カテゴリー「武士は喰わねど」の18件の記事

2011年3月19日 (土)

神々に問う

■いやはや自然の力は恐ろしい。その瞬間の高層ビルの揺れは、私が幼い頃から経験してきた地震のそれとは異質であった。ゆったりと実に大きい。それだけに棚などは固定しておかないと、吹っ飛ぶことになる。私の仕事場は、高層ビル街の中では高層の部類に入らない程度のビルの七階にあるが、それでもスタッフも皆、次第に恐怖を募らせ、あまりに長引く揺れに遂に階段を使って屋外へ避難する羽目となった。

つくづく感じたのだが、やはり日本のビルの耐震構造はかなり高度なレベルにあるとしか思えない。階によって異なる大きな揺れも、その高い技術の成果であって、これがイギリスやニュージーランドの基準で建てられていたなら東京も311日を以て壊滅していたのではないか。

■お隣と言ってもいい副都心Nビルの四十階あたりに窓ふきのゴンドラが大きく振りまわされていた。それを見ていた別のフロアの者が、

「凄い! ヤツは男だ!!」

「ヤツこそプロだ!!」

などと、囃(はや)したてたらしい。ゴンドラの彼は、その瞬間何をする術(すべ)ももたなかっただけであろう。ゴンドラを昇降する係の者も、どうしようもなかったに違いない。可哀相にゴンドラの彼は、「男だ!!」などと喝采を浴びていることも知らず、ただ恐怖と闘っていたに違いない。舞台が「江戸」らしい一こまであるが、実は囃したてている当人たちが揺れながら恐怖に慄(おのの)いていて、そうやって騒いでいるしかなかったのであろう。どうせ首都が壊滅するなら、ビルの中にいようが、外壁に宙づりになっていようが、結果は同じこと。同じ結果なら、最後はこういう風に終わってもいいのではないか。

■日曜日、スタッフが無事に自宅へ帰りついたことを直接確認することができ、少しホッとしたが、おびただしい本数の新聞入稿原稿は、すべて吹っ飛んでしまった。毎週末に入稿が集中するのが、私どもの仕事の特徴である。彼らは毎週毎週週末の入稿に向けて、やむを得ない時は徹夜を厭わず頑張ってきた。金曜日朝からやっと入稿にこぎつけ、また入稿直前までこぎつけた時に、会社そのものが物理的に大きく揺れた。次々と悲惨な情報が飛び込んできて、これは減段か、と覚悟し始めた時、A新聞の仙台工場が稼働不可との情報。この時点で減段どころか減ページを覚悟。そして、代理店窓口担当の女性スタッフから「全てキャンセルです!」との悲痛な、たった一行の一斉メールで全ては終わった。私どもが入稿した、或いは今まさに入稿しようとしていた広告原稿が全て吹っ飛んだ瞬間である。この一週間のスタッフの苦労は、徒労に終わった。私は、皆の苦労が吹っ飛んでしまったことが無念であった。尤も、三陸地方を中心とした奥羽の人びとの、今まさに味わっている悲惨、悲痛、悲嘆に比べれば、こういうことはものの数ではない。三陸沖で発生した巨大地震は、明治にも昭和前期にもあった。しかし、今回のケースが最も規模もパワーも大きい。勤勉な日本人の中でも、特に辛抱強く、東京や中部、関西の人間に比べればどこまでも愚直な奥羽の人びと。神々は、この誠実な人びとの何を、これ以上試そうとされるのか。

■以前、本ブログで「北斗の南」と題する小シリーズを書いた。その第二回「最果てのまほろば」を、私は以下の拙文で締めくくった。

――津軽の大部分は津軽半島である。「斗南」は下北半島そのものである。米の成る津軽は、鉄を産しない。鉄の採れる下北に米は育たない。

司馬遼太郎氏は、『街道をゆく』シリーズの最後に『北のまほろば』を著した。日本には旧石器時代は存在しないという定説を覆した地の縄文期の豊かさ、中世、日本海廻りの航路の発達によって大いに交易によって栄えた津軽・十三湊(とさみなと)など、かつての繁栄に思いを馳せ、この地は「まほろば」と呼ぶに相応しい地ではなかったかと問いかける。今一つ加えるべきは、「斗南」が具現した誇り高き精神の豊かさではないか。つまり、津軽・下北は、「ヤマセ」にも「ケガヅ」にも屈しなかった「精神のまほろば」と呼ぶべき地ではなかったか。

以下は、司馬遼太郎氏が『北のまほろば』の巻末に掲載した野沢小学校一年生の少女の詩である。

きのうね

おとうさん

いっちゃった

ひとりででかせぎに

いっちゃった

ほんとに

いっちゃった

おうまさんに

なるって

いっていたのに

■また、「北斗の南」第三回「りんごの涙」は、以下のように稿を閉じた。

――日本人でありながら、何県がどこに在るか、地図上でそれを指し示すことが出来ない物知らずが極端に増えているが、青森県だけは例外で、その位置の認識度は常に一、二位を争う。言うまでもなくそれは、そこが本州最北端「北斗の南」に位置するからに他ならない。そして、「津軽」「リンゴ」という言葉は、日本人にとって「故郷」を象徴する言葉となった。「近江」と言ってもそれがどこのことか分からない者でも、「津軽」と言えば分かることも多い。

しかし、荒蕪の地の殖産を図って導入されたリンゴ栽培には、苦労が多い。「花摘み」「摘果」、そして「玉まわし」。有袋栽培では、袋をかける。これらの労苦も、台風の直撃を受ければ一発である。私も、少年時代に我が家の桃の袋かけに精を出した記憶がある。繊細な果実一つ一つに、丁寧に袋をかける。家族総出のその苦労は、伊勢湾台風で吹き飛んだ。稲であれ果物であれ、ものを栽培するとはそういうことである。平成三年九月、台風十九号が青森県のリンゴ園を直撃、これを壊滅させた。この時の様子を描いた子供たちの作文を、司馬遼太郎氏が『北のまほろば』で紹介している。それを孫引きさせていただき、「リンゴ」の稿を閉じる。

――三和小学校四年澤田龍太君のお母さんは、黒い雲の空を見上げて、手を合わせておがんでいた。「目には いっぱい なみだがたまっていた」という龍太君の詩の一部を、以下拝借する。――

ぼたぼた ぼたぼた

畑でりんごの落ちる音がする

赤い大きな「世界一」が

ふくろのかかったままの「むつ」が

風にたたかれて

枝からはなれていく

ぼたぼた ぼたぼた

りんごの落ちる音は

お母さんのなみだが 落ちる音だ

「故郷」とは、悲しみの堆積である。つまり、「津軽」も「斗南」も、悲しみの堆積の上に人を魅了する花を咲かせた土地であると言えるのではないか。

■この度の奥羽の悲劇は、津軽や下北だけでなく奥羽全域の涙を枯れさせてまだ容赦のないほどの強烈な悲痛の塊りであった。奥羽の人びとは、奥羽越列藩同盟の敗北によって悲惨を味わい、毎年のように台風で大きな被害を受け、度重なる大地震に泣いた。それでも、決してかつては「まほろば」であったであろう故郷を捨てず、むしろその自然を慈(いつく)しんで永く、誇るべき歴史を刻んできた。

秋津島の神々に問いたい。この、朴訥で、誠実に生き、決して華やかではないが地に足をつけて揺るぎのない生を紡いできた人びとに、あなた方は一体どこまで試練を与えようとされるのか。この上、何を試そうとされているのか。この地の人びとは、決してあなた方を恨まず、再び顔を上げて、ゆっくり前へ歩み出すだろう。秋津島の神々よ。もう、お分かりになったことだろう。米国『ウオールストリートジャーナル』紙も社説で高々と掲げた通り、私ども麗しき秋津島の民は「不屈」である。この地の人びとと共に、手を携えて前へ進むだろう。この際、あなた方も総動員体制でこの地の人びとと共に在っていただきたい。この神無月、あなた方の行先は出雲に非ず、今年だけはたった今「北のまほろば」へ参集されたい。

2010年4月23日 (金)

米とサムライ

改めて原点に立ち返るが、歴史を現代の論理で考えては誤りを犯す。今私たちの身近にある材料の成り立ちを、思い切り時間軸を過去に延ばして洞察してみることだ。そうすると、事の実相というものが浮かび上がることも多く、そのことがこれから先に対して有用ではないかと思えるのだ。歴史を身体で考えてみる・・・もともと本ブログは、そういう一つの試みでもあった。

