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2011年1月 4日 (火)

墓場まで何マイル?

この新春は随分と失礼な賀状をお送りしてしまった。

正月にお送りする賀状とは、吉例としての儀礼であり、当然それなりのマナーがある。(儀礼というものをバカにする若造は、余程阿呆である) 最大のマナーは、縁起の悪い言葉=忌み言葉を使わないことである。「死」などはもってのほかであり、「別れる」や「仏」関連の言葉も使うべきではない。(「言い回し」「文法」=用法にもよるが) 「墓場」なども、当然その中に入る。

ところが、私は今春の賀状で寺山修司『墓場まで何マイル?』を引用し、今年六十五歳になろうとする私の新春を迎えた心境と今年の決意を申し上げた。昨年四月、肺がんの宣告を受けてからというもの、私の眼には「墓場」がちらつくのだ。具体的に自分の墓をどうしようという具体的な計画を練っている訳ではないが、『墓場まで何マイル?』というフレーズが発するインパクトと一種の落ち着きが今の私には違和感なく溶け込むように入ってくるのだ。とはいえ、「墓場」という言葉は賀状に於いては典型的な忌み言葉であろう。

演劇の世界では、今や寺山は「神様」である。私どもの世代は、その寺山とリアルタイムで対峙しており、私などは当時(6070年代)の寺山をどう解釈していいのか、戸惑ったものである。とても全面的に評価できるものではなかった。今でも、私は全面的には評価していない。近年でも行われている寺山に関する演劇をはじめとしたさまざまな試みに参加しても、やはり全面的に評価する対象ではない。しかし、時に圧倒される感があり、時にその繊細さに強く愛情を感じる対象でもある。

寺山は、昭和二十九年に早稲田大学(教育学部)国文学科に入学しているが、間もなく腎臓炎で入院、更に翌年「ネフローゼ」で入院し、昭和三十一年、大学を中退した。しかし、この頃から既に短歌や戯曲で注目されている。後の活動全般をみれば、寺山は歌人、詩人であるばかりでなく、小説家、映画監督、俳優、評論家、俳人、エッセイスト、そして、劇作家、演出家でもあるが、ベースは歌人、詩人である。寺山自身が、『僕の職業は寺山修司です』と答えていたというのは、余りにも有名なエピソードである。蛇足ながら、山田太一氏は早稲田時代同級生であった。

若い頃から病気とは縁の深かった寺山が初めて肝硬変で入院したのは、昭和四十九年、即ち華々しく活躍した70年代最後の年である。これが、昭和五十六年に再発して再入院。そして、昭和五十八年、またまた肝硬変で入院し、そのまま帰らぬ人となった。直接の死因は、併発した腹膜炎による敗血症である。四十七歳という若さであった。ご存じの通り、その寺山の絶筆となったのが『墓場まで何マイル?』である。

寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。

ホステスの万理さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。

従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。

同級生のカメラマン沢田はベトナムで流れ弾にあたって死に、

アパートの隣人の芳江さんは溺死した。

私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。

だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。

私の墓は私の言葉であれば、十分。

カメラマン沢田とは、周知の通りピューリッツア賞を受賞した戦場カメラマンの、あの沢田氏である。私どもの世代は、詩人であり、歌人であり、演劇人でもある自由人;寺山の生きざまをリアルタイムで見てきている。「墓場まで何マイル?」と問いかける寺山は、主治医;庭瀬医師に、

「今、45歳なんだ。後五年だけは、演劇をやりたい。その後十年は、文筆一本に絞る。だから、60まで生かしてくれ」

と訴えた。その一方で、「何故生きたい?」という庭瀬医師の根源的な問いかけに、

「人生への未練・・・」

と答えている。

失礼にも、私は賀状という場でこの話に触れ、自分が、寺山が願って適わなかった60歳をとうに越え、今年65歳を迎えること、自然の摂理としての人の一生を頭で理解しつつも自分もまた「未練」を抱えてのたうつであろうことをお伝えした。

私が、新春に敢えて寺山の「墓場まで何マイル?」を引っ張り出したのは、前述の通り、昨年、肺がんの宣告を受けたことと無関係ではない。この経緯については既にご報告済みなので重複は避けるが、今回もまた私は「死に損ない」となった。小学生時代にダンプカーの下敷きとなり、高校生時代には野球の硬球が頭部を直撃し、大学紛争では塩酸便・硫酸瓶攻撃を受けながら全共闘の立てこもる敵陣バリケードに突撃等々、主なシーンだけを回顧してもその都度周囲から「アイツは死んだ」と思われ、その都度その期待や思惑を裏切って今日に至っている。昨年の肺がん騒動も、誤診と確定するまで二ヶ月を要したが、事情はどうあれ、やはり「この度もまた・・・」という思いが強かった。

しかし、日頃殊勝にも述べている通り、人は自然の一部である。私も等しく自然の恵みを受けて今日まで、多少尋常ではなかったが、その生を楽しみ、自然の掟に従い、やがてその生を閉じることになる。

墓場までの距離を、そろそろ推し量るべき年齢に達するが、残念ながら私はまだ寺山のように、

「私の墓は私の言葉であれば、十分」

と言い切れる「身分」ではない。ただ、まだ諦める訳にはいかず、今年もまた戦いを続けることになる。同時に、いや、それ以上に強く思うことは、私の存在が誰かの益になることであり、私らしくないかも知れぬがその為の努力を惜しみたくはないということだ。

失礼な賀状で申し上げたかった主旨は、そういうことであった。ブログで賀状の言い訳をするとは、かえすがえすも無礼なことである。

しかし、賀状では言えないことであるが、この年齢で己の墓場までの距離を凡そでも掴んでおくことは、人としての基本的なたしなみではないかとも思っている。

心地よい新春を迎えている。

2010年7月17日 (土)

夕焼け

■同じ東京で練馬・板橋が豪雨に見舞われている時、世田谷の外れから杉並南端は一滴も降っていなかった。これを日本全域に広げると、集中豪雨の被害を受けているところが毎日のように現れているのに、我が家の周辺はおとなしいものである。今日もまた、広島や島根、岐阜から悲惨なニュースが届いているというのに。

当方はといえば、マンションの前の狭い旧街道さえさっと渡ってしまえば、我が家から最寄りの駅までは基本的に傘は要らない。狭く、短い商店街の各商店の庇(ひさし)が歩道を覆っているのだ。私鉄に乗って終点のターミナルで、僅かひと駅だが地下鉄に乗り換える。地下鉄を降りて改札を出ると、そのまま事務所の入っているビルへと繋がっている。私の通勤に傘は要らないのだ。今日は雨が降ると全ての予報士が宣言していても、今現在降っていなければ傘は持たない主義の私には、この通勤経路は有難い。

梅雨入り宣言があった頃、夕刻の高層ビル街の空を眺めて、

「梅雨が明けるぞ、空が違う・・・」

と言ったら、周りの者が怪訝な表情を作った。何をバカなことを、と思ったか、或いは、またワザとらしくキザなことを、と感じたようで、顔にそのように書かれていた。私は、ただ空の様子が違うと正直に感じたのである。それは、これから鬱陶しく重苦しい雨の季節に入りますよ、なんて言っていなかった。梅雨が明け、さあ、夏だという時、梅雨空の一部に明るさを予感させる“隙間”が空く。それは、まだ空の一部だけであるから“隙間”が空くとしか表現できないのだが、大概夕刻近くに起きる。晴れていれば夕焼けの見られる時間に起きるのだ。その時、その空と全く同じ様相の空を、夕刻の高層ビル街の合間から見たのだ。

田舎者の私は、割と空の様子には敏感である。そして、しょっちゅう空を見る。その時、今年の梅雨は短い、いや、あっという間に終わる、いやもっと言えば、殆どない・・・そう直感した。そして、その直感は当たった。

■身の回りには鬱陶しいことが頻発した。

その代表的なものの一つは、四月入社の大卒女子新人が突然出社しなくなったことである。まだ二ヶ月と少しの期間しか経過していない。担当者に入ったメール連絡によると、週末に風邪をひくなど、体調を崩したらしい。そのことが何の脈絡もなく、

「今、精神的にとても苦しいんです! 辞めさせてください!」

ということに繋がった。

担当者は、当然だが“頭にきた”ようだ。無理もない。この新卒の子にまだ本格的に何も任せてはいないし、基礎的な訓練・研修期間のつもりでいる。社内の誰もがこの子を戦力だなどと微塵も考えていない。「苦しい」ことは、これからずっと先になってようやく始まるのだ。まだ何も始まっていない。会社が給料を払っているのは、どこまでも純粋に投資に過ぎない。この子ならずとも今どきの大卒新人が、最初から「給料をとれる」仕事ができる訳がない。(その割には私どもの新人の給与レベルは、大企業と変わらない)毎日毎日、物理的にもギリギリのところでクライアントのわがままや無理難題に向き合って神経をすり減らせているスタッフにすれば、訓練中の新卒に「苦しい!」などと言われると、確かに愕然とするだろう。

実は、この新卒の子が入社してから周囲からはいろいろな問題点が、私に対して提起されていた。それらはすべてお決まりの内容で、敬語の使い方を知らない、能動的には何も聞かない、自分の位置づけや方向観を誤解している等々、今どきの大卒新人にはよくある話ばかり。その都度私は、

「あの子が一年、いや半年耐えることができれば、俺が化けさせてみせる」

と突っぱねてきた。残念ながら、今どきの大卒に「耐える」ということを期待した私が甘かったと言わざるを得ない。

■いつも採用に関わってくれているリクルート関係の代理店の営業マンが、

「伝わってなかったですか・・・」

と肩を落としていた。

実はこの新卒女子は、東京六大学の一つ・R大学を卒業した子だが、優秀だからという理由で採用した訳ではなく、その経緯は当の募集代理店の担当者も良く知っている。この子は、内定式まで済ませた企業から内定を取り消された。両親に特異な不幸があって、この子は一人取り残された。内定を取り消した企業は、この子の両親の「特異な不幸」を嫌ったのだ。日本の企業、特に「有名大卒専用」の企業にはよくあることだ。

