだ。伊豆・間宮村には伊豆の大物博徒;森久八がいる。間宮の久八。伊豆・駿河を縄張りとし、富士川の水運権益を握る、安五郎の兄弟分である。この二人は、かつて韮山代官に捕らえられたことがあり、韮山代官所も二人の関係を把握している。縄張りが隣接していることもあって、伊豆の久八なら安五郎を甲州へ逃走させることは十分可能である。安五郎が久八を頼ったことは明々白々であり、韮山代官所のお膝元とはいえ、網代から天城越えを敢行して北上すれば間宮へ行ける。黒船来航で代官という下級官吏;江川太郎左衛門英龍は一気に幕府内で重みを増し、彼には東奔西走する日々が襲ってきた。しかし、それを差し引いても、久八の在所で待ち伏せていれば、「島抜け」の大罪人;竹居の安五郎は容易に網にかかるはずであった。ところが、韮山代官所はそれを行ってはいない。韮山代官所は、安五郎を匿(かくま)い、甲州へ逃がそうとする間宮の久八の行動に、敢えて目をつぶったのではないかとの疑念が湧く。

間宮の久八は、「大場の久八」とも呼ばれる。「大場」とは「台場」のことである。つまり、黒船来航に驚き、急遽造成された江戸湾を取り囲む「台場の建設に活躍した久八」という意味である。台場建設と博徒の関係。ここに一つの重大なヒントがあると指摘するのが、前述の国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏である。

この指摘を裏付けるもう一人の大物博徒がいる。甲州境村名主でありながら政商といってもいい大物侠客;天野海蔵(かいぞう)である。天野海蔵は、安五郎とは旧知の仲、間宮の久八は海蔵の弟分である。そして、何より難地の御料所;甲州谷村を陣屋を構えてまで支配し「世直し江川大明神」と称えられた韮山代官;江川太郎左衛門英龍というやり手の実務官僚は、支配地仕置に土地の侠客;天野海蔵を手足として使っていたのだ。天野海蔵と江川英龍の持ちつ持たれつの関係、天野海蔵-間宮の久八-竹居の安五郎のトライアングル。このように考えると、韮山代官が敢えて間宮の久八、天野海蔵が安五郎を甲州へ逃がそうとすることに目をつぶったとしても決して不思議ではない。

東京電力は、福島原発事故の収拾に際し、その作業員集めを東京・山谷や大阪・釜が崎でも展開した。勿論、東京電力が直接手を染めることはしない。蛇の道は蛇という。幕府の緊急施策;台場の造成も同じであった。何としても翌春、ペリーが再び来航するまでに11ヶ所の台場を突貫工事で埋め立て、完成させる必要があったのだ。いつの世も、土建と政治は密接に繋がるものなのだ。

2012年3月15日 (木)

風に吹かれて三度笠(其の六 武居村無宿安五郎の島抜け)

「上州無宿紋次郎」などという言い方をする。お馴染み「木枯し紋次郎」は、「上州無宿」である。上州新田郡三日月村の百姓・紋次郎に名字はない。

無宿とは何か。ひと言でいえば、「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)から名前を外された者のことである。名前を外されるところから「帳外」(ちょうはずれ)ともいわれた。「宗門人別改帳」とは、乱暴に言い切ると江戸期の戸籍台帳のようなもの、といってもいいだろう。これは、遡ると秀吉時代の「人別改帳」に行きつくことは明らかである。秀吉時代のそれは、「夫役」(ぶやく)を課す必要性から作られた。