改めて言うまでもなく、武士のルーツは百姓である。今の学校教育に於いてもおそらくこのことについては私どもの学校時代と変わることなく「荘園を守護することを任務としていた武士階級が~」云々などと習う筈である。百姓から生まれた武士という人種が、世界史的にみても普遍性のある精神文化を築き上げ、これを綿々と継承してきたという事実は、今の私どもの在り方を考える上でも大きな意味をもっている。周知の通り、武家が政権を担った時代は、凡そ七百年続いた。公式には、明治二年の版籍奉還同四年の廃藩置県を以て終わったことになる。この明治という時代を迎えようとする幕末の頃にも、武家を「廃業」して百姓に戻る者がいたが、それを「帰農」するという意味の表現で言い表した。「帰農」という単語が一般化していたわけではなく、文脈の中でそういう言い方をしたということだが、要は、幕末の頃でも武士自身に自分たちのルーツが百姓であるという認識が生きていたということだ。

余談ながら、近年「言葉狩り」と言われるほど日本語の使用について制約が厳しい。かつての言論統制もかくありなんと思われるほど、メディアによる規制が厳しいのである。日本の新聞社は、「百姓」という言葉を差別語だとする。「町医者」も同様である。私には、その根拠が解らない。ここ十年、二十年でどれほどの味わい深い言葉や風土に根差した単語が消えていったことか。

そのことは、今は措くとして、サムライ社会は米を基軸として成り立っていた。彼らの俸給は、何百石とか何千石というように米で表わされたことは周知の通りである。これは、石高制と呼ばれるが、この仕組みは明治になって地租改正が行われるまで続いたのである。戦国期や江戸期に貨幣経済が存在しなかったわけではないが、大名や武士の身分・身代が石高で表わされるということは、米が貨幣価値の裏づけを行っていたようなものであり、表現を換えれば「米本位制」で社会が成り立っていたと言えよう。現実に各藩は主に大坂に蔵屋敷を持ち、年貢米は蔵屋敷を通じて全国に流通した。蔵屋敷を通過した時点から、米が食糧という商品に変換されたのである。つまり、蔵屋敷は、社会の機軸価値である米を商品へと変える変換器であったとも言える。

今は、米もキログラムという西洋の単位で流通し、スーパーでも五キロ単位の袋で売られるのが主流である。コンビニになると、二キロやそれ以下が多くなる。世界に冠たる米民族であった日本人も、アメリカ統治時代の占領軍教育のお陰で尺貫法というものを積極的に放棄したが、そもそも「石」とは尺貫法における容積、容量の単位である。一石=十斗、一斗=十升、一升=十合と言っても、それを具体的なイメージで再現できるのは、せいぜい私のような年齢で、それも田舎育ちの人間に限られるだろう。そして、農家においては一俵が、もっとも強く意識する単位であった。一俵とは、小泉元首相が引き合いに出したあの「米百俵」の「俵」のことで、文字通り米俵(こめだわら)一個を指す。では、一俵は「石」や「斗」で表わせばどうなるのか。平安時代中期に成立した「延喜式」では、五斗と規定されている。ところが、その頃の一斗や一合は現在のそれとは量が異なるので、注意を要する。私の少年時代の記憶に拠れば、一俵は四斗であり、その重さは六十キロであったと思う。「俵」という文字が人偏でできていることに繋がるが、元々「俵」とは、標準的な人間が運び切ることのできる荷物の重さから成立したとされている。六十キロとなると、これを肩まで持ち上げることも容易ではないが、私の少年時代には小学校六年生から中学生になった頃にはそれをできることが一人前とされ、私も六年生になってはじめて米俵一俵を肩まで持ち上げることができるようになった。

我が国固有の文化は江戸期に完成し、成熟したが、この時期に貨幣経済は大いに発達したものの、実態が「米本位制」であったことは述べた通りである。江戸末期に薩摩と共に幕府を倒すことになる長州藩(萩藩)は三十七万石であった。これは「表高」であって、「内高」は七十三万石と言われた。名目は三十七万石だが実質は七十三万石ということで、実質が名目のほぼ二倍である。これは、長州・毛利家が、関ヶ原で敗れて周防・長門三十七万石に押し込められて以来というもの、せっせと干拓事業を行い耕作地を増やしたことが大きな要因となっている。大名の石高というものは、身代、即ち経済力を表わすと共に、実は軍事力をも表わすことを忘れてはならない。徳川政権における各大名は、一万石につき約二百名の軍勢を動員する義務を負っていた。今日の言葉で言う非戦闘員も含む、この二百名の構成については省略するが、とにかく有事に際して二百名を動員することは領国を与えられた時の前提条件である。この時代、大人一人が一年間に食べる米は一石とされた。つまり、一万石なら一万人を養うことができるとされたのである。しかし、一万石すべてを年貢として取り立てるわけにはいかないから、年貢率を勘案し、動員義務としては一万石につき二百名としたのである。時代が下って明治の後半、陸軍参謀本部は我が国の戦史を詳しく研究した。このことは昭和陸軍にも受け継がれたが、戦国期の兵力計算を行うに当たって陸軍参謀本部は、石高から兵力を割り出した。その基準は、一万石につき二百五十名の動員力がある、というものであった。参謀本部による膨大な戦史は、すべてこの基準に拠っている。例えば、以前触れたが、織田信長の覇権を決定づけた「姉川の合戦」とは、浅井・朝倉連合軍織田・徳川連合軍の、北近江・姉川を挟んでの激突であるが、その時点での織田領は尾張・美濃・伊勢から南近江までを合わせて二百四十万石、即ち動員力は六万人である。同様に、徳川は六十万石、一万五千人、対する北近江・浅井家は三十九万石、九千七百人に過ぎず、朝倉は八十七万石、二万二千人弱となる。実際にこの戦線における兵力は、織田・徳川連合軍が二万八千、朝倉は一万弱の援軍を送った。そして、信長の矢面に立った浅井は九千弱と、総動員態勢でその命運を賭けたのである。

米は、完全食品であると言われる。私は栄養学に疎いから、その方面から米を論じることはできないが、蛋白質は勿論のこと脂肪まで含まれているとなれば、納得せざるを得ない。確かに実感として、米さえ食べていれば大丈夫という、妙な安心感がある。その米は、食糧であるから人口を左右し、戦国期には動員兵力を左右し、結果的に江戸期においては政治力にも抜き差しならぬ影響を与えたのである。日本列島の縄文期の人口のピークは二十六万人、末期には八万人にまで減少したとされる。これが、稲作の始まった弥生時代になると増加に転じ、六十万人にまでなった。私ども日本人の固有の文化は、この弥生時代に始まったと言っていい。順調に伸びた人口は、平安末期から鎌倉時代にかけて一度減少する。これが再び増勢に転じ、一気に一千万に達したのが戦国を含む室町時代である。この時期、米の大増産が続いたことがその要因である。合戦に明け暮れ、国土も荒れ、人口が減少したということはなく、実態は真逆であった。

日本固有の文化の一つの象徴として「サムライ文化」などと言う。そのサムライは、米を作る農民から発生し、米本位制とも言うべきシステムの中で独特の精神文化を発育させた。つまり、サムライ文化とは「米文化」に他ならないのだ。武士道というものが高い精神性を帯びていることと、自然の意思によってのみ成立すると考えられてきた米という、より多くの人口を養うことのできる食物の存在は、決して無関係ではないことを知っておくべきだろう。

2009年10月19日 (月)

北斗の南(其の三 ~りんごの涙~)

♪ りんごの ふるさとは

北国の果て

うらうらと 山肌に

抱かれて 夢を見た

あの頃の思い出 ああ今いずこに

りんごのふるさとは

北国の果て ♪

言わずと知れた、美空ひばりの名楽曲『津軽のふるさと』である。「昭和の歌姫」をはじめ、さまざまな形容を以て称えられるこの天才歌手には、数え切れないヒット曲があり、シングルの累計売上は八千万枚と言われるが、年代的にその多くをカラオケで歌うことが出来る私は、この『津軽のふるさと』が最高の作品だと思っている。YouTubeでいつでも聞けるので、ご存じない若い方には試聴をお奨めしたい。作詞・作曲は米山正夫。美空ひばりと言えば、やはり米山正夫である。歌詞の二番に、

  ~晴れた日は 晴れた日は

船が行く 日本海 ~

というフレーズがある。一番の

  ~うらうらと 山肌に

   抱かれて 夢を見た ~

同様に、この部分で彼女は、もっとも彼女の魅力が発散する声質と歌い方を示してくれる。~晴れた日は~ という段になると、「北の果てのささやかな明るさ」が身に沁み、思わずじ~んときたものである。そういう叙情歌である。演歌ではない。