私は、まだそんなバカなことをやっている企業が存在することに無性に腹が立った。そこで、当初は新卒を採用するつもりなどなかったのだが、敢えてこの子を採用した。この子を一人前にしてその企業に営業にでも行かせてやろうか・・・マジにそんなことを考えたほどである。つまり、この子の採用は代理店スタッフに言わせれば「平成日本社会に対する抗議」である・・・そういう仰々しいことになるそうだ。当方は、ただその企業にムカッ腹が立っただけである。代理店スタッフが「伝わってなかったですか」と肩を落としたのは、本人に当方の気持が伝わっていなかったか、と無念の思いに駆られたということだが、そりゃ、無理だろう。本人にそのような素振りを見せた覚えはない。

■今、R大学と言えば、「一流」に入る。そのようである。この大学の特徴は「リア充」がやたら多いことだ。Rは「リア充」が九割を占めるなどと言う若者研究家がいる。「リア充」って何? と聞くあなたは、正常である。こんな言葉は、二年もすれば消滅する。若者言葉=バカ者言葉を無理に覚えようとするのは、脳細胞の無駄遣いである。

私の社会人一年生の頃、同期にこのR大学出身の男が一人居た。が、彼はコンプレックスの塊りになっていて、同期の皆から嫌われた。無理もないのだ。当時、R大学なんて大学は、単なる「すべり止め」であった。R大学が「すべり止め」・・・今の学生が聞いたら目をむくに違いない。しかし、今の私の感覚でもそのことは余り変化しておらず、R大学を一流だなどとバカな勘違いは全くしていない。更に、今年の新人は、世間を騒がせている「ゆとり世代」の第一陣である。日教組のゆとり教育でたっぷりと甘やかされた「リア充」だらけのR大学卒の女子が、ハードなことではどの業界にも負けない編集・制作の世界へ入ってきて、もつ訳がないか・・・冷静に考えれば、当然の帰結と言うべきであろう。ただ、「大卒女子」の本人にやたら腹が立つ。

■鬱陶しい季節だというのに、天候には例年より鬱陶しさもなく、もう夏である。繰り返すが、私の直感は当たった。今年のこの季節に一番鬱陶しいことは、R大卒女子の突然の“消滅”であった。社会保険の資格喪失手続きなど、厄介な事務だけが残る。しかし、総雨量が例年の半分にも満たず(東京)、空に常に隙間が開いていて隙あらば夕焼けでも見せてやろうかという半ば意地悪っぽい妙な雨季の、ほんのひと時の座興のような出来事に過ぎなかったとあっさり忘れることにした。

城下は、萌黄、若草、苔色と様々な緑に埋れている。

冬なら足元の木々の間に見える筈の大手門に近い梅林も盛り上がる若葉に隠れて、城山全体がひと回り大きく膨らんだ感がある。

数ヶ月前には足元に見えた景色そのものが今は樹木に覆い隠され、中堀の内は緑の中に沈んでいる。中堀の外に広がる城下がまだ盛んな西陽を浴びて、甍のうねりが白く輝いている。

湖面が鏡となって陽を撥ね返し、琵琶湖西岸を走る比良の山並みは薄く暈されている。

雅也は、天守の南側の崖上に立ち、まだ高い陽が無数の光の粒子を琵琶湖に注ぎ、それを受けてまるで白銀の世界のように照り輝いている湖面を目を細めて眺めていた。多景島が、まるで黒い色紙を切り抜いて、ただ輝くだけで意識して息を潜めているように凪いだ湖面に貼り付けたように立体感を失って眼前に在る。

琵琶湖に落ちる陽は、叡山に触れるばかりに低く落ちないと茜色を発しない。

帰ることのない故郷の夕景は、年々美しくなる。しかし、高層ビルの合間から見る、何としてもこの姿を見せつけてやると言わんばかりの、やや気負った東京の夕焼け雲も、私は結構気に入っている。

2010年5月31日 (月)

脱出しなければ・・・。

そろそろ1週間である。

当初、検査入院の期間は1週間くらい、と言われていた。ところが、入院早々これが21日間=3週間となった。理由は分からない。

今のところ、21日はかからないと見込んでいるが、当然私には決められない。既にさまざまな検査を受けたが、この先まだ何をやろうというのか。

血液検査とX線は、ほとんど毎日のように受けている。金曜日には、500CCもの胸水を抜いたが、抜いたら抜いたで直ぐX線で確認。主治医からタバコの害について散々言われたが、どこの医師も皆、「それが40年以上も続いているのですね!」と、わざわざ単純な年数を強調して脅す。実際は、18歳くらいから吸っているのだから、年数を言うなら45年である。いちいち訂正はしてこなかったが。ま、害悪以外の何物でもないニコチンとタールがそれだけ蓄積されていると言いたいのだろうが、ではX線は大丈夫なのだろうか。これまでの60有余年の人生で、検査と称して浴びた放射線の総量に加えて、この1ヶ月の検査は凄まじい。大体、どこでも、誰もがこういうことの履歴をとっていないではないか。前回もその危険性を少し危惧したが、もし数ヵ月後に私が白血病ということになれば、その原因として「検査」を疑うべきではないのか?? 加えて言えば、私どもの世代は放射能を含んだ雨を浴びて育っている。その恐怖に怯えながらも、半分「肝試し」のような気分で雨の中を走り回って幼少期を過ごした。放射能履歴には、この時の被曝量も加算されなければならない。

素直とは言い難いこの「検体」は、既に退院の予定を秘かに思案しているのだが、ちょっと焦って失敗した。私の担当医師団=チームは3名の医師から成っており、これに医学生などが付いているのだが、主治医は女性医師で、もう一人女性医師がいて、男性医師も含めて3人共非常に若い。主治医は、ひょっとしたら30代、もう一人の女性医師は、ひょっとしたらぎりぎり20代、男性医師も多分30代である。私の年齢観察は、多くの場合10歳位は平気で間違いがあるが、それにしても全員若い。勿論、私に何の不満があろうか。主治医のNさん。小柄で可愛いタイプなのに、シャープに突っ張って時々男を怒らせる・・・よくある、そういうタイプ。媚を売るタイプなどよりはるかに魅力的である。もう一人のA医師は・・・いや、そういう話がテーマではない。N医師には、当然仕事の事情も話してあるのだが、そのあたりの事情も考えてくれたのであろう、彼女は土曜日の朝、診察を終えると一時外泊を許してくれた。日曜日の夕方までに病院へ戻っていればいいという。月曜日、また朝から検査があるからだ。

やった! アピールしておいてよかった! 若いチームは決断が早い! 年寄りの経験なんてクソ喰らえだ! と私は喜び勇んで、土曜日11時に病院を出た。日曜日17時に戻ることになっているから、それなりに時間はある。自宅から病院までは、車で20分もかからない。多少のウチの整理や仕事上の連絡処理はできるだろうと思っていた。

結果を言えば、何もできなかった。日曜日14時には、もう病院へ戻っていた。

日曜日朝から脇っ腹にピリピリと痛みが走り、左側の肺全般に圧迫感があり、気持ちまで悪くなってきたのだ。こりゃ、いかんと、時間を早めて病院へ戻ったのである。

実は、これまで受けた検査で結果の判明している限りに於いては、「悪い要素」は何も出ていないのだ。胃液を採取して痰を調べても、胸水を調べても、血液検査でも、例えば肺がんや結核を疑ったとしてもその「尻尾が掴めない」というのだ。「尻尾が掴めない」とはN医師の表現だが、まるで肺がんの証拠が見つからずに困っていると言わんばかりの表現である。しかし、N医師が言う場合は、これは許してもいい。もとはと言えば、肺がんと断定されてこの病院へ回されてきた身でもあるし・・・。

つまり、肺炎は確かにあったし、胸水も溜まっていたが、肺炎も治まり、胸水も抜き、となれば既に私は別段「病気」ではないのだ。入院しているのは、あくまで「検査」のためである。にも拘わらず、一時帰宅した私の身体は明らかに「病人」のそれに近くなっていたのだ。歩くスピード、食べる量、思考の迫力・・・すべてが何やら病人っぽくなっているのだ。身体がそうなっているのだろう。一時帰宅して少し異常が出たのも、身体と意識のギャップが原因であろうと思っている。

考えてみれば、検査入院とは言うが、扱いは普通の病人と同じである。厳密には違うのだが、ほぼ同じである。何よりも病院のベッドに寝ているだけで、病院スタッフの意識は病人として扱うのとあまり変わらないであろう。

食事は、病院食としては最も普通食に近いレベルではあっても、それでもやはり「病院食」である。朝食7時、昼食12時、夕食6時・・・一般市民でもこんな生活はしないだろう。ウチのスタッフなど、16時頃昼食という者も多く、私自身も下手をすると19時頃ようやく昼食、という日もある。病院では、朝食前と夜、体温と血圧を測りに看護婦が部屋に来る。昼間やることと言えば、幾つかの検査。移動距離は、せいぜい6階から地下のレントゲン室まで。館内は、パジャマにガウンを羽織れば問題はない。胸水を抜いた日などは、看護婦は車椅子を用意する。胸水を抜いても、歩行ぐらいは自力でできるって!

こういう生活に身体が慣れると、検査入院であっても身体が「病人っぽく」なるに違いない。車椅子を拒否しても、スタッフと業務上のメールのやり取りをしていても、多分先に身体が環境に順応するに違いない。意識は「健常」のつもりで、「健常」を維持しようとしているのだが、身体が「病人」になってしまうに違いない。一時帰宅をした際に異常が顕れたのも、普通に振舞った意識に身体が付いていけなかったからに違いない。

これって、気をつけないといけない。身体が勝手に環境に順応して、「病人」らしくなっていく。まだ、入院して1週間である。あと1週間も入院していれば、ホントに車椅子が必要になるのではないか!!

