カテゴリー「麗しき近江」の29件の記事

2010年4月29日 (木)

伊吹艾(いぶきもぐさ)

私は、幕末動乱の中心地でもあった京都・伏見の生まれだが、育ちは近江である。丁度幕末争乱の最中に母の祖父が若狭から京に出てきてそのまま住み着いてしまった。京に出てきたことが藩命によるものかどうか、母に確かめる前に母が急逝し、今となっては調べる術もない。私が二歳になった頃に、一家は父の実家のある近江・佐和山の麓に移った。

近江は湖国である。日本最大の湖;琵琶湖は、近江のシンボルである。近江には、大小二百を超える河川があるが、そのすべてが琵琶湖に注いでいる。近江の山々が蓄えた水は琵琶湖となって湖国近江を育み、その安穏を見届けた上で瀬田南郷の洗堰(あらいぜき)から京、大阪へ向かうのである。周囲二百キロメートルの湖とはもはや海と言ってよく、夏には湖岸に高さ数メートルの大波が押し寄せることがある。この事実は誰に話しても信じてもらえず、近年私は諦めて余り琵琶湖の話をしなくなった。

近江の人々にとって、もう一つシンボルがある。伊吹山である。この山をシンボルとする心情は、近江に暮らす人びと特有のものかも知れない。つまり、この山は、その標高や外形によって天下に知られたということは全くなく、近江の人びとの暮らしの意識にのみ確固とした位置を占めているという点で、琵琶湖以上に風土性の強いシンボルなのだ。拙著『夏が逝く瞬間』(河出書房新社刊)で私は伊吹山を次のように描写した。

――標高一、三七七メートル、近江で最も高いこの山は、近江の東北端に位置し、その北向こうは岐阜から福井である。山頂からそのまま東を下るその山脈は、岐阜との境界となって南下し、鈴鹿山脈と繋がって南東の三重との境界を成す。山頂から近江北端を経て西方向へも山脈を拡げ、比良山系に連なって京都を隔てている。伊吹山は、母親が赤子を包み込むように北陸を背にして両手で琵琶湖を囲み、琵琶湖と共に棲む近江の生きとし生けるものを外界から守っている。伊吹山が吹き降ろす風は、美濃の側では関が原に大雪を齎し、美濃の人々にとっては厳しい冬の、避け難い自然そのものであろう。だが、近江湖東から湖北の人々が口にする伊吹降ろしという言葉には、どこか慈母を敬愛するような、あるいは守護神からのお使いを迎えるような敬虔な響きがこもっている。

「もう、そろそろ伊吹降ろしか」

と言いながら、曲がった腰を精一杯伸ばしてどんよりと雲が静止したままの冬空を見上げながら祖父がその言葉を口にする時も、決められた約束事が果たされる時のように、どこかそれを待っているかのような心持ちが感じ取れたものである。――

普通、海を母とするが、私にとって伊吹山は、少年時代から琵琶湖以上に母性を感じる存在であった。第二子が女の子と分かった時、私は躊躇なく「伊吹」と命名した。この娘は既に二児の母となっているが、その命名の由来を知ったらどういう反応を示すか。私はまるで自分だけの秘密であるかのように、そのことについてまだ話したことはないが、娘は或いはとうの昔に知っているかも知れない。

伊吹山と言えば、艾(もぐさ)であろう。古来、「伊吹艾」として広く知られている。もともと伊吹山は、薬草の宝庫と言われるほど薬草類が多く生育する山であった。醍醐天皇の時代、つまり十世紀に入った頃、延喜式五十巻が完成するが、その中に諸国から朝廷に献上された薬草の記録がある。それによると、近江国七十三種、美濃国六十三種となっており、この二国が他を圧して多い。両国が伊吹山系を共有することが齎した現象であることは、疑う余地がないだろう。時が下って織田信長が近江を支配するに至った永禄年間には、ポルトガル人宣教師の勧めもあって、信長は伊吹山に薬草園を開かせた。この時、西洋の薬草三千種が植えられたと伝えられている。この史実を疑う歴史家も多いが、西洋の雑草とされる「イブキノエンドウ」や「イブキカモジクサ」は伊吹山にしか生育しておらず、これは信長の薬草園造設の際に薬草に混じって我が国に持ち込まれたものとする説にこそ説得力があるのではないか。江戸期の記録にもあるとなれば、跡地が発見されないからといって否定するのは如何なものか。

伊吹艾を扱った商店としては、何といっても亀屋左京商店に尽きる。この店は、今も中仙道柏原宿に存在する。江戸期以来「健康産業」をやっていると言っていい。

世に名高い近江商人というのは、天秤棒で荷を担いで各地を行商した。彼らが他国の商人と違ったのは、隣村へ行商に出かけるような感覚で遠方まで出かけ、成功した土地、土地に今でいう支店を気軽に創っていったことである。京・大坂は言うに及ばず、江戸、奥州、果ては松前まで平気で出かけた。司馬遼太郎氏は、このことを評して、彼らには「遠隔地商業の感覚があった」と表現している。初代亀屋左京(松浦七兵衛)も、そうやって江戸で一儲けした。この、最初の一儲けの後どうするか。この点に近江商人の真骨頂とも言うべきプロモーション感覚がある。

七兵衛が江戸で一儲けしたのは、「寛政の改革」でお馴染みの松平定信の時代である。大雑把な言い方をすれば、江戸後期の初めの頃である。実はこの頃、平安期以来の歴史をもつ伊吹艾がすっかりすたれていた。彼は懸命に江戸市中だけでなく府内一円に足を延ばして一儲けしたのだが、彼はこの金で吉原通いを始めたのである。徹底して芸者を揚げ、太夫と遊んで散財に努めたのである。平たく言えば、儲けた金でとことん女遊びをやったのである。当然、廓で評判となる。そろそろ財も尽きたという頃、七兵衛は芸者から幇間に至るまでを集めて酒宴を開いた。そして、今後客の宴席で伊吹艾の唄を必ず唄うように頼んだのである。その文句は実に単純なもので、

江州柏原 伊吹山の麓 亀屋左京のきり艾

というだけのものであった。当時の吉原は、流行の発信地という側面もあり、これが大当たりして七兵衛は真の財を成す。我が国のCMソングのハシリと言っていいかも知れない。この単純な唄のポイントは、「伊吹山」という言葉を抜かりなく入れたことであろう。柏原という宿場は誰もが知っているが、「柏原の艾」ではダメで、益して「亀屋左京のきり艾」では売れなかっただろう。伊吹山の麓の亀屋左京のきり艾だから売れたのである。つまり、伊吹山=薬草=薬効が高いという古来の記憶が、人びとには残っていたのである。

故里・柏原へ戻った七兵衛は広大な土地を買って現在も残っている邸宅も建てるのだが、その資金は八百九十五両であったという。現在の亀屋左京家に証文が残っているので確かな数字である。その後も初代亀屋左京は、大坂で「伊吹艾」という浄瑠璃を作らせ、興行を打つなど、見事なプロモーションを展開し、更に身代を大きくしていった。安藤広重『木曽街道六十九次』という名作があるが、木曽街道とは中仙道のことで、その柏原宿の絵は亀屋左京家の店頭である。

健康産業であれ何産業であれ、どの企業でも祖というものは偉いものである。つまりそれは、マーケティングセンスと腹の据え方ではないかと思っている。なお、ウィキペディアで「伊吹艾」を調べると「滋賀県ではほとんど作られておらず~」云々とあり、更に伊吹山は「栃木市の小さな山だという説もある」とあり、ふんだんに存在する近江・伊吹艾の話に全く触れていない。誰がこういう片手落ちならぬ両手共落ちているようなカタワ話を書いたのか。亀屋左京の伊吹艾は、ネット通販でも売っていることを付記しておこう。

2010年2月 9日 (火)

今、そこにある憂鬱

どうも調子が悪い。

体調とは、気分の結果である。昔からそう思っていた。今も、かなりのケースに於いてそう思っている。ということは、私の気分を害することが多発しているに違いない。と思って辺りを見回してみると、確かに不愉快なことが多過ぎる。

まず、年明け早々から忙し過ぎる。ここのところ、書かなきゃいけないものが集中して私を襲ってくる。多くは新聞広告のコピーであったり、企画書の類であるが、この煽りを受けて一月末に版元へ持ち込むことになっていた次回作がまだ読み直せていない。間の悪いことに、会社の決算が十二月で、二月は決算事務の締めである。また、こういう時期に限って、外部から新しい企画提案の話が持ち込まれたりする。スタッフの大部分は、私より忙しい。週末になると毎度毎度修羅場の様相を呈する彼らを見ていると、スタッフの増員を考えざるを得ない。それはそれで、募集となるとまた大変な時間を取られる作業となり、またか、という暗澹たる思いに支配される。抜本的な解決策は何か。それは、何本かの仕事、やるべき事を無視することだ。つまり、仕事に穴を開けることである。それしかない。しかし、今の自分にその勇気があるか。多分・・・ない。しかし、しかし、健全な精神と身体を維持するためにはそれしかない。さあ、どれをターゲットにするか。この決断に迷って時間をとっていては意味がないのだが。

そう言えば、鳩山という総理大臣は余程決断ということが出来ない人間である。このことは、総理大臣という立場を得る前から判っていたことではあるが、立場を得て鮮やか過ぎるほどそのことが浮き彫りになっている。民主党内部でも「ただ状況に乗るだけの人物で状況の創れない人」と評されてきたが、逆に言えば、だからこそ小沢という旧田中派で鍛えられたやり手に担がれた訳であり、憂鬱なことではあるが今更という気もする。以前指摘しておいた通り、この政党は小沢専制政党であって、彼の意向を無視して議案提出は出来ず、議員会館の部屋割りに至るまで彼の気に入らないことは通らない。小宮山泰子、青木愛を筆頭に、福田衣里子、田中美絵子、山尾志桜里、小原舞、櫛渕万里といった新人を加えた「小沢ガールズ」と呼ばれる小沢親衛女性隊は、他の百名を超える新人たちと共にヤジと拍手の練習を課され、その成果を発揮すべくヤジ要員として予算委員会などに順番に動員される。一体彼女たちは、政治家なのか、「小沢喜び組」なのか。「陸山会」の一件では、まずは不起訴となったが、この政治家には、十五億円という巨額な資金の出所が不明という「改革フォーラム21問題がまだ残っている。彼は、ロッキード事件、リクルート事件、平和相互銀行事件、佐川急便事件などを経て、政治家にとって金は現金で動かすことがイザという時には最も安全であることを学んでいる。そういう政治家を小沢ガールズは「天才」だともてはやし、「尊敬している」と公言する。小沢ガールズに一票を投じた有権者にたった一言申し上げたい。

恥を知れ!

