カテゴリー「はぐれ雲」の67件の記事

2012年4月 3日 (火)

風に吹かれて三度笠(其の九 無宿渡世の御一新)

韮山代官;江川太郎左衛門英龍の手代たちは、反射炉建設と台場の建造、二手に分かれて奔走した。松岡正平、山田熊蔵たちが伊豆で反射炉の建設に当たり、柏木捻蔵、矢田部卿雲たちが台場の建造に当たったといわれる。韮山代官所は、総出で海防実務にかかりっきりとなったのである。代官所の仕事としては異例のことが多いが、それは江川英龍という人物が代官であったからであって、幕府は韮山代官所ではなく江川英龍を必要としたということであろう。

江戸幕府は、最終的に19世紀の半ばを過ぎた頃(1868年)終焉を迎えるが、19世紀に入った頃から、即ち、和暦でいえば寛政の終わり頃、文化年間に入った頃からタガが緩み始め、関東では無宿者が増え、幕府はその対策に頭を痛めていた。「水論」「山論」などをはじめとする村と村の争いにも彼らが介入する、或いは主役となるケースも増えたのである。無宿者が徒党を組んだ形が、私どもが映画などで親しんできた「清水の次郎長一家」のような親分と子分から成る「ヤクザ」「侠客」の集団だと考えればいい。「おひけえなすって。手前生国は~」などといって「仁義を切る」とか、「一宿一飯の恩義」などと、その生態はずいぶんと戯曲化されて伝わってきたわけだが、あれも多くは長谷川伸の創作であるとされる。ただ、無宿渡世の者の間では、その原型となる独特の作法や約束事が存在したことは確かなようだ。

いずれにしても、彼らは無法者とみなされ、アウトローであった。心優しいアウトローも中にはいたかも知れないが、それはほとんどフィクションの世界だけのことであって、現実の彼らは凶暴な武闘派であり、体制(お上)への反逆を一つの太い渡世の軸にしていたのだ。ここに、後に彼らが倒幕派に通じる一つの基盤としてのキャラクターがあった。

文化2年(1805)、幕府は百姓の武芸を禁止した。百姓が剣術などを覚えるから、彼らが無宿人となった時手がつけられなくなり、治安が悪化するというのだ。同時に、幕府は「関東取締出役」を置いた。「出役」は「しゅつやく」と呼称するのが正しい。俗にいう「八州廻り」のことである。組織的には、勘定奉行配下となる。関八州を対象エリアとし、天領・大名領の区別なく巡回し、広域的な犯罪の取り締まり、治安の維持に当たる役割である。その権力行使が及ばないのは御三家の一つ、水戸藩領だけであった。時代小説や映画などでは、「八州廻り」といえば絶大な警察権をもち、威風堂々とした感があるが、これこそ歴史の「虚」の最たるものの一つで、実態はそのような頼りになる存在ではなかった。基本的に、武闘派である無宿渡世の集団に対して弱腰であり、最前線に立って彼らを取り締まるという迫力は微塵もなかった。幕府もいい加減なもので、大きな権力だけは彼らに与え、図に乗った彼らは本来上級武士にしか許されない駕籠に乗って小者を引き連れて廻村するという様であったが、身分は「足軽」にも及ばない「足軽格」であった。というのも、幕府は「八州廻り」を代官所の手代や手付から任命したのである。「五条代官所」の項で述べた通り、手代の中には御家人もいたが、手付となるとほとんど地元の百姓出身である。最下層の無宿人の取り締まりは同じ下層の者にやらせるという、為政者が常に使う手であるが、こういうことで実効が上がるはずがない。無宿人に対して常に及び腰の「八州廻り」は、その任務を遂行するに際しては「道案内」(目明し)を使った。これは、町方でいう「岡っ引」(上方では「手先」「口問い」)と同じである。強いていえば、「道案内」が一応「任命」された者であるのに対して、「岡っ引」はどこまでも非公認の存在であるという点であるが、どちらもお縄にしようとする犯罪者とほとんど同類という点ではあまり変わらない。無宿人が山に籠ったとなると、最前線に立って山狩りを指揮するのは「道案内」であり、肝心の「八州廻り」は後方の旅籠に籠っているというのが大概の図式であった。このあたりは、日露戦争・二百三高地攻略時の乃木希助の前線司令部と似ている。後方に陣取り、図面だけ眺めて画一的な戦法に固執した乃木司令部を、思い切り前線へ引っ張り出したのは、督戦に出向いてきた児玉源太郎である。もっとも、この時は乃木の参謀たちが「無能なエリート集団」であったことが原因している。

それはさておき、実際に山に籠って「八州廻り」を向こうに回して公儀に歯向かった博徒がいる。下総・万歳村無宿;勢力富五郎(柴田佐助)である。世にいう「嘉永二年勢力騒動」の張本人である。富五郎が公然と公儀に歯向かうに至ったのには、それなりの背景要因が横たわっているが、直接的には飯岡の助五郎との対立である。「天保水滸伝」でお馴染みの、この利根川下流域に於いては、永年飯岡の助五郎と笹川の繁蔵との間に抗争が絶えず、事あるごとに「出入り」が繰り返されていた。両者とも私どもが少年時代に親しんだ股旅映画に登場するお馴染みの悪役であった。ところが、そもそもこれを取り締まるべき「八州廻り」が、この地に於いては「ヤクザ」以上の無法者といってもいい存在であったのだ。警察権を楯に賄賂は要求する、無銭飲食は当たり前、果ては女を要求するといった按配で、とても行政官とはいえなかった。

かつて本ブログに於いて「五条代官所」について触れた時、代官に“悪代官”というのはまずいなかった、と述べた。ほとんどの代官は優秀な行政官であり、教養人でもあった。定型化された“悪代官”像というのは、無知な脚本家による時代劇の産物であって、恐らくこの種の「八州廻り」の実態が代官と混同されて後世に伝わったものと考えられる。

勢力富五郎は、笹川の繁蔵の一の子分であったが、敵対する飯岡の助五郎はなんと無法の限りを尽くしていた「八州廻り」の「道案内」を務めていたのである。要するに「二足の草鞋」を履いていたという、こういうヤクザの抗争が絶えないエリアによくある話なのだ。つまり、繁蔵・富五郎にとっては、助五郎=「八州廻り」と映り、更にいえば、彼らは地方(じかた)の人びとを痛めつける「お上」そのものであったのだ。いつの世も、下っ端小役人の不正や悪行は政府権力の権威を失墜させるものである。「道案内」助五郎が笹川の繁蔵を殺害するに至って、富五郎の怒りが爆発した。

富五郎は子分を掻き集め、武器を揃えて公然と「お上」に歯向かったのである。この時手許に集めた武器は、長脇差(ながどす)や太刀(たち)にとどまらず、槍はいうに及ばず鉄砲までも含まれていた。これを捕縛するため出動した「八州廻り」は、斎藤畝四郎、大熊佐助、中山誠一郎ら何と5名、更に彼らは関八州全域から「道案内」や「岡っ引」などの配下500600名を動員、更に加えて山に籠った富五郎一味の山狩りのために周辺76ケ村(改革組合)から1,000名強の人足を徴発した。片や富五郎一味は、20名に満たないのだ。

富五郎たちは、容易には捕まらなかった。土地の者は皆、「八州廻り」を、即ち「公儀」を自分たちの庇護者であるとは感じていなかったのだ。いってみれば皆、勢力一味のシンパであったのだ。アメリカ軍の必死の掃討作戦にも拘らず、タリバーンがなお健在であることと全く同じ状況だと考えれば分かり易いであろう。多勢に無勢でありながら理不尽な「お上」に敢然と武器をとって立ち上がった勢力富五郎はヒーローであり、これぞ任侠の道に生きる男伊達であったのだ。富五郎は、そういう村々の人びとの有形無形の支援を受けて、なかなか捕まらなかったのである。その間「八州廻り」はといえば、主力は笹川河岸に近い本陣にとどまり、万歳村まで出っ張っていった者も宿に籠ったままであった。要するに、彼らは富五郎一味の鉄砲が怖かったのである。実際に前線に出て、この大捕物を指揮したのは、隣国ともいうべき土浦から呼び寄せられた「道案内」;内田佐左衛門であった。蛇の道はヘビ、毒を以て毒を制すということであろうが、「関東取締出役」(「八州廻り」)とはそれほどものの役に立たない連中であったのだ。

最終的に、勢力富五郎は追い詰められて金毘羅山に籠った。この時点でつき従う子分は、栄助という者唯一人。追い詰める「道案内」佐左衛門の手下;源助が鉄砲に撃たれて“殉職”した。勃発から50数日、富五郎と栄助は「八州廻り」の手にかかるくらいならと、鉄砲による自害を選んだ。侠客;勢力富五郎は、数え28歳の若さで憤死したのである。

同じ頃、武州・石原村無宿;幸次郎が、東海道を股にかけてダイナミックに暴れ回っていた。この幸次郎の騒動が鎮圧された頃、国定忠治が中風で倒れ、捕縛されている。勢力富五郎や国定忠治は、後世庶民の間でヒーローとなったわけであるが、石原村無宿;幸次郎は、稗史の上でも彗星の如く登場し、瞬く間に走り去ったような存在で、人びとの記憶にも残らなかった無宿渡世の英雄である。あまりにも瞬間的な流れ星のような、一瞬のヒーローであった。任侠時代劇に親しんだ私どもも記憶になく、あれだけ製作された東映・大映の股旅映画にも登場していないのではないか。しかし、この男の暴れっぷりは実にダイナミックで、海路、伊勢松坂まで赴き、半兵衛という松坂の博徒を襲撃して殺害、これが半兵衛の盟友;伊勢古市の博徒;伝兵衛VS関東の田中村無宿;岩五郎・石原村無宿;幸次郎の派手な出入りに発展、伊勢の伝兵衛サイドには伊豆の間宮の久八がついた。この一件でも、韮山代官所は間宮の久八を「取り逃がしている」のである。台場の建造に間宮の久八が参加するのは、その4年後のことである。韮山代官所と間宮の久八との間には、表向きには見えない何らかの繋がりがありそうなのだ。

とはいえ、無宿渡世に対して「八州廻り」が常に及び腰であったのに比べ、韮山代官所だけは全く違っていた。この代官所だけは、例外的に無宿人、博徒に対して強硬に鎮圧するというスタンスを採った。これは、代官;江川英龍のスタンスをそのまま反映したものであり、その先頭に立っていたのが手代;柏木捻蔵である。東海道を荒らし回った石原村・幸次郎の別働隊一味が、韮山代官所支配地で源兵衛という博徒を襲撃したとの報に接し、柏木たちは三島に急行した。この時の柏木隊は、小者を含めても総勢7名に過ぎなかったが、自前で開発したドントル筒(新式連発銃)を備えていた。勢力富五郎がそうであったように、この頃博徒一味の多くは鉄砲を保有しており、勿論、このことはご禁制であったが、アウトローたちの武備は幕府統治を揺るがしかねないほど先鋭化していたのである。外国船の襲来という外患に備える必要性を説く江川英龍は、膨れ上がる無宿人たちに脅かされる治安問題について、内憂が外患と結びつくことを恐れていたとされる。外夷であれ国内の無宿人であれ、幕府統治に反逆するものは断固武力で鎮圧するというのが江川の基本的なスタンスであり、この男は実にシンプルに腹を据えていたといえる。情動的な水戸藩や水戸学にかぶれた輩と違うのは、矢田部卿雲というような洋学者を手代に組み込み、己のスタンスを維持する力(技術力)を自前で養って実用化していたことである。