この歌は、昭和二十七年にリリースされ、翌二十八年一月に発売されたが、松竹映画『リンゴ園の少女』の挿入歌として制作されたものである。同映画の挿入歌には、ほかにポピュラーな『リンゴ追分』がある。こちらは、当時で百三十万枚を売り上げるという大ヒット曲となったが、『津軽のふるさと』はそれほどは売れなかった。唄うには難し過ぎるという点も、一つの要因かも知れない。それだけに、美空ひばりの歌唱でこれを聴くと、清らかに迫るものがある。多くの歌手がこれを唄ったが、全て美空ひばりの域には達していない。叙情歌は特に、楽譜に忠実というだけでは成立しない。歌唱力がある、というだけでも成立しない。風土と時代の空気を発散できないと、単なる平板な学校唱歌に終わってしまう。『津軽のふるさと』は、美空ひばりが唄ってこそ、名曲なのだ。

余談ながら、私より九歳年上の彼女は、平成に入るや否や五十二歳という若さでこの世を去った。まるで平成という時代を拒否するかのように逝ってしまった。石原裕次郎も五十二歳で他界した。このことが、私をして書籍版の最後に『行き過ぎて』と題する一節を書かせた。その背景に「原田五十二歳にて逝去」説が私の周りに存在したのである。古くは常盤御前が五十二歳、高村智恵子が五十二歳、シェークスピア、クリスチャン・ディオール、ロンメル将軍、皆五十二歳で逝っている。「お前とどう関係するの?」と問われると、全く返す言葉の一言もないが、当初の覚悟からすれば、実際のところ私は行き過ぎてしまっている。そして、なお「無駄な抵抗」を続けている。

ともかく、歌詞の冒頭にもある通り、津軽はリンゴの国でもある。しかし、津軽のリンゴは、それほど永い歴史をもっている訳ではない。

リンゴが津軽に登場したのは、御一新から間もない頃、明治七~八年のことである。アメリカから入ってきた。明治四年に北海道開拓使次官;黒田清隆がアメリカから苗木を持ち帰ったのだが、その配布が始まったのが明治七~八年のことらしい。こういう経緯から、現在のリンゴは「西洋リンゴ」と呼ばれる。近年の説では、リンゴの原産地は新疆ウイグル自治区辺りだという。中国の侵略によって今は中国の一部となっているが、タクラマカン砂漠の北からシルクロードに沿って中国に入ってきたようだ。中国はもっとも早くリンゴに接した地域らしく、今でも世界第一位の生産量を誇っている。アメリカやフランスがこれに次ぐ。日本では勿論青森県であり、全国の五十パーセントを占める。

今のリンゴが、明治初年にアメリカからもたらされた西洋リンゴであることは明白な史実であるが、「林檎」という言葉が既に平安時代に存在したことが判っている。つまり、これは中国から入ってきたものである。これら、「西洋リンゴ」が入ってくる以前の在来種を総称して「和リンゴ」と言う。かつて和リンゴは、都内外でも植えられていたようだ。嵯峨野・小倉山二尊院のそれが今日で言えば“ブランド”的価値をもっていたらしい。江戸期に至るまで、京都はリンゴの有数な産地であったという。

明治の新政府や明治人は、多くの造語を作り、翻訳の名人であった。平成の官僚にはこの能力が全くなく、何でも英語をそのままカタカナにするだけで、この無神経というか、無教養とも言うべき感覚は民間にも定着してしまっている。現代の私たちが普通に使っている「自由」や「平等」、「権利」と「義務」、果ては「駅」や「野球」に至るまで、全て明治人の“造語”である。それに対して、平成の世では、偶々(たまたま)今、各省から出される概算要求のニュースがメディアを賑わしているが、「シーリング」などという“意味不明”な言葉が平気で幅を利かし、民間は民間で、ロクに漢字も読めない若造が「御社のソリューションにつきまして~」などと、さも仕事が出来るようなツラをして営業に回っている。

ところが、西洋リンゴの導入に際して、新政府の官吏は“勇み足”を犯した。アメリカからもたらされたこの果実に『苹果』(へいか)という造語を当てたのである。大東亜戦争に敗れた直後の私の少年時代同様、何でも西洋を模倣することが正義であった薩摩長州政府の官吏が、いくら西国・外様の出身とはいえ、我が国に『林檎』という同種の果物が存在することを知らなかったとも思えない。(その可能性もある) 恐らく、日本にあるようなちっぽけなものではなく、アメリカ生まれの大きくて立派な果物であるというような旧幕時代を蔑視する感覚から、在来種と区別する為に『苹果』という珍妙な名称をひねり出したに相違ない。ところが、『苹果』の栽培が広まり、それが普及すると自然と『林檎』という古来の名称が一般化した。大体であるが、明治の三十年代から終わり頃のことだと思われる。このことについて、司馬遼太郎氏は次のように述べている。

―りんごは、日本語として響きが美しい。賞でて発音すると、赤くて果実のはちきれそうなりんごが、まるまると目の前に生まれてきそうな感じがする。この響きのよさが、ヘイカ・ヒョウカを消滅させたのにちがいない。―(「北のまほろば」)

『苹果』という言葉が普及しなかった理由として、私は、この作家・司馬遼太郎説にもっとも説得力を感じる。しかしながら、Appleをそのまま「アップル」とせず、失敗に終わったとはいえ必死に『苹果』という言葉を編み出した明治の官吏は、そういう努力を思いつきもしない戦後や平成の官僚に比べれば、はるかに上等な人間であったとは言えるだろう。

以下は、先に述べたが、『津軽のふるさと』と同じく、松竹映画『リンゴ園の少女』の挿入歌で、その後大ヒットを記録した『リンゴ追分』の冒頭一節である。

♪ リンゴの花びらが 風に散ったよなぁ

月夜に 月夜に そっと えぇぇ

津軽娘は 泣いたとサ

辛い別れを 泣いたとサ

リンゴの花びらが 風に散ったよなぁ

あぁぁ~ ♪

作詞は、小沢不二夫、作曲はこれも米山正夫である。今、弘前市のリンゴ公園にはこの歌の歌碑が建立されている。

日本人でありながら、何県がどこに在るか、地図上でそれを指し示すことが出来ない物知らずが極端に増えているが、青森県だけは例外で、その位置の認識度は常に一、二位を争う。言うまでもなくそれは、そこが本州最北端「北斗の南」に位置するからに他ならない。そして、「津軽」「リンゴ」という言葉は、日本人にとって「故郷」を象徴する言葉となった。「近江」と言ってもそれがどこのことか分からない者でも、「津軽」と言えば分かることも多い。

しかし、荒蕪の地の殖産を図って導入されたリンゴ栽培には、苦労が多い。「花摘み」「摘果」、そして「玉まわし」。有袋栽培では、袋をかける。これらの労苦も、台風の直撃を受ければ一発である。私も、少年時代に我が家の桃の袋かけに精を出した記憶がある。繊細な果実一つ一つに、丁寧に袋をかける。家族総出のその苦労は、伊勢湾台風で吹き飛んだ。稲であれ果物であれ、ものを栽培するとはそういうことである。平成三年九月、台風十九号が青森県のリンゴ園を直撃、これを壊滅させた。この時の様子を描いた子供たちの作文を、司馬遼太郎氏が『北のまほろば』で紹介している。それを孫引きさせていただき、「リンゴ」の稿を閉じる。

――三和小学校四年澤田龍太君のお母さんは、黒い雲の空を見上げて、手を合わせておがんでいた。「目には いっぱい なみだがたまっていた」という龍太君の詩の一部を、以下拝借する。――

ぼたぼた ぼたぼた

畑でりんごの落ちる音がする

赤い大きな「世界一」が

ふくろのかかったままの「むつ」が

風にたたかれて

枝からはなれていく

ぼたぼた ぼたぼた

りんごの落ちる音は

お母さんのなみだが 落ちる音だ

「故郷」とは、悲しみの堆積である。つまり、「津軽」も「斗南」も、悲しみの堆積の上に人を魅了する花を咲かせた土地であると言えるのではないか。

2009年10月13日 (火)

北斗の南(其の二 ~最果てのまほろば~)

「六十余州三百諸侯」と言う。天下が落ち着き、所謂幕藩体制の固まった頃、この島国には凡そ六十の国があり、三百人の大名がいたことを言っている。現在、我が国は、行政単位として四十七の都道府県を置いているから、江戸期の国と現在の都道府県はそのまま合致しないことになる。それでもまあ、約六十と四十七であるから、大体のところ江戸期の国が現在の県や府になっていると言えるだろう。私の育った近江も、周囲を伊吹山系を中心にして南へ鈴鹿山脈、西へ比良山系から叡山とほどほどの山並みに囲まれていることもあって、ほぼそのまま現在は滋賀県になっている。しかし、近江に限らず、御一新直後はこの点も混乱していた。