と、昨今の政局に怒りをぶつけても、民主党のコアな支持者というのは特性として非常に頑ななところがあり、内閣支持率は下がっても一定のレベルで踏みとどまるとみており、我が国の政治が多少なりとも賢い判断によって動くことはまず考えられない。戊辰戦争に於いて、奥羽列藩同盟として誇り高く薩長連合軍に抵抗した南部藩越後長岡藩。その地が、御一新直後の長州閥のように、天下を私物化する醜悪な政治家を出そうとは、原敬河井継之助も夢想だにしなかったであろう。

私にとって、民主党問題も多忙からくる(と思われる)調子の悪さも、等しく同一線上にあるから始末が悪い。

憂鬱の種は、他にもある。水曜日である。水曜日は、先日まで最も不愉快な曜日であった。

何十年ぶりかの歯医者の担当医は、水曜と木曜のみその歯科医院に勤務する歯科医であった。こういう雇用形態の歯科医は、近年は結構多いようだ。私は、水曜日に通うパターンとなってしまって、その日は当然朝から不愉快だった。不愉快なことは早めに済まそうと考え、いつも午前中に予約を入れていた。それが終わっただけで大変な仕事をこなし終えたようにどっと疲れが出ると共に、今日も終わったという安堵感で一杯となり、逆に午後の仕事の効率がどっと落ちる。明確に実感できるほど、見事に落ちた。私は、それほど歯医者、いや医者全般が嫌いである。このことについては、これまで散々愚痴ってきたので、今日はこれ以上触れない。要は、歯医者へ行かねばならないというプレッシャーによって、水曜日という日が暗黒の一日であったということが言いたいのだ。

ところが、歯医者通いが先日遂に完了した。私は、ここで強く己を褒めあげたいのだが、歯医者通いを全うしたのである。今どういう治療をしているのか、その種のことは全く把握しておらず、ただやり始めたことは最後までやらねば、という一念だけで通っていただけであるが、終わってみれば何やら達成感に似た感情があった。尤も、口の中を見てみると、かぶせものが増えていた。

ところが、歯医者が終わっても水曜日の憂鬱は解けない。理由は、分かっていた。水曜日は、風呂に入らなければならないのだ。この憂鬱は、夜の仕事場で膨らむ。これから帰宅して風呂に入らなければならない・・・そう考えると、その分早く帰ろうかとか一瞬余計な思考が入り込み、いや、どうせ今夜は潰れるのだからと思い直したり、落ち着かないこと甚だしい。風呂に入るということは洗髪を伴う。洗髪すれば、髪を乾かす必要が生まれる。合計すれば、生活の中に一時間のロスが発生するのだ。以前は、火曜日、木曜日、日曜日が風呂に入る日であった。週に三時間のロスである。下手をして三回の入浴で四時間を使えば、その益のない時間の合計は、ほぼ一日分の睡眠時間に等しい。大体私は、それほど汗かきでもなく、加えて言えば、人間の身体に溜まるアカというものは一週間分が上限であって、それを超えると自然と剥落していくものらしい。入浴は血行を良くすると言うが、血行は酒を飲んでも良くなる。人間の生存に欠かせないものは、睡眠と食事であって、風呂に入らなくて死んだとか大病を患ったという話は聞いたことがない。睡眠の上限を五時間、通常四時間とする生活で、それでも時間の無さに焦っているというのに週三~四時間の入浴というのは無駄ではないか。そう思い至って、入浴は水曜と日曜の二回に改めた。

斯様(かよう)に、先日までの水曜日は、歯医者と風呂が重なるという実(まこと)に情緒が不安定になるほど憂鬱な日であったのだ。片方が消滅したとはいえ、風呂というものはこの先も永く存在することが分かっており、今真剣にこれを週一回に出来ぬものかと思案している。

旧暦二月の異称を「如月」(きさらぎ)と言う。まだ寒さが残っており、更に着るから「衣更着」と言ったことに由来するとする説があるが、陽気が更に来る「気更来」に由来するとする説もある。「梅見月」(むめみつき)、「木目月」(このめつき)という別称もあるが、こちらは分かり易い。

そう言えば、「如月」という名前の駆逐艦があった。大正末年に竣工し、大東亜戦争が開戦して三日目にウェーク島海戦F4ファントムにやられて爆沈した。海軍中将まで昇った松永貞一(さだいち)氏が、この「如月」の艦長を務めた時期がある。昭和初年、まだ中佐の頃である。駆逐艦の艦長というのは、大体少佐か中佐である。この人は、大東亜戦争開戦時は少将であったが、第二十二航空戦隊司令官に就任していた。大東亜戦争が開戦するや否や、所謂「マレー沖海戦」でイギリス東洋艦隊を航空部隊のみで殲滅し、大英帝国は真っ青になり、松永司令官は世界にその名を知られた。これは、駆逐艦「如月」が爆沈される前日のことである。敗色濃厚となった昭和十九年、第二十七航空戦隊司令官として、あの硫黄島に赴任。やがて健康を害し、海軍技術廠長に転任。後任として硫黄島に赴任してきたのが、書籍版でも採り上げた、かの市丸利之助である。松永司令官は佐賀藩、市丸司令官は唐津藩であるが、今流に言えば同郷であり、また二人は、肉親よりも絆の強い海軍兵学校の同期である。松永司令官のご長男が、元海軍大尉で、戦後作家として『思い出のネイビーブルー』などを著された、阿川弘之氏の友人、松永市郎氏であり、この方のご息女がiモードの開発者として知られる松永真理さんである。

二月一杯は、地獄だなぁと思っていたら、「如月」という言葉が浮かび、「如月」が松永司令官、市丸司令官を思い起こさせた。少なくとも、北朝鮮みたいな異様な専制政党のことで腹をたてているよりは健康にはいいだろうと確信している。

二月の異名には更に、「仲春」「雪消月」、或いは「麗月」「小草生月」(さおひつき)という美しいものがある。

春は、近い・・・はずである。

2009年10月 3日 (土)

近江余話(其の八 ~甲賀衆(3)~)

三たび、甲賀衆のことである。

甲賀流、伊賀流などと言うが、そのような「忍術」の流派が存在した訳ではない。強いて言えば、甲賀流とは、甲賀衆のゲリラ戦に於ける戦法、情報収集活動の特徴などの総称ということになろうか。伊賀流にしても同様である。例えば、甲賀衆は薬の扱いに慣れている。今でもこの地に製薬会社が多いのは、明らかにその名残りである。つまり、甲賀流とは、甲賀衆独特のやり方といった程度の意味しかもたない。

甲賀と伊賀は、御斎峠(おとぎとうげ)を頂く山一つを隔てた里である。とは言っても、軽い山越えでは済まないが、要は近接しているということだ。共に農林業を生業としながらも、乱破などと呼ばれる特殊技能集団として生きてきた。ところが、両者には決定的に異なる点がある。織田信長以降、武家として身代を為した者は甲賀衆に多く、伊賀者には殆どいないという点である。その要因が、よく分からない。甲賀信楽は、藤原氏の荘園のあった土地であるところから、それらの管理にも当たった小豪族の規模が、中世以降伊賀より大きかったことが要因の一つかも知れない。或いは、偶々(たまたま)将器を備えた人物が多かっただけかも知れない。この「将器」ということについて私が思うには、「惣」の完成度合が全く違っていたのではないか。つまり甲賀では、完成度の高い共和制が成立しており、そうなると組織運営の能力、リーダーシップ、組織に於ける個人の行動様式といったものが磨かれる筈である。このことが、甲賀衆全体を一つの勢力として浮き立たせたという面も無視出来ないのではないか。これに対して、伊賀者は「個人」の色彩が強い。「甲賀衆」という呼び方は往時から存在する。伊賀衆という言い方もあるにはあるが、伊賀の場合は「伊賀者」と呼ぶことが多い。この話題になって、私が意識して「甲賀衆」「伊賀者」と表現しているのは、そういう背景に拠る。

甲賀衆の中で名を為した者を具体的に挙げると、織田信長の五家老の一人;滝川一益がその一人である。一般に、織田四天王という言い方があるが、この場合は、柴田勝家丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の四将を指す。その序列は、記した通りで、柴田勝家を筆頭とする。また、織田五大将とも言うが、その場合は羽柴秀吉が末席に加わる。とにかく滝川一益とは、織田家臣団の中枢を担った人物であり、信長の覚えも良く、非常に強い影響力をもっていた武将である。武田勝頼を天目山にて攻略し、これを滅ぼした武将でもあるが、長島一向一揆攻め、三方ケ原の戦い、刀根坂の戦い、長篠の合戦、加賀一向一揆攻め、天王寺合戦、雑賀攻め、有岡城の戦い、天正伊賀の乱など、信長の戦には殆ど参戦している。彼は、鉄砲の使用に長けており、水軍を率いることもあり、調略を得意とした。このあたりに、甲賀衆の匂いがぷんぷんと漂う。

山岡景友(道阿弥)も、甲賀の出である。室町第十五代将軍足利義昭の引きを受け、山城半国とはいえ守護にまで任じられた人物である。秀吉の世になってからは、秀吉の御伽衆となり、秀吉にも可愛がられた。関ヶ原の合戦では東軍に与し、伊瀬桑名城、近江水口城を攻略し、戦後九千石を与えられると共に、「甲賀組」を与えられた。慶長八年、江戸幕府開府の年には一万石に加増され、遂に大名となった。所領は、常陸古渡である。信長、秀吉、家康と権門が変遷する中を、うまく生き延びたと言える。

豊臣政権の三中老の一人、中村一氏は、甲賀二十一家;瀧(多喜)家の出である。彼については、何度か触れてきたので割愛する。彼も、そもそも山崎の合戦で鉄砲隊を指揮して名を顕したのが出世の端緒であった。

その他、黒川家から出て黒川城主となり、信長上洛に際して六角家に与し、敗れて六角義賢を甲賀へ匿(かくま)い、配下を武田信玄の許へ走らせ連携を図った黒川与四郎、キリシタン大名として名高い、五十三家;高山家の高山右近等々がいるが、以下省略する。戦上手、それも臨機応変に戦うことに長け、組織戦術を身につけている甲賀衆からは、多くの武将、大名が世に出たのである。

甲賀衆の話の発端となった多羅尾家は、五十三家の一家であるが、この家は別格である。地理的なことを言えば、甲賀と信楽は厳密には別である。裏側の伊賀上野から山越えして近江へ入ると、そこは信楽の里であって、甲賀は信楽から鈴鹿山系方面へ入った一帯であり、現在の行政区画では両者の間に甲南町が割って入る。多羅尾家は、信楽郷を支配下に置いていた豪族であり、ここでは同列には並べない。織田信長が本能寺に於いて明智光秀に討たれ、結果的には一瞬であったが天下を掌中にした時、徳川家康穴山梅雪は信長に招かれ畿内へ“観光”に訪れていた。事変の時は、二人とも堺にいた。“観光旅行”のこと故、手許は寡兵であり、裏街道を急ぎ三河へ逃げ帰ることになるのだが、伊賀越えに際し伊賀者がこれを守って道案内し、家康がこれに恩義を感じて徳川と伊賀者の密な関係が成立したという、有名な歴史が定着しているが、これは正確ではない。家康を南近江の果てへ導き、奥深く信楽へ匿ったのは多羅尾氏である。多羅尾光敏・光太親子は、多羅尾家の屋形に家康主従を迎え、自家の衆五十~六十名、信楽の配下百五十名強を護衛に付け、家康一行を伊賀へ誘導したのである。伊勢の白子浜まで無事に送り届けたと伝わる。後を伊賀者が受け持ったことになる。つまり、伊賀の「山越え」は、多羅尾一族の手で行われた。後に多羅尾家は、徳川天領を治める全国の代官の筆頭となる。今で言えば、今より遥かに強力な実権をもつ全国知事会の会長のようなものと言える。これには、伊賀越えがその因となっていたことは言うまでもない。多羅尾家のこの話は、後日ゆとりがあれば、改めて触れたい。