柏木捻蔵一隊は、御殿場で幸次郎一味の一部と遭遇、二人を召捕った。更に、三人が茶屋で休んでいるところへ踏み込んだのである。柏木自身が先頭に立って切り込むあたりは、如何にも韮山代官所の手代らしく、とても「八州廻り」には真似のできない腹の据わり方である。激闘となったが、重傷を負った一人を捕縛、一人を射殺し(即死)、一人だけを取り逃がした。

幕末の無宿渡世人は、武備を整え、斯様に凶暴化していたのである。取り締まる「お上」サイドも、命懸けで立ち向かわなければ彼らを捕縛することはできなかったのだ。弱腰の「八州廻り」では、幸次郎一味をここまで叩くことなど、とてもできなかったであろう。

ところが、強硬派・韮山代官所が公儀の威信をかけてドントル筒まで持ち出して鎮圧にかかったにしては、この騒動の最終的な始末もやはり妙なのだ。

前述した通り、この騒動は石原村無宿幸次郎・田中村無宿岩五郎連合と、伊勢古市の伝兵衛・伊豆間宮の久八連合との喧嘩出入りである。当然、韮山代官所は双方を壊滅させなければならない。ヤクザ同士の喧嘩出入りである。双方の言い分を聞いて、裁きという手続きを経て、なんてことはやらない。こういうケースで、どちらも人を殺していないなどということはあり得ないのだ。喧嘩両成敗の原則を持ち出すまでもなく、喧嘩出入りは双方を召捕り、歯向かえば斬り、召捕れば少なくとも首謀者は斬首、ほとんどの場合、獄門晒し首である。この時も、石原村無宿幸次郎をはじめ、10名以上が死罪となっており、幸次郎は獄門晒し首となった。多数の者を、それが同業の博徒といえ次々と殺害した広域武装博徒の親分に対する処分としては当然であろう。

このように、無宿渡世の者や博徒、所謂“悪党”といわれた者たちに対して、その役割通り決して怯まず、強硬に取り締まった韮山代官所が、間宮の久八に対してのみは型通りの追及だけは行ったものの、これをとことん追い詰め捕縛するということはなかったのだ。韮山代官所の力(武力と強面の手代たち)を以てすれば、またその意志さえあれば決して不可能なことではなかったはずである。その“実績”からすれば、そう考えるのが自然であろう。

新島の名主を殺害し、武器(鉄砲)、舟を強奪して「島抜け」という命を賭けた大博打ともいうべき犯行を決行した「ども安」こと武居の安五郎は、そういう久八を頼ったのである。そして、甲州博徒;天野海蔵とこの久八が、安五郎を無事に甲州武居村へ帰還させたはずである。

台場建造を急ぐ江戸は、土建バブルともいうべき高揚した喧騒に包まれたという。私の知人は、曾祖父からこの時の話をよく聞かされたというが、運搬用の牛が溢れ、品川から高輪、銀座から新富界隈は人足目当ての遊女も溢れ、大変な活況を呈したらしい。これらの石材をはじめとする資材や人足たちは、天野海蔵が間宮の久八の協力を得て、台場建設の突貫工事の為に集められたものだったのだ。

幕末の無宿渡世の無法者たちは、関東一円から伊勢・畿内に至るまで広範なエリアにまたがるネットワークを築いていた。伊豆・韮山代官所は、幕臣のみならず各藩の人材に近代砲術を指導しながら、表向き無宿渡世の無法者を強硬に取り締まりながら、必要な裏の力のみを取り締まりの手の指から水を取りこぼすようにして生き永らえさせ、表向きの組織では不可能な国事に彼らの力を利用したのである。彼らは、どこまでも裏面史の中のヒーローであり、幕末維新史に彼らの名が登場することはない。

しかし、「島抜け」を成功させてハクを付けた武居の安五郎の一の子分;黒駒の勝蔵が、西郷隆盛の組織したゲリラ組織ともいうべき、あの「赤報隊」のリーダーの一人として意気揚々と東征軍の趣で進軍してきたことを知る人は少ないのではないか。土佐藩;吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党;那須信吾と甲州無宿の繋がりも、維新の裏面に見え隠れする。「赤報隊」の黒駒勝蔵のことを追求していけば、それだけでまた別のシリーズが必要となるだろうが、歴史上の事実は、書かれなかったら存在しないということであろう。

この小シリーズは、例えば「ひばりの花笠道中」のように、「ぽっかり浮かんだ白い雲」のような雰囲気で気楽に書き終えるつもりでカテゴリーを「はぐれ雲」として始めたが、すっかり道を誤ってしまったことをお詫び申しあげたい。

例によって、この小シリーズの主な参考資料を一覧させていただき、予定通り本ブログを終えたい。

版元さんが「原田伊織の晴耕雨読な日々」というタイトルを使って、このブログに入り易くして下さっているので、そのタイトルだけはしばらくサブタイトルとして残し、今後は全く別の書き物を気楽に綴ってみたい。

お世話になりましたことを、深く感謝申し上げます。

・土佐の夜雨        司馬遼太郎  (文春文庫)

・五条陣屋         司馬遼太郎  (講談社文庫)

・理心流異聞        司馬遼太郎  (講談社文庫)

・官僚川路聖謨の生涯    佐藤雅美   (文春文庫)

・博徒の幕末維新      髙橋敏    (ちくま新書)

・文明としての江戸システム 鬼頭宏    (講談社学術文庫)

・木村銃太郎門下      中村彰彦   (文春文庫)

・黒船以降         中村彰彦・山内昌之(中央公論新社)

・時代劇と風俗考証     二木謙一   (吉川弘文官)

・百姓から見た戦国大名   黒田基樹   (ちくま新書)

・アーネスト・サトウ日記抄 萩原延壽   (朝日文庫)

・韮山代官江川氏の研究   仲田正之   (吉川弘文館)

・甲州侠客伝        今川徳三   (人物往来社)

・長谷川伸傑作選      長谷川伸   (国書刊行会)

2012年3月26日 (月)

風に吹かれて三度笠(其の八 韮山代官;江川英龍と博徒たち)

伊豆・韮山代官所は、江戸期東国の天領を統治するために置かれた役所で、その管轄は伊豆だけにとどまらず、駿河・相模・武蔵・甲斐に及んだ。伊豆諸島がその管轄に組み込まれた時期もある。江戸幕藩体制を支える上で、全国でもっとも重要な代官所であったといっていい。通常、代官は勘定奉行所から派遣されるが、韮山代官だけは江川家が世襲してこれを務めた。

伊豆国・江川家。平安期以来伊豆国江川荘を地盤としてきた清和源氏の名門豪族であった。当主は、代々江川太郎左衛門を名乗り、ここで採り上げている幕末四天王と謳われた江川太郎左衛門英龍36代目に当たる。

早くから海防問題に目覚めた英龍は、自らが学んだ高島流西洋砲術を更に進化させ、反射炉を創り、大砲、鉄砲の製造を行うまでになった。世襲代官とは思えぬ開明派であり、外航船が頻繁に近海に出没するようになって以来、この男は下級官吏でありながら次第にその存在感を増していったのである。保守派の目付;鳥居耀蔵が英龍や渡辺崋山高野長英らを抹殺するためにでっち上げた「蛮社の獄」で失脚しそうになったが、英龍の能力を高く評価する老中;水野忠邦に救われ、西洋砲術の普及に力を入れ、彼の死後も引き継がれた韮山代官所の指導は、後に「江川砲兵塾」と通称され、ここで学んだ者は、木戸孝允(桂小五郎)大鳥圭介佐久間象山大山巌など倒幕派、佐幕派の別なく、戊辰戦争を戦った砲術指揮官はほとんどこの塾の出身者である。前シリーズで触れた二本松少年隊を率いた木村銃太郎もその一人である。江川英龍は多才な男で、砲術以外にも蘭学に通じ、市川米庵から書を、谷文晃から絵画を、岡田十松(神道無念流)から剣を学んでいる。剣は、神道無念流免許皆伝であり、後に韮山代官所の手代となった同門の斎藤弥九郎は、江戸三剣客といわれた、あの斎藤である。また、日本で初めてパンを焼いたと言われている。更に、初めて農兵を組織して西洋式軍隊を創設したのも英龍とされており、今日も使われている「回れ!右!」とか「気を付け!」という号令は英龍が考案したものらしい。福澤諭吉とは近しく、江川家江戸屋敷跡地は明治になって福澤の慶応義塾に払い下げられたという経緯がある。新撰組;土方が西洋式の軍の動かし方に長けていたのは、英龍の影響であるとする研究者もいる。新撰組を生んだ多摩地方は、韮山代官所の管轄である。更に付け加えれば、あまり知られていないが、あの中浜万次郎(ジョン万次郎)の幕臣への登用を建議し、自らの手付けとしている。

安五郎の「島抜け」から4日目の612日、英龍はかねて建議していた反射炉建設を命じられ、その1週間後の19日には「勘定吟味役格」に抜擢された。英龍の身辺は、多忙を極めたはずである。「島抜け」に関わっていられなかった、特殊なタイミングといえばその通りであったのだ。更に8月になると、勘定奉行;松平河内守、同じく川路聖謨、目付;堀綾部、勘定奉行吟味役;竹内清太郎と共に「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒鋳立御用」を命じられた。急遽、江戸湾周りに11ヶ所の砲台(台場)を建設することになったのだ。打ち手としての是非はともかく、幕府のこの対応は実にスピーディであったといえよう。江川英龍たちが下命されると同時に、工事の入札まで手際よく行われている。土建屋と政治の癒着はつきものとはいえ、震災から一年も経ってまだ瓦礫の処理さえできない民主党政権と政府への依存しか知らぬ各自治体の無能とは雲泥の差である。総工費75万両。このうちの1割が埋め立てのみに使われるという予算組みであった。幕府の財政を揺るがす規模の出費だが、来春ペリーが再びやってくるまでに突貫工事で完成させなければならない。

石や土砂の建築資材の調達をどうするのか。忽(たちま)ち、難題が立ち塞がる。更に、5,000人と見込まれた土工、石工、人足をどうやって集めるのか。5,000人の人足の動員となると、エリート;川路聖謨にも、彼がエリートであるが故に難しい。事は、国家危急の一大事である。となれば、実務官僚;江川英龍がやるしかないのだ。