N医師、A医師には申し訳ないが(あと一人の男性医師って、何て名前だっけ?)、意識がまだ健常である間に、そして、その意識が洗脳されない間にここを脱出しなければいけない。

そうこうしている間に、今日から腎臓のチェックが始まり、肺機能の検査で絞られた。

2010年3月 6日 (土)

すき焼き

全く気の休まらぬ娘である。同時に、妙に面白みもあって退屈しない。

「すき焼き」を作っておいてくれたのである。勿論、他にもいろいろと作っておいてくれたのだが、見たところ今回のメインは「すき焼き」であるらしい。私の二夕食分、無理して小分けにすれば三日分ほどもある。

彼女に言わせれば、私は結構量を食べるらしい。自意識としては、めっきり量は減った。一回当たりについても、一日分という計り方をしても、「痩せの大食い」と言われたかつての半分も食べていないのではないか。無理して食べろと言われれば、現状よりもっと食べられるが、自ら迸(ほとばし)り出る食欲というものが低下しているというか、無くなっている。他のことと同様、食事を採るという行為が面倒くさくなっているのだ。食べずに天寿を全うできる方法が開発されたならば、私は躊躇なく試しているだろう。しかし、出来上がった「料理」というものが嫌いかと言えば、そういうことではない。第一、田舎者の常として私には全く好き嫌いというものがない。ものを食べる態勢にあれば、目の前に出現したものは基本的に何でも食べる。そして、それらは原則として皆美味しい。酒を傍らに、これらを肴として半日本を読みながら、アダモか陽水でも聞きながら過ごすことができれば、これに勝る至福はなかろう。つまり、「定時に義務づけられた食事」が面倒なのであって、好きな時に好きなものをとなれば、料理も飯も全く色合いの異なる別次元の悦びに変質するのだ。風呂の面倒くささとその無駄については先頃触れたが、「定時に義務づけられた食事」というものも私にとっては風呂に近いものがあるのだ。

話を戻す。量のことであった。

仕事絡みの外食の機会も多い私は決して味覚オンチではないと思っているが、その私からみて娘の料理にはどこかセンスの良さが垣間見える。基本的に上品な薄味であり、ハマった時は見事であるが、微妙にずれると「意図は分かるが・・・」という評を受けそうな、そんな危うい線上を歩いている感があり、この先どう変化していくのか楽しみでもある。ところが、やはり量が問題なのだ。娘が三日は十分もつと考えた量は、大概三日はもたない。二日が精一杯といったところか。つまり、加齢と共に食べる量が目に見えて少なくなっているというのが己の自覚であるが、その量は娘の感覚では一般基準から考えてまだ多いということだ。それが、果たして本当に一般基準かどうかは判らない。娘一家が少食揃いという可能性もある。

その判定はともかく、その日娘は「すき焼き」を軸にして諸々、他のおかずを構成した模様であった。ところが、例によって遅く帰宅すると、テーブルの上にメモが置いてある。短いメモであったが、その結論のみを言うと、塩と砂糖を間違えたということだ。そして、それを「修正」しようとしてさまざま試みたけれど、どうもうまくいかぬ・・・要するに、そういう「大失策による失敗作」であるから悪しからずという、釈明のメモなのだ。

私は、専ら食べるだけの人間で、料理を作ることができない人間である。作ってみようという気もない。そんな時間があれば、溜まっている本を読みたいし、書き物も同様である。唯一作れる料理は、インスタントラーメンである。(これには年季が入っている)そういう人間でも、塩と砂糖が間逆の味わいをもっていることは知っている。その塩と砂糖を間違えて使ってしまったということは、この「すき焼き」はでき上がった当初、どういう味をしていたのだろうか。また、「修正」は完璧にはいかなかった様子がメモから伺われたが、果たして不味(まず)いけれど一応「すき焼き」と呼べる範囲にまでは「修正」が成功したのだろうか。それとも、奮闘虚しく、「すき焼き」という料理の域にまでは達しなかったのであろうか。

一応、温めてみた。

何やら、苦い・・・いや、甘いかな・・・? いや、苦いと甘いがまだらになっているのか?

しかし、食べられないというものでもない。と恐る恐る食べていたのだが、そのうちにやたら甘くなってきた。汁に浸かった部分は、超甘~い!! これを米の飯と一緒に食べるのは、甘過ぎて苦しい。

こういう時は、酒に限る。この「すき焼き」を肴にして酒を飲めばいいのだ。そうすれば、その甘さは感覚的には幾分か緩和される筈だ。私は、焼酎のお湯割りを用意し、超甘すき焼きを肴にして酒盛り態勢に入った。ところが、である。

苦い! 今まで甘かったすき焼きと焼酎がどのような化学反応を起こしたのか、焼酎と一緒に食すると苦く感じるのだ! そのものが苦い、というより口の中に苦味が広がる。実に不思議な肴に思われた。やむなく、焼酎と肴の「すき焼き」の合間に水を飲みながらの妙な一人酒盛りの夜となった。全く酔えなかったことは言うまでもない。

これは、娘に対する文句ではない。

そもそも二十年近くのブランクを経て私を探し当ててくれたのは、この娘である。私にとっては、今なお高校へ入ったばかりの娘という感覚が完璧には“更新”できておらず、今の娘の実年齢と私の内(なか)での娘との間には大きなギャップがあるのだ。既に娘には二人の子供がいる。私にとっては、突如現れた孫である。そのこと自体には、己では何の違和感もないつもりなのだが、どこかで娘は今だに高校生のままなのだ。その子が料理を作り、掃除をして、洗濯も済ませておいてくれること自体が、まだどこか不思議なのである。ついつい、この子はいつ料理を覚えたのだろうなどと感慨を覚えることの方がまだ多いのだ。親はなくとも、益して父親一人などなくとも子は育つとは言うが、高校生のこの子と二児の母であるこの子が私の内で合致する日は来るのだろうか。

そういう娘が作ってくれた料理に、甘いも辛いもないのである。その前は、私に作っておいてくれた「八宝菜」を自宅に帰ってから再度作ってみたらしい。その時、彼女の感覚では「びっくりした!」ほど不味かったらしい。慌ててメールを寄こして曰く、「捨ててください!」

勿論、私はそれを捨てずに食した。

私と息子、娘を別け隔てたのは、経済誌や一部の新聞も報じた一つの「事件」であった。あの事件がなければ、私はもっと平穏な年月を過ごしてきたことだろう。天地がひっくり返っても前しか見ない性分の私は、それを振り返ってどうこう考えたことはないが、娘の登場以来、さすがにその事件の際の悔しさを思い出すことがある。あの時、私は民事訴訟法の本を買ってきて、それを参考にしながら自ら告訴状を書いた。私の借用証なるものを捏造した相手には、数度に亘って内容証明を突き付けた。あの時、取引のあった旧DK銀行S支店は、私が代表者であることを知りながら私の要求を拒否し、会社の口座を封鎖した。僅かではあるが、あの時残っていた金をこの大銀行はその後どう処理したのか。この決着は、いずれつけるつもりでいる。

娘も息子も、言ってみれば間接的な被害者である。そして、二人にとっての直接の加害者は父親であった私である。しかし、経済的にもその大波を被って苦労した筈の二人は、そのことを口にしない。

あの時、殆どの人びとが、私を「嘘つき」だと断じた。もともと、士族の娘であった母から「虚言」というものを恥ずべき行為として厳しく躾けられていた私は、余りの悔しさに身を震わせて声を上げて泣いたことを覚えている。武家の倫理観から言えば、「虚言」は最も次元の低い「卑怯」に属する。その時以来、私は「嘘つき」という言葉、「嘘」という単語に、病的と言えるほど更に過敏になった。どのようなことについても「嘘つき」と聞けば、今でも血が逆流するのである。

事件のことなど何も知らないような素振りで料理を作り、部屋を綺麗に片づけてくれている娘。私のいない、つまり誰もいない男やもめのウチで『今日も頑張るぞ!』と一人で自らにハッパをかけて家事にとりかかり、『愚図だから、あっという間に夕方さ~!』と嘆いて帰る娘。時に仕事の多忙ぶりを嘆きに訪れ、朝まで話し込んで帰って行く息子。二人とも今や人の子の親である。時は、過酷なほどのスピードで流れ去っていたのだ。

そういう娘の料理は、甘かろうが辛かろうが酸っぱかろうが、私にとってはそういう次元のものではないのだ。それは、凍りついたような事件後の時の流れをゆっくりと溶解させるように五臓六腑に沁み渡っていくのである。

2010年1月23日 (土)

「不埒な若造」の結婚

「若者」が結婚した。

「若者」とは、本ブログにも登場した、私と仕事で関わりのある例の「厄介な若造」;Nである。更に言えば、この男は「不埒な若造」でもある。この男が何を以て“不埒”であるか、それについては昨年510日の本稿をご覧いただきたい。

どういう心算(つもり)か、このNが披露宴に私を招待したのである。やむなく、私は貴重な休みを潰してその披露宴に出る羽目になった。先の土曜日;16日のことであった。

余談ながら、私の最初の結婚式が117日、土曜日であった。Nは、そのことを知っている。つまり、意識して17日を避けた疑いがある。因みに、117日とは、戦後最大のアイドルと言われたYMの誕生日でもあり、「金色夜叉」で寛一がお宮を、熱海の海岸で「今月今夜のこの月を~」と大見えを切って朴歯の高下駄で蹴飛ばした日でもある。時を経て、この日、阪神淡路大震災が発生した。

大体、何故私を披露宴に呼んだのか。私には、Nのそれに出席すべき義理は何もない。一般的な図式に当てはめれば、私の会社はNの勤務する会社の得意先に当たる。一般的な図式というものに縛られるのは余り好まぬが、それにしてもこういう関係で披露宴にまで出席するという例は、それほど多くないのではないか。

先だって私はNに聞いた。

『何故お前さんの結婚披露宴に出なければならないんだ?!』

Nにも、確たる答えの持ち合わせがなかったとみえて、何やかやとぶつぶつ言っていたが、

『いいじゃないですか! 隅っこでチビチビ飲んでてくださいよ!』

などと言って、それ以上の議論を封じるのである。逆に、

『ご祝儀、弾んでくださいよ!』

などと、更に不埒なことを言う。

加えて、何か喋れと言う。お祝いのスピーチのことである。この男は、どこまでも厚かましい。お祝いのスピーチとは、新郎や新婦の日常を糊塗して、白々しいまでに彼らを褒めあげる作業である。Nには、無理に探せば褒めてもいいところがないではない。しかし、その前に不埒なところが多い。生まれつき正直な私は、歯の浮くようなスピーチは大の苦手であって、まずやらない。