なお、家康同様、“観光旅行”に招かれていた穴山梅雪は、家康ほど事態を深刻には受け止めなかったようで、家康とは別行動をとり、案の定、野伏に殺害された。世を治めていた権力が消滅した直後の一瞬とは、それほど危険なものである。

甲賀だ、伊賀だという話になると、時代劇の好きな方は、「御庭番」とか「くの一」を連想するに違いない。甲賀衆や伊賀者を仮に「忍者」と呼称するにしても、残念ながら「御庭番」は「忍者」とは全く関係がない。御庭番という者が存在したことは事実であるが、それは紀州徳川家の吉宗が第八代将軍に就任し、江戸城に入るに際し、紀州から連れてきた「薬込役」と呼ばれた下級役人のことを指す。御三家・紀州徳川家の「薬込役」とは奥向きの警護を任務とした下賤の役職で、三十~四十名ほどいたらしい。吉宗は、そのうちの十名前後を、一緒に江戸へ連れてきた。特に優れた者を選抜したということではなく、輪番制とするつもりであったようだ。どうやらこれが江戸に定着してしまったようで、御庭番も当然世襲された。江戸に来てからの任務も奥向きの警護であったが、間諜として使われることもあり、この部分が時代劇などで活躍する御庭番像を創り上げてしまった。現実には間諜とは言っても、江戸市中の様子を報告した程度である。但し、「遠国御用」という任務にもついたが、その際は徹底して隠密裏に動いたということはなく、京・大坂の御用商人たちにはあらかじめ連絡が為されていて、彼らのサポートを受けるシステムが成立していたようだ。従ってそれは「間諜」とは言えない。いずれにしても、紀州時代の藩主が将軍となった以上、彼らは当然「直参」ということになる。当初は、お目見え以下の「御家人」格であったが、幕末近くになると下級の旗本に出世する家も出た。その場合でも御庭番という仕事は世襲であるから、息子が出仕する際は御庭番となる。つまり、「旗本格の御庭番」という妙な現象が生まれるまでになった。更に、江戸幕府=公儀に於いては、これまでの自民党や霞ヶ関より情報公開の進んだ側面があり、彼らの履歴、住所、所得はすべてオープンにされている。そうなると、もはやこれは「間諜」などとは言っていられないのである。

「くの一」になると、この言葉自体を山田風太郎氏の創作とする説があるぐらいで、実態とは更に遠ざかっている。甲賀衆や伊賀者、或いは諸大名が抱えた草や乱破の中に女性がいなかったということではない。ただ、その場合は「歩き巫女」「聞者役」という形をとることが殆どで、山田作品や漫画、映画などに登場する「くの一」は存在しない。何故「くの一」と呼ぶか。これにも諸説あるが、甲賀衆というテーマから益々遠ざかるので、よしておく。蛇足ながら、「歩き巫女」を多用したのは、武田信玄である。

織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、徳川家康がようやく人質から解放され、三河奪還の戦が続く中のこと。現在の蒲郡市辺りの上ノ郷城攻防戦に甲賀衆が援軍として駆けつけ、これを落とした。この時の戦い方も、夜襲と焼き打ちが主であった。また、天草四郎の名で名高い「島原の乱」に於いては、幕府軍配下の甲賀衆の一隊が一揆軍の籠る原城内に入り込み、兵糧の残量を確認している。フィクションの世界では、公儀隠密は伊賀流であり、その敵は大概甲賀流となっているが、いつ、どこからそういう話が定着したのか、私にはよく解らない。

今年になって急に「愛と義に生きた武将」となった直江兼継のこともそうだが、史実とは多くの場合、「身も蓋もない」話になるものである。「現代に役だってこそ、歴史というもの」などというたわ言を主張している“歴史作家”がいるが、こういう輩が史実を歪め、逆に今では考えられない、驚嘆すべき「人間の生きざま」に気づかないものである。

2009年9月25日 (金)

近江余話(其の七 ~甲賀衆(2)~)

甲賀衆(1)に於いて、甲賀五十三家のことに触れた。甲賀には、これとは別に「甲賀二十一家」というものがある。勿論、二十一家は五十三家に含まれている。五十三家も二十一家も、いずれも甲賀衆を構成する小豪族であり、どちらが格上ということは厳密にはない。甲賀二十一家とは、以下の家を言う。

・上野家

・池田家

・鵜飼家

・岩室家

・芥川家

・大野家

・隠岐家

・大河原家

・大原家

・内貴家

・黒川家

・高峰家

・滝家(多喜とも表示する)

・佐治家

・神保家

・頓宮家

・服部家

・伴家

・山中家

・美濃部家

・和田家

第九代将軍足利義尚は、とにかく近江守護職;六角高頼を討つべく、出陣した。(近江の乱) これは、珍事であったと言っていい。将軍がすっかり公家化してしまっていた室町中期に於いて、将軍自らが鎧甲冑に身を包んで出陣したのである。そういうことは、あったとしても精々足利三代までのことである。都人は、驚いた。この頃既に幕府には幕府らしい軍事力など存在しないことを、公家も庶民も知っている。しかし、朝廷から征夷大将軍に任じられ、諸国の守護職をはじめとする武家を束ねる棟梁である。建前であったとしても、権威は存在する。諸国の大名・小名が兵を出し、一万を超える陣容となったらしい。まだ苛烈な戦国の世に突入していなかったこの時期、武家社会に於ける権威を軸とした秩序感覚には多少の鎌倉的気分が残っていたとみることも出来る。当の足利義尚は、酔狂で出て行ったと言っても差し支えないだろう。叡山や近江に所領を持つ公家たち、近江の寺社から泣きつかれ、『よし、六角を征伐してやろう』と気楽に考え、自らが出陣すれば事態を収拾出来ると軽く考えていたようだ。驚いたのは、六角高頼である。将軍が「六角討伐」を名目に、一万を超える大軍勢を率いて近江へ進軍してきたのである。物語には、二万を超える大軍勢とか三万騎などとあるが、これは誇張であろう。戦の実相というものを重視する私は、こういう数字には神経質なタチだが、司馬遼太郎氏は「一万数千」と表現している。(『街道をゆく~甲賀と伊賀のみち~』) 一万という軍勢は、当時の六角氏を以てしても急遽編成できる規模ではなかった筈だ。六角高頼は、義尚に詫びを入れた。(このことから逆算しても幕府軍は一万人規模ではあったろう) ところが、義尚は謝罪を撥ねつけた。そうなると、六角高頼としても戦うしかない。詫びを入れ、聞き入れられないのなら仕方がない、ということで将軍家と戦をするというのも誠に面白いとしか言いようがないが、結果がもっと面白い。両軍は、野洲で激突、なんと六角軍はあっさり敗北したのである。六角高頼は、殆ど身一つで甲賀山中に落ち延びた。この時、甲賀の郷士たちの方から甲賀へ落ちるように勧めたらしい。甲賀衆を称して『豪侠』と表現されるのは、こういうことからきているようである。この時の甲賀衆を、甲賀の歴史は「二十七士」と呼んでいる。まだ「甲賀五十三家」でも、「二十一家」でもなかった。しかしながら、僅か二十七人の、小さな城塞のような屋形をもつ甲賀郷士が、敗残の守護職に救いの手を差しのべるというのは、確かに「侠気」ということ以外に説明がつかない。結果論だが、後の戦い方を含めてこのことが、天下に甲賀衆の名を広めることになった。

この時、甲賀の里が無傷であった訳ではない。無傷どころか、幕府軍の追討によって甚大な被害を出している。山が焼かれ、屋形も焼かれた。甲賀衆は逃げた。記録によれば、一人の戦死者も出さなかったという。甲賀衆は、屋形も焼かれて失うだろうと計算づくであったようだ。とにかく、里が攻められた時は、速やかに逃亡する。そして、反転してゲリラ戦に移るのである。このゲリラ戦が、甲賀衆の名を高めた直接の要因である。

将軍;義尚は、長陣になった。今の栗太郡内の鈎(まがり)に本営を築き、ここは一時臨時幕府のような一種の賑わいをみせたという。この本営を置いた地名から、この「近江の乱」は「鈎の陣」とも言われる。正しくは、足かけ三年に亘って本営がおかれた鈎の幕府陣営そのものを「鈎の陣」と言う。ゲリラ戦に手を焼いたとはいえ、当の敵;六角高頼はどこへ隠れたか、行方が判らない。そうなると、これは幕軍の勝利とも言えるし、衆目にもそのように映った。ところが、長享元年の暮、鈎の本営に甲賀衆が夜襲をかけた。周囲の草木が兵になったと言われるような、夜陰に紛れた急襲であった。これによって鈎の本営は総崩れとなった。狭義には、この戦闘を『鈎の陣』と言うこともある。更に、年を越すと、甲賀衆に伊賀衆が合流して、夜襲、奇襲を繰り返した。栗太郡周辺には、さまざまな流言も流された。甲賀・伊賀連合勢力は、情報戦、神経戦をも繰り広げたのである。幕軍内部では内紛も勃発し、そのうちに義尚は陣中で病み、延徳元年、満二十四歳という若さで病没した。人々は、「御淫乱」がたたったと噂したが、経験のない長陣と夜襲、奇襲の神経戦が影響したものと考えられる。

結局、幕府の六角征伐は失敗に終わった。ところが、六角高頼が勝者として称えられたり、影響力を増したということはない。ただ、生き延びただけである。幕府は幕府で、その権威は一層失墜した。逆に、甲賀衆の戦いぶりが天下に喧伝された。甲賀衆の夜襲を中心とするゲリラ戦は、全く戦の常道からは外れている。しかし、それによって将軍までもが“敗死”したと印象づけられたのである。甲賀衆は玄妙な戦い方をすると評判になった。この「玄妙な戦い方」・・・これが、後世甲賀流忍法と言われるものの素(もと)なのだ。決して、バク転して敵の剣を避(よ)けたり、手で十字を切って煙と共に姿を消すなどということはない。

大概の本には、この「近江の乱」に於いて六角氏を助けてゲリラ戦を展開した甲賀の地侍たちを「甲賀五十三家」、中でも六角氏より感状を受けた者を「甲賀二十一家」と呼ぶ、と書かれているが、遠からずと言えようが当たってはいないと思われる。もともと六角氏に救いの手を差しのべた二十七家が、どういうプロセスを経て「五十三家」や「二十一家」になったのかは定かではない。