ここで、甲州境村の天野海蔵が登場する。江川は、かねてより近しい天野海蔵に頼った。しかし、この事業は天野海蔵にとっても期限を考えるとかなりの難題であり、金蔵は間宮の久八を引っ張り込んだのである。5,000人の人足の差配まで考えると、金蔵・久八は、竹居の安五郎をも引っ張り込みたいところであったろうが、「島抜け」直後の人間を天下を揺るがすほどの大土木工事に使うわけにはいかなかったに違いない。この時点で、久八自身が「中追放」されていた身である。つまり、武蔵・山城・摂津・和泉・甲斐・駿河などに立ち入ることができない。いってみれば、刑に服している身であったのだ。後述する機会があれば触れるが、この処分も実は不自然で、奇妙なのだ。

未曾有の原発事故の後処理に、山谷や釜ケ崎から送り込まれた作業員が奮闘している。この嘉永6年にも、江戸築城工事以来という国家的一大土木事業が行われようとする時、ヤクザであろうと何であろうと、とにかく誰の手を借りてでもこれをやり遂げなければならなかったのだ。なお、この1年後、安政大地震が発生し、伊豆は大津波に襲われ、下田全域が壊滅した。津波を伴う国難、西では維新の実態も知らず「維新」を叫ぶ勢力が台頭している昨今・・・時代が酷似している。

韮山代官所の手代たちには、結構猛者(もさ)が多い。珍しい代官所である。彼らのうちの誰かが、間宮の久八と通じていた可能性は高い。そして、いざという時のためのその関係は、台場建設という国家プロジェクト遂行に当たって有効に機能した。安五郎の「島抜け」を知っても、安五郎が間宮の久八を頼ることが解っていても、天野海蔵を必要とする韮山代官所はこれを放置した、というのが真相ではないかといわれている。

2012年3月23日 (金)

風に吹かれて三度笠(其の七 黒船来航と島抜け)

島流しにあった流人が、御法度の「島抜け」を命がけで試みたことは、安五郎たちの事例が唯一のものではない。国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏によれば、新島だけで19件発生している。延べ挑戦者数は78名。19件中、本土まで逃げ延びた事例は3件のみ。本土まで逃げることに成功したことを以て「島抜け」の成功とするならば、成功率は15.8%である。そこそこの成功率だというべきかも知れない。しかし、島は抜けたとしても、ほとんど皆、本土で捕縛されるか、追い詰められて自決している。本土で捕まった場合、市中引き回しの上、獄門晒し首となる。(一部、行方不明のままの事例がある)ところが、竹居村無宿;安五郎たちは違った。網代に上陸し、捕縛されなかったのである。

安五郎たち七人は、漁船を奪い、キャリアのある水主(かこ)二人を人質にとって操船させ、網代に向かったのである。網代・屏風岩辺りに着岸した時、小田原藩の御用船が通りかかり、人質の市郎左衛門と喜兵衛が海に飛び込んで逃走、御用船に「島抜け」を訴えたのだが、小田原藩役人は念入りな探索をすることなく下田に向かって去っていった。二人は、韮山代官所の吟味を受けた後、二ヶ月近く経ってようやく新島へ戻った。

安五郎=「ども安」とは、私どもが少年時代に観ていた映画では常に清水次郎長に敵対する「悪もん」であった。黒駒の勝蔵と共に、いつも如何にもという凶悪な人相をした役者(敢えて名前は伏せる)が演じていたものである。この「島抜け」の時点で、安五郎は数え42歳であったと伝わる。極道として脂の乗り切った年齢であったといえよう。この後の消息を先に述べれば、七人は網代・屏風岩、または近くの山中で別れ、別々に逃走を図ったはずである。しかし、源次郎、造酒蔵、貞蔵の三人が召捕らえられ、処刑された。その他三人が行方不明である。そして、安五郎は、無事甲州竹居村に舞い戻り、黒駒の勝蔵たちを配下として、侠客として以前にも増して博徒の世界では名を挙げていったのである。

妙な話である。如何に幕末近くとはいえ、江戸幕府の支配体制はまだまだ健在のはずである。既に露見した犯罪の首謀者が、何故のうのうと生き永らえることができたのか。益して、「島抜け」は天下の大罪である。江戸期の管理体制とは、こういうことを決して見逃したりはしない。今の検察や警察とは違うのだ。

時は嘉永61853)である。そうなのだ、既述した通り、旧暦嘉永663日、ペリー率いる黒船四艘が城ケ嶋沖合いに来航した。安五郎たちが「島抜け」を敢行したのが8日の夜。翌9日、ペリーは久里浜に上陸した。新島の島役人が安五郎の流人小屋を家宅捜索したのがようやく12日のことである。

幕府は、ペリーの来航を、情報としてはかなり前から掴んでいた。しかし、いざそれが目の前に出現すると、かなり慌てふためいた。安五郎たちが網代に辿り着いた時、小田原藩の御用船が通り過ぎたが、この役船は幕命によって下田へ急行する途中であった。人質の市郎左衛門と喜兵衛の訴えに付き合っている暇がなかったのである。この時点で、伊豆沖や新島近海には黒船を監視する幕府の艦や諸藩の御用船がウロウロしていたのだ。その渦中に決行された「島抜け」。しかし、如何に海岸線が騒然としていたとしても、伊豆・韮山代官所が七人を即座に指名手配し、持ち前のその警察力を総動員すれば全員忽ちにして捕縛されたはずである。韮山代官とは、凄腕で天下に知られた、かの江川太郎左衛門英龍である。ところが、この時、韮山代官は「島抜け」で動くことはなかった。それは、代官が江川だったからだといってもいい。今更説明するまでもなく、幕府の黒船対応に江川は欠かせない人物であったのだ。つまり、韮山代官所は「島抜け」どころではなかったのである。

では、安五郎は黒船の来航を知って、同じタイミングで「島抜け」を敢行したのか。さすがに、それはうがち過ぎというものであろう。偶然であったとしかいえない。しかし・・・。

新島の島役人が安五郎の小屋から押収した品物のリストが記録に残っている。

どてら   一つ

小鍋    三つ

銭箱    一つ

黒砂糖   一桶

むしろ   二枚

徳利    二つ

擂鉢    一つ

茶呑茶碗  五つ

屏風    一枚

 たらい   一つ

等々であった。そして、何と書籍が九冊

これも既述した通り、安五郎の実家;中村家は百姓身分とはいえ、名主はもとより郡中取締まで務める名家である。村内の争論はもとより、隣村との間の「相論」に於いても常に武居村をリードする立場にあった。安五郎自身も、兄に協力して訴訟のため江戸まで出向いたことさえある。つまり、家としては中村家というのは教養人である。教養人にならねば、中村家の人間は村のリーダーとしての立場を維持していくことができなかった。江戸期庶民(百姓・町人)のリテラシーの高さは、ヨーロッパ各国の比ではない。同時に、村と村の「相論」を乗り越えていくには、力も必要となる。武力である。ここに、安五郎が後世「侠客」として名を残し、また「無宿人」として島流しとなるに至った環境要因としての背景がある。従って、安五郎の流人小屋に書籍が残されていたとしても、決して不思議なことではないのだ。安五郎は、代官所手代八州廻りクラスと同程度の知識・情報レベルをもっていた人物であるとみるべきなのだ。これまでの時代劇の安五郎の描き方は、博徒とはいえ安五郎に失礼であるといってもいい。もし彼が江戸にいれば、いや、甲州でも捕縛されずに武居村のリーダーとして無事であったなら、黒船が来航するような日本を取り巻く国際情勢の一端は認識していたのではないか。しかし、現実にペリーが来航した時、安五郎は島に流されていた・・・。やはり、安五郎の「島抜け」とペリーの来航の時期が一致し、そのことが「島抜け」成功の要因となったのは、あくまで偶然の一致なのだ・・・。

しかし、まだ奇妙なことがある。

安五郎が網代を目指し、網代に上陸したのは決して偶然ではないはずだ。伊豆・間宮村には伊豆の大物博徒;森久八がいる。間宮の久八。伊豆・駿河を縄張りとし、富士川の水運権益を握る、安五郎の兄弟分である。この二人は、かつて韮山代官に捕らえられたことがあり、韮山代官所も二人の関係を把握している。縄張りが隣接していることもあって、伊豆の久八なら安五郎を甲州へ逃走させることは十分可能である。安五郎が久八を頼ったことは明々白々であり、韮山代官所のお膝元とはいえ、網代から天城越えを敢行して北上すれば間宮へ行ける。黒船来航で代官という下級官吏;江川太郎左衛門英龍は一気に幕府内で重みを増し、彼には東奔西走する日々が襲ってきた。しかし、それを差し引いても、久八の在所で待ち伏せていれば、「島抜け」の大罪人;竹居の安五郎は容易に網にかかるはずであった。ところが、韮山代官所はそれを行ってはいない。韮山代官所は、安五郎を匿(かくま)い、甲州へ逃がそうとする間宮の久八の行動に、敢えて目をつぶったのではないかとの疑念が湧く。

間宮の久八は、「大場の久八」とも呼ばれる。「大場」とは「台場」のことである。つまり、黒船来航に驚き、急遽造成された江戸湾を取り囲む「台場の建設に活躍した久八」という意味である。台場建設と博徒の関係。ここに一つの重大なヒントがあると指摘するのが、前述の国立歴史民俗博物館教授;高橋敏氏である。

この指摘を裏付けるもう一人の大物博徒がいる。甲州境村名主でありながら政商といってもいい大物侠客;天野海蔵(かいぞう)である。天野海蔵は、安五郎とは旧知の仲、間宮の久八は海蔵の弟分である。そして、何より難地の御料所;甲州谷村を陣屋を構えてまで支配し「世直し江川大明神」と称えられた韮山代官;江川太郎左衛門英龍というやり手の実務官僚は、支配地仕置に土地の侠客;天野海蔵を手足として使っていたのだ。天野海蔵と江川英龍の持ちつ持たれつの関係、天野海蔵-間宮の久八-竹居の安五郎のトライアングル。このように考えると、韮山代官が敢えて間宮の久八、天野海蔵が安五郎を甲州へ逃がそうとすることに目をつぶったとしても決して不思議ではない。

東京電力は、福島原発事故の収拾に際し、その作業員集めを東京・山谷や大阪・釜が崎でも展開した。勿論、東京電力が直接手を染めることはしない。蛇の道は蛇という。幕府の緊急施策;台場の造成も同じであった。何としても翌春、ペリーが再び来航するまでに11ヶ所の台場を突貫工事で埋め立て、完成させる必要があったのだ。いつの世も、土建と政治は密接に繋がるものなのだ。

2012年3月15日 (木)

風に吹かれて三度笠(其の六 武居村無宿安五郎の島抜け)

「上州無宿紋次郎」などという言い方をする。お馴染み「木枯し紋次郎」は、「上州無宿」である。上州新田郡三日月村の百姓・紋次郎に名字はない。

無宿とは何か。ひと言でいえば、「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)から名前を外された者のことである。名前を外されるところから「帳外」(ちょうはずれ)ともいわれた。「宗門人別改帳」とは、乱暴に言い切ると江戸期の戸籍台帳のようなもの、といってもいいだろう。これは、遡ると秀吉時代の「人別改帳」に行きつくことは明らかである。秀吉時代のそれは、「夫役」(ぶやく)を課す必要性から作られた。