王政復古の後、版籍奉還が行われたのは明治二年のことである。そして、新政権が廃藩置県にこぎつけることが出来たのは、更に後、明治四年の夏のことになる。つまり、274大名による版籍奉還は、廃藩置県への過渡的措置とも言える。実は、「藩」という言葉は、この版籍奉還の時に創られたものである。江戸期には、漢籍に通じた一部の学者が「藩」という言葉を使った事例が存在するが、一般にはそういう言葉は存在しなかった。この言葉は、当然廃藩置県によって、公的には消滅する。即ち、公的という部分に限れば「藩」という言葉は、日本史の中で僅か二年の命しかもたなかった言葉なのだ。江戸期の大名家家中のことについて述べる時、私も便宜上「彦根藩」だとか「長州藩」などという言い方をするが、幕末以前にそういう言葉はなかったということだ。見方を変えれば、大名家を廃止するために新政権が便宜上創った言葉であるとも言える。換言すれば、「廃藩」するために「藩」という一言で済む言葉を創ったと言ってもいい。

以前にも触れたが、「明治維新」という言葉も、昭和になってから出来た言葉である。往時の言葉は「御一新」であり、これは「大政奉還」「版籍奉還」「廃藩置県」という一連の出来事の総称である。即ち、後に言われる「明治維新」とは、煮詰めると「大政奉還」と「版籍奉還」とから成る政治改革である。新政権は、中央集権体制を固めるためにどうしても廃藩置県を断行しなければならなかった。ところが、徳川政権を倒したものの、この頃の新政権は混乱の極みにあった。万事に急進的な木戸孝允大久保利通の対立、大隈重信の有能な旧幕臣登用策が理解できず、薩摩のみの人材登用に固執する大久保、大久保が自己勢力保持のために国許から引っ張り出してきた西郷隆盛の「西郷吉之助意見書」による、三井を中心とする大商人と癒着して私腹を肥やす井上薫伊藤博文批判、新設されようとする御親兵を己の勢力下に置こうとする山縣有朋・・・こういう中で長州藩;大楽源太郎の反乱、大楽一派による広沢真臣暗殺事件「二卿事件」と言われる公家による新政府転覆計画の発覚などが相次ぐ。今回は、この経緯を一切割愛し、先を急ぐ。

とにもかくにも、西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信、三条実美岩倉具視、大久保利通、板垣退助西郷従道大山巌、井上薫、山縣有朋が“大同団結”する形で、明治四年、「第二のクーデター」と言われる「廃藩置県」が断行された。明治二年の版籍奉還によって、土地(版図)と人民(戸籍)は形式上新政府の所管となったが、実際は各大名が「知藩事」として従来の版図を統治していた。つまり、江戸期と何ら変わっていなかったのである。旧天領や直参旗本の所領のみが新政府直轄地となり、新政府任命の知府事知県事が派遣された。「府藩県三治制」とは、こういう実態のことを指す。天領や旗本直轄地には飛地が多く、藩の中にも飛地をもつところは多い。版籍奉還とは言っても、時の新政府には幕府ほどの政治的権威と統治能力は全く備わっておらず、新政府は混乱の極みにあった。この時、『全国一致之政体』なる建議書を提出し、一つの方向感を示したのが大隈重信である。

明治四年七月(新暦八月終わり頃)、新政府は在京56藩の知藩事を突如皇居に召集し、廃藩置県の詔書を発した。知藩事となっている大名側からすれば、まさに突然のことで、「第二のクーデター」と言われる所以である。詔書の内容は、

・藩を廃止する

・知藩事(藩主)は東京に居住すること

・藩に代わって県を置く

・各県に県令を置く(新政府から派遣する)

・各藩の藩札を廃止する

というものであった。この時点で、大名は失職した。(これが後の華族である) 一つ一つが「御一新」の名に相応しい大変革であるが、もっとも混乱を助長したのが藩札の廃止である。この件だけで論文の一つや二つでは語り尽くせない問題を抱えており、また新たな問題も発生させており、経済の不得手な私には手が負えない。ただ、「大名貸」を行ってきた商人が数多く破産する中で、藩札廃止直前に藩札を増刷して私腹を肥やした大名と家臣がいたことは事実である。この種の、武家にあるまじき“インサイダー”行為を為し得た藩主と家臣団とは、一体どこの藩か。併せて、混乱に乗じてのし上がった商人はどこの誰か。事は「第二のクーデター」と言われるほどの突如とした施策であった筈である。

また主題のための前置きが長くなり過ぎた。話は、混乱と腐敗に塗(まみ)れた中央から遠く離れた津軽の続きである。

私たちは、津軽=青森県と簡略に受け留めてしまうが、現在の青森県は、旧津軽藩と旧南部藩の一部が合体して成立している。乱暴に言い切れば、日本海側半分が旧津軽藩、東側半分が旧南部藩と考えていい。このことは、青森県内で永く意識されてきた。平たく言えば、同県内で津軽人と南部人は仲が悪かったのである。しかし、この対立は「仲が悪い」という表現で済まされる程度のものであり、決して過激な対立抗争を生んだ訳ではない。

津軽は、もともと南部氏の勢力下にあった。織田信長の覇権が成立しようかという時、津軽為信(大浦為信)が南部氏の出城;石川城(石川高信)を落として独立した。このことを、南部人は、津軽為信が南部領を掠め取ったと言う。津軽人は、それに反論しない。おそらくそれは、石川城攻めに於ける津軽為信のやり方が「だまし討ち」のような格好をとったからであろう。しかし、時は元亀年間に入っている。戦国のピークであり、親が子を、子が親を討つ乱世である。にも拘わらず、津軽人が、平成の今でも津軽為信の南部氏からの独立を後ろめたい気持ちで受け留めているところに、奥羽の純真さが感じられる。もっとも奥羽には伊達のような摩(す)れた大名もいるから、このことは功利性というものを徹底して忌み嫌う津軽人独特のものかも知れない。津軽為信は、秀吉の小田原攻めに際しては小田原まで出向いて秀吉の傘下に入り、関ヶ原の際には二千の兵を率いて家康方として参戦した。津軽氏の身代からすれば、二千という兵力は驚異的である。それほど津軽為信という人物は“営業的”“外交的”な武将であったと言える。辺境の地にあって、何とか南部氏から独立し、安堵を得たいという思いがひしひしと伝わる。それは、健気(けなげ)と表現したくなるような努力であった。日本七名城に数えられる弘前城は、津軽為信・信枚(のぶひら)二代を経て完成するが、この城も津軽氏の身代からすれば過分なものであった。津軽氏の石高は四万七千石、後に十万石となったが、創った城は三~四十万石クラスの規模をもつ。よく幕府がこれを許したものだと不思議な気がするが、これも津軽為信の外交努力の成果と言うべきで、家康も大目に見たということであろう。結局、強大な南部藩に飲み込まれることなく、幕末期のこの地には、盛岡藩二十万石、弘前藩十万石、そして、盛岡藩の支藩として八戸藩二万石、七戸藩一万石、弘前藩の支藩;黒石藩一万石が存在した。

戊辰戦争後、盛岡藩は大幅に減封され、そこへ会津藩三万石が“移住”してきた。四十五万石の雄藩が、米の育たぬ下北半島へ流されてきたのである。下北半島という“流刑地”は、新政府が強制したものではない。新政府は、猪苗代か下北かの二者択一を迫った。三万石という石高に情状の余地はない。私は、下北を選んだことも会津らしいと思っている。

会津は「斗南藩」(となみはん)を名乗った。新しく創った藩名である。「斗」は「北斗七星」を意味する。つまり、「斗南」とは「北斗七星の南」=「これ以上の北はない」=「この世の最北」という意味をもっている。会津戦争については既述したが、会津は、地獄を見、体験した。その地獄を行なった者が「正義」として自分たちを裁いている。生き残った者は、もはや現世に何ものも期待する気はなくなったことであろう。いっそ流されるならこの世の果てへ流されよう。そういう心情ではなかったか。彼らが、敢えて下北半島を選んだ心情は、この「斗南」という言葉に込められている。私は、そう受け留めている。『北斗以南皆帝州』という漢詩がある。「斗南」という名称はこれから付けられたという説もあるが、実の彼らの心情はそのような平板なものではなかった筈だ。それは、どこまでもシンプルに「北斗七星の南」であったに違いない。この命名は、広沢安任(やすとう)によるものとされている。

