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2012年4月

2012年4月 9日 (月)

謹告 転居のご案内

「原田伊織の晴耕雨読な日々」は装いを新たに転居致しました。

お立ち寄りいただきましたら、幸甚の極みでございます。

 「独居房・武蔵野樹林亭の日々」 

http://harada-iory.cocolog-nifty.com/jurintei/

2012年4月 3日 (火)

風に吹かれて三度笠(其の九 無宿渡世の御一新)

韮山代官;江川太郎左衛門英龍の手代たちは、反射炉建設と台場の建造、二手に分かれて奔走した。松岡正平、山田熊蔵たちが伊豆で反射炉の建設に当たり、柏木捻蔵、矢田部卿雲たちが台場の建造に当たったといわれる。韮山代官所は、総出で海防実務にかかりっきりとなったのである。代官所の仕事としては異例のことが多いが、それは江川英龍という人物が代官であったからであって、幕府は韮山代官所ではなく江川英龍を必要としたということであろう。

江戸幕府は、最終的に19世紀の半ばを過ぎた頃(1868年)終焉を迎えるが、19世紀に入った頃から、即ち、和暦でいえば寛政の終わり頃、文化年間に入った頃からタガが緩み始め、関東では無宿者が増え、幕府はその対策に頭を痛めていた。「水論」「山論」などをはじめとする村と村の争いにも彼らが介入する、或いは主役となるケースも増えたのである。無宿者が徒党を組んだ形が、私どもが映画などで親しんできた「清水の次郎長一家」のような親分と子分から成る「ヤクザ」「侠客」の集団だと考えればいい。「おひけえなすって。手前生国は~」などといって「仁義を切る」とか、「一宿一飯の恩義」などと、その生態はずいぶんと戯曲化されて伝わってきたわけだが、あれも多くは長谷川伸の創作であるとされる。ただ、無宿渡世の者の間では、その原型となる独特の作法や約束事が存在したことは確かなようだ。

いずれにしても、彼らは無法者とみなされ、アウトローであった。心優しいアウトローも中にはいたかも知れないが、それはほとんどフィクションの世界だけのことであって、現実の彼らは凶暴な武闘派であり、体制(お上)への反逆を一つの太い渡世の軸にしていたのだ。ここに、後に彼らが倒幕派に通じる一つの基盤としてのキャラクターがあった。

文化2年(1805)、幕府は百姓の武芸を禁止した。百姓が剣術などを覚えるから、彼らが無宿人となった時手がつけられなくなり、治安が悪化するというのだ。同時に、幕府は「関東取締出役」を置いた。「出役」は「しゅつやく」と呼称するのが正しい。俗にいう「八州廻り」のことである。組織的には、勘定奉行配下となる。関八州を対象エリアとし、天領・大名領の区別なく巡回し、広域的な犯罪の取り締まり、治安の維持に当たる役割である。その権力行使が及ばないのは御三家の一つ、水戸藩領だけであった。時代小説や映画などでは、「八州廻り」といえば絶大な警察権をもち、威風堂々とした感があるが、これこそ歴史の「虚」の最たるものの一つで、実態はそのような頼りになる存在ではなかった。基本的に、武闘派である無宿渡世の集団に対して弱腰であり、最前線に立って彼らを取り締まるという迫力は微塵もなかった。幕府もいい加減なもので、大きな権力だけは彼らに与え、図に乗った彼らは本来上級武士にしか許されない駕籠に乗って小者を引き連れて廻村するという様であったが、身分は「足軽」にも及ばない「足軽格」であった。というのも、幕府は「八州廻り」を代官所の手代や手付から任命したのである。「五条代官所」の項で述べた通り、手代の中には御家人もいたが、手付となるとほとんど地元の百姓出身である。最下層の無宿人の取り締まりは同じ下層の者にやらせるという、為政者が常に使う手であるが、こういうことで実効が上がるはずがない。無宿人に対して常に及び腰の「八州廻り」は、その任務を遂行するに際しては「道案内」(目明し)を使った。これは、町方でいう「岡っ引」(上方では「手先」「口問い」)と同じである。強いていえば、「道案内」が一応「任命」された者であるのに対して、「岡っ引」はどこまでも非公認の存在であるという点であるが、どちらもお縄にしようとする犯罪者とほとんど同類という点ではあまり変わらない。無宿人が山に籠ったとなると、最前線に立って山狩りを指揮するのは「道案内」であり、肝心の「八州廻り」は後方の旅籠に籠っているというのが大概の図式であった。このあたりは、日露戦争・二百三高地攻略時の乃木希助の前線司令部と似ている。後方に陣取り、図面だけ眺めて画一的な戦法に固執した乃木司令部を、思い切り前線へ引っ張り出したのは、督戦に出向いてきた児玉源太郎である。もっとも、この時は乃木の参謀たちが「無能なエリート集団」であったことが原因している。