実は、この「宗門人別改帳」は歴史を正しく知る上では非常に重要な資料である。我が国にこれがあったことは、後世の我々にとって大変な幸運であったといっていい。歴史人口学という学問ジャンルが確立しているが、我が国の歴史人口学の成立は、この「宗門人別改帳」に負うところが大であることは言を待たない。ヨーロッパには「教区簿冊」Parish register)というものが存在する。ヨーロッパには、というのは正確ではなく、キリスト教の教会には必ず存在する記録で、日本のキリスト教教会にも備わっているはずである。これには、誰に洗礼を授けた、誰と誰が結婚した、誰が死んだという大きくいえば三つのことが牧師の日記のように記録されている。三つのこととはいえ、誰に洗礼を授けたか、ということについていえば、誰それの子供の誰に、となるから、それなりに幅のある記録であるといえる。結婚にしても、どこそこの村の誰と結婚した、となれば、大袈裟な言い方をすれば「人口動態」的な側面もあるのだ。フランスのルイ・アンリという人が、この「教区簿冊」を使って「家族復元」という整理を試みた。私にはその詳細を語れるほど「教区簿冊」に関する知識はないが、要するにこれが歴史人口学のスタートであると広く認識されている。アンリは、多数の「教区簿冊」を整理し、18世紀以前まで遡って、当時の人びとが大体何歳くらいで結婚したか、何人くらい子供を産んだかというような人口に関する幾つかの指標を明らかにしたのである。

ところが、我が国の「宗門人別改帳」という資料はキリスト教社会の「教区簿冊」より遥かに優れた人口資料なのだ。まず、これは世帯が単位となっている。ルイ・アンリは「家族復元」をやって名を残したが、「宗門人別改帳」の場合は「復元」などやらなくても家族の状況が解るようにできている。どういう世帯がどういう人たちで成立しており、その村が何世帯あって、何人が住んでいたかまで解るようにできている。どこへ嫁に行ったかも記録されている。私どもの年代のビジネスマンなら初歩的な知識としてよくご存じだろうが、人口には静態人口動態人口がある。今でも「人口動態統計」などという統計データの名前を耳にする方も多いはずだ。「宗門人別改帳」からは、この「静態人口」と「動態人口」の両方が解るのだ。江戸期に既にこういうデータが存在したことは、世界史的にいえば「奇跡的」といってもいいだろう。しかもこれが、基本的には毎年作られたのである。こういうことは、イギリスやフランスではあり得ないことであり、世界中のどこにも存在しないことであろう。「教区簿冊」を使って展開された歴史人口学の手法を「宗門人別改帳」に当てはめれば、我が国の歴史人口学は大きな成果を挙げられるのだ。

実は、我が国にはルイ・アンリ以前からこの「宗門人別改帳」を使って出生率や死亡率などを整理していた学者がいた。慶応大学の野村兼太郎教授である。昭和30年代のことだ。教え子の速水融(あきら)氏が跡を継ぎ、速水氏が日本の歴史人口学の草分け的存在の一人となった。速水氏は、「宗門人別改帳」を使って、江戸期の人口について驚くべき事実を次々と解明されている。本ブログエッセーは、この形はそろそろ閉じるので、これについてはもはや述べる機会もないが、「歴史人口学で見た日本」(文春新書)や「江戸の農民生活史」(日本放送出版協会)などを一読されると目が覚める方も多いはずである。氏は、平成21年、文化勲章を受章された。

なお、「宗門人別改帳」を宗教調査であるとして、鎖国やキリスト教禁教政策と短絡的に結びつけるだけの歴史家がほとんどであるが、これは根本的に誤っていることを付言しておく。

余談が過ぎた。

「無宿」とは何ぞや、が歴史人口学の話になってしまったが、要は江戸期の戸籍といってもいい「宗門人別改帳」から外された、即ち、抹消された者を「無宿」といった。

江戸末期;天保から幕末にかけて、無宿者が溢れた感がある。甲州博徒の大物;“吃安”(どもやす)こと竹居の安五郎、その弟分で、常に次郎長の敵役として描かれた黒駒の勝蔵、幕府を震撼させた下総;勢力(せいりき)富五郎、武州石原村から現れたヒーロー;幸次郎、新撰組;伊東甲子太郎グループを支えようとした岐阜の水野弥三郎等々。彼らは、講談や浪曲の世界でヒーローとなったが、すべて実在の人物ではあるが、官軍正史には登場しない。つまりどこまでも稗史(はいし)のヒーローに過ぎないが、実は正史に登場する人物以上に華々しく、ダイナミックに生きたのである。歴史が生身の人間の営みを正しく描くものであるならば、稗史の登場人物を、稗史だからといって排除して歴史は成り立たないであろう。

嘉永六年(1853)といえば、黒船が来航した年である。ペリーが浦賀沖に現れたのが旧暦六月三日。その五日後の夜、伊豆七島;新島から七人の流人が「島抜け」を敢行した。島流しというと、八丈島ではないかと思われる方も多いだろうが、舞台は新島である。実は、新島も流人の島であった。「島抜け」は大罪も大罪である。歴史上、「島抜け」を成功させた流人は、ほとんどいないのではないか。ところが、この七人の「島抜け」は、大筋に於いてほぼ成功しているのだ。「七人の侍」「大脱走」The Great Escape)をミックスさせたようなこの「島抜け」を敢行したのは、以下の七人である。

武居村無宿     安五郎

大館村無宿     丑五郎

河内村無宿     貞

万光寺村無宿    造酒蔵

無宿        角蔵

岩槻宿百姓音五郎弟 源次郎

草加宿無宿入墨   長吉

安五郎以外は全員2030代の男たちで、どうやら実質的な首謀者は丑五郎、貞蔵、角蔵の三人、彼らは安五郎を頭目として担いだ。三人はまだ20代のチンピラである。博打であげられたか、義理が絡んだ出入り騒動でとっ捕まったか分からぬが、40代に乗った安五郎はこういう若造とは格が違う。武居の安五郎といえば、甲州博徒を代表する親分格の大物ヤクザである。そもそも、生家の格が違う。安五郎の生家;中村家というのは武居村の名主を務めたことがあるだけでなく、代官に代わって警察権を委任された「郡中取締」役に就いたことさえある“名門”である。社会秩序を殊更重視した江戸期という時代は、百姓にも多層な身分があり、厳然とした身分間差異が存在したことを知っておかれた方がいい。

首謀者三人は、若さ故の勢いはあったろうが、「島抜け」という大事を成功させるとなると、技量や決断力、統率力といった面で安五郎の経験に裏打ちされたリーダーシップを必要としたのであろう。

この「島抜け」の見事さは、その端緒に既に表われている。何と三人は、島役人に書置きを残したのである。「島抜け」という大罪を犯す罪人の、島役人、つまりは「お上」に対する挑戦状である。「書置申一札之事」と題されたこの書状は、

「私共義去年四月十五日より此度之一件相談合きまり~」

と書き出し、安五郎に相談して賛同を得たこと、造酒蔵たちを連れて行くことなどを告げ、

「~右之趣如斯ニ御座候  

六月今晩   丑五郎 貞蔵 角蔵

嶋役人(殿)」

と結んでいる。

今のヤクザとのインテリジェンスの差をお感じになることだろうが、中で通告されていることは無宿渡世の者らしい内容である。

要約すると、「島の百姓は、島抜けに必要となれば手当たり次第に人足として使うので承知されたい。また、市郎左衛門と弥次右衛門という者は、これまで我々流人に対して、身分も弁(わきま)えず不届きな行為が目にあまり、我慢の限界を超えたので見せしめとして討ち果たしていく。更に、抜船の相談をしてきたので、中には訴え出る者が間々あるものなので、そういう者も討ち果たしていく。お手数をお掛けするが、死体の後始末をよろしく」

というものである。

七人は、まず名主;前田吉兵衛宅を襲った。目的は、鉄砲である。新島は韮山代官の支配下にあるが、島には代官所の手付も手代も、本庁に当たる勘定奉行の配下もいない。つまり、島に武士は一人もいない。治安維持上の非常時に備え、神主;前田家と名主;前田家に鉄砲が下げ渡されていたのだ。七人は、名主;前田吉兵衛を殺害。備え鉄砲二丁を手に入れ、島民;市郎左衛門と喜兵衛を拉致。浜で源兵衛の持ち船を奪って、この船の船子であった拉致した二人にこれを操船させ、伊豆・網代方面へ向けて島を脱出した。すべてが計画的であった。

それにしても、伊豆へ向かう、それも網代へ向かうとは、捕縛されに行くようなもので、大胆不敵としか言いようがない。そこは、韮山代官のお膝元である。

新島の島役人が追跡のための「追船」を出したのは、翌六月九日。この日、ペリーが久里浜に上陸した。

2012年2月25日 (土)

風に吹かれて三度笠(其の五 男・次郎長と咸臨丸)

日本を代表する侠客といってもいい清水次郎長は、叔父の米穀商;山本次郎八の養子に入ってその家業を継いだが、博奕と喧嘩に明け暮れたようだ。挙句に喧嘩沙汰で人を殺し、妻を離別して清水を出奔、無宿渡世に入った。その後、清水に舞い戻って一家を構えるのだが、富士川水運の利権をめぐって甲州の博徒との抗争が絶えず、安政年間に再び逃亡するが、逃亡先の尾張でまた人を殺す。その後も黒駒の勝蔵を代表とする甲州博徒との出入りを繰り返した。

博徒、侠客だからといって、人殺しが見逃されることはない。江戸期という時代は、こういうことに関しては厳格であった。武家が大小を帯びて市中を歩いていた時代であるが、武家が町民一人を斬ったとしたら、まず切腹を覚悟しなければならないのだ。喧嘩出入りの挙句の人殺しであったとしても、人一人を殺めてお上が黙っていることはない。殺人という罪科の追及が現代のように厳しく行われる仕組みの社会ではなかったと思っているのは、チープなテレビドラマを見過ぎた浅はかな現代人の誤解である。

ところが、次郎長が殺人でその罪を問われたことは、彼の生涯で一度もないのだ。次郎長に逃亡の経験があるとはいえ、彼が逃げ回って逮捕を免れたかといえば、そういう形跡もない。これは、明らかにおかしい。これについては後に触れるが、裏があると考えるのが普通であろう。次郎長は、明治も17年になってから一度逮捕され、服役しているが、この時の罪科は賭博である。それも、刑期の満了を待つことなく「仮釈放」という形で放免されている。この逮捕そのものが、一度パクッておかないと示しがつかないという、世間との折り合いをつける為に行われたものという印象を拭(ぬぐ)うことができないのだ。