また、近江がその後豊臣秀吉の支配を受けるようになり、甲賀衆は徳川の監視活動に当たることを任務とするようになり、ここから徳川方についた伊賀者との間で、甲賀対伊賀の暗闘を繰り広げたというのも殆どウソである。

どうも身も蓋もない話になってしまって申し訳ないが、もし甲賀衆がドロロン~というような忍術使いなら、甲賀五十三家・多羅尾家の血を引く多羅尾先生は、代用教員などやっていなくて簡単に正規の教員試験にパスしていた筈ではないか。

ついでながら、甲賀とは「こうが」ではなく、正確には「こうか」である。

甲賀衆については、史実として触れておかなければならないことがまだあるので、あと一回だけ続けさせていただくことにする。

2009年9月12日 (土)

近江余話(其の六 ~甲賀衆(1)~)

私の小学生時代、確か三年生の頃だった記憶があるのだが、多羅尾先生という若い女性の、今にして思えば「代用教員」がいた。学級担任は今でもはっきり覚えていて、四年生までは女性の担任で、三年生の時は、吉川久美子先生、四年生の時は鹿江(かのえ)邦子先生であった。二人とも大学を出たばかりの新米先生であった。どうも私は、この頃から女性の先生が好きで、男性教師に代わった五年、六年生時代は、毎日が実につまらなかった。

当時の旧佐和山城下の鄙びた里では、どこの家でも「日めくりカレンダー」を使っていたものだが、私どもの年代の方ならご存知だろうが、日めくりカレンダーには実に様々な情報が記入されていたものである。旧暦による日付は勿論のこと、マイナーな○○の日というような情報、更には格言、そして、「陰陽五行」思想から成る「十干(じっかん)」と「十二支」を組み合わせた本来の「干支」に至るまで、その日がどういう日かを懇切丁寧に教えてくれたものである。

例えば、「庚寅」(かのえとら)などと書いてある。寅や丑(うし)という十二支はともかく、私には「甲」(きのえ)とか「己」(つちのと)といった十干が解らなかった。解らないままに「かのえ」と書かれた日は、「今日は鹿江先生の“かのえ”だ」などと意識し、妙に嬉しかったことを覚えている。暦にある「かのえ」と鹿江先生は、どういう関係があるのだろうと訝しかったが、母に「かのえ」の意味を聞くにはどこか後ろめたかったのである。因みに、鹿江先生も美脚の持ち主であった。それに対して、三年生の時の担任;吉川先生はぽっちゃりとした可愛いタイプであった。

冒頭から話がずれている。「代用教員」多羅尾先生のことである。彼女は、吉川先生のように可愛いという部類に属さず、鹿江先生のような美しい脚の持ち主でもなかった。失礼ながら、ビジュアルに於いて記憶に残る先生ではなかった。しかし、彼女の貌(かおかたち)や体型は、今でもはっきり覚えている。正規の先生になる為に、代用教員を務める傍ら一生懸命勉強しているという話を漏れ聞いたことまで覚えている。そして、彼女は、南近江と言っていい信楽から通ってきていたのである。「信楽焼」で知られる、あの信楽である。恐らく貴生川(きぶかわ)まで出て、貴生川から延々、佐和山城下の鳥居本まで近江鉄道に揺られて通っていたに違いない。偶(たま)にしか接しない多羅尾先生のことを、何故このように半世紀以上も経った今でも覚えているかといえば、その理由ははっきりしている。多羅尾という姓にその理由がある。もうお分かりかと思うが、彼女は甲賀・多羅尾家の娘さんであったのだ。

甲賀;多羅尾家と言えば、「甲賀五十三家」の一つである。「甲賀五十三家」には、望月出雲守・望月兵太夫などで知られる「望月家」、黒川与四郎の「黒川家」、伴長信で著名な「伴家」、高山右近が出た「高山家」等々があるが、現在甲賀流忍術屋敷として残っているのは、望月出雲守の旧居である。つまり、多羅尾先生は、甲賀衆の集まり=「甲賀五十三家」の中でも著名な多羅尾家の娘さんだったのである。この一事だけで、少年であった私の多羅尾先生を見る目は違っていたのである。十歳前後にもなって私が「忍術」なるものを、映画や漫画の通り信じていた訳ではない。しかし、北近江の者であっても、甲賀;多羅尾家の娘さんと言えば、どこか普通の家の女の子とは思えなかったのである。それは、多羅尾先生が忍者の末裔であるからということではなかった。多羅尾家という豪族の家格の問題であると言った方がいい。多羅尾先生の忍者らしいところと言えば、愛くるしい吉川久美子先生や女性にしては長身で美しい脚をもっていた鹿江邦子先生に対して、その存在が目立たなかったことぐらいであろうか。目立たないことは、忍者の必須条件である。

そもそも「忍者」とは何者か。猿飛佐助霧隠才蔵百地三太夫が架空の人物であることは、今さら述べるまでもない。ただ、三者ともモデルとなったと思われる人物は実在する。鎖帷子に全身黒装束、背中に刀を背負い、夜陰に紛れて疾駆する、というのも“真っ赤なウソ”である。黒は、却って目立つ。刀というものは腰に下げるのが自然であり、普通である。刀を背負うとすれば、泳がなければならない時や床下に潜る必要のある時ぐらいだが、そういうケース自体が武家にしても彼らにしても滅多に存在しない。

では、後世「忍者」と呼ばれて虚像に包まれた「甲賀衆」「伊賀者」とは、往時の実像としてはどのような存在であったのか。

まず、彼らのような存在に対する呼び方が地方や領内によって異なる。幾つかを挙げておくと、「乱破」(らっぱ)、「素破」(すっぱ)、「透破」(とっぱ)、「伺見」(うかがみ)、「草」「軒猿」「物見」「間士」(かんし)、「屈」(かまり)、「郷導」(きょうどう)、「早道」「歩き巫女」等々である。藤沢周平氏が越後・上杉景勝直江兼継にスポットを当て『密謀』を著した時、氏は次のように断っている。

―――事柄は概ね史実にそって書かれているが、与板の草という忍びの一団は私の創作である。この時代ほど情報盗みの専門職である忍びが活躍した時代はなかったろうし、架空のことにしろ、忍びの動きを描いて不当ということもなかろうと考えたためである。――

また司馬遼太郎氏『雨おんな』という短編があるが、この主人公「おなん」は「歩き巫女」である。また、同じく『一夜官女』という短編に於ける「小若」も「歩き巫女」から想を得ていることは明らかだと思われる。そもそも「忍び」だとか「忍者」という言葉は戦後生まれの言葉であり、これを広めたのが白土三平氏や司馬遼太郎氏である。戦前は、「忍術使い」という表現が一般的であったようだ。私の子供の頃も「忍術使い」と言っていた。

彼らの仕事=任務は、情報収集が殆ど全てである。稀に一歩踏み込んで、謀略、離反工作などにも関わる。この存在目的からすれば、装束そのものからして目立つことは避けなければならない。そこで基本的な装束は、柿色の山着・野良着となる。これは、甲賀・伊賀の仕事着に他ならない。しかし、出稼ぎとして情報収集に出かける際には、その状況に相応しい装束を身に纏う必要がある。それは、例えば町人や下男であったりするが、幾つかの領内を横断しなければならないケースでは、虚無僧や、山伏放下師(大道芸人)、猿楽師巫女が多かった。情報収集に於いては、目立たないということが最も大切だが、次に重要なことは「逃げる」ことである。戦うことよりも「逃げる」ことに長けていなければ任務は達成出来ない。この点からも、重い鎖帷子を身に付けるなどということはあり得ない。通常は、重い打ち刀を背負うということもあり得ない。目立たないこと、逃げ易いことを重視すれば、当然のことである。

伊賀の里から御斎峠(おとぎとうげ)を越えると、近江・信楽盆地である。この盆地を支配していた豪族が多羅尾氏であるが、信楽を含む甲賀地方一帯の山々に小豪族が蟠踞していた。彼らは、(そう)を形成し、一種の共和制を敷いていたのである。この姿は、前に触れた十津川村に似たところがある。『江(ごう)の甲賀郡は豪侠の聚(あつま)る所なり』と古文書にあるが、彼らは早くから山地に於ける戦の仕方に長じていたのである。物事は合議で決するところは、隣の伊賀も同様であったようだ。例えば、守護職;六角氏から陣触れがきても、豪族たちは勝手には応じない。全豪族が集まって協議し、応じるかどうかを決する。時には、伊賀とも話し合い、甲賀・伊賀が合流して押し出していくこともあったという。

長享元年(1487年)、「近江の乱」が勃発する。将軍;足利義尚(よしひさ)が近江守護職;六角高頼討伐のために出陣したのである。この背景には、戦国という時代ならどこにでも見られた、戦国大名というものが成立した普遍性のある事情が存在したが、主題から遠ざかるのでここでは割愛する。ともかく、第九代将軍;足利義尚は南近江へ出兵した。義尚とは、銀閣寺を建立した八代将軍;足利義政の次男である。ということは、母は、あの日野富子である。余談ながら、こういうことには大概俗説があって、時の後土御門天皇と日野富子が関係し、義尚は後土御門天皇のご落胤であるとの話も伝わる。日野家の本拠は、私の生地;伏見であるが、この家は大変な名門で、義尚が後土御門天皇のご落胤であるとすれば、所謂「貴種」ということになろう。そのことよりも日本史の上では、母;富子と共に「応仁の乱」の因となった人物として知られる。一般的な日本史解釈では「応仁の乱」以降を「戦国時代」とすることは、学校で習う通りである。「貴種」であったかどうかは別として、この将軍は大層な“イケメン”であった。渾名を「緑髪将軍」という。『御容顔いとも美しく隙のない珠のお姿云々~』という記録が残るほどハンサムであったらしい。日野富子と義政の子なら、それも一種の「貴種」と言うべきであり、「貴種」のいい面だけが出たのであろう。ただ、本人にも“イケメン”の自覚があったのであろう、『御婬乱』と言われるほどの女好き、更に酒が大好きであったらしい。酒については、ただの酒好きの域を超えており、固形物を殆ど摂らず酒を主食にしたような食生活を送っていたようだ。「酒池肉林」という表現があるが、要はそういう生活を送っていたらしい。出陣した長享元年九月(旧暦)、義尚はまだ満二十一歳であったが、身体は既に衰弱している。

甲賀衆が世に出るのはこの時であるが、どうやら主題であるそのことは次回に譲った方が良さそうだ。

それにしても、多羅尾先生はご健在であろうか。多羅尾家のことだから調べるのはそれほど難しいことではないだろうが、そのつもりはない。吉川久美子先生、鹿江邦子先生についても同様だが、こういう人々は思い出の中だけにいてくれれば、それでいいのである。

2009年9月 5日 (土)

近江余話(其の五 ~遠藤直経にみる近江衆気質~)

近江衆という言葉があった。「元亀(げんき)・天正の頃」である。

「元亀・天正の頃」という言い方は、多分にシンボリックな意味をもたせて使われることが多い。例えば、我が国最大の国家犯罪人;辻政信(関東軍参謀)が引き起こした、あの悲惨な『ノモンハン事変』の生き残り将校が、