彼らは、決して絶望のみで下北を選び、「斗南」と名乗った訳ではない。むしろ誇り高くあらねば、そういう選択は出来なかったであろう。藩士とその一族郎党の下北への旅費さえ事欠いた会津を新政府は流石に見かねて、アメリカの汽船を手配して輸送した。更に「賜米」という名目で米四万五千石を与えた。隣藩・津軽藩は更に現実的な支援をした。「斗南」成立後、千五百両を贈り、内五百両を鋤・鍬など開墾用具千挺の現物で支給してくれたのである。

「貧を誇りで耐える」のが武家というものである。会津武家の武家らしさとは、実にこの一点に尽きる。「斗南」となった下北は、その八割が森林地帯である。開墾すらままならなかった。地元民は、彼らのことを「会津の毛虫(げだか)」と呼んだ。食べられそうな草があると、毛虫のように草を食っている、と蔑(さげす)んだのである。或いは、「鳩侍」とも呼んだ。鳩の食う豆腐カスばかり食っているという、やはり蔑みの言葉である。事実、会津武士は、川を流れてきた犬の死骸さえ食ったのである。日常的には「オシメ」を食べた。「オシメ」とは、浜辺に打ち上げられた昆布やワカメを細かく刻んだものを言う。そのようにして、とにかく生きた。生き抜こうとした。こういう窮状の中で、彼らは「斗南藩」としてまず何を行なったか。新しく藩都となった田名部に藩校・日新館を再興したのである。更に、会津時代の日新館所蔵の蔵書に、新たに洋書を購入して加えたのである。見事と言うほかに、言葉がない。

「斗南藩」三万石と言うが、これは表向きの石高であり、実高は七千石もなかったと言われる。「会津の毛虫」と蔑まれ、「オシメ」を喰らって生き延びた「斗南人」から、貴族院三将軍の一人;山川浩、東京帝国大学総長;山川健次郎、陸軍大将;柴五郎、作家;柴四郎、大阪市長;池上四郎などの、明治国家を代表する傑物が出た。傑物と言うなら、ここへ広沢安任、永岡久茂を加えなければならない。広沢も永岡も、幕府昌平黌(しょうへいこう)の秀才である。これに山川浩を加えた三人が、新しい国「斗南」の国造りの方向観を設定し、実行しようとした。広沢が酪農、永岡が貿易、そして、山川が官。敢えて薩摩・長州の巣窟「官」へ山川を出す。大作『乱』を著した綱淵謙錠氏によれば、これは三人のみならず「斗南人」のコンセンサスによるものだという。この点も、見事としか言い様がない。

先に述べたような経緯によって、明治三年に成立した「斗南藩」は、僅か一年余りで廃藩置県によって消滅する。しかし、この時、この一帯は弘前県、黒石県、「斗南県」、七戸県、八戸県、盛岡県などに分かれる。「斗南」は、引き続き県として存続したのである。因みに、この時点の県は全国で3302であった。新政府の思惑を見透かした「斗南」は、直ぐ北海道に成立した館県を加えた6県の合併をリードし、ここに広域の弘前県が成立し、すぐさま名称が青森県に変更されたのである。

津軽の大部分は津軽半島である。「斗南」は下北半島そのものである。米の成る津軽は、鉄を産しない。鉄の採れる下北に米は育たない。

司馬遼太郎氏は、『街道をゆく』シリーズの最後に『北のまほろば』を著した。日本には旧石器時代は存在しないという定説を覆した地の縄文期の豊かさ、中世、日本海廻りの航路の発達によって大いに交易によって栄えた津軽・十三湊(とさみなと)など、かつての繁栄に思いを馳せ、この地は「まほろば」と呼ぶに相応しい地ではなかったかと問いかける。今一つ加えるべきは、「斗南」が具現した誇り高き精神の豊かさではないか。つまり、津軽・下北は、「ヤマセ」にも「ケガヅ」にも屈しなかった「精神のまほろば」と呼ぶべき地ではなかったか。

以下は、司馬遼太郎氏が『北のまほろば』の巻末に掲載した野沢小学校一年生の少女の詩である。

きのうね

おとうさん

いっちゃった

ひとりででかせぎに

いっちゃった

ほんとに

いっちゃった

おうまさんに

なるって

いっていたのに

2009年10月 8日 (木)

北斗の南(其の一 ~津軽の反骨~)

もっと「長い時間軸」を引いて物事をみないと、今現在の問題の本質も解らない・・・そもそも本ブログは、この思いから始まった。日本人は、「長い時間軸」を引くということが苦手とみえる。歴史は、決して点でみてはいけない。今の価値観でみてもいけない。仕事の上で私は、現状の課題解決には今の「時代の気分」というものを認識する必要性があることを繰り返しアピールしているが、過去については、可能な限り「その時代の空気」を洞察しないと、その過去を見誤る。このエッセーブログの話題は、幕末動乱であったかと思うと近江の武将たちへと飛び、ここのところは“忍者”である。散漫ではないかとお叱りを受けそうだが、「その時代の空気」とは断片的な話を積み上げた方が感得し易いのである。何故かと問われれば、生身の人間のことだから、としか答えようがないが、学術的に論理が合う話だけを繋いでも、そもそもが過去の事象のことであるから「その時代の空気」とは無縁の世界へ導かれるだけなのだ。逆に、連想ゲームのように、「土佐と言えば中岡慎太郎という庄屋上がりがいてさ~」「庄屋と言えば、名字帯刀を許された名主の何某が~」「本来、刀というものは~」「戦国の合戦では打ち刀で戦死した者は殆どいない~」という具合に話・話題をどんどん繋いでいくと、そのうちに全てが整理されてくるものである。「その時代の空気」とは、そうやって話題の世界へ入り込んでいくと次第に輪郭を表し、匂いまでもが漂ってくるものだ。エッセーという形態も、こういう場合は捨てたものではない。世に多く行われている史実を歪めるという“作業”は、過去の事象を現代の価値観に合わせて語ろうとすることを言う。その端的な例が「大河ドラマ」であるが、そのことはエンターテイメントの世界のこととして捨て置くとしても、心がけるべきは、現代の価値観が「正しい」などとゆめゆめ考えないことだ。それは、「無知の為せる傲慢」というものである。

こういう「無駄な抵抗」を続けて、私はどういうゴールへ辿り着こうとしているのか。それが、ようやくおぼろげながらみえてきた気がする。大層な言い方をすれば、明治維新の否定である。あの動乱・殺戮を経なくても、我が国は立派に近代へ突入していたということだ。官軍教育を受けて半世紀、ゴールに近づくのに時間がかかり過ぎたようだ。早くやらないと余命が尽きる。

とは言っても、私は古いタイプの長距離選手で、ダッシュが利かない。中学生の時、マラソンの後に八百メートルのレースに出場したことがある。マラソンでは校内で一、二を争う力をもっていたが、八百メートルという中距離は非常に難しく、マラソンとは走り方そのものが異質なのだ。マラソンの疲れもあって、私は最初から最期まで同じペースで走って敗れ、担任から呼び出しを喰らった。曰く「真剣に走っていない!」 確かに私のペースは、四百メートル辺りまでは、「おっ、あいつ、力を後半に残して走っているな!」などと、後半にペースアップするだろうという期待を以てみられるのだが、当の本人は違うのだ。本人は精一杯であって、見事に最後まで同じペースでしか走れなかったのである。これを、スポーツを知らない担任に説明しても無駄である。

話が思い切り逸れたが、要は本ブログに於いても今日から急にダッシュして「明治維新は間違っていた」などと急いて話を進めるつもりはない。引き続き一つ一つ、「あの時」のエピソードや事件などを、出来るだけじっくりと考えていきたい。走り過ぎては、匂いを嗅ぐことが出来ない。結果として、薩摩・長州の創った今の世の中に対する疑問、創る過程の史実が少しでも広く伝播していけば十分満足である。

話は津軽のことである。娘から久しぶりにメールが届いたのだ。

こういう言い方が、既に飛躍している。若干順序立てると、娘が血液型のことを話題にした。血液型については、これも書籍版で既に散々クダを巻いた記憶があって、慌てて書棚から引っ張り出してみると、かなり冒頭に近い部分でそれをやっていた。(P26~『B型人間の悲劇』) 娘もB型であり、夜のメール会話は「B型、万歳!!」で終わった。この時、巷間言われるB型の特性から「反骨」という言葉に連想が飛び、「反骨」が「津軽」へと飛躍していったのである。