『ふざけるな! 俺の講演料は90分で○○万円だ! その基準で時間で割って請求するぞ!』

とどやして、どうせ諦めるだろうとタカをくくっていたのである。

そもそも場所が気に入らない。お台場である。何の因果で、義理もない若造の結婚披露宴に、私の知人など誰一人出席していないことが明白なことを知りつつ、東京湾の埋立地まで、閑静な芦花公園での休日を返上して出かけなければいけないのか。お台場は、二人の思い出の場所だと言う。

二人といえば、相手のnちゃんが不憫である。二人が二度目に芦花公園の寓居へ遊びに来た時、私はnちゃんに心を込めて言ったものだ。

『考え直すのは、今のうちだよ』

その時nちゃんは、

『いいんです・・・』

と、一言言ったきりであった。私は、もはや手遅れであることを悟った。nちゃんは、既に観念している。健気にも、己の運命に従順に生きようと決めていたのだ。傍らのNはといえば、ウチの冷蔵庫に残っていた里芋の煮っころがしを取り出してきて、物凄いスピードで箸を突き突き、里芋を次々と口へ運びながら、

『これ! うめ~!!』

などと呻くような声を出しながら、ただ食うことに熱中していたのである。

相手がnちゃんでなかったら、私はこの招待を無視していただろう。そんなことを思い出しながら会場へ着いて、驚いた。私の席は、新郎新婦が“さらし者”となる中央の一段高いステージの真ん前、即ちメインテーブルの中に用意されていたのである。それも、円形テーブルでステージを背にする主賓中の主賓席では勿論ないが、ちょうどその対面(といめん)、つまり、新郎新婦と真正面から視線のぶつかる席になっている。主賓中の主賓は、ヤツの勤務する会社の社長、メインテーブルは私を除いて全員ヤツの会社の取締役や上司といった面々。ヤツは、私の口封じを図ったに違いない。こういうことなら、それこそ「隅っこでチビチビ飲んで」いた方が、余程気が楽というものである。

格式張った第一部が比較的短時間で終わり、お色直しを経た新婦を迎えて宴は、多分くだけた雰囲気になるであろう第二部へ。一人目が、まだ改まったスピーチをしている。ホールスタッフが私の席へ来て、身を沈めて小声で囁く。

『次にご祝辞をいただくことになっていますが、お聞きになっておられますか?』

壇上に視線を遣ると、ヤツが右手親指を立てて、サインを送っている。私は、

『冗談でそんなことを言ってましたが・・・ホントにやるんですか?』

スタッフが困惑した表情を浮かべ、

『どう致しましょうか?』

知るか! そんなこと!!

そのまま放っておいたら、このスタッフはどうするだろうと若干興味が湧いたが、隣席のヤツの会社の先輩と思しき客が、

『さっきから伺っているヤツの日頃をぶちまけてやりましょうよ!』

などと面白がってけしかけるものだから、

「何言ってもいいのなら、やりますよ」

とスタッフに言うと、隣席が

『いいですよ! いいですよ!! やりましょう!!』

と益々悦に入って、スタッフに代わって答えるので、司会の呼び出しに応じて、のこのこ出て行ってしまった。壇上のNは、何故か微笑んでいる。それを見て、私は本当に図に乗って、やってしまった。

『そもそも、今日、何故私がここに居るのか、今だに解せません』

から始まって、それでもかなりセーブしながらNの日頃の得意先に対してあるまじき行状を幾つかゆっくり、丁寧にご報告した。

例えば、最近ヤツが私の会社へ来る時に限って、私が席を外して居ないことが多いのだが、そういう時、ヤツは怒るのである。怒って、携帯メールを入れてくる。曰く、

『今、来てるんですけど、また居ませんね!』

などと。 それじゃ、なにか! お前さんの来る時は、当方は常にお前さんをお迎えし、遺漏なきよう御もてなしをしなければいかんとでも言うのか。少なくとも、私はお前さんを呼んだ覚えはないのだ。ウチのスタッフとの用事が済んだら、さっさと帰ればいいではないか。

また、ヤツと飲むとロクなことが起きないことは、本ブログでもぶちまけた通りである。例の「右手麻痺 全治六ヶ月」の一件も、ヤツと飲んでいなければあのような不幸は発生しなかったのである。

また、拙著を義理で買ってくれたのはいいが、今日に至るもまだ読破していない。そのことを責めると、平然として曰く、

『だって、あれ、読みだすと直ぐ眠くなるんですよ』

それじゃ、なにか!  私の著書は睡眠導入剤にしかならんとでも言うのか。

時々、身体ごと壇上のNに向いて、この種の不埒な行状を喋っていたのだが、これ以上はご免だとでも思ったのか、壇上からヤツが“巻き”を入れている。今更、遅いよ! と無視しようとしたら、ふとヤツの隣のnちゃんの心配そうな表情を見てしまった。これはいけない・・・。今日の主役はヤツではない。結婚式や披露宴というものは、女性の為に存在するものだ。今日の主役は、どこまでいってもnちゃんであって、ヤツはnちゃんの引き立て役でしかないのだ。

やむなく私は、締めに入った。あくまで“nちゃんの為に”、正面に向き直って、

『こんな男でも、たった二つだけ長所があります』

などと、急変して形式に則ってnちゃんの幸せを保証し、ご両家に祝詞を述べる形でスピーチを終えたのである。

宴がお開きとなり、新郎新婦と二人のご両親が客を見送る。型通りに挨拶して通り過ぎようとしたら、Nの御母上が上気して私に話しかけてこられた。

『二つも長所があって、本当にほっと致しました!』

参りました、御母上。あなた様の方が、遥かに上手です・・・。

その夜遅く、Nから謝意を述べる携帯メールが入った。nちゃんは一段と綺麗だった、つくづく可哀相にと思った、大事にしないとバチが当たるぞ! と返信したら、それっきりNからの返信はなかった。

2009年8月 9日 (日)

冬のひまわり

灼熱の夏、とはいかずに、シャキッとしない夏だが、既に「立秋」も過ぎた。間抜けな気象庁は、タイミング逸してまだ列島全域には「梅雨明け宣言」を出していない。東京の天気も、今年は“見かけ”は東京の夏らしくない日が多いが、それでも立秋の直前から、特に夕刻には「晩夏」の香りが漂っていた。「アマタツ」も気象庁から提供されるデータばかり見ていないで、素朴に空を見上げ、己の肌で風を感じていた方が自然界の法則に則した話が出来るのではないか。「異常気象」だ、「天候異変」だ、と騒いでいるが、この島国の四季は意外にしっかりした足取りで、それぞれ己の出番を全うしているという気がする。

立秋(今年は7日)の夜、一人のスタッフの送別会をもった。30代の女性で、キャリアは長い。ウエイトの高いJOBを担当してもらっていたので、痛手ではあるが、退職理由が寿であるので、どうしようもない。相手の男性がイタリア人で、彼女は直ぐイタリアへ発つ。

彼女は、一見地味な女性である。事実、派手なことは好まないようで、煌(きら)びやかなファッションとも無縁であった。そして、所謂がんばり屋で、過重な仕事が続いても、耐えて頑張って、耐えて頑張って、仕事を成し遂げてきた。かなり身体にこたえているな、と見受けることがあったが、そういう時も決してそれを表には出さなかった。弱音を吐くということもなかった。

こういう彼女のキャラクターや仕事に対するスタンスが、まだよく分からなかった、彼女との出会いの頃、私は「冬のひまわり」という言葉を、その時は唐突に思い起こしたことを覚えている。「冬のひまわり」のような女性ではないかと感じたのである。

「ひまわり」とは、夏に咲くあの向日葵(ひまわり)である。俳句の世界では、夏の季語として使うことがある。インディアンが食用としていたこの植物を、北アメリカから持ち出したのは例によって侵略者;スペイン人であるが、日本には江戸期に渡来した。

私たちは、子供の頃、向日葵(ひまわり)という植物は太陽の動きに連れてその方向を追うように花弁が回ると教えられ、そのように信じていたが、これは正確な事実ではない。この不思議な動きは生長時期の初期にのみみられる現象で、大きく育って大輪の花を咲かせる頃には花が太陽に合わせて動くということはない。花は、常に東を向いたままの筈である。

柄にもないことを付け加えると、向日葵の花ことばは、『あなただけを見詰めます』『熱愛』『光輝』といったところらしい。『あなただけを見詰めます』と『光輝』とでは、意味合いが随分と違うような気がするのだが、花ことばというのは、そういうものであるようだ。確かに、灼熱の夏の陽を受けて敢然とそそり立っている鮮やかに黄色い姿は、情熱的である。それは、時に傲慢にも見えるほどの熱情を発している。そう言えば向日葵の花ことばには『高慢』というものもあるらしい。

こういう花のことであるから、映画や絵画、ドラマなどのタイトルに頻繁に使われる。

絵画では、何と言ってもゴッホの『ひまわり』であろう。周知の通り、ゴッホの『ひまわり』とは、単一作品の名称ではなく向日葵をモチーフとした一連の作品の総称である。ゴッホの描いた向日葵は、全て花瓶に活けられている。そして、全て南仏;アルル滞在中に描かれたとされている。全7点の内1点=『15本の向日葵』が、損保ジャパン東郷青児美術館にある。実は日本には、戦前にも1点(5本の向日葵)、芦屋に存在したが、広島に原爆が投下された昭和2086日、米軍による芦屋空襲によって焼失した。専門家の間では、ゴッホがパリ在住中に描いた向日葵をモチーフとした作品も『ひまわり』とすべきだとする主張もあるようだ。しかし、今でもゴッホの『ひまわり』とは、アルル滞在中に描かれたものであることが、定義の中心になっている。繰り返すが、情熱の画家;ゴッホの『ひまわり』は、逞しく野に咲く向日葵ではなく、全て花瓶に活けられている