しかし、この次郎長が、後世の私どもをして「さすが、侠客!」と言わしめた有名なエピソードがある。

咸臨丸という船をご存知であろう。幕府の保有する軍艦として初めて太平洋を渡った、あの咸臨丸である。勝海舟とセットにしてその名を知っているという方がほとんどであろうが、この時の勝は「軍艦操練所教授方頭取」で、一行の責任者は「軍艦奉行」木村摂津守である。軍艦や艦隊に於いて、艦長と司令官は別である。艦長は、その艦を走らせることについての責任者である。これに対して司令官は、その艦が参加する軍事行動についての責任者である。従って、両者は一見並列にみえてそうではなく、艦長はどこまでも司令官の裁量の範囲内でしか存在し得ないのだ。江戸幕藩体制に於ける一国一城も、そもそもは軍事体制であるが、「家老」「城代」の違いも同じことであって、合理を追求する軍事的な思考回路とは結局は同じようなところへ収斂するものである。咸臨丸に於ける木村と勝の関係を今流に表現すれば木村が「提督」つまり司令官、勝が「艦長」というところであろう。アメリカサイドも、そのように呼称している。どこかの稿で述べた記憶があるので改めて詳しくは繰り返さないが、この航海に於いて勝という男は艦長としての役割を全く果たしておらず、木村が自分の上位に位置づけられた不満をあからさまに態度に示し、駄々っ子のような振る舞いで木村の足を引っ張った。勝海舟好きの司馬遼太郎氏は折に付け「勝の場合は許される」などと訳の解らぬことを言っているが、この男はつくづく“小人”である。私どもは義務教育の場で、この咸臨丸の太平洋横断を、勝海舟を中心とする日本人だけの手による初の太平洋横断航海であって歴史的な偉業であると教え込まれた。しかし、これは“真っ赤なウソ”であって、太平洋を横断するに際して咸臨丸はジョン・ブルック大尉以下のアメリカ人クルーによって操船されたのである。そもそも勝海舟以下主要な任務に就いた日本人乗組員は、船酔いでものの役に立っていない。数少ない例外が、木村や福澤諭吉を除けば、笠間藩出身で幕府天文方に出仕した、優れた和算学者でもある小野友五郎と通辞として乗り組んだジョン万次郎ぐらいで、ジョン・ブルック大尉も一目置いた小野のことも既稿で触れた通りである。

役立たずの勝海舟やあまり意味のない太平洋横断のことはさておき、話は咸臨丸という船と次郎長のことである。

太平洋横断航海から八年後、戊辰戦争が勃発し薩長連合軍が東へ、東へと攻め上ってきた時、咸臨丸は幕府海軍副総裁;榎本武揚の指揮下にあったが、品川沖を脱出して更に東へ戦いの場を求めて航行中、折からの暴風雨に晒され艦隊から逸(はぐ)れてしまって下田港(しもだみなと)へ漂着した。鯉名の銀平の故郷;下田港である。ペリー来航以来、下田港というところは何かと歴史表へ登場する土地になってしまった。修理を必要とする咸臨丸は、救助に来た蟠竜丸という僚艦と共に清水港へ向かったのだが、ここでも咸臨丸の修理が遅れ、蟠竜丸は先に次の決戦場;函館を目指していった。

余談であるが、この蟠竜丸という軍艦(といっても木造である)は、日英修好通商条約の締結を記念して大英帝国;ビクトリア女王から幕府に贈呈された艦で(安政5年)、幕府の第1号軍艦ともいうべき艦であり、咸臨丸が第2号軍艦に当たる。細身のスクーナー型コルベット艦で、砲艦に改造したのは幕府である。この艦の最も華々しい戦歴は、函館戦争に於いて事実上たった一艦で奮戦し、薩長連合軍の新式戦艦;朝陽丸を撃沈したことであろう。

さて、清水港に取り残されていた咸臨丸は、追いついてきた薩長連合軍艦隊の格好の餌食となった。士官クラスは皆殺し、水兵たちも皆捕虜となったのだが、薩長軍は咸臨丸乗組員の遺体を逆賊の死体として放置したのである。よく知られているように、薩長軍というのは会津戦争などでもこういうことをよくやっている。この行為は、当時の感覚でいえば当然「士道」にもとる軽蔑すべき行為であって、薩長軍という軍隊がどういう人種で構成されていたかを示唆している。後世、近代軍隊に於いても、この「士道にもとる」行為というものは欧米に於いても激しく嫌悪されたものであって、時と国を超えて一定の普遍性を備えた感覚であると理解していいだろう。

薩長軍が、咸臨丸乗組員の遺体を意図して雨風に晒したことに対して、博徒;清水次郎長が怒った。一説によれば、薩長軍は遺体を駿河湾に放置したという。次郎長は、これを小舟を出してすべて収容したらしい。この収容作業に対しても薩長軍から逆賊に与(くみ)する行為という警告があったようだが、死者に官軍も逆賊もあるか、と次郎長はこの咎めも突っぱねた。次郎長は、乗組員の遺体を現在の清水市内築地町に埋葬したと言われている。このあたりは、侠客、清水の次郎長の面目躍如といったところであろう。この男気に、旧幕臣;山岡鉄舟がいたく感激した。

山岡鉄舟。清河八郎らと浪士隊を結成したり、江戸城開城に際しては西郷・勝会談に先立って単身西郷隆盛と交渉に及んだ傑物である。北辰一刀流;千葉周作に剣を学び、無刀流開祖でもあるが、このことは母方の祖先に塚原卜伝がいたことと無関係とは思われない。いずれにしても、ここから次郎長と山岡鉄舟、榎本武揚の交流が始まったとされる。なお、山岡は、明治になってから子爵にまで昇りつめている。

♪清水港の名物は、お茶の香りと男伊達~♪

咸臨丸の一件に限っては、次郎長は紛れもなく男であった。

次郎長直系の清水一家は、私が大学へ入った頃に解散した(当時;五代目)はずであったが、最近、といってももう5年ほど前になるが、山口組系の某組長が六代目清水次郎長を襲名した。この組長は闇金融の元締めであったらしいが、咸臨丸始末のような侠客としてのエピソードは理解できるが、次郎長の系譜がどういう論拠で山口組に繋がるのか、博徒、ヤクザの論理は私には解らぬ。折しも数日前、アメリカ財務省は、オバマ大統領の指示を受けて、山口組の資産凍結に踏み切ることを発表した。仁侠の世界も国際的になったものだが、同時にトゲトゲしくなったものである。

2012年2月13日 (月)

風に吹かれて三度笠(其の四 次郎長三国志)

股旅、三度笠を語って清水次郎長を無視して通る訳にもいかない。実際のところ、長谷川伸の生み出した番場の忠太郎沓掛時次郎、はたまた鯉名の銀平関の弥太郎たちに並んで、映画・芝居の世界で次郎長は大活躍していたのである。映画の全盛期に至るまでの長い時代を通して、むしろ次郎長がその中心にいたといっていい。次郎長は、実在の侠客である。明治26年まで生き永らえた実在の博徒が、長谷川伸の筆が生み出した番場の忠太郎や沓掛時次郎といったヒーローたちと全く違和感なく横一線となって、銀幕で活躍していたのだ。勿論、次郎長もまた正義のヒーローであった。ただ、忠太郎や時次郎が、孤独な、どこまでも個としてのヒーローであったのに対して、次郎長は一家を束ねるリーダーとしてフィクションの世界へ“なぐり込み”をかけてきて活躍したのである。

例によって股旅演歌を挙げるが、次郎長に関するもっともポピュラーな歌謡曲は『旅姿三人男』(宮本旅人詞・鈴木哲夫曲)である。もともとは、昭和14年にディック・ミネが唄って大ヒットしたものだが、この唄ほど多くの歌手によって唄われた股旅演歌は他にはないであろう。

旅姿三人男

♪ 清水湊の名物は

お茶の香りと男伊達

見たか聞いたか あの啖呵

粋な小政の 粋な小政の

旅姿

♪ 富士の高嶺の白雪が

とけて流れる真清水で

男磨いた 勇み肌

なんで大政 なんで大政

国を売る

♪ 腕と度胸じゃ負けないが

人情からめばついほろり

見えぬ片眼に 出る涙

森の石松 森の石松

よい男

蛇足に過ぎるが、大政小政森の石松は、次郎長一家の主要な子分たちである。私は、少年時代、桶屋の鬼吉の方が好きだった。

ディック・ミネは、戦後もこれを唄い続けたが、鶴田浩二石原裕次郎橋幸夫石川さゆり、そして、近年では天童よしみ氷川きよしも“参入”している。

そもそも「次郎長もの」は、村上元三の長編小説『次郎長三国志』がベースとなっている。歌も舞台も映画も、すべてこの小説があってこそ存在し得たのだ。村上元三は、既述した通り長谷川伸の門下生の一人であった。

村上元三の『次郎長三国志』が『オール読物』に登場したのは昭和27年であった。昭和27年・・・ようやく日本が独立した年である。独立していなかったら、この小説を長期に亘って連載することは不可能であったろう。GHQは、「チャンバラもの」は軍国主義の礼賛に通じるとして、厳しい統制を布(し)いていたからだ。尤も、村上はそれ以前に朝日新聞に『佐々木小次郎』を連載しているが、これもGHQを通すのに大変だったらしい。

今、平成人は一時期とはいえ日本が独立国家ではなく、外国軍に占領されていた事実を知らないであろう。知識として知っていたとしても、歴史事実としてほとんど実感をもっていないと見受けられる。占領軍は、学校教育をも厳しく統制し、「書道」「華道」「柔道」「剣道」など、「道」と名の付くものはすべて軍国主義に結びつくとして排除した。独立後も日教組が「反日」という占領軍精神のお先棒を担ぎ、私どもは書道や柔道といった「道」と名の付く教科の教育を、公教育の場では全く受けていない。(それでも平成人よりましな文字を書くが) そのような「反日」精神こそが国際正義だとする気狂いじみた日教組メンタリティが、今の政権与党;民主党の根幹を為す構成要素となっていることをゆめゆめ忘れてはならない。

さて、村上元三の『次郎長三国志』を原作として映画もシリーズで製作されたのだが、これがまたけたたましい。まず東宝が製作したのだが、昭和2712月に公開された『次郎長三国志 次郎長売出す』を皮切りに昭和297月公開の『次郎長三国志第九部 荒神山』に至るまで、僅か一年半の間に9本もの作品がシリーズとして製作された。すべてモノクロであったと記憶している。監督は、昭和日本映画の祖とされるマキノ雅弘である。マキノは「早撮りの名人」と言われた監督でもあるが、当時の映画会社(配給会社)は、現場に対して無茶苦茶な要求をした。美空ひばりなども、一年間に1213本の主演作を撮ったことがある。それが当たり前の時代であった。こういうスケジュールで製作していくと、シリーズといいながらキャストが途中で交代するなどということも起こる。更にこの『次郎長三国志』では、村上元三の小説を原作としてスタートしながら映画が原作を追い越してしまったのだ。従って、このシリーズは、途中から“オリジナル”であったといっていい。無茶苦茶というか、大らかというべきか、とにかく日本映画の全盛期にはマキノの『次郎長三国志』は大車輪で公開され続けたのである。では、このシリーズが粗製乱造であったかというとそうでもない。『キネマ旬報』の編集長などを務め、我が国映画評論の第一人者であった白井佳夫は、この東宝版『次郎長三国志』を我が国映画界の最高峰に位置する作品であると評している。

