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2012年3月23日 (金)

風に吹かれて三度笠(其の七 黒船来航と島抜け)

島流しにあった流人が、御法度の「島抜け」を命がけで試みたことは、安五郎たちの事例が唯一のものではない。国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏によれば、新島だけで19件発生している。延べ挑戦者数は78名。19件中、本土まで逃げ延びた事例は3件のみ。本土まで逃げることに成功したことを以て「島抜け」の成功とするならば、成功率は15.8%である。そこそこの成功率だというべきかも知れない。しかし、島は抜けたとしても、ほとんど皆、本土で捕縛されるか、追い詰められて自決している。本土で捕まった場合、市中引き回しの上、獄門晒し首となる。(一部、行方不明のままの事例がある)ところが、竹居村無宿;安五郎たちは違った。網代に上陸し、捕縛されなかったのである。

安五郎たち七人は、漁船を奪い、キャリアのある水主(かこ)二人を人質にとって操船させ、網代に向かったのである。網代・屏風岩辺りに着岸した時、小田原藩の御用船が通りかかり、人質の市郎左衛門と喜兵衛が海に飛び込んで逃走、御用船に「島抜け」を訴えたのだが、小田原藩役人は念入りな探索をすることなく下田に向かって去っていった。二人は、韮山代官所の吟味を受けた後、二ヶ月近く経ってようやく新島へ戻った。

安五郎=「ども安」とは、私どもが少年時代に観ていた映画では常に清水次郎長に敵対する「悪もん」であった。黒駒の勝蔵と共に、いつも如何にもという凶悪な人相をした役者(敢えて名前は伏せる)が演じていたものである。この「島抜け」の時点で、安五郎は数え42歳であったと伝わる。極道として脂の乗り切った年齢であったといえよう。この後の消息を先に述べれば、七人は網代・屏風岩、または近くの山中で別れ、別々に逃走を図ったはずである。しかし、源次郎、造酒蔵、貞蔵の三人が召捕らえられ、処刑された。その他三人が行方不明である。そして、安五郎は、無事甲州竹居村に舞い戻り、黒駒の勝蔵たちを配下として、侠客として以前にも増して博徒の世界では名を挙げていったのである。

妙な話である。如何に幕末近くとはいえ、江戸幕府の支配体制はまだまだ健在のはずである。既に露見した犯罪の首謀者が、何故のうのうと生き永らえることができたのか。益して、「島抜け」は天下の大罪である。江戸期の管理体制とは、こういうことを決して見逃したりはしない。今の検察や警察とは違うのだ。

時は嘉永61853)である。そうなのだ、既述した通り、旧暦嘉永663日、ペリー率いる黒船四艘が城ケ嶋沖合いに来航した。安五郎たちが「島抜け」を敢行したのが8日の夜。翌9日、ペリーは久里浜に上陸した。新島の島役人が安五郎の流人小屋を家宅捜索したのがようやく12日のことである。

幕府は、ペリーの来航を、情報としてはかなり前から掴んでいた。しかし、いざそれが目の前に出現すると、かなり慌てふためいた。安五郎たちが網代に辿り着いた時、小田原藩の御用船が通り過ぎたが、この役船は幕命によって下田へ急行する途中であった。人質の市郎左衛門と喜兵衛の訴えに付き合っている暇がなかったのである。この時点で、伊豆沖や新島近海には黒船を監視する幕府の艦や諸藩の御用船がウロウロしていたのだ。その渦中に決行された「島抜け」。しかし、如何に海岸線が騒然としていたとしても、伊豆・韮山代官所が七人を即座に指名手配し、持ち前のその警察力を総動員すれば全員忽ちにして捕縛されたはずである。韮山代官とは、凄腕で天下に知られた、かの江川太郎左衛門英龍である。ところが、この時、韮山代官は「島抜け」で動くことはなかった。それは、代官が江川だったからだといってもいい。今更説明するまでもなく、幕府の黒船対応に江川は欠かせない人物であったのだ。つまり、韮山代官所は「島抜け」どころではなかったのである。

では、安五郎は黒船の来航を知って、同じタイミングで「島抜け」を敢行したのか。さすがに、それはうがち過ぎというものであろう。偶然であったとしかいえない。しかし・・・。