『元亀・天正の頃の装備でソビエト軍と戦わされた』

と述懐している。「元亀・天正の頃」とは、そういう風に使われてきた。要するに、「古い」という意味合いで使われることが多い。『ノモンハン事変』の実態としては、共産ソビエトの最新鋭の機甲師団に対して帝國陸軍関東軍が歩兵に持たせていたのは、二〇三高地攻防戦の主力銃「三八式歩兵銃」である。北支戦線を転戦した私の父の証言によれば、「三八式」で真正面の敵の小隊長と思しき指揮官を狙って撃ったら、二、三人を置いて横に居た敵兵が倒れたという。それほど、弾が真っ直ぐには飛ばないという意味である。

ここで、愚かな『ノモンハン事変』に触れるつもりはなく、今さら「三八式歩兵銃」を貶(けな)すつもりもない。

話は、元亀・天正の頃の近江衆のことである。この言葉は、何も元亀年間、天正年間に限って使われた訳ではない。それ以前の「永禄」や「弘治」或いは「天文」年間にも、また後の「文禄」「慶長」年間にも畿内には存在した筈である。要は、戦国後期の近江・山城・京を中心にして、尾張・美濃から摂津・河内・和泉といった所謂「戦国」の中心地では普通に通じた言い方であったろう。そういう点では、私も「元亀・天正の頃」という言い方を、「戦国期のピーク」というような意味でシンボリックに使っている。この「近江衆」の中で、武士階級にスポットを当てたのが先の小シリーズ『江州侍列伝』であった。

小シリーズ『江州侍列伝』は、まだまだ手抜きが多い。読者諸兄から「抜けているではないか!」とお叱りを受けて当然という人物を、実に多く“無視”している。それも、採り上げた人物より遥かに著名で“格上”という例が多いので、このお叱りに対しては全く申し開きが出来ないのである。ざっと挙げてみても、

・大谷吉継(関ヶ原で尋常ではない奮戦)

・浅野幸長(石田光成と同じ五奉行の一人)

・狩野山楽(狩野派絵師に転身した武士)

・井伊直孝・直弼(井伊家歴代では傑出した日本史の重要人物)

・小堀遠州(安土桃山文化最大の担い手)

・森川許六(武家から芭蕉の一番弟子へ)

・京極道誉(ばさら大名)

・蒲生氏郷(「知将」の名をほしいままにした豊臣政権下の名将)

・滝川一益(織田信長四天王の一人)

等々である。中でも、大谷吉継、井伊直孝、浅野長政・幸長、蒲生氏郷、滝川一益について紙幅を割けなかったことは手落ちとしか言い様がなく、彼らについては改めて触れなければいけないと考えている。

武家という枠を外せば、平家物語でお馴染みの祇王、百人一首の歌でよく知られる蝉丸、更には26代継体天皇も、ドラマ性に富んだ江州人である。もし、継体天皇のことを深く追求していけば、我が国天皇家の「万世一系」という侵すべからざる皇統について疑義が生じてくる可能性が高い。このことだけは、浅学な私如きが手を出すことではない。

遠藤直経という武士がいた。浅井家の家臣で、坂田郡の出であることが判っている。つまり、私の在所から遠くはない。「坂田郡」については以前一稿を設けたが、平成の大合併という愚行の犠牲となって今は地名としては存在しない。鎌倉武士を祖にもつ遠藤家は浅井家譜代の家臣であり、遠藤直経は浅井長政にとっては欠かせぬ相談役でもあった。ちょうど。徳川家康に於ける井伊直政のような存在であった。とにかく剛直な人物であったようだ。

司馬遼太郎さんが、この遠藤直経のことを書きたくて仕様がなかったが、果たせぬまま終わった。司馬さんを惹きつけた遠藤直経の魅力の一つは、やはりその剛直さであったが、今一つ重要な要素が、彼は物事がよく見えるということであった。物事が俯瞰出来るのである。忠誠心の強い家臣団で知られる浅井家の中でも人一倍忠誠心が強く、剛直さに於いて抜きん出ており、その上で物事を見通す能力に長けているとなればどうなるか。司馬さんの言う「二律背反」が起こる。司馬さんが望み通り遠藤直経のことを書いていれば、この「二律背反」ということがメインテーマとなった筈である。

浅井家が北近江に於いて絶対的な勢力圏を確立して後、浅井・織田の連合が成立した。浅井長政は織田信長の妹;お市を娶り、長政・信長の二人は義兄弟となった。勿論、全ては政略である。遠藤は、この時点で既に不安を抱いていたものと思われる。ここまでの信長の乾き切ったやり方が不安のもとであったことは言うまでもない。彼は、乱破(らっぱ、草)として伊賀者を使っている。時の“国際情勢”については詳細に把握していた筈であり、そのプロセスに於ける信長の手口というものも知悉していたものと考えられる。彼が、同じ近江の甲賀衆を使わずに、峠一つの違いとはいえ他国者である伊賀者を使ったのは、甲賀衆が南近江を支配する六角家の勢力下にあったからである。いずれは雌雄を決しなければならない六角家に近い甲賀衆を使う訳にはいかなかったのだ。時の政治情勢を俯瞰した時、北近江を支配下に収めているとはいえ浅井家の将来は危うい。司馬さんの表現を借りれば、「その前途は、路上に置かれた卵のようにあぶない」。遠藤の目には、そのように映った。映ったと言うより、遠藤には浅井家の前途の具体像が鮮明に見えたのだろう。

浅井・織田の連合が成立して、信長が、私の在所、近江・佐和山城に宿泊したことがある。この時期の佐和山城主は、後の「姉川の合戦」の「十一段崩し」で勇名を馳せた磯野員昌である。この接待饗応を遠藤が取り仕切った。この時、彼は初めて織田信長という人物に間近に接し、確認したのである。今までの情報による信長像が間違いではないこと、この人物はいずれ浅井家が自分にとって利用価値がなくなれば必ず敵となることを確信したのだ。信長を次の宿所(成菩提院)まで案内し、遠藤は小谷へ走った。そして、今、信長の身辺が手薄な時に討ち奉るべしと主君;長政に強く進言した。この時長政は、『義に反する』と言ってこれを退けた。

周知の通り、また既に述べた通り、元亀元年(1570年)、織田信長が徳川家康を引き連れ、浅井との盟約を破り、琵琶湖西岸を北上して越前;朝倉家を急襲した。浅井家では、隠居していた浅井久政が激怒、家中の意見を、永年の盟友;朝倉と連携し、敦賀にて信長を挟撃するという方向にまとめ上げようとした。挟みうちにするというのである。真っ当なら、これは成功する確率が高い。しかし、連携する相手は、朝倉である。信長を挟みうちにしたとしても、首尾よくこれを討てるかといえば、信長のスピードと公家的な朝倉の凡庸な動きを思慮すれば疑問符が付く。つまり、真っ当にはいきそうもないのである。挟みうちにして信長を逃せば、信長は必ず後日浅井家の小谷へ襲来する。

遠藤には、そのことが見えた。彼は、軍議の場で久政案に真っ向から反対した。かつて信長暗殺を提起した遠藤が、信長を討つことに、そのために朝倉と連携することに反対したのである。しかも、今となっては、ただひたすら信長に味方する以外にお家の先行きはないと主張したのである。この時の遠藤の一言は、まことに遠藤らしく切迫した、渾身の言上であったと言うべきであろう。

『先年とは筋目も違い候』

「筋目」とは、「事情」というような意味である。信長暗殺を提起した頃とは、既に政治環境、軍事情勢が全く違っている、ということを端的に述べたのである。

朝倉と連携した信長挟撃作戦は、遠藤の見通した通りの展開となった。ごく普通に軍を動かせば、ここで信長の命運は尽きている。それほど朝倉の動きは劣悪であった。その後の経緯(いきさつ)は既稿に於いて述べたので割愛するが、結局、これも遠藤の見通した通り、信長は態勢を建て直して北近江に侵攻してきた。そして、浅井家は、戦力で劣りながら姉川で身代を賭けて織田・徳川連合軍と雌雄を決することになる。元亀元年夏の、天下分け目の大会戦である。

またも連合した朝倉軍の敗走もあって、三方から攻め上げられた浅井軍の敗色が濃厚となった時、遠藤直経も血みどろになっていた。味方の一部は、小谷城と佐和山城へ向かって敗走を始めている。

合戦前夜、遠藤は家臣を集めて酒宴を開き、主従の間で今生の別れを告げている。そして、このバクチのような合戦に於いて活路を見出すとすれば、信長ただ一人をターゲットにしてその首を獲る以外にないと決めていた。

遠藤は、敗走する自軍の流れに逆流した。彼には三田村という姓の親しい朋輩がいたのだが、三田村の首を斬り、その首を脇に抱えて織田軍の本陣へ進んだ。信長の首実検に供する体裁をとったのである。勿論、信長と刺し違えるつもりである。

『御大将は何方(いずかた)に座(おわ)しますぞや』

と言い回って進んだのである。このようにして、信長まで「十間」という至近まで辿り着いたという。

ところが、信長の傍に、あの竹中半兵衛の弟;竹中重矩(しげのり)が居た。実は、竹中半兵衛・重矩兄弟は、一時客人のような形で浅井家の世話になっていたのである。その竹中重矩が、浅井家の重臣;遠藤直経を見知らぬ訳がない。ここで、遠藤直経の命運が尽きた。

竹中の、遠藤を打ち取った名乗りを耳にした、やはり敗軍の中にいた遠藤の郎党;富田歳八が、

『もはや何をか期すべき』

と言って、遠藤と同じように逆流して織田軍に突っ込んで討ち死にした。更に、遠藤の朋輩である弓削六郎、今井掃部助(かもんのすけ)といった武将たちが、

『同じ道を往かばや』

と言って、やはり引き返して織田軍の中に突入して討ち死にする。

司馬遼太郎さんは言う。

『これによってみても、「近江衆」として特徴づけられる気質群があったはずである』(『街道をゆく~近江散歩~』)

2009年8月22日 (土)

近江余話(其の四 ~末娘;お江の逆襲~)

浅井三姉妹の長女;茶々は、結局、徳川家康・秀忠(二代将軍)に抗し通すことは出来なかった。慶長201615)年、「大坂夏の陣」に敗北、豊臣秀頼大野治長らと共に自害したとされる。生年;永禄12年説を採れば、46歳、永禄9年説を採れば、49歳であった。

ただ、その最期を目撃した者がいない。また、遺体も見つからなかった。ここからまた、茶々生存・逃亡説が生まれることになる。一説には、薩摩へ落ち延びたとも言われる。歴史上の著名人にはよくある話で、根拠と言えるほどのものは何もない。やはり、「大坂夏の陣」に於いて、その波乱の生涯を閉じたと考えるのが普通であり、まず間違いはない。もし、秀頼が太閤;豊臣秀吉の子ではなく、茶々が大野治長との密通によってもうけた子であったなら、実の親子三人でその最期を共にしたことになる。