余談ながら、俳優;津川雅彦はマキノの甥に当たる。平成になってから彼が監督を務め、『次郎長三国志』を撮ったのも、身内の歴史に突き動かされてのことであったろう。

映画『次郎長三国志』は、60年代に入ると今度は東映で製作された。監督は、やはりマキノ雅弘であった。東映版は、昭和3810月から同408月までの110ヶ月の間に4本が製作された。このシリーズも、村上元三の小説を原作としている。この時も、他の作品とのバッティングで、キャストが途中で変わるという事態が頻出した。さすがに、次郎長は鶴田浩二でシリーズ全体を通した。

かくして、私どもは『次郎長三国志』を通して、清水の次郎長の正義漢としての大活躍を知り、次郎長一家の個性溢れる子分たちを、そのキャラクターの細部に至るまでを知悉するようになり、認識としては番場の忠太郎や沓掛時次郎と同じ仁侠に生きる渡世人として同列に位置づけていたのである。

ところが、既述した通り、また誰もが知っている通り、次郎長は実在した博徒である。ちょっと詳細に調べれば、『次郎長三国志』に於ける次郎長とは余りにも乖離した次郎長が幕末に存在したのである。そして、映画『次郎長三国志』では、常に竹居の安五郎黒駒の勝蔵が憎っくき敵(かたき)であった。映画では、顔つきからして如何にもワルであった。(東映版では後に名優となった方が勝蔵を演じていたが、昔の記憶のこと故、ご容赦願いたい)実は、竹居の安五郎、黒駒の勝蔵も実在の博徒である。しかも近年、竹居の安五郎の生家から約400点にものぼる貴重な資料が公にされ、幕末博徒の動向がかなり詳しく解ってきたのだ。

さあ、そうなると次郎長を「街道(海道)一の大親分」として、単純に勧善懲悪の正義のヒーローとしてのみ捉えることができなくなってくるのだ。次郎長は文政3年(1820)生まれである。つまり、幕末の動乱を生き抜き、御一新をくぐり抜けているのだ。竹居の安五郎や黒駒の勝蔵も同様である。彼ら、幕末の無宿渡世の博徒が、この動乱期をどう生きたか。御一新の動乱とは、決して武士階級の者たちだけが関与したものではない。実はこの時代の無宿渡世の博徒もまた、この大動乱の渦に巻き込まれ、時に能動的に関わっていったのである。

2012年2月 8日 (水)

風に吹かれて三度笠(其の三 意地と情と男と女)

番場の忠太郎(『瞼の母』)、沓掛時次郎といった長谷川伸の生み出した股旅ヒーローの系譜には、その他に、駒形茂兵衛(『一本刀土俵入り』)、関本の弥太郎(『関の弥太っぺ』)、鯉名の銀平(『雪の渡り鳥』)、木場の政吉(『中山七里』)などがいる。私の中では、橋幸夫のヒット曲でお馴染みの佐久の鯉太郎なども同系のヒーローである。いずれも、映画、舞台、股旅歌謡で大衆の心を強く摑んだ、忘れ得ぬヒーローである。それぞれが何度も映画化され、舞台化され、何人もの歌手によって唄われた。

例えば、「沓掛時次郎」の場合。

股旅演歌としては、お馴染み;橋幸夫以外に、天童よしみ坂本冬美、古くはフランク永井の作品がある。(坂本の楽曲は橋・天童の佐伯孝夫・吉田正作品とは全く別作品) 映画になると、昭和4年を皮切りに戦前に4回、戦後に4回、合計8回も映画化されており、テレビのドラマ化は5回、その他近年ではマンガにもなっている。この中でもっとも評価の高いのが、昭和36年、大映から公開された市川雷蔵主演の作品で、相方は新珠三千代。この時の主題歌を橋幸夫が唄い、不滅の大ヒット曲となった。市川雷蔵という伝説の映画俳優の、伝説の名作である。この時の撮影(カメラマン)が宮川一夫と聞けば、映画好きならずとも驚かれるであろう。

この作品の大映京都の宣伝コピーが面白い。

恋の長ドス浅間に光る、

意地と度胸の渡り鳥!

原作に想いを至せば、コピーとしてはこれはちょっといただけないが、映画が大衆娯楽の王様で、日本映画の黄金期のことである。原作者;長谷川伸先生はこの時まだご存命であったが、苦笑いをされていたことであろう。時次郎の故里;長野電鉄・追分駅に中軽井沢商工会の建立した記念碑があるが、この碑文の方がまだ上等である。

千両万両 枉(ま)げない意地も

人情搦(から)めば 弱くなる

浅間三筋のけむりの下で

男 沓掛時次郎

また、鯉名の銀平(原作は「雪の渡り鳥」)の場合。

何といっても、三波春夫の大ヒット曲がある。このヒットは、昭和32年のことであった。最近、中村美津子がカバーしている。(中村の方が上手い) 三波春夫の『雪の渡り鳥』(清水みのる作詞、陸奥明作曲)は、昭和32年に公開された大映映画『雪の渡り鳥』の主題歌であった。映画では、鯉名の銀平を長谷川一夫、お市を山本富士子が演じた。当代一の美男美女コンビの映画が当たらない訳がない。私の知る限りでは、この作品の映画化はこの時が三度目であった。昭和32年といえば、私は小学校四年生であったはずだが、この唄は『沓掛時次郎』と同様、今でもソラで唄えるから恐ろしい。

♪合羽からげて 三度笠

どこをねぐらの 渡り鳥

ぐちじゃなけれど この俺にゃ

帰る瀬もない 伊豆の下田の

灯が恋し

♪はらい除けても 降りかかる

何をうらみの 雪しぐれ

俺も鯉名の 銀平さ

抜くか長どす 抜けば白刃に

血の吹雪

股旅ものには必ずご当地がある。沓掛時次郎なら信州・沓掛、瞼の母なら近江・番場、雪の渡り鳥は伊豆・下田といった具合である。他国を知らぬ田舎の少年は、股旅歌謡を聞きながらまだ行ったことも、見たこともない下田という鯉名の銀平の故里を、鮮やかなビジュアルとして思い浮かべるのだ。ストーリーと歌詞から思い浮かべるその地の雰囲気は、独特の精緻さを以て後年に至るまで私の内で生々しく生きており、後に現地を訪れることがあっても失望した例(ためし)は一度もない。

そういえば、『一本刀土俵入り』で、水戸街道・取手宿の旅籠「我孫子屋」の二階から空腹でふらつきながら通りかかった茂兵衛に情けをかけた酌婦;お蔦の故里は越中・八尾であった。今や「小原風の盆」ですっかり有名になった、あの八尾である。お蔦も、母を想い語る茂兵衛につられて思わず生まれ故郷の「小原節」を口ずさんでいたのである。

『関の弥太っぺ』;弥太郎の故里は、常陸・関本である。彼は、妹を探して信州まで足を延ばしたが・・・最後まで自分を慕っていたと聞かされた妹は既に死んでいた。ここから目的を失った弥太郎は、無宿渡世に命を張ることになる。昭和38年に公開された、中村銀之助主演の映画(東映)のラストシーンと垣根越しの男と女のカットは、あまりにも有名である。

「旅人さん、私のお兄さんになってくれませんか」

「あっしは妹のところへ行くだけが願いで」

「妹さんが羨ましい」

女は十朱幸代さん(彼女には「さん」をつけなければいけない)であったが、ここでまたまた錦之助の名セリフ。

「お嬢さん、この娑婆は辛えこと、悲しいことばっかりだ。だが、忘れるこった。忘れて日が暮れりゃ、また明日になる・・・ああ、明日も天気か・・・」

そして、ラストは、たった一人で飯岡一家の待つ行き止まりの一本道を行く弥太郎。カメラが引いて、三度笠をぽんと空に投げる後姿の弥太郎と彼岸花。「死人花」ともいわれる彼岸花は、弥太郎の目の前の運命を暗示している。勿論、こういう時は遠くで鐘の音がぼ~んと響く。

そうなのだ、股旅ものにはご当地があって、その土地との柵(しがらみ)を舞台装置として必ず男と女がいるのだ。そして、男と女を引き立てる存在として妹や母がいる。凶状もちの男は堅気の女の気持ちを知っても決して口説きはしない。背では泣いても涙は見せず、女一人が涙に咽ぶ。そして、行き着くところで女のために命を棒に振る。大概、そういうことになっている。

股旅というものを創り上げた長谷川伸は、無宿渡世の股旅を次のように定義している。

『男で、非生産的で、多くは無学で、孤独で、いばらを背負っていることを知っているものたちである』

浮世の義理、渡世の義理に縛られ、意地を通すが情には勝てず、だからといって決して男と女が“できたり”しない、無宿渡世の渡り鳥と女の恋は必ず純愛なのである。この社会では一時(いっとき)「3K」「3高」などといわれる男がもてたが、男と女の間に普遍と呼べる何ものかが存在するならば、そんなものは直ぐ廃(すた)る。結局男は、無宿渡世に限るのだ。

2012年2月 5日 (日)

風に吹かれて三度笠(其の二 番場の忠太郎)

「股旅」とは、どこからそういう表現が生まれたのか。

まだ小学生であったと記憶しているが、母が明快に言い切るように教えてくれたことがあった。旅から帰ったと思ったら、「また旅に出ていく」から「また旅」と言うようになったのだと。実に単純な解説であったが、底辺に生きる無宿人の世界のことであるからそういうことかも知れないと、私はその後長い間、母のこの説をほとんど信じていた。

勿論、これは誤りである。「股旅」という言葉は、長谷川伸の造語で、「旅から旅と、旅を股にかける」という意味らしい。今ではこれが定説となっている。母の解説とは全く意味が違っているが、現象としては同じことだと、私は内心で母を弁護している。

では、「三度笠」とはどこからきた言葉なのか。

江戸・大坂・京都の三カ所を毎月三度ずつ往復する「定飛脚」がいたが、彼らが被っていたところから「三度笠」と呼ばれるようになったという説がある。三度往復するから「三度笠」である。なお、「定飛脚」とは江戸の言葉で、京では「順番飛脚」、大坂では「三度飛脚」と言った。江戸の「定飛脚」と京の「順番飛脚」、大坂の「三度飛脚」が提携して通信ネットワークを形成したのだ。

また、「三度笠」はもともと女用の笠であったともされ、だからあのように目深い形状(江戸期の言葉では「大深」)になったのかと一瞬納得しそうになるのだが、では、「妻折笠」と「三度笠」は同じものなのか、ちょっと混乱している。またまた、文化年間以前は「旅商」(たびあきない)がこれを被り、文化以降はこれが「菅笠」を用いるようになったが、「定飛脚」は一貫して「三度笠」を被っていたという話もある。行商人が何故「菅笠」を被るようになったのかも、私にはまだ理解できない。「菅笠」は、どちらかといえばすり鉢状であり、「目深」である点は共通しているが「三度笠」とはかなり形状が異なるのだ。ますます解らなくなっているが、ここでは「定飛脚」が三度ずつ往復するから「三度笠」、とするに留めておくことにしよう。