実は、この「宗門人別改帳」は歴史を正しく知る上では非常に重要な資料である。我が国にこれがあったことは、後世の我々にとって大変な幸運であったといっていい。歴史人口学という学問ジャンルが確立しているが、我が国の歴史人口学の成立は、この「宗門人別改帳」に負うところが大であることは言を待たない。ヨーロッパには「教区簿冊」Parish register)というものが存在する。ヨーロッパには、というのは正確ではなく、キリスト教の教会には必ず存在する記録で、日本のキリスト教教会にも備わっているはずである。これには、誰に洗礼を授けた、誰と誰が結婚した、誰が死んだという大きくいえば三つのことが牧師の日記のように記録されている。三つのこととはいえ、誰に洗礼を授けたか、ということについていえば、誰それの子供の誰に、となるから、それなりに幅のある記録であるといえる。結婚にしても、どこそこの村の誰と結婚した、となれば、大袈裟な言い方をすれば「人口動態」的な側面もあるのだ。フランスのルイ・アンリという人が、この「教区簿冊」を使って「家族復元」という整理を試みた。私にはその詳細を語れるほど「教区簿冊」に関する知識はないが、要するにこれが歴史人口学のスタートであると広く認識されている。アンリは、多数の「教区簿冊」を整理し、18世紀以前まで遡って、当時の人びとが大体何歳くらいで結婚したか、何人くらい子供を産んだかというような人口に関する幾つかの指標を明らかにしたのである。

ところが、我が国の「宗門人別改帳」という資料はキリスト教社会の「教区簿冊」より遥かに優れた人口資料なのだ。まず、これは世帯が単位となっている。ルイ・アンリは「家族復元」をやって名を残したが、「宗門人別改帳」の場合は「復元」などやらなくても家族の状況が解るようにできている。どういう世帯がどういう人たちで成立しており、その村が何世帯あって、何人が住んでいたかまで解るようにできている。どこへ嫁に行ったかも記録されている。私どもの年代のビジネスマンなら初歩的な知識としてよくご存じだろうが、人口には静態人口動態人口がある。今でも「人口動態統計」などという統計データの名前を耳にする方も多いはずだ。「宗門人別改帳」からは、この「静態人口」と「動態人口」の両方が解るのだ。江戸期に既にこういうデータが存在したことは、世界史的にいえば「奇跡的」といってもいいだろう。しかもこれが、基本的には毎年作られたのである。こういうことは、イギリスやフランスではあり得ないことであり、世界中のどこにも存在しないことであろう。「教区簿冊」を使って展開された歴史人口学の手法を「宗門人別改帳」に当てはめれば、我が国の歴史人口学は大きな成果を挙げられるのだ。

実は、我が国にはルイ・アンリ以前からこの「宗門人別改帳」を使って出生率や死亡率などを整理していた学者がいた。慶応大学の野村兼太郎教授である。昭和30年代のことだ。教え子の速水融(あきら)氏が跡を継ぎ、速水氏が日本の歴史人口学の草分け的存在の一人となった。速水氏は、「宗門人別改帳」を使って、江戸期の人口について驚くべき事実を次々と解明されている。本ブログエッセーは、この形はそろそろ閉じるので、これについてはもはや述べる機会もないが、「歴史人口学で見た日本」(文春新書)や「江戸の農民生活史」(日本放送出版協会)などを一読されると目が覚める方も多いはずである。氏は、平成21年、文化勲章を受章された。

なお、「宗門人別改帳」を宗教調査であるとして、鎖国やキリスト教禁教政策と短絡的に結びつけるだけの歴史家がほとんどであるが、これは根本的に誤っていることを付言しておく。

余談が過ぎた。

「無宿」とは何ぞや、が歴史人口学の話になってしまったが、要は江戸期の戸籍といってもいい「宗門人別改帳」から外された、即ち、抹消された者を「無宿」といった。

江戸末期;天保から幕末にかけて、無宿者が溢れた感がある。甲州博徒の大物;“吃安”(どもやす)こと竹居の安五郎、その弟分で、常に次郎長の敵役として描かれた黒駒の勝蔵、幕府を震撼させた下総;勢力(せいりき)富五郎、武州石原村から現れたヒーロー;幸次郎、新撰組;伊東甲子太郎グループを支えようとした岐阜の水野弥三郎等々。彼らは、講談や浪曲の世界でヒーローとなったが、すべて実在の人物ではあるが、官軍正史には登場しない。つまりどこまでも稗史(はいし)のヒーローに過ぎないが、実は正史に登場する人物以上に華々しく、ダイナミックに生きたのである。歴史が生身の人間の営みを正しく描くものであるならば、稗史の登場人物を、稗史だからといって排除して歴史は成り立たないであろう。