ついでながら、近所にB型ばかりが集まる奇妙な飲み屋がある。オヤジもオカミさんもB型で、常連客の殆どがB型なのだ。オヤジとオカミさんも、オヤジと客もよく喧嘩をしている。「お前はB型で頑固だからいけね~んだよ!」と喚いているオヤジが頑固この上ないB型なので、この店は救いがないのだが、私もB型なので「正調B型人間」として一応付き合っている。

B型のことはともかく、またB型飲み屋のことは措くとして、津軽は反骨の人を輩出する地である。但し、津軽の反骨とは、決して過激ではない。屈することを余儀なくされる自然風土の所為(せい)か、じっと我慢しているという風であり、かといって屈服したわけではないという、そういう反骨である。

葛西善蔵、太宰治、石坂洋次郎、棟方志功、寺山修二・・・この地は、こういう人々を輩出した。広く理解されているところに従えば、太宰は、己の生活を破滅させ、そのこと自体を書き物の情景とした。典型的な「私小説」である。これには「お手本」があって、葛西善蔵の自己破滅型の生き方と、それを表現することが芸術だとする在り方の強烈さは太宰の比ではない。太宰は葛西善蔵を徹頭徹尾真似ようとしたと思えるほどである。太宰の生き方はともかく、私はその作品を殆ど評価していない。評論家は、太宰の作品評を書きながら、実はその生き方に感動して一文を書いているケースが殆どである。短編の名手などと評されることが多いが、どうであろうか。彼は、長編が書けなかった人である。(太宰評論家には単なる「太宰フリーク」が多い)しかし、太宰という人は、どこか惹かれるものをもっている人ではある。井の頭公園・万助橋から少し三鷹寄りに入った辺り、即ち太宰フリークにとっての一つの聖地は、今は小奇麗な住宅地に変貌しているが、それでも明日の糧の思案を放棄して酒に走った太宰の匂いが微かに残っているような気がする。太宰の作品に『津軽』があるが、これは太宰作品の中では数少ない「いい作品」である。これを書いた時期(昭和十九年)の太宰の気分は、落ち着いている。そのことが、持前の明るさや心地良い程度の“反骨”を感じることが出来る要因であろう。因みに、太宰作品の中で秀作を挙げろと言われれば、私は躊躇なく唯一つ『東京八景』を挙げる。

太宰という人間は、相手が例えばタバコ屋のオバさんや馬喰なら

『長州や薩摩というのは、流石、偉いね~』

などど言うに違いなく、相手が帝大の教授なら、薩長をこき下ろす。そういう人間である。司馬遼太郎さんも『北のまほろば』の中で、そのようなことを言っていた筈だ。彼の『津軽』にあるように、津軽藩は幕末維新に何か行動を起こしたかと言えば、「大勢に従っただけ」で特に何もしていない。しかし、太宰は言う。

『何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ』

津軽には、「ケガツ」(飢饉)がある。夏、オホーツクから冷たい「ヤマセ」が吹くと冷夏となり、これが「ケガツ」をもたらし、多くの人が死ぬ。数百年に亘る記録に拠れば、平均すると五年に一度は「ケガツ」だという。太宰は、これを、

『だらしが無え~!』

と怒り、罵る。科学は何をしているか!とも怒る。相手をする知人がなだめる。

『砂漠の中で生きてゐる人もあるんだからね』

とか、

『こんな風土からはまた独特な人情も生れるんだ』

などと言う。それでも太宰は、止まらない。

『あんまり結構な人情でもないね』

この時、知人が言った言葉こそが「津軽」である。

『それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ』

太宰の背景に、時の文学的権威である志賀直哉に対する志賀直哉批判という経緯があることを理解しておかないと、彼の心情の半分しか伝わらないところだが、太宰とは素朴である筈の郷土愛までも捻(ひね)くれてしか表現出来ない、愛すべき人間と言うべきであろう。余談ながら、津軽は攻め破られたことがないというのは、史実として正しい。

明治三年(1870年)、この本州最北端の“荒涼たる”地に、会津藩が藩ごと移住してきた。新政府による「流罪」とも言うべき処断によるものである。会津城下で徳川慶喜の身代わりとして薩摩・長州・土佐に暴虐の限りを尽くされ、二千八百戸、一万四千余名が無残な姿で大切に幼君だけを抱き、陸路・海路に別れた苦難の旅を生き延び、北の果てに辿り着いたのである。

肥沃な会津を追われた会津藩が移住してきたのは、正確には「津軽」ではない。南部藩の下北半島である。彼らは、食うものがないこの地で「斗南藩」三万石を立藩したのである。

当初の思惑とは全く違って恐縮の極みだが、この度も多少続けさせていただく。

2007年8月29日 (水)

参謀本部と統帥権(其の三)

この小シリーズの最初に、河本大作(こうもとだいさく)・石原莞爾(いしわらかんじ)・辻政信(つじまさのぶ)の三人を挙げ、日本人自身の手で裁くべき対象であると述べた。

戦勝国が敗者の中から誰かを選び、それを犯罪人として裁き、自国を正当化することには何の意味もない。従って、アメリカが誰を「A級戦犯」と呼ぼうが、それはアメリカの勝手であり、私たちがそれを認め、服従する必要は全くない。そもそも、アメリカに裁く資格があったかどうかが大問題である。

戊辰戦争に於いて、薩摩・長州が会津を落とした時、誰に腹を切らせるかが問題となった。

この問題だけで勝者と敗者との間でかなりの折衝があったが、最終的に会津藩を代表して、「官軍」となった薩摩・長州に対してその責任を一身に負って腹を切ったのは、藩主・松平容保でも一番家老・西郷頼母でもなく、四番家老・萱野権兵衛である。

松平容保は江戸にて謹慎、会津藩は、斗南3万石へ転封となって「始末」を終えた。

薩摩・長州、特に長州藩兵の会津城下での強姦・虐殺行為は戦国時代以降の歴史の中でも特に酷く、このことは今なお尾を引いているが、公式には薩摩・長州は、この「始末」で事を収めた。それは、萱野権兵衛を「血祭りにあげる」という感覚ではなかったのである。

アメリカによる「A級戦犯」の指定と処刑は、どちらかと言えば「血祭りにあげ」て、「見せしめにする」というものであり、私たちが大東亜戦争から学ぶべき後世の平和に寄与する教訓を考えるに際しては、これに目を奪われてはいけない。

上記三名の高級参謀は、国家・国民に対する犯罪人として私たち自身が処分すべき対象であり、それを終えない限り大東亜戦争の「始末」を終えたことにはならない。

この三名を知らない人の多いことに呆れるが、河本大作(大佐・関東軍参謀)は、昭和36月、南満州鉄道線路上で張作霖を爆殺した人物である。

河本が計画立案し、独立守備隊・東宮鉄男大尉、朝鮮軍・桐原貞寿中尉たちを指揮して実行したことが明白になっていたにも係らず、河本は予備役に回されるだけという軽微な処分で済まされ、関東軍内部にはむしろ「よくやった」的な気分が存在した。河本は、3年後には何と参謀本部に復帰している。

石原莞爾(陸軍中将・参謀副長)は、河本が張作霖を爆殺した4ヵ月後に関東軍の作戦主任参謀となり、3年後に満州事変を「実行した」人物である。

彼は、『最終戦争論』や『東亜連盟』で一部に著名であり、日支事変の際には不拡大を唱えたことや、東條英機と一貫して対立したことで評価されることがあるが、見誤ってはいけない。(アメリカが石原をA級戦犯としなかったのは、確かに、単純に東條と対立したからである)

石原は、日蓮宗系の新興宗教「国柱会」の熱心な信者であり、「国柱会」は、「立憲養正会」という政治団体を設立して政権奪取の野望をもっていた。石原の思考軸は、「国柱会」の思考軸そのものであることを忘れてはならない。彼は、戦争というものを「正法流布の戦争」と捉えていたことを無視してはいけない。陸士第21期、陸大30期のこの男をして「陸軍史上最大の戦略家」などと評する歴史家がいるが、どこを見ているかとその愚を指摘しておきたい。

因みに、石原に師事した者に、極真会の創設者・大山倍達、元建設大臣・木村武雄、小澤征爾の父・小澤開作などがいる。また、加藤絋一衆議院議員は親戚に当たる。

石原莞爾の側近でもあった辻政信の罪は、上記二名の比ではない。

この男一人によって、日本国家は大きな過ちを犯した国家という烙印を押されることになったと言っても、決して過言ではない。

陸軍士官学校事件、ノモンハン事変、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進事件、ポートモスビレー及びガダルカナル作戦の稚拙な無謀作戦遂行、タイ国王ラーマ8世暗殺事件等々、その謀略及び独断専横による被害者はどれほどの数にのぼるか。