向日葵と言えば、映画の『ひまわり』を連想する方も多いことだろう。尤も、それは私どもの年代に限られるかも知れない。マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレン主演のイタリア映画である。(製作は、イタリア・フランス・ソビエト合作) 日本公開は昭和45年で、大阪万博開催中ではなかったかと思う。マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレンと言えば、当時のイタリア映画界のトップ男優とトップ女優であり、両者の共演というだけで、日本でも公開前からヒットが約束されていたが、音楽をヘンリー・マンシーニが担当したこともあって、やはり大ヒットした。後世の芸能メディアや映画評論家は、これを「反戦映画」と喧伝するが、そういうレッテルを貼るのは監督(ヴィットリオ・デシーカ)に対して失礼であろう。公開当時には、そういう言われ方はしなかった。戦争がもたらした悲劇が軸にはなっているが、向日葵の圧倒的な平和的な美しさと男と女の根源的な悲しさを絵画的に対比させて描いた作品に対して、反戦だ、非戦だ、という“貧弱な”論評しか出来ぬとしたら、誠に悲しい芸術的貧困がもたらしたセンスとしか言い様がない。

アルメニアという小国がある。

黒海とカスピ海の中間と言えばいいだろうか。北をグルジア、南をイラン、東をアゼルバイジャン、西をトルコと接する人口約300万人の小国である。世界で初めてキリスト教を国教としたこの国は、複雑な歴史をもっている。10世紀の「ディアスポラ」(大規模な逃散のような、国土荒廃による脱出)、19世紀後半から20世紀にかけての大虐殺を経て、多くのアルメニア人が世界中に散らばった。アゼルバイジャンとの紛争は、今も続いている。東ローマ帝国皇帝 フィリピコス・バルダネスや同じくヘラクレイオスは、アルメニア人である。その他、世界各地に散ったアルメニア系の人々の中には、次のような人たちがいる。

フレンチポップスのアイドル;シルヴィ・ヴァルタン

世界的な指揮者;ヘルベルト・フォン・カラヤン

フランスを代表するシャンソン歌手;シャルル・アズナブール

フランス画壇を代表する画家;ジャン・ジャンセン

世界的なサッカー選手;ユーリー・ジョルカエフ

テニス史に残る;アンドレ・アガシ

等々である。これらの名前は、私どもの世代なら知らぬ者はまずいないだろう。シルヴィ・ヴァルタンなどは、そのヒット曲が今だにテレビCMに多用されているので、3040代の若者でも知っているかも知れない。

こういうアルメニア人の言い草に『夏のひまわり』という言葉がある。わざわざ「夏」を付けて、『夏のひまわり』と言う。意味は30代の女」である。これについては、わざわざ解説する必要はないだろう。

この言葉に誘われ、五木寛之氏が『冬のひまわり』(昭和60年)と題する作品を書いた。五木氏の作品の中では、私は気に入っている方である。この作品のヒロイン;遠野麻子が『冬のひまわり』に当たる。もし、日本女性に「ひまわり」という言葉を冠するなら、『冬のひまわり』しか考えられず、それは日本女性の最も美しいパターンの一つであろう。五木氏の『冬のひまわり』に於いては、男がイタリアへ行ってしまっている。年に一度、鈴鹿サーキットでオートバイの耐久レースを見るだけの逢瀬。「ひまわり」の悲しさと熱情とが一体となった時、美しさが噴き出す。

送別会のスピーチで、私はイタリアへ発つ彼女に「冬のひまわり」という五木氏の作品タイトルになった言葉を思い出したことを、簡単に、正直に話した。彼女自身にとって向こうでの生活の成算は立っていないようだが、とにかく彼女は相手の男性の国へ発つ。

『冬のひまわり』であれ、『夏のひまわり』であれ、向日葵は一見群生しているようで、実は一本一本が自立して敢然と立つ。『冬のひまわり』と形容するに相応しい、芯の強い彼女は、どこへ行っても自らの忍耐強い努力で幸せを掴み獲ることだろうと、心にぽっと小さな灯りが点るような心持ちで送り出した。

2009年7月27日 (月)

怪奇現象

気象庁は何と言っているか知らないが、25日(土)、東京は夏を迎えた。気温そのものは32度弱で、これまでにそれ以上の気温を記録した日はあったが、この日、空が違った。メディアから流れてくる予報では、まだ向こう一週間はぐずついた天気が続くらしいが、これは間違いなく外れる。「空模様」という言い方があるが、季節は空の色と姿、即ち空の模様に最も正直に表われるものなのだ。

夏を迎えた瞬間に、不思議なことが起こった。

25日、朝9時過ぎ、枕元の携帯が鳴った。例の“厄介な若造”N君からの電話であった。こういうところが既にNは不埒であって、土曜日の9時に電話をかけてくるとは何事か。土曜日という日は、できるだけ長く、少なくとも午前中は眠ることにしている。途中何度か用足しに起きたとしても、とにかく必死に睡眠をとることにしているのだ。こうやって日頃の睡眠不足を補っておかないと、次の一週間がキツい。午前中一杯眠ったとしても、睡眠時間は7~8時間程度だが、これだけ眠ると、起床してゆっくり朝食=昼食をとると血液が全て胃袋に集まるとみえてぼ~と心地よく軽い“貧血”状態に陥り、そのくせ頭のモヤモヤはすっきり晴れていてえも言えぬ“快感”を覚えるのだ。恐らく「ヤク」をやった時の快感とはこういうものに違いない。「身体は完璧な休息をとった!」という実感が湧き上がり、土・日にこれを実行すると、月曜日の身体の軽さと頭のクリアさが全然違う。私にとって、土・日の午前中爆睡とは、体調と気分維持の上でそれほど重要なことなのだ。その重要な睡眠を、Nが妨げたのである。

用件は、前日依頼した仕事の件であったが、内容は大したことではない。単なる確認である。確かに前日私は、休み中に回答を欲しいと依頼したが、欲しいのは回答であって朝の9時に確認の電話を寄こしてもいいなどと言ってはいない。日曜日の24時までにメールで回答を寄こせばいいのであって、そうすれば私は月曜日未明にその回答をベースに私の領域の仕事に入れるのだ。土・日の午前中に有意義な睡眠を十二分にとっていれば、月曜日未明の私の頭は冴えわたっている。こういう全ての段取りをぶち壊したNからの朝9時の確認電話であった。ボケた頭と声で質問に答えてから、

「おい! 今、何時だ?!」

9時ですよ」

「何だと?!?! 朝の9時に電話なんぞ寄こすんじゃねえ~!!!」

「いいですよ、用事はそれだけですから寝てくださいよ」

お前に言われなくてももっと寝るよ、とばかり改めて睡眠を試みたのだが、悲しいかな、この歳になると若い頃のように簡単には睡眠に戻れないのだ。

Nが、朝の9時に既に私からの依頼事項に取りかかっている理由は分かっている。彼は、この土・日は多忙なのだ。土曜日は、フィアンセのnちゃんと一緒に半年後に予定している結婚式のために式服をみに行くのだ。半年も先のことなのに、既に浮わついている。半年という時間は、破談になるには十分な長さではないか。日曜日は、毎週のことで、自らが率いるソフトボールチームの試合がある。今週の相手は強豪であるらしい。そこへ、前日の金曜日夜に私から急に依頼が入ったものだから、彼は焦っているのだ。

フィアンセnちゃんには申し訳ないが、当方も急いでいるのだ。時間がなければ、寝ないでやればいいだろうなどと開き直りつつ、布団の上で頭が朦朧としていることを自覚しながら暫くゴロゴロしていたら、電燈が煌々と光っていることに気づいた。あれっ! いつ電燈を点けた? ふと気づくと、寝室だけではない。隣のリビングの電燈も、点いている。私は、起き上がって見渡した。首を伸ばして見ると、流しの蛍光灯も点いている。その先の、玄関へ繋がる短い廊下の二つの天井灯も。要は、部屋中の電燈が煌々と輝いているのだ。自分で点けた覚えは全くない。

夜中、確かに一度用足しに起きた。しかし、毎度のこととして、そういう時一々あちこちの電燈を点けることはない。私は、完璧に起き上がって考えた。誰が電燈を点けた? ふと見ると、流しの端にある給湯設備のスイッチまでONになっている。これは、益々おかしい。百歩譲って、用足しに起きた時、私が寝ぼけて電燈を点けたとしようか。それでも、給湯設備を態々(わざわざ)ONにするか?!

大体、私の就寝前の行動は、実に細かく正確に決まっている。動線まで決まっていると言っていい。洗面室で歯を磨く→トイレにいく→洗面室に戻り、薬用ハンドクリームを使う→洗面室の電燈を消す→向かいの仕事場の電燈を消す(洗面室も仕事場もドアは開けたまま)→短い廊下の天井灯を消す→リビングに入る(この時、リビングとの境のドアを閉める。これを閉めるのはこの時だけ)→リビングのエアコンを切る→給湯スイッチをOFFにする→流しの蛍光灯、リビングの電燈を消す→寝室に入ってエアコンを点ける(点けたまま寝る)→目覚ましをセットする(休日前はしない)→布団に入って本を読む→直ぐ睡魔が襲ってきて、寝室の電燈を豆電燈だけにして寝る。

この行動とその順番は、毎日寸分違わないのである。一体、誰が電燈を点けた? 誰が給湯スイッチをONにした?

何か妙だと布団に座って考えていたら、枕元にタバコが1本だけ本の傍に置いてあるのが目に入った。枕元にタバコ??!!

ここで強調しておかなければならないが、私は「寝タバコ」は一切やらない。タバコを寝室に持ち込むことは、断じてない。私のタバコ歴は、公式には43年、非公式も含めると更に永くなるが、その永い歴史上「寝タバコ」をやったことは一度もない。そもそも就寝前に歯を磨いたら、その後は水以外は口に入れない。この点は、極めて品行方正、真面目なのである。従って、私がタバコを1本たりとも寝室に持ち込むことはありようがないのだ。それが、何故枕元に、それも1本だけ淡然と置かれているのか。枕元の本は、確かに就寝前にページを開いたもので、当然その時にタバコなど傍にある筈がない。銘柄は「ピースミディアム」。確かに私が日頃愛喫しているものだ。寝室の隅にでも1本転がっている、という様なら、考え難いが別の可能性も論理的には浮かび上がる。例えば、何かの拍子で私の衣服から落ちた、それを偶々(たまたま)今発見した・・・。私は、リビングのテーブルの上に視線を遣った。「ピースミディアム」の箱とその上にライターが斜めに置かれている。昨夜帰宅した時、Yシャツのポケットから出して、置いたままの姿である。実は、前夜は帰宅してから1本もタバコを吸っていないのだ。このことも明瞭に記憶に残っている。その証拠に、ソファー前のガラステーブルの上には灰皿が出ていない。

このタバコ・・・天井から降ってきたか? そうならば、こうも整然とした様ではなく、斜めになっていたり、衝撃で小さいタバコの葉が幾つか周囲にこぼれているのが自然だろう? 一体、誰が、どこから1本だけ枕元へ「そっと置いた」のか??