大坂城落城に際し、茶々は、嫁の千姫、妹の常高院(初)たちを城外に逃した。千姫は、一番下の妹;お江の長女である。千姫の脱出には、よく語られる坂崎直盛のドラマが存在するが、これはどこまでも“ドラマ”である。ただ、坂崎直盛が改易処分となったことは事実であるが、今日は横道の話へは逸(そ)れない決意でいる。満6歳で秀頼の許へ嫁いだ千姫は、大坂城を脱出する時18歳。当時の18歳といえば十分な大人の女性であるが、茶々の脳裏には自らが体験した幼い日の二度の落城の光景が甦ったのではないか。母;お市は、二度目の落城(越前北の庄)時に我が子を放って自害し、娘;茶々は、三度目の落城を迎えて、嫁を逃して我が子と共に果てた。

母;お市の生涯は、今風に言えば悲痛なものであったかも知れない。長女;茶々の生涯はどうであったか。一時は太閤秀吉の権勢の恩恵によって、栄華を極めたと言っていい。しかし、太閤亡きあとの没落は哀れとしか言い様がなく、栄枯盛衰という言葉そのままの生涯であったと言えるのではないか。

末娘;お江の場合はどうか。

実は彼女もまた、決して平坦な道を歩んだわけではない。寛永31626)年まで生き、江戸城西の丸で没したことを思えば、母;お市や姉;茶々より後半生は穏やかなものであったとは言えるかも知れない。しかし、その前半生は、文字通り戦国女性らしい波乱に満ちていた。

お江(小督、江与とも言われるが、ここでは「お江」で通す)は、天正元(1573)年生まれとされるから、母;お市と義父;柴田勝家が越前;北ノ庄落城に際し、自害して果てた時、満年齢で言えば10歳である。11歳の時、秀吉によってお市の姉、つまり織田信長の妹;の子である佐治一成の許へ嫁がされる。従兄妹同士の結婚ということになる。ところが、小牧・長久手の戦いに於いて夫;佐治一成は家康サイドに付いた。これによって戦後、一成は所領を没収され、お江は一成と離縁させられた。

19歳の時、今度は秀吉の甥に当たる、羽柴秀勝関白;秀次の弟)に嫁がされる。これも、勿論、秀吉の意向に従ったものである。ところが、秀勝は「文禄の役」に出征し、朝鮮で病死する。お江が、まだ19歳の年のことである。十代で経験した二度の結婚生活は、いずれも悲運な結末を迎えてしまった。

蛇足になるが、羽柴秀勝という当時の権力中枢を構成した重要人物については、若干の注意を要する。秀吉の子としての羽柴秀勝は、二人存在するのだ。一人は、織田信長の四男であり、織田家臣団の中で頭角を顕してきた秀吉が信長に頼み込んで養子とした人物である。秀吉特有の阿諛(あゆ)である。この秀勝は、秀吉にうまく利用され、「本能寺の変」の後の「山崎の合戦」では秀吉によって「信長の弔い合戦」の旗印にされた。信長がどこの女に産ませた子なのかよく分かっていないが、とにかく信長の実子であるから、秀吉にとっては大いに価値があった。合戦後、明智光秀の丹波亀山を与えられたが、僅か満17歳で病死した。もう一人の秀勝が秀吉の姉の子を養子としたもので、先の秀勝の後継として、やはり丹波亀山城主となった。後に美濃へ転封されたが、彼が朝鮮で没した後、この名跡を継いだのが秀吉の正室;高台院の甥;豊臣秀俊である。そして、秀俊は小早川家へ養子に出され、これが関ヶ原の寝返りで有名な小早川秀秋である。先の秀勝はあくまで「羽柴秀勝」であるが、お江が嫁いだ秀勝は、時代的に「豊臣秀勝」と呼称されることもある。お江の夫の秀勝は、朝鮮で没した時、まだ23歳の若さであった。秀勝との間には娘をもうけているが、この子は姉の茶々が引き取り、後に九条家へ嫁がせている。

お江は、小柄で華奢な美人であったと伝わる。所謂、“可愛い”タイプであったのだろう。(今どきの“カワイ~ィ!”ではない) こういうタイプは、意外に逆境に強い。ここからお江の、運命に対する逆襲が始まる。

三度目の結婚、再々婚の相手は、家康の三男;秀忠であった。後に徳川二代将軍となった秀忠である。時に、お江22歳。姉;茶々は豊臣秀吉の側室、妹;お江は豊臣政権にとって一貫して“心中の敵”であった徳川へ入ったのだ。秀吉が没する3年前のことである。そして、24歳の時、伏見城内徳川屋敷で、後に豊臣秀頼に嫁ぐことになる千姫を産む。続いて、26歳の年、この年は関ヶ原の前年になるが、後に前田家に嫁ぐことになる珠姫を江戸城内で産む。そして、関ヶ原を挟んで28歳の年には勝姫を、29歳の年には初姫を出産した。勝姫は、家康の次男、つまりお江にとっては義兄に当たる結城秀康の嫡子;松平忠直の正室となった女性で、初姫は、名門;京極家の嫡男;京極忠高の正室となった。既稿に於いて触れた通り、京極家にはお江の姉;初(=常高院)が嫁いでいる。姉;初の嫁ぎ先;京極家に、妹;お江の娘;初姫が入ったのである。蛇足を重ねるが、初姫の夫;京極忠高は、姉;初の実子ではなく側室の子である。

そして、徳川幕府が成立した翌年、お江31歳の夏、後に三代将軍となる家光を出産する。更に、33歳で、ドラマなどでお馴染みの忠長を出産、34歳の冬には、後に後水尾天皇の中宮となり、明正天皇の母となった和子を産んだ。

近世武家社会では、嫡男が全てで次男以降は家臣同様である。益して女は、家督には無関係であり、存在のウエイトは小さかったが、戦国期まではそうでもない。質のこともあるが、戦国の有力者にとって婚姻は外交関係の中心であり、そのあたりの感覚、女性の位置は江戸期のそれとはかなり異なることに注意しておきたい。

戦国末期から近世武家社会への移行期を生きたお江は、将軍御台所として女も男も産み、その子たちを通じて、より大きな権威を身に纏っていった。女は錚々たる大名家や皇室にまで嫁ぎ、男は次の将軍となった。将軍御台所が次の将軍の生母となったケースは、徳川十五代の中でお江ただ一人である。

幼い日の二度の落城、父と母の自害、政争に利用された結婚と離縁、夫との死別。十代一杯までのお江には幸せや平穏というものが寄りつかなかった。三度目の結婚が全てを変えた。勝手な後世からの観察であるが、母;お市はどちらかと言えば運命に抗するというところがある。それはまた、お市の女性としての魅力の大きな要因になっている。長女;茶々がこの要因を受け継いでいる。両人とも、凛と美しかったことであろう。ところが、次女;初と三女;お江は、全ての運命をそのまま受け入れ、流れに平然と身を任せるという風ではなかったか。勿論、懸命に生きているのである。特に、お江にそれを感じるのである。お市や茶々のような凛とした美しさも魅力だが、華奢な女性がそういう風に生きていると、これは男にとっては、また魅力的であろう。将軍;秀忠が正式には一人も側室を置かなかったのは、お江の女性としての魅力もあってのことと、私は理解している。

お市、茶々の例に倣って、過去映画やドラマでお江を演じた女優の一部を列挙しておく。

・山田五十鈴  1978年 映画

・吉川 十和子 1990年 映画

・寺島 しのぶ 2007年 映画

 ・八千草薫   1963年 TBS

・久我 美子  1966年 TBS

・岡田 茉莉子 1969年 CX

・五十嵐 淳子 1981年 大河ドラマ

・白都 真理  1983年 大河ドラマ

・栗原 小巻  1983年 CX

・長山 藍子  1989年 大河ドラマ

・津川 里奈  1992年 大河ドラマ

・濱松 恵   1996年 大河ドラマ

・岩下 志麻  2000年 大河ドラマ

・垣内 彩未  2002年 大河ドラマ

・高島 礼子  2004年 CX

・新穂 えりか 2006年 大河ドラマ

北近江の琵琶湖は、特に湖面が美しい。北琵琶湖の更に北はずれ、賤ケ岳の麓に余呉湖という、小さな湖がある。周囲200㎞を超える琵琶湖からすれば、池のような存在である。小谷城から見れば、北方に位置する。小谷での日々、お市と茶々が西に広がる雄大な琵琶湖湖面に目を注いで往く末を夢見ていたとすれば、お江は一人北を向いて余呉の湖に目を遣っていた・・・そんな思いを抱かせる母娘である。次女の初は、「こっちも美しいよ」などと両方に気を遣って、往ったり来たりしていたに違いない。

2009年8月16日 (日)

近江余話(其の三 ~娘;茶々もまた~)

茶々(=淀君)は、誰の子か? 母がお市であることは、まず間違いない。浅井長政の先妻の娘であるとすれば、『浅井三代記』に何らかの記述があってもおかしくない筈である。お市の連れ子ではなかったか、という点が最も気になるところなのだ。そうだとすれば、父は誰なのか? ここが解らない。蒸し暑い日の続く中、お市があの世の寝苦しさに耐えかねて涼しい私の枕元にでも顕れたら、不躾の非礼を顧みず、先ずはこのことを問い質しておかなければならない。立秋も過ぎたとあっては、枕元への出現はあまり期待出来ないが、彼女は正面切ってぶつかれば、真っ正面から返す・・・そういう女性であるような気がする。

お市の娘たち=浅井三姉妹の中では、茶々の知名度が群を抜いて高いが、彼女はどちらかと言えば「悪女」的なイメージが強く、それは映画やドラマを通じて染み付いてしまっており、ここで反論めいたことを述べても、それこそ「無駄な抵抗」に終わる可能性が高い。父;浅井長政、養父;柴田勝家を攻め滅ぼした豊臣秀吉の側室となったことが、儒教的倫理観を持ち合わせていたかつての日本人の心証を害し、その時点で茶々のイメージは定まったと言ってよい。

豊臣・徳川最後の決戦となった「大坂夏の陣」(慶長20年=1615年)の際、彼女は既に茶々でも淀の方でもなく、総大将;豊臣秀頼の「お袋様」として軍議にも常に参加した。秀頼が事を決断するということが全く出来ず、秀頼を後見する立場で軍議という男のみで取り仕切るべき場に君臨していたのだが、そもそも秀頼を公家よりも軟弱な公家的統領に育ててしまったのはほかならぬ茶々自身である。冬の陣、夏の陣を通して、秀頼は大坂城から一歩も出なかった。お袋様が出さなかったのである。戦場(いくさば)に立つのは危険だというのである。合戦に於いて総大将が前線に出陣しないということは、通常あり得ない。『馬前に死す』という言い方があるが、士は将の馬前に死すことこそ誉れとされたものである。大将が城の奥に引っ込んでいては、前線の将士の意気が上がらなくても不思議ではない。お袋様;茶々にしてみれば、真綿に包(くる)むようにして育てた秀頼を、矢玉の飛び交う戦場に立たすなどは危険極まりないとんでもないことということになるが、今起きていることは戦である。戦とは、命のやり取りである。戦に負けて秀頼の無事が保障されることは、万に一つもあり得ない。つまり、茶々の“過保護”は、本末転倒なのだ。