数だけの問題ではない。日本史は、この男によって汚された。

この男は、ベストセラーとなった『潜行三千里』(毎日新聞社刊)をはじめ、多くの著書を残したが、嘘が多いことを断言しておく。1954年(昭和29年)のCIA文書は、辻を称して「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」と記述している。昭和29年と言えば、戦後9年も経っている。私は、小学生だった。

実はこの男は、戦時中多数の日本軍兵士をも死に追いやりながら、戦後、衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めているのだ。この国家犯罪人を議員として選んだのは、旧石川1区である。戦後日本人は、この男を裁くどころか、選良として国会に送っているのである。

司馬遼太郎氏は、ノモンハン事変の資料を大量に収集していたが、遂に書かなかった。「余りにも汚くて、書く気になれなかった」のである。この事変は、辻が勝手に作成し、関東軍司令官の名で独断によって布告した『満ソ国境紛争処理要綱』によって引き起こされたものである。東京の参謀本部が電報で「中止」を命令したにも拘らず、辻はこれを無視し、「作戦続行」との返電を打ち返した。その電文決裁書の課長・参謀長・軍司令官の欄には、全て辻の印が押されている。この国家的越権行為は、陸軍刑法の檀権罪(せんけんざい)に当たる重罪であり、即刻処刑の筈である。

対英米戦争開始時の陸軍の作戦は、殆ど全て、辻・服部卓四郎・田中新一ラインで策定されている。(服部は戦後昭和27年、吉田茂の暗殺を図った人物) 当時、「マレーの虎」と称された第25軍司令官・山下泰文は『この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり』と日記に記している。

辻のことは、これ以上書きたくない。反吐(へど)が出そうである。しかし、どこかで顔を背けることなく彼の罪業を整理することこそ、私たちの責務であろう。

辻は、昭和364月、東南アジア視察の名目で日本を発ち、ラオスで消息を絶った。イギリス軍による暗殺、CIAによる暗殺、パテトラオによる処刑などの諸説があるが、真相は不明である。エジプトでナセル大統領の顧問になったとの説もあるが、ナンセンスである。

失踪期間中も彼の参議院議員資格は、昭和40年の任期一杯まで保たれ、裁判所が昭和437月付けに遡って死亡宣告を出したのは、私が社会人になった昭和44年のことである。

辻の命令系統を無視した専横によって窮地に陥った部隊、壊滅した部隊は数知れず、その責任をとって自害した指揮官は多い。何よりも多くの兵士が「犬死」した。

一方で、辻だけでなく、石原も河本も、戦後まで生き延びている。

辻も陸士を主席で卒業しているが、昭和陸軍とはこういう人物が重きを為すことが出来た組織だったのだ。

師団単位で言えば、この男のルーツは第9師団(金沢)であるが、それは私の父親のいた師団でもある。(連隊が違うのが、せめてもの救いである)

三名の国家犯罪人を生んだ参謀本部とは、本来は高級指揮官の作戦指揮を補佐する為の合議機関である。

ここで言う高級指揮官とは、師団長・旅団長・連隊長・大隊長を指す。そして、軍事組織に於ける指揮系統とは厳しく単一であることが大原則であり、参謀本部には一切の指揮権はない。

日本では、昭和に入ってからは「参謀本部」とは陸軍の参謀本部であり、海軍は「軍令部」がそれに当たる。

どの国家でも、民族の特質は陸軍に於いて顕著に顕(あらわ)れる。司馬遼太郎氏が「奇胎」或いは「鬼胎」と呼んだ昭和初期の20年間とは、参謀本部が憲法に違反し、統帥権を私して専横を極め、日本的倫理観を完璧に放棄したという点で、まさに「奇胎」であり、そこには長い歴史をもつ民族としての連続性が見出せない。

一方の海軍というものは、どの国でも一定以上の軍事機能をもつ海軍を保有することが不可能である為、自ずと国際的に標準化され、特に日本の場合は陸軍とはまるで異民族のように「国際性」を備えていた。但し、やはり昭和海軍の軍令部は、陸軍参謀本部の狂気が伝染していた部分がある。

昭和161212日の閣議決定がある。

『今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴ひ生起することあるへき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す』

つまり、大東亜戦争とは中国戦線をも含む呼称である。

因みに、宣戦布告のあるものを「戦争」と言い、それがないものを「事変」と呼ぶ。従って、「日中戦争」なる戦争は存在しない。

なお、アメリカサイドでは『第二次世界大戦太平洋戦線』と呼称する。

満州・北支で私的動機、私的欲求によって、憲法を無視して戦争を企図し、実行に移した上記代表三名を、大東亜戦争に関わる国家犯罪人と断罪する所以である。

2007年8月19日 (日)

参謀本部と統帥権(其の二)

司馬遼太郎さんは、私にとっては大学の大先輩に当たる。

当然のことだが、私が、大方に於いて司馬さんの説に肯定的であるのは、何も司馬さんが大学の先輩だからということではない。学校の先輩というのは、大概ロクでもない者が多く、例えばもっぱらテレビ朝日に出演し、ロレツも回らない口でわめき散らす「非論理」を地でいく自称ジャーナリスト・評論家がいるが、あれは高等学校の先輩に当たり、我々は母校の恥と呼んでいる。

司馬さんの優れているところは、何よりもレベルの高いジェネラリストである点であり、所謂その博学は「智の巨人」と称される所以である。

明治維新以降の我が国の近代史に触れる時、常に私の言う「長い時間軸」の裏付けを以てそれを語れる人は司馬さんを措いてほかにいない。知る限りの学者には、それは無理である。

その司馬さんが悩み抜いて、昭和の一桁から二十年を「異胎」とか「奇胎」或いは「鬼胎」と呼んだ。

その意味は、永い日本民族の歴史に照らして、民族としての「連続性をもたない時代」ということである。

司馬さんは言う。

――昭和十年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺(やくさつ)されたといっていい。このときに死んだといっていい。

私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。ところが、昭和十年から同二十年までのきわめて非日本的な歴史を光源にして日本史全体を照射しがちなくせが世間にあるように思えてならない。この十年間の非日本的な時代を、もっと厳密に検討してその異質性をえぐりだすべきではないかと思うのである。

私は、常に「戦前」という一つの言い方でそれなりに長い時代をひと括りにして、日本の近代史を教条的に語るスタンスを非難してきたが、上記のことはそれと同じことを指摘している。

昭和の前期二十年を、日本民族の歴史としては「突然変異」とでも見る方が、学問的にはまだ正常であるとも思う。

この点は「司馬史学」の大前提となるポイントでもあり、このことを、常に心に留めておきたい。

司馬さんという人は、時折古本屋でとんでもない書物を発見する人でもあった。

それだけレベルの高い古本屋を頻繁に訪れた証明でもある。

『統帥綱領・統帥参考』の偕行社による復刻版もその一つである。

復刻版とはいえ、『統帥綱領・統帥参考』という書物(と呼んでいいものかどうか)は、尋常なものではない。

書名からして、昭和三年にまとめられた「統帥綱領」と、同七年の「統帥参考」を合本したものだと思われる。

誰が「まとめた」のか。

参謀本部である。

敗戦に当たって、全て焼却されたと言われている参謀本部の機密中の機密資料が、何故こういう形で残っていて、姿を現したのか。

そこには、実にとんでもないことが書かれている。

・統帥権の本質は力にして、其の作用は超法規的なり

・(統帥権は)輔弼(ほひつ)の範囲外に独立す

・統帥権の行使及び其の結果に関しては、議会に於いて責任を負わず。議会は軍の統帥・指揮並びに之が結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず

・参謀総長・海軍軍令部長等は、幕僚にして憲法上の責任を有するものにあらざるが故に~

・兵権を行使する機関は、軍事上必要なる限度に於いて直接に国民を統治することを得

どの項目をみても、明白に『帝国憲法』(明治憲法)に違反している。文脈の中でみる必要もなく、箇条書きにするだけで(明治憲法に対する)その違法性は明々白々と言うべきである。

日教組の教育を受けた殆んど全ての戦後日本人は大きな誤解をしているが、明治憲法とは三権分立を確固と定めた優れた憲法である。

第一条の上っ面だけを読み、これを天皇が臣民に下賜した時代遅れの「欽定憲法」だとする日教組の教育は、常軌を逸した詭弁教育と言うべきであり、今のGHQ憲法を「民主憲法」として子供の柔かい頭に刷り込む“反面道具”とする為の解釈としか考えられない。(私もその教育を受けた)