いよいよ我が寓居にも霊が訪れるようになったか。何しろ、夏である。それとも、これらは霊とは無関係の怪奇現象か。もともと私はこういうことに疎く、現象の種類さえ分からないのだ。私の周りにも、金縛りに遭ったり、不思議な体験、恐怖体験をしたという人は多い。ところが、私自身にはさっぱり発生しないのだ。この道の物知りが言うには、それは私が戌年だからだという。霊の類は、戌が苦手らしい。私の知っている若い戌年の男も、私同様、この種の経験は皆無だと言っていた。

そう言えば、前夜、会社の引越しを手伝ってくれたNを慰労するつもりで軽く飲んでいたのだが、万事“ガサツ”で、何事もガタイのでかさだけで勝負すると見受けられるNが、唐突に珍しいことを言った。

「人間、死んだら、どうなるんでしょうね?」

コイツでもそういうことを考えるかと、私は可笑しくなった。

「何もなくなるのさ」

「それって、爆睡している状態が続くってことですか?」

「そうさ、消滅するんだから」

「永遠に爆睡しているって、イヤだな・・・」

「だから、死ぬっていうのは怖いって言ってるだろうが」

「年寄りはいいですよ、俺、まだ若いですから」

相変わらず無神経なことを平気で言う不埒な奴だが、Nがそれなりに神妙にこういうことを口にするのも珍しい。自分にとって天使だと、ぬけぬけとほざくほど愛しているnちゃんとの新しい生活を夢見ていて、その先まで思いを巡らせたのだろう。男には、幸せな時期ほどそういう心理がある。しかし、それを差し引いても、Nには似合わぬ会話である。

案の定、その夜、こういう怪奇なことが起こる。そう言えば、「とう骨神経損傷による右手麻痺」というトラブルも、この男と飲んだ夜に発生した。こ奴と飲むとロクなことが起きない。

仮に我が家に霊が棲みついたとしたら・・・もはや夏色になり切っている青空をベランダ越しにボケ~と眺めながら考えた。

私は、霊でも幽霊でもいいから母に会いたい。複数が許されるなら、父にも会いたい。特に母は、突然死んでしまった上、私の勝手な事情もあって、私は死に目に逢えなかっただけでなく葬式にも出席していない。この親不孝者の前に、何故幽霊にでもなって恨み事を言いに現れないのか。私は、かねてより周囲にも「母親の幽霊に会いたい」と言い続けてきたが、まだ現れない。母は、余程私を怨んでいるのだろう。

母が無理なら、前稿で取り上げた「お市の方」でもいい。戦国一の美女とは、どれほどの美しさであったのか、この目でしかと確かめておきたい。そして、一身上の事実関係についていろいろと尋問したいこともある。娘の茶々(淀君)が現れたら、説教の一つもしておきたい。ただ観賞用としてなら、「湯島の白梅」の「お蔦」あたりもいいかも知れない。

電燈など点けないで、枕元にタバコを置いておくだけでなく、薄暗い丑三つ時にお市かお蔦の酌で酒でも飲んで、女が私のタバコに火を呉れてしっぽりと過ごせるのなら、この身が霊に吸い取られても後悔はしないだろう。

さて、今宵はどうなるか。多少の不安と楽しみが入り混じる中、少し早めに床に入ってみようかと思案している。

2009年5月10日 (日)

厄介な若造

ここのところ、仕事を通じて何やかやとコミュニケーション量の増えたNが、徳富蘆花先生に因(ちな)む地で静かに暮らしている我が寓居へ遊びに来た。我が家に人が来るのは、週二回留守中に家事をやっておいてくれる家政婦さんを除けば、初めてのことである。他人の来訪を特に拒んできた訳ではないが、私はもともと人づきあいの悪そうなイメージを与えるタイプなので、大概の人間が敬遠するのである。稀に、人の気持ちなどお構いなしという、言ってみれば傍若無人な輩がいて、人の世界へズカズカと実に無遠慮に入り込んでくる奴がいる。私は、こういう奴が意外に平気で、むしろ若い奴にはこういうタイプが極端に少なくなったので、どちらかと言えば好ましく思ってしまうのだ。つまり、こじんまりとした“紳士”に仕上がってしまって、その実は基礎的知力も乏しく、益して体力もなく、スマートに見える“草食系”が若者の主力になってしまった昨今、こういう「怪しからん」輩が姿を消した。私どもの世代からすれば、それは誠に淋しいことなのだ。いや、嘆かわしいと表現すべき現象でもあるのだ。

まだ32歳になったばかりのNは、そういう「怪しからん」輩の典型とも言うべき奴であるが、こういう男はビジネスの上では「叱り易い」タイプでもある。「叱り易い」或いは「叱られ易い」タイプというのは、男女を問わず必ず伸びる。周りが、伸ばさずにはおかないのである。他社だからいいものの、Nが自社にいたら、私は毎日どやしつけているかも知れない。

ついでながら、女性で「叱り易い」タイプはもっと顕著に伸びる。私など、こういうタイプに出くわすと、何が何でも一人前にしようと躍起になってしまう。余りにも過重な負担を強いて、健康を害して退職せざるを得なくなったOなどはその典型で、私は今だにこの子のことを想い、この子の先行きを思案している。

Nの来訪の名目は、白昼から酒盛りをしましょうということなのだが、真の目的はフィアンセを見せつけに来ることであった。フィアンセはNにはもったいない可愛い子で、何の因果でNのような粗野な奴と一緒に人生を歩もうと決心したのか、誠に不憫なことである。Nの身に立てば、一時の気の迷いではないことを、唯々祈るのみである。Nのことだから、決して、いや簡単には女を裏切ったりはしないだろうが、何事が起きても常に“女の味方”であると自認する私としては、これから先、Nが道を踏み外さぬよう監視を怠ってはならぬと幸せそうな笑顔を見せているフィアンセを見ながら決心した次第である。

そう言えば、私が右手のトラブルに見舞われたのはほぼ一ヶ月前の四月五日未明のことである。その直前、四月四日の夜、私はこのNと飲んでいた。それも日頃そんなところでは飲まないという、双方全く馴染みのない街で飲んだ。入った店がまた失敗で、表現しづらいのだが、入った瞬間に、「あっ! これは違う!」と感じる店だったのだ。飲む御仁ならこの感覚はお分かりだろう。店の外面(そとづら)は誠にいいのだ。そそられるという点では、平均点以上の顔を見せているのだ。ところが、店内に入った瞬間に「違う!」と直感することがある。視野に入る客たち、テーブルの配置、店の女の子が発する雰囲気・・・こういうものがスクランブルして充満している空気が、当方の身体や神経と全く折り合わないのである。Nもそれを感じたらしく、我々は直ぐ出ようとしたのだが、奥に誰もいない部屋があって、どこへ行っても混んでいる金曜日であることも頭をよぎり、その奥の小部屋を使ってもいいと店の者が言うものだから、ついつい上がり込んでしまった。

結局、その夜、正確には日をまたいだ明くる五日未明、結構悪酔いしていた私は、Nと自宅前で別れて、部屋へ入ると直ぐPCを立ち上げ、マウスを握ったまま椅子で寝込んでしまってこの右手の災難に遭遇するのである。つまり、私の右手トラブルについて、Nは多少の、いや結構重大な責任を負っているのだ。この男と飲んでさえいなかったら、この不幸はなかったのだ。

Nは、フィアンセを見せつけながら結構急ピッチで飲み、夜引き揚げて行ったのだが、今日入ったメールによると、フィアンセを新宿まで送ろうとして二人とも車内で寝込んでしまって、そのまま調布まで逆戻りして、Nは携帯をフィアンセのバッグに入れたまま忘れて、散々な目に遭ったということだ。メールに曰く、私と飲むと、

「どちらかに何かが起こりますな~」

だって。全く「不埒」(ふらち)という表現がこれほどぴったり当てはまる男も珍しい。

いつだったか、急用で電話を入れたら寝ぼけた声で電話に出たので、

「ボケた声出してんじゃないよ!」

とどやしたら、

「あの『夏が逝く~』とかいう本読んでたら眠くなったんですよ」

とぬかしやがったのも、この男だった。

偶然だが、Nは、二十年近く経って私を捜し当ててくれた私の娘と同齢である。そして、Nと飲んだがために遭遇した右手の事故のあった四月五日は、その娘の誕生日である。娘や息子の誕生日を、会えなかった日々も忘れたことはなかった。その日は毎年、ああ、今日は・・・と思い出しながら生きていた。

「娘さんの誕生日プレゼントね~」

あの夜、Nが話題にした唯一の真っ当なテーマがこれだった。あの時、Nは私の思いつきを聞いて、

「ダメ! そんなもの娘さんが喜びますか!」

と即座に却下した。この一言が原因で、私は娘への誕生日プレゼントを贈るタイミングを少し遅らせてしまったのである。

何やかやと、真に厄介な若造を抱え込んだものである。

2009年4月19日 (日)

幕末資料としての司馬作品~再び資料のこと~

再び、資料のことである。

先に、民俗学的な見地から「資料」のことに触れた。今日は、幕末期についての「資料」に少し触れておきたい。というのも、これもお尋ねに対して満足なお答えをしておらず、ずっと宿題として気にかかっていたのだ。