それはさておき、実際に山に籠って「八州廻り」を向こうに回して公儀に歯向かった博徒がいる。下総・万歳村無宿;勢力富五郎(柴田佐助)である。世にいう「嘉永二年勢力騒動」の張本人である。富五郎が公然と公儀に歯向かうに至ったのには、それなりの背景要因が横たわっているが、直接的には飯岡の助五郎との対立である。「天保水滸伝」でお馴染みの、この利根川下流域に於いては、永年飯岡の助五郎と笹川の繁蔵との間に抗争が絶えず、事あるごとに「出入り」が繰り返されていた。両者とも私どもが少年時代に親しんだ股旅映画に登場するお馴染みの悪役であった。ところが、そもそもこれを取り締まるべき「八州廻り」が、この地に於いては「ヤクザ」以上の無法者といってもいい存在であったのだ。警察権を楯に賄賂は要求する、無銭飲食は当たり前、果ては女を要求するといった按配で、とても行政官とはいえなかった。

かつて本ブログに於いて「五条代官所」について触れた時、代官に“悪代官”というのはまずいなかった、と述べた。ほとんどの代官は優秀な行政官であり、教養人でもあった。定型化された“悪代官”像というのは、無知な脚本家による時代劇の産物であって、恐らくこの種の「八州廻り」の実態が代官と混同されて後世に伝わったものと考えられる。

勢力富五郎は、笹川の繁蔵の一の子分であったが、敵対する飯岡の助五郎はなんと無法の限りを尽くしていた「八州廻り」の「道案内」を務めていたのである。要するに「二足の草鞋」を履いていたという、こういうヤクザの抗争が絶えないエリアによくある話なのだ。つまり、繁蔵・富五郎にとっては、助五郎=「八州廻り」と映り、更にいえば、彼らは地方(じかた)の人びとを痛めつける「お上」そのものであったのだ。いつの世も、下っ端小役人の不正や悪行は政府権力の権威を失墜させるものである。「道案内」助五郎が笹川の繁蔵を殺害するに至って、富五郎の怒りが爆発した。

富五郎は子分を掻き集め、武器を揃えて公然と「お上」に歯向かったのである。この時手許に集めた武器は、長脇差(ながどす)や太刀(たち)にとどまらず、槍はいうに及ばず鉄砲までも含まれていた。これを捕縛するため出動した「八州廻り」は、斎藤畝四郎、大熊佐助、中山誠一郎ら何と5名、更に彼らは関八州全域から「道案内」や「岡っ引」などの配下500600名を動員、更に加えて山に籠った富五郎一味の山狩りのために周辺76ケ村(改革組合)から1,000名強の人足を徴発した。片や富五郎一味は、20名に満たないのだ。

富五郎たちは、容易には捕まらなかった。土地の者は皆、「八州廻り」を、即ち「公儀」を自分たちの庇護者であるとは感じていなかったのだ。いってみれば皆、勢力一味のシンパであったのだ。アメリカ軍の必死の掃討作戦にも拘らず、タリバーンがなお健在であることと全く同じ状況だと考えれば分かり易いであろう。多勢に無勢でありながら理不尽な「お上」に敢然と武器をとって立ち上がった勢力富五郎はヒーローであり、これぞ任侠の道に生きる男伊達であったのだ。富五郎は、そういう村々の人びとの有形無形の支援を受けて、なかなか捕まらなかったのである。その間「八州廻り」はといえば、主力は笹川河岸に近い本陣にとどまり、万歳村まで出っ張っていった者も宿に籠ったままであった。要するに、彼らは富五郎一味の鉄砲が怖かったのである。実際に前線に出て、この大捕物を指揮したのは、隣国ともいうべき土浦から呼び寄せられた「道案内」;内田佐左衛門であった。蛇の道はヘビ、毒を以て毒を制すということであろうが、「関東取締出役」(「八州廻り」)とはそれほどものの役に立たない連中であったのだ。

最終的に、勢力富五郎は追い詰められて金毘羅山に籠った。この時点でつき従う子分は、栄助という者唯一人。追い詰める「道案内」佐左衛門の手下;源助が鉄砲に撃たれて“殉職”した。勃発から50数日、富五郎と栄助は「八州廻り」の手にかかるくらいならと、鉄砲による自害を選んだ。侠客;勢力富五郎は、数え28歳の若さで憤死したのである。