嘉永六年(1853)といえば、黒船が来航した年である。ペリーが浦賀沖に現れたのが旧暦六月三日。その五日後の夜、伊豆七島;新島から七人の流人が「島抜け」を敢行した。島流しというと、八丈島ではないかと思われる方も多いだろうが、舞台は新島である。実は、新島も流人の島であった。「島抜け」は大罪も大罪である。歴史上、「島抜け」を成功させた流人は、ほとんどいないのではないか。ところが、この七人の「島抜け」は、大筋に於いてほぼ成功しているのだ。「七人の侍」「大脱走」The Great Escape)をミックスさせたようなこの「島抜け」を敢行したのは、以下の七人である。

武居村無宿     安五郎

大館村無宿     丑五郎

河内村無宿     貞

万光寺村無宿    造酒蔵

無宿        角蔵

岩槻宿百姓音五郎弟 源次郎

草加宿無宿入墨   長吉

安五郎以外は全員2030代の男たちで、どうやら実質的な首謀者は丑五郎、貞蔵、角蔵の三人、彼らは安五郎を頭目として担いだ。三人はまだ20代のチンピラである。博打であげられたか、義理が絡んだ出入り騒動でとっ捕まったか分からぬが、40代に乗った安五郎はこういう若造とは格が違う。武居の安五郎といえば、甲州博徒を代表する親分格の大物ヤクザである。そもそも、生家の格が違う。安五郎の生家;中村家というのは武居村の名主を務めたことがあるだけでなく、代官に代わって警察権を委任された「郡中取締」役に就いたことさえある“名門”である。社会秩序を殊更重視した江戸期という時代は、百姓にも多層な身分があり、厳然とした身分間差異が存在したことを知っておかれた方がいい。

首謀者三人は、若さ故の勢いはあったろうが、「島抜け」という大事を成功させるとなると、技量や決断力、統率力といった面で安五郎の経験に裏打ちされたリーダーシップを必要としたのであろう。

この「島抜け」の見事さは、その端緒に既に表われている。何と三人は、島役人に書置きを残したのである。「島抜け」という大罪を犯す罪人の、島役人、つまりは「お上」に対する挑戦状である。「書置申一札之事」と題されたこの書状は、

「私共義去年四月十五日より此度之一件相談合きまり~」

と書き出し、安五郎に相談して賛同を得たこと、造酒蔵たちを連れて行くことなどを告げ、

「~右之趣如斯ニ御座候  

六月今晩   丑五郎 貞蔵 角蔵

嶋役人(殿)」

と結んでいる。

今のヤクザとのインテリジェンスの差をお感じになることだろうが、中で通告されていることは無宿渡世の者らしい内容である。

要約すると、「島の百姓は、島抜けに必要となれば手当たり次第に人足として使うので承知されたい。また、市郎左衛門と弥次右衛門という者は、これまで我々流人に対して、身分も弁(わきま)えず不届きな行為が目にあまり、我慢の限界を超えたので見せしめとして討ち果たしていく。更に、抜船の相談をしてきたので、中には訴え出る者が間々あるものなので、そういう者も討ち果たしていく。お手数をお掛けするが、死体の後始末をよろしく」

というものである。

七人は、まず名主;前田吉兵衛宅を襲った。目的は、鉄砲である。新島は韮山代官の支配下にあるが、島には代官所の手付も手代も、本庁に当たる勘定奉行の配下もいない。つまり、島に武士は一人もいない。治安維持上の非常時に備え、神主;前田家と名主;前田家に鉄砲が下げ渡されていたのだ。七人は、名主;前田吉兵衛を殺害。備え鉄砲二丁を手に入れ、島民;市郎左衛門と喜兵衛を拉致。浜で源兵衛の持ち船を奪って、この船の船子であった拉致した二人にこれを操船させ、伊豆・網代方面へ向けて島を脱出した。すべてが計画的であった。

それにしても、伊豆へ向かう、それも網代へ向かうとは、捕縛されに行くようなもので、大胆不敵としか言いようがない。そこは、韮山代官のお膝元である。

新島の島役人が追跡のための「追船」を出したのは、翌六月九日。この日、ペリーが久里浜に上陸した。

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