この一事を窓として茶々という女性を観察し、洞察すると、世に伝わる「悪女・淀君」イメージに疑問が湧く。小さな窓から垣間見える彼女は、余りにも平凡過ぎる、愚かな母である。それが、権力者の後見人であり、自らも権力者であっただけのことで、そこには二度の落城を体験し戦国を生き抜いてきた女性らしい、些(いささ)かの精神の鋭利さも感じ取れないのだ。

尤も、今、私は「大坂の陣」に於ける茶々という一つの窓からしか茶々を見ていない。ここはやはり、母のお市同様、私の枕頭へ迷い出てきた際、直接問い質すしか手はなさそうである。

ついでながら、近年、秀頼は決して軟弱ではなく、実際は眉目秀麗、長身でカリスマ性のある青年であり、その風貌に接して家康は豊臣家の抹殺を決意したとされるが、これは信じられない。確かに、そのように伝わる説が存在するのだが、それに従えば秀頼の身長は190cmを超え、体重が150160kgの巨漢ということになるのだ。現代に当て嵌めても、そういう体躯の持ち主は、相撲取りかアメフトの選手ぐらいであろう。そういう伝承に基づく説を、史実として扱うべきではない。父;豊臣秀吉はギリギリ150㎝程度であったようだが、秀頼の母;茶々は(定説に従えば)浅井長政とお市の娘である。長政とお市は、長身であり、美男美女に属するカップルであったから、秀頼が祖父母の血を濃く受け継いでいたとしても不思議ではない。秀頼が色白であったことは、そういう血筋の影響もあったと考えられる。しかし、最も大きな問題は、彼が公家的な教育・躾を受けて育ったということだ。そして、生を受けてから、伏見城・大坂城の外へ出たことは数えるほどしかないというほど、異常とも言える盲愛の下で育てられたということだ。下賤の身から天下人に成り上がった秀吉という男は、公家志向が異常に強かった。武人でありながら、関白となり、諸将にもしきりに官位を“餌”にしようとしたところがあったが、その勘違いそのままに秀頼を上級公家であるかのように育ててしまったのである。大坂の陣の軍議の場で、後藤又兵衛真田幸村がしきりに秀頼の前線への出馬を要請したが、茶々はこれを受け付けなかった。

余談が過ぎた。

お市の方の稿に於いて、映画やドラマでお市を演じたキャラクターを列挙したので、娘;茶々についても同じように、ただ並べてみる。お市同様、この時代を描けばどういう主題であったとしても茶々の存在もまた抹殺することは出来ないので、その数は多い。以下は、ほんの一部に過ぎない。

 ・山田五十鈴 (1961年 東宝)

 ・若尾 文子 (1963年 大映)

・高峰三枝子 (1979年 東映)

・高田 美和 (1991年 米国)

・三田 佳子 (1965年大河ドラマ)

・岸田今日子 (1971年大河ドラマ)

・中沢 祥子 (1973年大河ドラマ)

・藤村 志保 (1978年大河ドラマ)

・池上季実子 (1981年大河ドラマ)

・夏目 雅子 (1983年大河ドラマ)

・樋口可南子 (1987年大河ドラマ)

・大空 真弓 (1989年大河ドラマ)

・鶴田 真由 (1995年テレビ東京)

・松 たか子 (1996年大河ドラマ)

・秋吉久美子 (1998年テレビ東京)

・松嶋菜々子 (1999年 NHK

・小川真由美 (2000年大河ドラマ)

・瀬戸 朝香 (2002年大河ドラマ)

・永作 博美 (2006年大河ドラマ)

・深田 恭子 (2009年大河ドラマ)

若尾文子秋吉久美子は、複数回茶々を演じている。また、夏目雅子は、母;お市と娘;茶々をいずれも大河ドラマで演じている。何よりも、お市や茶々がこれだけ大河ドラマに登場するということだ。例えば、三田佳子=茶々の1965年は『太閤記』であり、夏目雅子=茶々の1983年は『徳川家康』、永作博美=茶々の2006年は『功名が辻』といった具合で、この時代なら誰を主役にしても、お市や茶々を無視してその時代を語れないことを示している。

実は、本稿では「江」(ごう)のことを少し書いておこうと思っていたのだが、書き出しを誤り、茶々のことになってしまった。意に反して、というところがあるので系統だっていないが、このまま茶々の補足をして区切りをつけたい。

茶々のことを「淀君」と呼称するが、これは明治になってから坪内逍遥が“命名”したもので、当時そのように呼ばれていたことはない。『淀殿』という呼称も、後世の創作とするのが定説である。淀城を与えられてからは『淀の方』という通称は存在した。当時の通称は、あくまで『西の丸殿』『二の丸殿』である。朝廷から授かった諱(いみな)は『菊子』であり、これは公式に使用された。『茶々』、時に『お茶』は、終世使われた名前である。近年、芝居やドラマで秀吉が「淀!」と呼んだりしているが、これは日本語の常識としてあり得ない。「淀」は、地名である。地名を以て人の呼称とする場合は、敬称を付けるのが日本語の用法である。

いずれにしても、まだまだ謎の多い女性である。

生年からしてまだ定まらない。永禄12年か、10年か、或いは9年か? 母;お市が浅井長政の許へ嫁いだのが、永禄10年または7年である。つまり、この問題は、茶々の父親は果たして誰なのか、という問題に直結している。

そして、茶々の溺愛した秀頼の父は誰なのか。私は大野治長説を採るが、片桐且元説も根強い。22歳にもなる秀頼を、真綿で包(くる)んだまま前線に出さなかった茶々。その秀頼に迎えた正室;千姫は、妹;お江の産んだ娘(=徳川秀忠の娘)である。

数奇な人生とは、茶々のためにある言葉かと思える。

2009年8月 2日 (日)

近江余話(其の二 ~お市に聞きたい~)

夏の夜の怪奇現象は、その後起きていない。目まぐるしい日が続いているが、帰宅すれば静かな夏の夜が続いている。知人や得意先の方からは、

『本当は、誰と居たんですか?』

などと言われ、真面目に相手にされていない。

実は、タバコが置かれていたり、電燈が点いていたり、給湯スイッチがONになっていたり、ということ以外に、携帯電話にもおかしなことが起きていたのだが、そのことは書かなかった。日頃の私は、余りにもこの種の霊的な話から縁遠く、幾つも重ねると“リアリティ”が損なわれる気がしたのだ。「ホントは誰と~」などと言う人には携帯の話を付け足すのだが、それを聞いた後にまた、

『でも実際は誰かと居たんでしょ?』

と、とことん相手にされないのである。確かに、普段の私は、

幽霊の

正体みたり 枯れ尾花

などといった句を、せせら笑いと共に嘯(うそぶ)いている方が似合っているクチだが、私のイメージは実際のところどう映っているのか、分からなくなってしまった。勝手に、江州侍や戦国女性のことを、私のイメージを交えて描いてきたお返しがきたような気がする。

開き直って続ける。

浅井長政の妻であり、織田信長の妹である「お市の方」のことを書いた後なので、お市とその娘たちである「浅井三姉妹」のことへと連想が結びつくのだが、もし霊となってちょっとした悪戯を為さんと私の枕元に現れたとすれば、それは娘たちではなくお市である。あの控え目な、かつ捻(ひね)りのない悪戯は、お市のやり方だと思われる。そして、(おそらく)それっきり二度と現れないのも、それがお市であると思わせる有力な証拠である。茶々(淀君)なら、そうはいかない。二、三日もすれば、必ずもう一度やる。それも、二度目はやることがエスカレートし、それも無視して過ごせば更にエスカレートし、最後は己が霊であることを忘れて現(うつつ)となって現れかねない。末娘の江(ごう)ならどうか。江の場合は、たった一度だけであったとしても、もっと強烈なことを仕出かすだろう。それも、私、江の仕業ですよ! と分からせることに気を使うに違いない。「浅井三姉妹」と言われ方をする仲の良い姉妹であったとしても、当然のことながら性格は全く異なっていたようである。こういうことは、戦国の世も泰平の平成も変わらない。

それにしても、長女;茶々と妹たちのキャラクターは、違い過ぎると思われてならない。

秀吉が、己の面相のことを忘れ、お市に執心したことはよく知られている。男は顔ではない、というのは、昭和一杯までは女性にとっても真実であったような気がするが、当時は顔というよりも風貌は、女性にとっても大事な要素であったようだ。平成の今は、風貌などという多少なりとも奥行きのある心象は理解されず、男も顔の造りで評価される。男が女の顔の作りについて発言すれば、それは「差別発言」となる。

平成社会の歪んだスタンダードのことはともかく、風貌という点でも、サルがお市の心を捉えるということは考え難い。ところが、それに怯(ひる)まないのが、またサルである。結局、お市がダメなら、と割り切ったかどうか知らぬが、サルはお市の娘で、三姉妹の中では最もお市の面影を受け継いでいると言われた茶々をものにした。この流れだけでも、これは大変なドラマである。茶々の生まれは、永禄121569)年というのが定説であるが、秀吉の側室となったのが天正161588)年頃とされるから、茶々19歳の時ということになる。振り返れば、茶々たち三姉妹が母;市と共に小谷落城という悲劇に見舞われたのが、茶々4歳の時。この時、攻め手の主役が織田軍の一武将;木下藤吉郎であったことを、茶々は理解出来ていたかどうか。その後、柴田勝家の妻となった母が、再び秀吉に攻められ、母と義父の自害という再びの悲劇に遭遇するのが、茶々14歳の時である。14歳ともなれば、仇敵とも言える秀吉の存在は十分認識出来ていた筈である。そして、茶々は僅か5年後に秀吉の側室となっている。戦国の世の習いとはいえ、私は、母;お市と長女;茶々の性格なり価値観というものに大きな隔たりを感じざるを得ない。この思いは、佐和山の麓で伊吹山を霊山のように感じながら野山を駆け回っていた幼い日から、心の深い処に沈殿している。

後世の北近江人は、共に歴代の領主であっても、浅井一族や石田三成に対しては「我らが大将」というような親近感を抱いているが、木下藤吉郎(羽柴秀吉)や丹羽長秀に対してはそれがない。尾張者の秀吉は、大坂の人というイメージなのである。では、浅井長政の妻;お市や浅井三姉妹についてはどうかと言えば、お市に対しては「小谷の方」という呼称通り、尾張生まれにも拘らず浅井一族という同族意識を抱いている。ところが、娘の茶々になると、近江・小谷の生まれとされるにも拘らず、北近江人にとっては“異邦人”と言っていい。秀吉の側室という事実から、茶々=淀君は豊臣一族という色合いでしか見られないのだ。