新島の島役人が安五郎の小屋から押収した品物のリストが記録に残っている。

どてら   一つ

小鍋    三つ

銭箱    一つ

黒砂糖   一桶

むしろ   二枚

徳利    二つ

擂鉢    一つ

茶呑茶碗  五つ

屏風    一枚

 たらい   一つ

等々であった。そして、何と書籍が九冊

これも既述した通り、安五郎の実家;中村家は百姓身分とはいえ、名主はもとより郡中取締まで務める名家である。村内の争論はもとより、隣村との間の「相論」に於いても常に武居村をリードする立場にあった。安五郎自身も、兄に協力して訴訟のため江戸まで出向いたことさえある。つまり、家としては中村家というのは教養人である。教養人にならねば、中村家の人間は村のリーダーとしての立場を維持していくことができなかった。江戸期庶民(百姓・町人)のリテラシーの高さは、ヨーロッパ各国の比ではない。同時に、村と村の「相論」を乗り越えていくには、力も必要となる。武力である。ここに、安五郎が後世「侠客」として名を残し、また「無宿人」として島流しとなるに至った環境要因としての背景がある。従って、安五郎の流人小屋に書籍が残されていたとしても、決して不思議なことではないのだ。安五郎は、代官所手代八州廻りクラスと同程度の知識・情報レベルをもっていた人物であるとみるべきなのだ。これまでの時代劇の安五郎の描き方は、博徒とはいえ安五郎に失礼であるといってもいい。もし彼が江戸にいれば、いや、甲州でも捕縛されずに武居村のリーダーとして無事であったなら、黒船が来航するような日本を取り巻く国際情勢の一端は認識していたのではないか。しかし、現実にペリーが来航した時、安五郎は島に流されていた・・・。やはり、安五郎の「島抜け」とペリーの来航の時期が一致し、そのことが「島抜け」成功の要因となったのは、あくまで偶然の一致なのだ・・・。

しかし、まだ奇妙なことがある。

安五郎が網代を目指し、網代に上陸したのは決して偶然ではないはずだ。伊豆・間宮村には伊豆の大物博徒;森久八がいる。間宮の久八。伊豆・駿河を縄張りとし、富士川の水運権益を握る、安五郎の兄弟分である。この二人は、かつて韮山代官に捕らえられたことがあり、韮山代官所も二人の関係を把握している。縄張りが隣接していることもあって、伊豆の久八なら安五郎を甲州へ逃走させることは十分可能である。安五郎が久八を頼ったことは明々白々であり、韮山代官所のお膝元とはいえ、網代から天城越えを敢行して北上すれば間宮へ行ける。黒船来航で代官という下級官吏;江川太郎左衛門英龍は一気に幕府内で重みを増し、彼には東奔西走する日々が襲ってきた。しかし、それを差し引いても、久八の在所で待ち伏せていれば、「島抜け」の大罪人;竹居の安五郎は容易に網にかかるはずであった。ところが、韮山代官所はそれを行ってはいない。韮山代官所は、安五郎を匿(かくま)い、甲州へ逃がそうとする間宮の久八の行動に、敢えて目をつぶったのではないかとの疑念が湧く。

間宮の久八は、「大場の久八」とも呼ばれる。「大場」とは「台場」のことである。つまり、黒船来航に驚き、急遽造成された江戸湾を取り囲む「台場の建設に活躍した久八」という意味である。台場建設と博徒の関係。ここに一つの重大なヒントがあると指摘するのが、前述の国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏である。

この指摘を裏付けるもう一人の大物博徒がいる。甲州境村名主でありながら政商といってもいい大物侠客;天野海蔵(かいぞう)である。天野海蔵は、安五郎とは旧知の仲、間宮の久八は海蔵の弟分である。そして、何より難地の御料所;甲州谷村を陣屋を構えてまで支配し「世直し江川大明神」と称えられた韮山代官;江川太郎左衛門英龍というやり手の実務官僚は、支配地仕置に土地の侠客;天野海蔵を手足として使っていたのだ。天野海蔵と江川英龍の持ちつ持たれつの関係、天野海蔵-間宮の久八-竹居の安五郎のトライアングル。このように考えると、韮山代官が敢えて間宮の久八、天野海蔵が安五郎を甲州へ逃がそうとすることに目をつぶったとしても決して不思議ではない。

東京電力は、福島原発事故の収拾に際し、その作業員集めを東京・山谷や大阪・釜が崎でも展開した。勿論、東京電力が直接手を染めることはしない。蛇の道は蛇という。幕府の緊急施策;台場の造成も同じであった。何としても翌春、ペリーが再び来航するまでに11ヶ所の台場を突貫工事で埋め立て、完成させる必要があったのだ。いつの世も、土建と政治は密接に繋がるものなのだ。

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