先ずお断りしておかなければならないが、幕末期に関する資料は膨大に存在する。恐らく日本の歴史区分の中で最も資料の多い時代ではないか。

こういう言い方をすると、「幕末期」とはいつからのことを指して言っているのかという、もっともらしい疑問の声が上がりそうだが、私は、「資料」だと言っている。疑問に対して直接的な解が存在すれば、理解をするための「資料」など要らない。つまり、幕末期の理解に寄与するものであれば、それが寛永年間に書かれたものであっても、元禄時代の事件をテーマとしたものであっても、それは「幕末期の資料」と言っていい。勿論、広義には、である。

幕末期の資料というと、どうしても司馬遼太郎氏の著作が多くなる。司馬さんは、高いレベルで数多くのものを書いた歴史家・作家・評論家であるから、それは仕方がない。特に幕末から明治にかけての考証に関しては、他の追随を許さない存在であると言えるだろう。

ただ一点注意を要するのは、司馬さんが“長州贔屓”であることだ。“長州贔屓”であることは、薩摩贔屓でもあり、土州(土佐)贔屓でもあるということで、「明治維新」というものを無条件で是認している点が、唯一の問題といえば問題であろう。著作によっては、特にこの点に留意して読まないと偏った幕末理解を犯す危険性がある。司馬さんは、表現の上で『もし明治維新というものを是認するとすれば~』というような言い方を時折するが、これは文脈の流れで飾りとして挿入しているに過ぎず、本質は殆ど無条件に明治維新というものを肯定している。文章表現に学者的な“抜かりの無さ”が張り巡らされているのだ。

とはいえ、司馬さんの著作なくして一般レベルでここまで幕末理解が普及することは考えられず、その功績は動かし難く偉大である。

今日は、その司馬さんの「幕末資料」を列挙し、お尋ねに対するお答えの一端としたい。

■「桜田門外の変」

桜田門外で井伊直弼暗殺に加わった唯一の薩摩藩士;有村治左衛門にスポットを当てた著作。司馬さんは、幕末期の暗殺者というものが歴史に寄与したかどうかについて自問し、『ない。』と断言する。『暗殺だけは、きらいだ。』とも明言する。にも拘わらず、『ただ、桜田門外ノ変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的にみてもめずらしい例外であろう。』と、仰々しく矛盾したことを述べている。この、桜田門外の変だけを「例外」とする点、「歴史を躍進させた」とする解釈には、私は真っ向から反対する。ここに、御一新至上主義者の司馬さんの“誤り”があるとも考えている。「歴史を躍進させた」とは、司馬さんらしからぬ軽率さである。もっともこれは昭和38年の言であり、その点は割引く必要があるかも知れない。

■「逃げの小五郎」

桂小五郎(=木戸孝允)は、幕末動乱期をひたすら「逃げる」ことで御一新後まで命を繋いだ。あの池田屋襲撃事件の時も、事前に情報を掴んでいたと言われるほどタイミングよく難を逃れている。彼は、己の逃げ=安全のためには女をも単に道具として、何ら心に痛痒を感じない男であったようだ。但馬出石藩(三万二千石)にまで逃げて、重婚を重ねてまで「逃げる」ことを生きる目的としたかのような桂の本質を窺い知るには格好の著作と言える。

■「奇妙なり八郎」

出羽浪士;清河八郎の策士としての生涯を描いた作品。新撰組の創設にも奇妙な関わり方をしたことで知れられる清河八郎の稀代の策士ぶりを、ややデフォルメして描いている。それだけに、清河という男のキャラクターや本質がビギナーにも解り易くなっている。幕末動乱を勤皇対佐幕の争いというどうしようもない単純な図式で理解している幼稚な認識が一般にはまだ残っているが、この作品によってそれが多少でも是正されるどころか、却って混乱するとすれば、それはかなりの不勉強と言わざるを得ない。

■「倉敷の若旦那」

自らの出身地;天領である倉敷を襲撃した第二奇兵隊幹部;立石孫一郎の突拍子もない跳ね上がり討幕行動の話。彼は町人であり、町人志士と言われるが、天誅組;藤本鉄石、吉村寅太郎に心酔して幼稚な討幕行動を起こした。その倉敷襲撃には私怨も絡んでいる。間接的ではあるが、奇兵隊の実態を窺い知ることも出来る。当時の討幕跳ね上がり派が如何に貧弱な精神構造をしていたかを読み解ければ、意味のある著作と言える。

■「アームストロング砲」

上野戦争に於いて寛永寺=上野の御山に立てこもって“官軍”に抵抗した彰義隊を壊滅させたのは、佐賀藩の持ち込んだ二門のアームストロング砲である。これは、前田家加賀屋敷(今の本郷;東京大学)に据えられ、上野山の高地に十二発の砲弾が撃ち込まれ、一挙に戦局に決着をつけた。佐賀藩とは、幕末動乱期に於いて我が国で技術的に最もモダンな藩であり、藩校弘道館の秀才教育ぶりは徹底していた。洋学や砲術などについてもその斬新的な研究ぶりは凄まじく、エリート教育のあり方もまた凄まじいものがあった。その成果としてのアームストロング砲を題材にして、落第者の家禄は八割が没収されるという佐賀藩の異常な教育行政によって精神に異常をきたした秀島藤之助の田中儀左衛門斬殺事件を描いた貴重な秀作。殺された田中儀左衛門の弟;儀右衛門は御一新後「田中製作所」を創業、これが現在の「東芝」である。なお、著作中、田中儀左衛門と儀右衛門が混同されている。余談ながら、佐賀藩の最新技術を継承した新政府による岩倉使節団がヨーロッパ最大の陸軍国と自負していたオーストリアを訪問した際、その装備の「旧式」ぶりに驚いている。

■「侠客万助珍談」

大坂の侠客でありながら播州一柳家の足軽組頭として苗字帯刀を許され、“大坂の新撰組”として公然と盗み、押し込み強盗を働く長州浪士たちの取り締まりに当たった鍵屋万助の生涯を描いた作品。万助の生き方もさることながら、昨日まで「攘夷!攘夷!」と喚いていた討幕派の、特に堺事件に於ける土佐藩のフランスに対する弱腰外交の実態が詳細に描かれている。史実として勤皇浪士たちの欧米人に対する弱腰ぶりには目を覆うものがあり、結局彼らの「攘夷!」の怒声は“弱犬の遠吠え”であった。

■「冷泉斬り」

「天誅」の名のもとに無意味なテロを繰り返した長州・土州浪士たちの陰惨さを、絵師冷泉為恭(れいぜいためたか)暗殺事件を通して描いた著作。単なる憶測で無力な絵師までを佐幕派と決めつけ、仲間うちの流行に乗り遅れまいとしただけの「天誅」という身勝手極まりない殺人。ここに、京に於ける幕末動乱の実相がある。

■「死んでも死なぬ」

伯爵井上馨、初代総理大臣伊藤博文という男たちが、如何に下劣な人間であったかを著した、正直な著作。特に井上馨(聞多)は、世に「貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁」と言われ、『悪人列伝』(海音寺潮五郎著)に名を残しているが、如何に長州贔屓の司馬さんでもこの二人だけは、特に井上聞多だけは庇(かば)いようがなかったようだ。『この男は維新前、袖解橋で死ぬべきであったかも知れない』と述べている。品のない容貌に相応しい下劣な精神の持ち主で、女ならどんな女でもいいという生命力だけが旺盛な「とかげの生まれ変わり」のような男であった聞多。こういう無知で品性など全くもち合わせず、かといって腕も立たず胆力もない長州人が、ただ生き延びただけで伯爵にまで上り詰めたのが御一新の紛れもない一つの実態である。高杉晋作は、こういうパシリの二人を上手く利用していい気になっていただけという側面も浮かび上がってくる。

■「藩の変化」(この国のかたち 其の一 より)

司馬さんお得意の長州藩=法人論。多少長州藩を買被り過ぎている点には注意を要するが、日本人にとっての「公意識」という視点からみると興味深い。藩という言葉が幕末になってから多用されるようになった言葉であることにも触れている。

■十津川街道(街道をゆくシリーズの12

十津川といえば「十津川郷士」となるが、殆どが天誅組のことで占められている、「街道をゆく」シリーズでは珍しい著作。天誅組サイドに立ち過ぎて「天誅組の変」を詳述しており、そもそもの十津川郷という山塊の地の歴史的特異性がややなおざりにされている。神武天皇東征伝説を躍起になって否定するなど、司馬さんにしてはヒステリックな部分がある。どの民族に於いても神話をもとに記念日を設けるなどは普通のことであり、「智の巨人」司馬さんといえども政治的冷静さを一貫して保つことは難しいようだ。このことは、司馬さんの属する世代の問題でもある。『竜馬がゆく』などと同様に、これ一冊で十津川郷や天誅組を理解すると、大変に危険な結果をもたらす。

以上は、まだまだ序に過ぎない。司馬さんには、幕末期に関するものだけでもこの数十倍の著作がある。司馬さんの偉大さをつくづく感じる次第であるが、それだけに現代も続く「官軍教育」に寄与している面があり、できるだけ他の研究者の著作と比較対照して読むべきであろう。尤も、それらの多くは司馬さんのレベルには及ばないが、それでも部分的な補強にはなることがある。

雨の日は、資料(本)を読もう。

2009年3月12日 (木)

『あなたに逢いたい』

かつて『あなたに逢いたい』というテレビ番組があったことを覚えている読者もおられるのではないか。テレビ朝日系列(ANN系列)の番組である。その頃流行った「人捜し番組」の一つである。まだ見ぬ生みの母に一目逢いたい、満州から引き揚げる途中のドサクサで離れ離れになった我が子に一目逢いたい、自分の一生を決定付けた一言を発してくれたあの恩師にもう一度逢いたい・・・そんな視聴者の切実な願いを実現する、制作サイドとしては苦労の多い番組である。この番組には、裏で割りと深く関わっていた。

苦労の一つは、永い時が経っていることである。30年前、40年前はザラであり、もっとも永いケースで50数年前の生き別れ母子を捜し当て、再会させたことがあった。

いま一つの苦労は、一方が逢いたいと切実に願っても、その相手が必ずしもそうではないというケースがあることだった。当然であろう。生みの母に一目逢いたいと願っても、生みの母には現在の別の人生が進行している。実の母子であっても、常に双方が求め合っているとは限らない。この番組は、悲劇的な別れがあって、双方が共に求め合いながらも永年それが叶わず、その間双方が、或いはどちらかが多少なりともドラマティックな人生を送り、それを乗り越えて双方が願っていた再会が実現する・・・そういう展開がないと絵にならないのだ。再会は、必ず“涙の再会”でなければならない。