どっちにしても、少年時代の私どもは「縞の合羽に三度笠」に憧れた。清水の次郎長が年代を問わず一番人気であったことは間違いなく、清水の次郎長はヒーローと呼ぶに相応しい「任侠」の男であった。ヤクザなのに、常に正義のヒーローであった。次郎長は実在の人物である。確かに幕末動乱期にその世界では“活躍”した。しかし、この男の実の姿は、映画や演劇などで定型となっているそれとはかなり異なる。次郎長といえば、その敵役(かたきやく)は「ども安」「黒駒の勝蔵」である。彼らも実在の無宿人であるが、股旅ものといわれる映画では常に悪役であった。そもそも無宿渡世で悪事を働かなかったヤツはいない。次郎長とて同様。しかし、映画・演劇を問わずほとんどすべての作品で、次郎長と勝蔵たちは、白黒はっきり分けて描かれてきた。このことについては改めて触れることにするが、結論めいていえば次郎長という男は体制側とうまくつき合った男である。御一新といわれる通り、彼らの時代に体制そのものが転換した。世の中が一瞬にして変わったのである。次郎長は、この変革期をうまく波に乗って世渡りしたといえる。文字通り「渡世」がうまかったといえよう。

私の故郷;中仙道鳥居本宿の一つ手前(江戸寄り)に番場宿がある。摺針峠の、あの番場である。中学生の頃、学校を抜け出して摺針峠に遊ぶことがあったが、美濃から近江に入るにはこの峠を越えることになる。即ち、この峠は東国から近江への、更にいえば畿内への玄関口に当たる。峠に立つと、足許に琵琶湖が広がる。まるで近江全体を視野に入れたような、そんな錯覚に陥る文字通り絶景の峠である。織田信長もこの峠から初めて近江へ入った。信長も、この峠に立った時、思わず嘆声を挙げたことだろう。その番場宿生まれの渡世人が番場の忠太郎である。いうまでもなく、忠太郎は実在の渡世人ではない。長谷川伸が生み出した、もっとも人気のある股旅の一人である。しかし、私どもの年代で「番場の忠太郎」を知らぬ人はあまりいないだろう。長谷川伸の原作名は『瞼の母』である。

近江・番場宿生まれの忠太郎。五歳の時に母と生き別れ、十二歳で父と死別し、無宿渡世の道へ。母への想いが捨てられぬ忠太郎は旅から旅へと渡り鳥の生活を続けながらも、遂に母の居所を突き止めるが・・・。

このお話のクライマックスは、今は料亭の女将となっている母;お浜に忠太郎が再会するシーンである。懐かしい母は、忠太郎の期待に反してつれない態度を示した。目の前に現れたのは、確かに自分が腹を痛めた忠太郎、しかし、近々娘が大店(おおだな)相手の晴れの婚儀、父親違いとはいえ凶状持ちの兄がいては娘の幸せに差障る、心を鬼にして、金が目当てかと忠太郎をなじり追い返そうとする。悔し涙の忠太郎、探し訪ねた母に再会した時、母が貧窮した身の上にあるやも知れず、その時の為にと賭場で稼いでせっせと貯め込んだ百両もの大金を悔し涙で投げつける。

「こうやって両の瞼をそって合わせりゃ、合わなかった頃のおっかさんの姿が浮かんでくらぁ・・・俺のおっかさんは今も俺の心の中に生きている」

新国劇でも映画でも、はたまた浪曲でも、忠太郎、一世一代の名セリフ。

再び飯岡の助五郎一家の追手に囲まれた忠太郎。

「お前ら、親はいねえか!? 子はいるか!? 親も子もいねえヤツは叩っ斬るぞ!!」

と怒りの長脇差(ながどす)を振り回す。

何度も映画化されたこの名作、昭和30年に公開された『番場の忠太郎』が原作にもっとも忠実といわれるが、この時の忠太郎は若山富三郎、母;お浜が山田五十鈴であった。私は、後年の中村錦之助の忠太郎がもっとも鮮烈に記憶に残っている。錦之助の、あの艶っぽい声質こそ母に恨みごとを吐き出す忠太郎にピッタリなのだ。

演歌の世界でも、忠太郎はいろいろな歌手に唄われてきた。近年では氷川きよしも唄っているが、一番人気は中村美津子であろう。やはり、こういうものになると世代の差というべきか、氷川ではこの世界は表現できない。You Tubeでも聞けるから、聴き比べてみると面白い。

♪軒下三寸 借り受けまして

 申し上げます おっかさん

 たった一言忠太郎と

 呼んでくだせぇ 呼んでくだせぇ

 たのみやす

♪世間の噂が気になるならば

 こんなやくざを何故生んだ

 つれのうござんす おっかさん

 月も雲間で 月も雲間で

 もらい泣き

♪会わなきゃあ良かった 泣かずに済んだ

 これが浮世というものか

 水熊横町は遠明かり

 縞の合羽に 縞の合羽に

 雪が散る

股旅演歌にセリフは付きものだが、中村のセリフがまたいいのだ。お決まりといえば余りにお決まりの“熱演”なのだが、こういうものは定型を外してはいけない。氷川の忠太郎が軽くて心に響かないのは、この定型に徹するという覚悟のようなものが身についていないからであろう。

 ~おかみさん

  今、何とか言いなすったねぇ

  親子の名乗りがしたかったなら

  堅気の姿でたずねてこいと言いなすったが

  笑わしちゃいけねえぜ

  親にはぐれた小雀が ぐれたを叱るは無理な話よ

  愚痴じゃねぇ 未練じゃねぇよ おかみさん

  俺の言うことをよ~く聞きなせぇ

  尋ね 尋ねた母親に

  倅と呼んでもらえねぇような

  こんなやくざに誰がしたんでぇ~

いまどきは、そんなこと自己責任だろ、で終わりかも知れぬが、この国は御一新の時と敗戦の時の二度に亘って価値観をガラっと変えた。人びとは、一夜にして豹変したのだ。私には、その豹変が醜く見えて、連綿と続くもの、特に連綿と続く言語世界に対する愛情が深くなっていったような気がする。私が、堅気とか道中合羽、長脇差、出入り、或いは、無宿、島抜け、関東取締出役、お固め等々、無宿渡世の世界馴染みの言葉を覚えたのは小学生時代であるが、それらはすべて股旅演歌や股旅ものの映画が先生であった。勿論、これらの言葉は江戸期に実際に使われていた言葉である。

2012年1月29日 (日)

風に吹かれて三度笠(其の一 稗史のヒーローたち)

動乱の幕引きには、さまざまなことが起こる。二本松少年隊の悲劇について、端折りながらも一気に続けてお話してきたが、二本松藩の始末はどのような形で行われたのか。また、この一途ともいうべき藩風はどこからきたものなのか。お話としてはそこまできっちり体裁を整えて“始末”をつけるべきであろうが、いずれ書籍としてまとめる機会もあるだろうから、ここでは以下割愛とさせていただく。

官軍と自称する薩長土の直接的な攻撃目標は、会津庄内である。二本松藩は、たまたま会津への侵攻ルートに静かに存在していただけである。彼らは、戦わずして屈することを潔しとはしなかった。この戦いは、武門の意地が前面に出たケースであり、幕末という時代には既に珍しくなっていたが、武家の本来あるべきスタンスである。結果として、狭い城下に薩長土の大軍を引き受け、少年から老人までが挙(こぞ)って戦い抜くことになった。私が改めて提起したかったことは、そもそも「武士道精神」とは何か、「武門の意地」とはどういうものか、そして、本ブログのカテゴリー名称の一つとなっているが、「武家の佇まい」とは如何なるものかということに過ぎない。特に社会問題化している「平成四十男」に向けて提示したかった。二本松藩の英雄譚を語ったつもりはない。

しかしながら、日本社会を今日に至るまで誤らせた「官軍教育」「明治維新史観」を矯正しようという意図を以て続けてきた本ブログは、やはりサブタイトル通り「無駄な抵抗」であったようだ。そろそろこの大テーマについては筆を置きたい。最後に少々、裏面史としてしか扱われない話題を取り上げ、後は“古臭い”活字の世界へ戻って“討ち死”すべきかと考える次第である。

本ブログは、単なるブログとして形だけは残しておく心算(つもり)である。

なお、二本松少年隊をシリーズで語るについては、以下の資料を参考にさせていただいた。

「幕末」          司馬遼太郎

「アームストロング砲」   司馬遼太郎

「官僚川路聖謨の生涯」   佐藤雅美

「数学者が見た二本松戦争」 渡部由輝

「上役は世良修蔵」     中村彰彦

「木村銃太郎門下」     中村彰彦

「明治という国家」(上下)  司馬遼太郎

「この国のかたち」     司馬遼太郎

奥羽は今、日本開闢以来という、人災も含めた大災害に苦しんでいる。悲痛な沈黙の叫びをあげている。自力での復興は不可能である。戊辰戦争以降、いわれのない差別を受けながら、長州軍閥のなれの果てがもたらした敗戦後の我が国の復興を支えてきた奥羽の人びと。その恩恵だけを享受しながら、がれきの受け入れ一つに猛烈に反対する阿呆な民。小シリーズ「華の二本松」は、まっとうな科学知識など皆無でありながら「安全と安心は違う」などと小賢しい屁理屈を並べて奥羽を拒否する関東及び西の阿呆な輩に対する心底からの怒りの表現である。

さて、稗史(はいし)と呼ばれる歴史がある。お上が語る歴史が「正史」であり、官軍教育による歴史などは典型的な「正史」である。木戸孝允伊藤博文西郷大久保、果ては吉田松陰如きまでが「正史」の中のヒーローなら、稗史で活躍するのは、博徒、侠客、浮浪や河原乞食(漂泊の芸能人)といったアウトローたちである。彼らは、官軍史観によるアカデミズム、公教育から徹底して排除され、或いは無視されてきた。ところが、博徒;清水の次郎長もその敵役;黒駒村の勝蔵も確かに私どもの歴史に実在し、そればかりか幕末動乱期には確固とした意志を以て戊辰の争乱に関わっていったのである。江戸期という時代そのものを抹殺しようとした官軍正史は、完璧に彼らを排除した。しかし、稗史のヒーローたちは、正史の対極にある民間伝承や大衆芸能の中に鮮やかに生き続け、その存在が正史の修正を求めることも稀なことではないのだ。正史は虚を実であると強制するのが常であるが、稗史とは虚実入り乱れて生身の人間の営みを生き生きと語り継ぎ、それ故にいつの時代も庶民を惹きつけてやまないものなのだ。