同じ頃、武州・石原村無宿;幸次郎が、東海道を股にかけてダイナミックに暴れ回っていた。この幸次郎の騒動が鎮圧された頃、国定忠治が中風で倒れ、捕縛されている。勢力富五郎や国定忠治は、後世庶民の間でヒーローとなったわけであるが、石原村無宿;幸次郎は、稗史の上でも彗星の如く登場し、瞬く間に走り去ったような存在で、人びとの記憶にも残らなかった無宿渡世の英雄である。あまりにも瞬間的な流れ星のような、一瞬のヒーローであった。任侠時代劇に親しんだ私どもも記憶になく、あれだけ製作された東映・大映の股旅映画にも登場していないのではないか。しかし、この男の暴れっぷりは実にダイナミックで、海路、伊勢松坂まで赴き、半兵衛という松坂の博徒を襲撃して殺害、これが半兵衛の盟友;伊勢古市の博徒;伝兵衛VS関東の田中村無宿;岩五郎・石原村無宿;幸次郎の派手な出入りに発展、伊勢の伝兵衛サイドには伊豆の間宮の久八がついた。この一件でも、韮山代官所は間宮の久八を「取り逃がしている」のである。台場の建造に間宮の久八が参加するのは、その4年後のことである。韮山代官所と間宮の久八との間には、表向きには見えない何らかの繋がりがありそうなのだ。

とはいえ、無宿渡世に対して「八州廻り」が常に及び腰であったのに比べ、韮山代官所だけは全く違っていた。この代官所だけは、例外的に無宿人、博徒に対して強硬に鎮圧するというスタンスを採った。これは、代官;江川英龍のスタンスをそのまま反映したものであり、その先頭に立っていたのが手代;柏木捻蔵である。東海道を荒らし回った石原村・幸次郎の別働隊一味が、韮山代官所支配地で源兵衛という博徒を襲撃したとの報に接し、柏木たちは三島に急行した。この時の柏木隊は、小者を含めても総勢7名に過ぎなかったが、自前で開発したドントル筒(新式連発銃)を備えていた。勢力富五郎がそうであったように、この頃博徒一味の多くは鉄砲を保有しており、勿論、このことはご禁制であったが、アウトローたちの武備は幕府統治を揺るがしかねないほど先鋭化していたのである。外国船の襲来という外患に備える必要性を説く江川英龍は、膨れ上がる無宿人たちに脅かされる治安問題について、内憂が外患と結びつくことを恐れていたとされる。外夷であれ国内の無宿人であれ、幕府統治に反逆するものは断固武力で鎮圧するというのが江川の基本的なスタンスであり、この男は実にシンプルに腹を据えていたといえる。情動的な水戸藩や水戸学にかぶれた輩と違うのは、矢田部卿雲というような洋学者を手代に組み込み、己のスタンスを維持する力(技術力)を自前で養って実用化していたことである。

柏木捻蔵一隊は、御殿場で幸次郎一味の一部と遭遇、二人を召捕った。更に、三人が茶屋で休んでいるところへ踏み込んだのである。柏木自身が先頭に立って切り込むあたりは、如何にも韮山代官所の手代らしく、とても「八州廻り」には真似のできない腹の据わり方である。激闘となったが、重傷を負った一人を捕縛、一人を射殺し(即死)、一人だけを取り逃がした。

幕末の無宿渡世人は、武備を整え、斯様に凶暴化していたのである。取り締まる「お上」サイドも、命懸けで立ち向かわなければ彼らを捕縛することはできなかったのだ。弱腰の「八州廻り」では、幸次郎一味をここまで叩くことなど、とてもできなかったであろう。

ところが、強硬派・韮山代官所が公儀の威信をかけてドントル筒まで持ち出して鎮圧にかかったにしては、この騒動の最終的な始末もやはり妙なのだ。

前述した通り、この騒動は石原村無宿幸次郎・田中村無宿岩五郎連合と、伊勢古市の伝兵衛・伊豆間宮の久八連合との喧嘩出入りである。当然、韮山代官所は双方を壊滅させなければならない。ヤクザ同士の喧嘩出入りである。双方の言い分を聞いて、裁きという手続きを経て、なんてことはやらない。こういうケースで、どちらも人を殺していないなどということはあり得ないのだ。喧嘩両成敗の原則を持ち出すまでもなく、喧嘩出入りは双方を召捕り、歯向かえば斬り、召捕れば少なくとも首謀者は斬首、ほとんどの場合、獄門晒し首である。この時も、石原村無宿幸次郎をはじめ、10名以上が死罪となっており、幸次郎は獄門晒し首となった。多数の者を、それが同業の博徒といえ次々と殺害した広域武装博徒の親分に対する処分としては当然であろう。