その時の私の事務所の仕事は、視聴者から寄せられた「捜して欲しい」という要望をすべてチェックし、事実確認を行い、走らせた探偵事務所スタッフをバックアップし、捜し当てたら双方の意志確認を行い、番組に乗せていけるケースかどうかを判断して制作会社サイドへ送り出すことであった。書類だけで判断できるケースも勿論あるが、多くはじっくり電話で話を聞くことから始まる。1回の電話での聞き取りが1時間を超えることも頻繁にある。会話の初動で、この話にウソはないかを判断しなければならない。矛盾する話には、ウソは少ない。むしろ、理路整然とした話は要注意である。ウソはないと判断したら、会話の中から「手がかり」をできるだけたくさん聞き出すことがポイントとなる。実の母は、風の噂で「サコタ」という人と再婚したという話が聞きだせたとしたら、まずそれは「鹿児島の人、或いは鹿児島出身の人」と再婚したと考えねばならない。もし、これだけしか手がかりがなかったとすれば、とりあえずは依頼人が生き別れになったという昭和30年直後に鹿児島県内のどこかへ転入届けを出した現在60歳を超えている女性をしらみつぶしに捜すしかない、というようなことになるのだ。捜査エリアを絞る上で、手がかりは些細なことでもできるだけ多くあった方が捜し出す確率は高まる。電話でのヒアリングの巧拙が、探偵たちの捜査の成否を決めることも多い。

番組は、週一のゴールデン・レギュラーである。視聴者からの依頼件数は、膨大なものになる。絶えず、多数のケースを走らせておかないと間に合わない。実に苦労の多い番組だった。

これに関わっている最中に、ふと考えたことがある。

他人の人捜しのために徹夜までやっているが、ひょっとして我が身が、捜して欲しいという案件に上がってくることはないだろうか・・・と。その時の依頼主は、息子か娘か・・・。

実は私は、人が聞けば「ウソだろう!?」としか言わないような事件に、何度も遭遇してきた。そのうちの一つは、確かに新聞ダネにもなった「事件」ではあるが、その素地を作ったのは自分自身だという自覚がある。事実は小説よりも~と云々するが、これをそのまま私小説として書き上げれば、まず版元の編集者が、

『リアリティがなさ過ぎますね』

と注文をつけるだろう。世の中には、そういう「事実」もある。

そういう事件の影響の一つとして、当時の家族と離れた。私自身が都心で拉致され、池袋某所に丸一日監禁されたり、事務所そのものが占拠されたり、という事態が起こったのだ。町中に、私が地元のバーの若いママさんにマンションを買い与えたなどという話がばら撒かれた。家族との別れは、家族を避難させるということであり、会社の代表者印鑑まで誰かに(今では持ち出した個人を特定できている)持ち出されるに至って、法的にも家族と別れたのである。届けは、当時の妻が提出したのだろう。私自身には、それをやっている暇(いとま)さえなかった。

その後、都心某所の知人の小さなスペースに身を寄せ、再起を思案している頃、娘から電話があった。その時点では、まだ連絡をとろうと思えばとれたのである。それが、事件から半年ほど後なのか、一年くらい経っていたのか、記憶が定かではないのだが、娘は彼氏を連れてきたのだ。確か、高校生になったばかりだった記憶があるので、ボーイフレンドと言った方が適切かも知れない。その時娘は、真っ白いブーツを履いていたことをはっきり覚えている。それが、娘と会った最後である。

息子ともある時期までは連絡がとれていたのだが、私は、再開した仕事の合間に民事訴訟法の本を脇に置き、何度か東京地裁に通って助言を得て、弁護士にも依頼せず自ら告訴状を書いていた。告訴すべき相手には、何度も連絡をとったがラチがあかず、こういう状態が数年続いた。そのうちに、息子とも娘とも連絡がとれなくなってしまったのである。この頃既に、事務所や自宅への嫌がらせ電話が始まっており、これはその後公衆電話からの無言電話に変わり、10年以上続いた。この相手も特定できている。因みに、告訴状に記載した直接的な損害賠償額は、当時の金額で5,000万円である。そして、嫌がらせ電話の主は女性であり、その夫は元日本開発銀行の管理職である。

こういう恥じ話にしかならぬ過去をもつ私が、捜索の対象となっても不思議ではない。但し、それは、息子か娘が私に「会いたい」と思っていれば、の話である。結局、番組が終了するまで、私を捜して欲しいという依頼は現れなかった。当然といえば当然である。家族にしてみれば、どういう理由や経緯があったにせよ、迷惑しか蒙っていないのだ。私は、自らの妄想に自ら苦笑していたのである。どこかに、ほっとした気分さえあった。

事件からもう十五年ほど、いや二十年近くなるだろうか。

過日、夜の事務所に突然、娘から電話があったのだ。その声に、確かに泣きべそと満面の笑みを繰り返してばかりいた、あの娘の名残りがあった。何がきっかけだったのかを聞かなかったが、娘は原田伊織が父親ではないかと疑い、私の著書を買い、サイトも調べて確信し、手立てを講じて電話番号を捜し当てたのである。万事穏やかとしか言いようのない性格であったと思っていたが、その子がこういうことができたのかと、まずそのことに驚いた。私が『あなたに逢いたい』をやっている時にこうであったなら、私はアシスタントに雇ってもよかったと思えるほどである。

しかし、それも当然の変化であろう。聞けば、娘には二人の子供がいるという。7歳と0歳児。二人とも、男の子だという。

あの子が、母親・・・? 計算すれば、何も不思議ではない。つまり、理屈では分かることである。しかし、感情が直ぐには追いつかない。電話口で私は、多分、「理屈」で対応していたのだろう。「感情」がそれに追いついたのは、翌日か翌々日になってからである。

あの子が母親・・・ということは、私は・・・。娘の話では、彼女の兄である私の息子にも一人の子がいるという。もはや、決定的である。こういうことは、特にここ数年、何かの拍子にふと考えたことではあった。しかし、これも当然のことであろうが、それには現実感がなかった。やはり「理屈」で、そうであっても何の不思議もない、という風に考えただけのことなのだ。ところが、現実感のなかった現実が、突如眼前に紛れもない色彩を帯びて現れ出たのである。その時私は、雲の上を歩いているような気分に襲われていた。

実はその時、私は「孫」とも電話で話をしてしまったのだ。

『誰と話しているか、分かるか?』

『ママのお父さん!』

翌日か翌々日、ようやく「感情」が「理屈」に追いついた時、私は、何故か無性に不憫になった。結婚した相手は、最後に会った時、娘が連れてきた若者だという。娘は、幸せな結婚をしていたのだ。しかし、娘が結婚したことも、母になっていることも、私にはどうしようもなく不憫に思えたのである。彼女は、私の助けもなく、それらを成し遂げて生きてきた。そのことを思うと、不憫という感情しか湧いてこないのである。彼女は、欲しくても得られない私の助けのないことを恨んだことだろうが、恐らくそういう時も泣きべそをかいたその顔で直ぐ満面の笑顔を取り戻して兄である息子や彼氏、そして誰よりも元の妻に助けられて、あの頃のように周りの皆に好かれて生きてきたに違いない。そう考えると、また無性に不憫になるのだ。

娘は、電話をかけてきた際、自分の電話番号やメールアドレスを私に焦るように教えた。私も、自宅の電話番号、携帯番号などを伝え、携帯メールのアドレスも教えた。その数日後、彼女からメールがあった。そうなのだ。今私は、娘と再び連絡がとれるようになったのだ。住所も、私の求めに応じて知らせてきた。その気になれば、私は彼女と会うことができるかも知れない。今彼女と会うことに、私には何の障害もない。しかし、それをやってはいけないと、自らを戒めている。娘とその兄、母が、突然襲ってきた不幸を背負って生きてきた、間違いなく厳しかったであろう永い年月は、私にとって全くの空白なのだ。それを、当方の勝手で急に埋めようとすることは、彼女たちの私不在のこれまでの人生を軽んじるような、もっと言えば侮辱することになるような気がするのだ。彼女たちのこれまでの人生は、私からも深く尊敬されなければならない。私が安易に娘に会うことは、彼女たちの崇高なこれまでの人生に傷をつけるような気がして仕方がないのだ。

ただ、何らかの助けにはなりたい。それは、償いとか感謝というような言葉で言い表せる気持ちとは違う。義務とも、また違うような気がする。今の気持ちにもっとも近い形はと言えば、矛盾することではあるが、例えばサンタクロースが配布した無差別の愛の一部を幸運にも手にしたような、或いは偶然ささやかなクジに当選したような、私の介在を知られぬ形が欲しい。

娘は、私の著書を読んで知ったらしく、私の左目の視野欠損を知っていて、原因が分からないようだが、そうだとすれば病院を変えて再検査しろとしきりに言った。そして、メールで専門医の住所を知らせてきた。

私の「医者嫌い」は、今となっては私の“誇り”ですらある。しかし・・・この修羅場が少しでも収まったら、私はその専門医へ行こうと思う。その結果が、「もはや手遅れです」でも何でも、そんなことはどうでもいい。彼女が住所まで知らせてくれた、その専門医のところへ、とにかく行くことが、私にはとてつもなく重く、重要なことなのだ。

強がりと言われるだろうが、独りで暮らす毎日に張りが出たとか、生きがいを見出したということはない。ただ、時折にでも彼女が笑顔で生きていることが確認できるのではないかと思うと、それだけで素直に嬉しい。息子と娘が幼い頃、私はしょっちゅう真顔で言っていた。

『俺は、親子だからお前たちと付き合っているんじゃない。お前たちが好きだから付き合っているんだ』

今、改めて実感している。私は、娘がやはり好きである。眠っていたその感情が、また生き生きと躍動し始めていることを自覚することになったことが、何よりも嬉しい。

こんなことまで起こるとは、今年はやはり「九紫火星」である。

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