稗史の中心にいるのは、博徒、侠客である。渡世人股旅といった方が解り易く、身近でもあろう。

「縞の合羽に三度笠、無宿渡世に命を賭けて~」

このような渡世人は、アニメもゲームもなかった私どもの少年時代にはヒーロー中のヒーローであった。私ども以前の時代には、浪曲・講談が彼らの活躍を伝えた。例えば、明治に入るや否や、清水次郎長の養子が『東海遊侠伝』を世に出し、これをベースに二代目広沢虎造が浪曲で、三代目神田伯山が講談で語って人気を博し、誰もが清水一家の子分の名前からキャラクターに至るまでを常識として知るまでになった。因みに、次郎長はどちらかといえば「倒幕派」に属したが、後に英雄となったことについてはこのことが幸いしたともいえる。

私どもの少年時代になると、彼らの活躍する舞台は映画となった。特に、東映時代劇の中心は「股旅もの」であった。東千代之介中村錦之助大川橋蔵から美空ひばりに至るまでのスターが次郎長、石松大政小政吉良の仁吉を演じ、私どもは一宿一飯の恩義によって喧嘩出入りに命を賭ける任侠の道の厳しさ、切なさに胸を痛め、理不尽に対しては弱者の味方となって強きを挫(くじ)く男気に喝采を送ったものである。何よりも縞の合羽に三度笠といういでたちがカッコ良かった。その合羽をさっと翻して、三度笠を眼深に被って女に背を向け、決して振り返ることなく街道を去って行く。これを男と言わずして何というか。映画を観た日などは、家へ帰っても股旅気分の余韻が去らず、今日から俺も一汁一菜でいくなどと気張っていたことを覚えている。

ヒーローは、当然次郎長だけではなかった。沓掛時次郎、番場の忠太郎駒形茂兵衛関の弥太っぺなど、大衆小説作家;長谷川伸が生み出した若い渡世人こそ、実在の次郎長や黒駒の勝蔵、竹居の安五郎会津小鉄国定忠治笹川の繁蔵大前田英五郎以上に庶民の心を掴んだのである。

一宿一飯の義理から喧嘩出入りでやむなく六つ田の三蔵を斬った信州・沓掛村無宿;時次郎は、三蔵の女房子供を守りながら切なくも必死の旅を続ける。(沓掛は今の中軽井沢)

♪すねてなったか 性分なのか

旅から旅へと 渡り鳥

浅間三筋の煙の下に

生まれ故郷もあるっていうに

男 沓掛時次郎♪

♪女知らずが 女の世話を

その上 坊やの手をひけば

すまぬ、すまぬと いう眼が辛い

旅だ、旅だよ 許してくんな

これがおいらの せい一杯♪

♪男意地づく 生命をかけて

キリリと結んだ 三度笠

義理はすんだが、泣かずにきたが

またも今日から 行きさきゃ知れぬ

旅の合羽を 風が吹く♪

          (作詞;佐伯孝夫)

私は、今でもカラオケでこれを唄うから、歌詞は空(そら)で綴れるのだ。

この「沓掛時次郎」は、長谷川伸の原作である。私どもの年代ならずとも読者諸兄が長谷川伸の名を知らぬとは思えないが、彼が我が国の文学界のみならず演劇界、映画界に与えた影響は言いようもなく大きく、夏目漱石三島由紀夫などの比ではない。明治十七年生まれ。四歳で生母と生き別れ、五十代に乗ってから再会する。土方、石工、鳶、出前持ちなどの職業を転々として少年時代を生き抜いた長谷川伸の作品には、社会の底辺で生きる者への共感があるのだ。そして、常に日本人のどうしようもない情感の根っこにテーマを置いている。生涯に書いた小説は500作品、戯曲150作、映画化された作品は150作。こういう作家は他にいない。長谷川の門人には、村上元三山手樹一郎山岡荘八池波正太郎平岩弓枝など後に大家と呼ばれる作家が顔を揃えている。

沓掛時次郎や佐久の鯉太郎という無宿渡世の股旅は長谷川伸の創作であるが、実在した次郎長や黒駒の勝蔵の渡世と実はほとんど変わらない。ただ、次郎長や勝蔵は、御一新の動乱に深く関わっている点があまり知られておらず、ここが稗史を取り上げるポイントでもある。

ただ、最後でもあるので、気楽に私の好きな股旅ものの話を織り交ぜながら、話を進めてみたい。

2011年9月28日 (水)

荷風がライバル(其の三 終の棲家)

この小シリーズ(と意図して始めた訳ではなかったが)、三年ぶりの再開となる。今更ながら、荷風とは永井荷風のことであり、何故荷風がお前如きにとってライバルなのかと訊かれると、今は、改めてあれこれ“申し開き”をする精神的なゆとりがない。

先にお断りすべきだが、戦国の話はまだ終えたとは思っていない。長くなったので、間に異質の刺激を盛り込み、読者各位が倦むことを防止しようという、あまり効果の期待できそうにない姑息な作戦である。

10月頭に引越しを敢行する。いよいよ最後の引越しである。つまり、私は来月より「終の棲家」へ移ることにした。

「終の棲家」と言うからには、私はそこで人生を終えることになる。果たして、うまくいくかどうか。計算通りいかないのが人生であるということは、さすがの私でもこの歳になると十二分に解っているが、嫌でも計算を立てなければならないのがまた、人生というものであろう。うまく成就した暁には、「お見事!」と一声いただけたら望外の喜びである。

今の地は、徳富蘆花先生所縁(ゆかり)の芦花公園である。特に大きな不満がある訳ではない。そして、最後とはいえ、今直ぐ引越さなければならない理由も特にない。ただ、蘆花先生には申し訳ないことながら、今の芦花公園を「終の棲家」とする気持は当初からなかった。

昔から、さしたる用事もないのによく井の頭公園界隈へ遊びに出かけていた。桜が咲くと、ボートを出して池の中から花見と洒落こんでいた。ソメイヨシノがたわわに成って、花弁が水面に触れんばかりになると、池が狭くなったようで、それは見事なものである。尤も近年は、満開の夜ともなると必ず若造どもの集団乱痴気騒ぎが始まるので、その時期は昼間花を見て、夜は公園の傍の飲み屋で飲むことが多かった。

日頃はあまり飾りっ気のないこの公園は、池の周り以外に見た目以上に奥が深く、秋、特に晩秋がまたいい。武蔵野の雑木林の面影は、そこかしこに残されている。いつの頃からか、最後はここにしようと、漠と考えていたのだ。はっきり意識して計画したというのではなく、何となくイメージしていたといった程度であったが、前時代に田舎から花の東京へ出てきた次男坊鴉というものは、いつか、何らかの形で己を始末する地を己の意志で決めなければならないのだ。そういうことになっている。

残暑厳しい8月の終わり頃、吉祥寺駅近くのとある不動産仲介業の店に立ち寄ってみた。これも、何気なくといったところで明確な目的意識をもっていた訳ではなかった。吉祥寺へ引っ越す、井の頭公園の傍へ引っ越すという計画をもった客を演じて、今の住まいを頭に描きながら何平米以上だ、駅から徒歩何分以内だなどと適当に条件を出して店の女性の出してくる物件資料を順番に眺めてみたのである。詳しく見る、比較するといった姿勢はなく、文字通り眺めていたのである。吉祥寺というところは近年人気が高く、若者の住みたい街ランキング第1位だそうである。第2位が下北。どちらも私はよく出かける街であるが、あまり年寄りがうろつくところではなさそうである。そういう背景もあって、吉祥寺の駅近くや公園近くに新築マンションでも建てようものなら、土地が高いので建築費用は高くつき、若者が許容する家賃のマンションなど建てられない。その結果、吉祥寺駅近くには新築マンションは少ない。かくして、吉祥寺の不動産屋に掲げられている物件には、築年数の古いものがやたら多いのだ。店の女性が出してくれる物件資料を見ると、どれもこれも築30年、35年といったものばかり。若者向けのワンルームマンションの類以外は、概して古い。中に2LDK70平米強というのがあって、築年度を見ると19694月とあった。私が、社会人になった時に竣工した11階建てマンションである。築43年ということになる。妙に懐かしさを覚えて、候補の一つにしようとした。しかし、私と同期といっていいこのマンションは、如何に内装を新しく整えたとはいえ、私がかなり老衰したことと合わせて考えると、同じようにその骨格に於いてかなり疲弊しているに違いない。昨今は、地震だ、液状化だといって多摩地区の人気が高まっているとはいえ、40年以上も風雪に耐えてきたこのマンションは果たして震度5ともなれば耐えられるのか。震度6ともなれば、恐らく倒壊するのではないか。己の余命を考えれば余計な心配かも知れぬが、果たして、と思って、

『昭和44年か・・・石器時代にできたようなマンションだな。。。』

と呟くと、女性は噴き出した。そして、この客は真面目に家を探している客ではない、と判断したようで、噴き出した余韻を残しながら、

『こんなのもありますけど・・』

といって新たな物件シートを差し出した。

一軒家である。それも、妙な一軒家で3階建てとなっている。当然、占有面積は十分だ。そして、シートに書かれている売り文句が私の目を捉えた。

『井の頭公園がプライベートなお庭のような立地です』

これは、私が真っ先に挙げた条件である。何故これを早く出さぬ!?

数日後に引っ越す「終の棲家」は、このようなふとしたことで遭遇した家である。確かに、公園に文字通り隣接している。3階建てといっても、メゾネット風でもあり、畳の部屋はなくすべてフローリングであり、その点は気持ちがいい。ただ、「畳の上で死ぬ」という究極の目的は適えられそうにない。しかしそれはまぁ、毛唐流の表現に置き換えれば「ブーツを脱いで死ぬ」ということであり、主旨に於いて許容の範囲と言うべきであろう。何よりも玄関を出て十秒も歩けば公園に入ってしまうのが、いい。

池を挟んで対角線の方角に、万助橋がある。太宰治が万助橋の近くに居を構えていたことは、太宰ファンならずともよくご存知であろう。彼は、ここから阿佐ヶ谷辺りまで出っ張って飲み歩いた。彼が女と身を投げた玉川上水は、今も公園の傍を走っている。私は、公然と「太宰には駄作が多い」と書いてきたが、どうやら太宰という人間が好きなようだ。作品は、殆どのものを認めない。ただ、人間・太宰は、常に気になる存在であり、素直になった近年は太宰という人間を好きなのだと内心認めるようになった。駄作に事欠かない太宰ではあるが、数少ない秀作に『東京八景』がある。

――私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。――

そして、太宰は、東京八景の最初の一つをこう表現した。

――毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。――

更に、次のように書き足した。

――ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。――

因みに、太宰の東京八景の候補は、戸塚の梅雨、本郷の黄昏、神田の祭礼、八丁堀の花火、芝の満月、天沼の蜩(ひぐらし)、銀座の稲妻などである。勿論、彼の東京八景の趣意は別にある。

晩秋の公園の林に、今も武蔵野の夕陽は、ぶるぶる煮えたぎって落ちるであろう。その残照に身を置く幸せは、何ものにも換え難い恍惚に違いない。

生きていれば今年102歳を迎えたはずの太宰は、その駄作の多さ故にライバルではない。ライバルは、あくまで荷風先生である。しかし、私はやはりどこかで、無頼派;太宰を、いや津島修治を愛しているのかも知れない。

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