このように、無宿渡世の者や博徒、所謂“悪党”といわれた者たちに対して、その役割通り決して怯まず、強硬に取り締まった韮山代官所が、間宮の久八に対してのみは型通りの追及だけは行ったものの、これをとことん追い詰め捕縛するということはなかったのだ。韮山代官所の力(武力と強面の手代たち)を以てすれば、またその意志さえあれば決して不可能なことではなかったはずである。その“実績”からすれば、そう考えるのが自然であろう。

新島の名主を殺害し、武器(鉄砲)、舟を強奪して「島抜け」という命を賭けた大博打ともいうべき犯行を決行した「ども安」こと武居の安五郎は、そういう久八を頼ったのである。そして、甲州博徒;天野海蔵とこの久八が、安五郎を無事に甲州武居村へ帰還させたはずである。

台場建造を急ぐ江戸は、土建バブルともいうべき高揚した喧騒に包まれたという。私の知人は、曾祖父からこの時の話をよく聞かされたというが、運搬用の牛が溢れ、品川から高輪、銀座から新富界隈は人足目当ての遊女も溢れ、大変な活況を呈したらしい。これらの石材をはじめとする資材や人足たちは、天野海蔵が間宮の久八の協力を得て、台場建設の突貫工事の為に集められたものだったのだ。

幕末の無宿渡世の無法者たちは、関東一円から伊勢・畿内に至るまで広範なエリアにまたがるネットワークを築いていた。伊豆・韮山代官所は、幕臣のみならず各藩の人材に近代砲術を指導しながら、表向き無宿渡世の無法者を強硬に取り締まりながら、必要な裏の力のみを取り締まりの手の指から水を取りこぼすようにして生き永らえさせ、表向きの組織では不可能な国事に彼らの力を利用したのである。彼らは、どこまでも裏面史の中のヒーローであり、幕末維新史に彼らの名が登場することはない。

しかし、「島抜け」を成功させてハクを付けた武居の安五郎の一の子分;黒駒の勝蔵が、西郷隆盛の組織したゲリラ組織ともいうべき、あの「赤報隊」のリーダーの一人として意気揚々と東征軍の趣で進軍してきたことを知る人は少ないのではないか。土佐藩;吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党;那須信吾と甲州無宿の繋がりも、維新の裏面に見え隠れする。「赤報隊」の黒駒勝蔵のことを追求していけば、それだけでまた別のシリーズが必要となるだろうが、歴史上の事実は、書かれなかったら存在しないということであろう。

この小シリーズは、例えば「ひばりの花笠道中」のように、「ぽっかり浮かんだ白い雲」のような雰囲気で気楽に書き終えるつもりでカテゴリーを「はぐれ雲」として始めたが、すっかり道を誤ってしまったことをお詫び申しあげたい。

例によって、この小シリーズの主な参考資料を一覧させていただき、予定通り本ブログを終えたい。

版元さんが「原田伊織の晴耕雨読な日々」というタイトルを使って、このブログに入り易くして下さっているので、そのタイトルだけはしばらくサブタイトルとして残し、今後は全く別の書き物を気楽に綴ってみたい。

お世話になりましたことを、深く感謝申し上げます。

・土佐の夜雨        司馬遼太郎  (文春文庫)

・五条陣屋         司馬遼太郎  (講談社文庫)

・理心流異聞        司馬遼太郎  (講談社文庫)

・官僚川路聖謨の生涯    佐藤雅美   (文春文庫)

・博徒の幕末維新      髙橋敏    (ちくま新書)

・文明としての江戸システム 鬼頭宏    (講談社学術文庫)

・木村銃太郎門下      中村彰彦   (文春文庫)

・黒船以降         中村彰彦・山内昌之(中央公論新社)

・時代劇と風俗考証     二木謙一   (吉川弘文官)

・百姓から見た戦国大名   黒田基樹   (ちくま新書)

・アーネスト・サトウ日記抄 萩原延壽   (朝日文庫)

・韮山代官江川氏の研究   仲田正之   (吉川弘文館)

・甲州侠客伝        今川徳三   (人物往来社)

・長谷川伸傑作選      長谷川伸   (国書刊行会)

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