唐突なことを言うが、果たして茶々はお市の実の娘であったのか。これが、今なお拭い去れない大きな疑念である。

既稿に於いて、お市が晩婚であったことを述べた。「浅井三代記」を無視し、定説に従えば長政へ嫁いだのは今風の満年齢で言えば20歳の時である。平成の今風の感覚で言えば、“アラフォー”になって嫁いできたと表現した方が分かり易いかも知れない。あくまで「感覚」である。果たして、彼女は初婚だったのか。

異説ではあるが、お市は信長の実の妹ではなく、従妹であったとする説がある。また、実は信長の愛妾であったとする説もあるが、そこまでとなると奇説と言った方がいいだろう。奇説というものは、“突拍子もない”ことを唱えるのが常であり、故に人々を惹きつけるものだが、お市が信長の愛妾であったとする説は、娘;茶々の父を信長であるとする。つまり、お市は茶々という連れ子を伴って浅井長政の許へ嫁いできたことになる。更に、別の説に拠れば、茶々は長政の先妻の子で、お市が養女としたという話も伝わる。

確かに、お市の晩婚という事実は動かし難い。そこから導かれる可能性としては、お市が再婚であったとしても不思議ではない。しかし、それはどこまでも可能性でしかない。更に、お市の最後については、実は北の庄で夫;柴田勝家と共に自害せず、伊賀に落ちのびたというものがあるが、こうなるとそれは“奇説”の域さえ超え、「嘘っぱち」と断定してもいいだろう。民間伝承の中には、「嘘っぱち」が結構多いものである。

浅井三姉妹の名前に、もう一度注目してみたい。茶々、初、江(ごう)・・・波乱の生涯を送った戦国の美女三姉妹。

夫婦というものは、初めての子にはどういう名を付ける傾向があるか。「初」が、長政・お市にとって最初の子であったと考えることは出来ないか。「江」は、長政との仲も睦まじく、近江衆になり切ったお市・・・江州(ごうしゅう=近江)へ来て長政と設けた愛おしい子・・・考え過ぎか・・・。私は、「江」については、「小督」(おごう)または「江与」とは秀忠と再婚してからの名前であると考えており、幼少期、つまり最初の名は「江」であったと信じている。

後の大坂=豊臣と関東=徳川の対立は、三姉妹を敵味方に分かった。三姉妹に限った図式で言えば、茶々と江の戦となる。その手切れを防ぐべく、姉と妹との間を奔走したのは初(常高院)であった。父;長政と母;お市を含めたファミリー意識の最も強かったのが、名門;京極家を再興した、この初ではなかったか。東西手切れを防ぐという政治上の動きは、気の強い養女;茶々と、負けず劣らず気位の高い近江;浅井家の実子;江の仲を何とか維持しようとする、長政・お市の初めての子=初の、姉妹としての切実な父母への哀惜の思いが為させた必死の行動ではなかったか。

いけない。

いつの間にか、茶々連れ子説を是認してしまっている。既稿で述べたお市に問い質したい疑念とは、このことである。

お市殿、茶々はあなたの連れ子か? ならば、父は誰か?

今宵、また電燈は消して寝る。タバコは、テーブルの上に置いて寝る。代わって、薄墨色の中に共に一献傾ける用意をしておく。同じ江州人の誼(よしみ)と思し召し、差しつ差されつ、貴女からあの夏、小谷で起きたことを聞き明かしたい。気ままな夏の夜は、短いようで心に長い。

2009年7月20日 (月)

近江余話(其の一 ~お市の方~)

長々と「江州侍列伝」なる小シリーズを続けてしまった。あれでも、かなりのスピードで走ったつもりである。つまり、毎回端折ってしまって、不親切極まりないところがあったと悔やんでいる。その補足を兼ねて、歴史上の近江をもう少し自由に走り回っておきたいと思う。特に戦国期のことは、近江を舞台にしておけば大体のことは日本史そのものになるので、今少しお付き合いいただければ幸甚である。

浅井長政の稿でお市の方と「浅井三姉妹」について触れた。日本史としては知名度も高いこの母娘のことを知らない人の多いことに驚くが、再来年のNHK大河ドラマが「お江」(おごう)を主役とすることに決まったようだ。三姉妹の末っ子で、二代将軍徳川秀忠の正室、三代将軍家光、皇室に入った和子の母である。長姉は、言わずと知れた茶々=淀君である。茶々に負けず劣らず、美人で非常にプライドの高い女性であったようで、将軍;秀忠との関係は俗に言う「かかあ天下」であったと伝わる。彼女の所為(せい)で秀忠は、生涯側室をもつことが出来なかったとされているが、現実には秀忠は、必死にお江の目をかいくぐって秘かに側女をもったことがある。流石は家康の子である。

また横道へ入り込まない程度に余談を述べれば、家康ほど多くの妾をもった戦国大名はいないのではないか。彼は、とにかく女が好きであった。妾の正確な人数は、あまりに多過ぎて分からない。身体がそういう風に出来ていたとしか言い様がなく、病気の域を超え、純粋に生理的なものとしか言い様がない。合戦の際も女を連れて行く。ヘビースモーカーが一定時間禁煙を強いられると、イライラしたり、身体に変調をきたすのと同じである。「英雄色を好む」とは言うが、こと女に関しては家康も「英雄」と言われる資格をもっているということか。ただ、家康という男は、女に対しては表面(おもてづら)は優しかったが、実際のところは極めて冷淡であったと言い切っていい。この態度も冷淡の域を超え、冷酷であったと言っていいかも知れない。横道へ入り込んではいけないので、このことは機会があればもう少し詳しく触れることにしよう。

「浅井三姉妹」は、戦乱の世に波乱の生涯を送ったことで知られるが、NHK大河ドラマのこと故、また妙な現代解釈を盛り込んで史実とは無縁の物語を展開することだろうが、エンターテイメントと割り切るしかなかろう。「お江」に先立って来年放映される「坂本龍馬」などはもっとヒドいことになること必定であるが、龍馬に関しては司馬さんが原因で既に虚像が歴史として定着してしまっているので、事ここに至ってとやかく言っても誰も耳を貸すまい。この際龍馬のことは措くとして、「お江」は一体どの名前を使うのだろうか。

「お江」は、「小督」とも「江与」とも、また「江(督)」とも言い、一般的には後の「崇源院」であり、朝廷からは「達子」(さとこ)という諱(いみな)を受けている。「お江」、「小督」、「江与」については、今なお確かなことが分からない。分からないところが多いから、余計に過剰なエンターテイメント性が溢れることになる。過ぎたるは及ばざるが如し、である。少なくとも「お江」や彼女の母;お市について以下のことは史実として明々白々なので、NHKも脚本家も近年の視聴率に意を強くし過ぎて図に乗らない方がいい。読者は、再来年このドラマが始まった時、もう一度この稿を読んでいただけば結構面白いのではないかと、妙な楽しみを抱いている。

これまでに述べてきたように、世に名高い「浅井三姉妹」(あざいさんしまい)とは、織田信長と共に上洛を果たした北近江の覇者;浅井長政とお市の方の間に生まれた三人の娘のことである。戦国一の美女と謳われたお市の方とは、言わずと知れた信長の同腹の妹である。お市の方については、本ブログでは既に触れているので、出来るだけ重復は避けたい。

司馬さんは、お市のことを「果報者」であったと言う。何のことを指すかと言えば、政略結婚とはいえ、相手が偶々(たまたま)浅井長政であったことを言っている。浅井長政は、眉目秀麗な若い戦国大名として知られており、お市に言い寄るサル=木下藤吉郎(=豊臣秀吉)とは違い過ぎる。お市にしてみれば、同じ男であるとも思えなかったのではないか。逆に言えば、長政にとってサルの存在はメリットになったとしか思えない。お市の気持ちを洞察するに、露骨に自分を欲しがるサルを基準とすれば、浅井長政が“白馬の王子”に映ったに相違ないからである。浅井長政とお市の仲が、家臣団も羨むほど睦まじかったことが伝わっているが、これは史実と考えて差し支えないだろう。

戦国期の日本人は、当然だが現代の日本人より背が低かった。戦国大名の多くも身長150160cm台の者が多かったようだ。何人かについてその墓から遺骨や頭蓋骨を掘り出し学術調査が行われた例もあるが、例えば石田三成については明治末期と昭和50年代半ばに調査が行われており、その結果によれば、三成の身長は156cmと推計された。同様に、伊達正宗159cmとされている。蛇足ながら、調査を信ずれば、三成が「反っ歯」であったことも解っている。

果たして長政の身長が何センチであったのか、お市がどうであったのか、これは分からない。ただ、お市が長身の女性であったことは分かっている。ここで大河ドラマの脚本家は、着物の「おはしょり」を作らない着付け方が当時流行り、これは背の高いお市がそうであったことを真似たもの、つまり、お市が当時のファッションリーダーになっていたというような話を書くに相違ない。今から、見えるようである。どうでもいいことかも知れないが、全く根拠のない話で、「おはしょり」を作らないのは当時の女性のごく普通の着付け方である。お市とは関係がない。

お市や浅井三姉妹が、意外にこれまで歴史ドラマの主役になっていないと、既稿で述べたが、信長を主役にしても、秀吉を主役にしても、或いは徳川家康を描いたとしても、お市や三姉妹を登場させない訳にはいかない。この時代を描く物語なら、この母娘の存在を無視することは、余程無茶を書く脚本家でない限り出来ないことなのだ。そこで、これまでこの時代を扱った映画やドラマに於いて、どういう役者がお市を演じたかといえば、主だった役者は次のような人たちである。

岸  恵子

関根 恵子

夏目 雅子

沢口 靖子

松原 智恵子

真野 あずさ

黒木  瞳

宮沢 りえ

大地 真央

高岡 早紀

相田 翔子

原田 美枝子

頼近 美津子 等々(主演年順不同)

これらはほんの一部で、こういうことはサイトをチェックすれば幾らでも出てくるだろう。このようなことを列挙したのは、どのようなドラマに仕立てるにしてもお市の存在というものをどう扱えばドラマが成功するかということに一種の定型があることが分かると考えたからである。私見では、岸恵子1965年大河ドラマ)、夏目雅子1981年大河ドラマ)、沢口靖子1993TBS)、大地真央2006年大河ドラマ)といったところが、現実に存在し、波乱万丈の生涯を送った誇り高き戦国女性;お市を演じるには相応しいキャスティングではなかったかと思っている。

お市が浅井長政のもとへ嫁いだのは、彼女が17歳または20歳の時である。1720歳の間というのではない。17歳か20歳、どちらかの年である。これは、どちらの資料を採用するかという問題であるが、17歳であっても20歳であっても当時としては晩婚である。当時の武家同士の婚姻では、女性の平均的な年齢は1215歳くらいである。お市の晩婚の背景には何があったのか。

この点に、娘;茶々(=淀君)にまつわる一つの、無視し難い疑念が浮上する。

毎度の悪い癖で「お江」のことを書くつもりが、その母;お市に改めて触れている間に紙幅が尽きた。戦国末期を彩ったお市と浅井三姉妹には、否応なしに時代に相応しいドラマ性が付いて回るのである。この余話もまた、しばらくお付き合いをお願いせざるを得ない小シリーズになってしまうかも知れない。

2020年8月
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