明治憲法に於いては、天皇に国家行為を行う権限は存在せず、従って責任も存在しない。それは、天皇を輔弼する各国務大臣の権限と責任である。

このことは、明治後期・大正期を通じて日本の官僚たちや教育者たちが等しく教育された美濃部達吉博士の憲法解釈にある通りであり、大東亜戦争直前に於いてもなお、美濃部学説というものは日本の官僚や教育者にとって言わば常識であった。

司馬さん自身、昭和十五年に旧制中学で憲法の講義を受けているが、三権分立の正しい解釈と国務大臣の輔弼に関しての講義を受けたことを回顧している。(『この国のかたち』)

現在のヨーロッパの主要国と同じ立憲君主制をとった明治国家は、長州の伊藤博文以下が苦労して、長い時間を費やして「日本語的発想」の文章を以てその国体を成文憲法に反映させた。正しく解釈すれば、天皇独裁が入り込む余地は全くなく、益して統帥権が「輔弼の範囲外に独立す」などという解釈はどこからも出てこない筈である。

参謀本部は、上記文書を機密文書とした。

機密にするしかないだろう。参謀総長や海軍軍令部長が幕僚(天皇のスタッフ)だから憲法上の責任を有しないなどという言い草は、当時の中学生でも目をむいて驚く筈である。

参謀本部は、上記のような憲法の「私的な解釈文書」を機密資料として作成し、しかも参謀本部全体に流布させることもせず統帥に関わる特定将校のみに閲覧を許すという徹底した機密主義を貫いた。

美濃部博士と並び称される憲法学の権威;京都帝国大学の佐々木博士も上記文書にある統帥権の独立について、

之を以て国務大臣輔弼の外に置くとするの説行わるれども、蓋(けだ)し是一の独断たるのみ、何等法上の根拠あるなし。

と明快に言い切っている。

参謀本部の一部が、このような私的な憲法解釈を行って統帥権を私し、彼らの独断行為によって満州事変、ノモンハン事変、上海事変、日支事変が勃発した。いや、彼らが意図してそれを行った。部分的には、政府、議会は勿論のこと、陸軍省や果ては参謀本部の中枢すら知らないうちに軍が動いていたのである。

そして、気がついた時、国家は対英米戦争に踏み切らざるを得ないところへ追い込まれていた。英米と戦う前に、国内的に追い込まれていたと言っていい。

このあたりの経緯は実に端折っているが、私は小学校の終り頃から繰り返し「統帥権の干犯」という言葉を母から聞かされた。母は、忌々しそうにその言葉を事あるごとに繰り返した。

昭和の高級参謀たちは、反対勢力に対して常にこの言葉を投げつけ、国家を私して、明治人が苦労して創り上げた近代国家を滅亡に導いたのである。

2007年8月11日 (土)

参謀本部と統帥権(其の一)

猛暑と原爆記念日と終戦記念日と高校野球。

日本の八月の光景である。

既に、メディアはこれらの色で染まっており、例えば通販業界では最もリスポンスの悪い月として広告出稿を控えている。本格的な出稿再開は例年二十日過ぎであり、お盆休みもあって、ビジネスの世界そのものが小休止期間に入っている。

私は、毎年この期間を(時間の)稼ぎ時としてフル稼働する。仕事の中で、自分一人で処理すべき事柄、処理出来る事柄は、この時期に追い込んでおくに限る。

かつてこの時期の東京都心は、もっと鮮やかに他の季節と対照を為していた。お盆の丸の内ビル街の昼下がり、私は照り返すアスファルトのメインストリートを猫がゆっくり横切っていくのを見たことがある。

人が少なくなると、空気も澄む。環境を汚染している張本人が人間であることを、如実に実感させてくれる季節でもあるのだ。

都心に於いて不愉快なのは、他府県ナンバーの車が目立ち、時折それらがスムースな車の流れを混乱させることである。

昨年の終戦記念日のことだったろうか。

靖国神社の裏手にある池の畔(ほとり)で、東條由布子さんをお見かけした。「A級戦犯」とされる東条英機元首相のお孫さんである。

池の傍で涼をとった後、引き揚げようとした東條さんは、参集殿の横手でメディアに取り囲まれた。メディアの言うことは決まりきっているので置くとして、その人だかりの脇を五十代後半と思(おぼ)しき男二人が、その人だかりに一瞥(いちべつ)をくれて通り過ぎた。

その時、片方の男の質問に片割れが、吐き捨てるように答えて言った言葉が私の耳に届いた。

A級戦犯のあれだよ」

私は、思わず引きずり戻して鉄拳を喰らわせたい衝動に駆られた。その時の両者の位置と体勢では、左拳でストレート気味に顔面にいくのが最も効果的だと瞬時に思った程である。

しかし、場所が場所である。靖国とは、如何なる理由があっても暴力を許す空間ではない。神聖な「招魂」の場である。

堪えながらもどうしたものかと、通り過ぎていく男二人を睨みつけていたら、片割れが振り返って怪訝そうに私を見て、視線を交えたら急に歩を速めて去っていった。

薩摩の話題が長州へ飛び、長州の「尊王攘夷」という維新を断行するについての貧困な革命スローガンについて述べたので、今更ながらではあるが「A級戦犯」にも触れておきたい。

これは、単なる勝者であるアメリカにとっての「戦犯」であって、歴史的経緯からしても、日支事変から大東亜戦争に限定した期間の日米間、日英間、日蘭間の関係に関わる事実関係からみても私たち日本人にとってはナンセンスな言いがかりである。

この歳になってまたこういうことを言わなければならないことに非常な物憂さを感じるが、時節柄結論として断言しておきたい。

この際、結論を先に述べておけば、私たち日本人が責任を問うべき個人を挙げるとすれば、河本大作・石原莞爾・辻政信の三人である。私は、この三名を許す訳にはいかない。もし、中国(ここでは現在の中共ではなく中華民国の意)が求めれば、この三名は躊躇なく引き渡すべきであり、その前に私たち日本人の手で断罪すべき対象である。

私は、繰り返し、長い時間軸を引いて物事を俯瞰し、分析する必要の重要性を説いてきた。また繰り返すが、「長い時間軸」が必要なのだ。

幕末に長州が持ち出した「尊王攘夷」という安っぽいスローガンについても、その根にある宋学を考えた。宋学が生んだ朱子学による「名分」としての「尊王攘夷」を掲げながら、維新が成立するや否や幕府以上に大胆に開国した太政官政府の矛盾にも、軽くではあるが触れた。

この明治維新の経緯(いきさつ)は、日露戦争に深く関わり、日露戦争の結果が決定的に昭和陸軍の性格を規定したことを考えなければ、大東亜戦争を理解することは出来ないし、その過程での日本陸軍の罪というものも解らない筈なのである。

ここでいう日露戦争の結果とは、単に日本が勝利し、ポーツマス条約を締結したというような表層的な事象のことではない。

まず、東京裁判というものが、如何に茶番とも言うべきものであったかを知らねばならない。

近代合理精神が生んだ「裁判」という制度を、戦争という「究極の外交」の場にもち込むこと自体が欺瞞に満ちている。

裁判とは、三権分立の象徴的な産物である。

では、東京裁判に於いて検事席に座ったのは誰か。

六十万人という人類史上最大の異民族拉致を行い(シベリア抑留)、その日本民族にいわれのない奴隷労働を課して多くを死に至らしめたソ連という共産主義独裁国家。主としてロシア人から成る、同国人さえ大量に虐殺して維持されていたこの異常な国家は、人類史上最も多く、国際条約を破った。「条約とは、破る為に締結する」・・・これがソビエトの常識であることは、当時の欧米列強にとっても共通の常識的な認識であった。大東亜戦争末期に、日本の敗色が確定的になってから突如満州、朝鮮半島へ侵略してきたのもこの民族の常套的な行動パターンであり、この時も「日ソ不可侵条約」を破っての侵略である。そして、検事席へ座る権利を確保したのである。

更に、B29によって人類史上最大規模の非戦闘員(市民)の殺戮を行ったアメリカ合衆国。この人造国家の歴史とは、まさに侵略一色で染められていることは周知の通りだが、この国家にとっての正義とは、常に自国の国益に適(かな)うことという“定義”が存在する。このことは、近年のアフガン、イラク侵攻に於いても十二分に証明されている。

この両国の、大東亜戦争に限定した国家行動に於いても、大掛かりな戦時国際法違反が明白に存在することは、今更言うまでもない。

これに加えて、人類史上最も悪質かつ大規模な異民族からの収奪を行ったイギリス。そして、アジア侵略に於けるポルトガル、スペインに対する遅れを取り戻すべくインドネシアを侵略し、収奪の継続を日本に阻止されたオランダ。

主にこれらの国々が、検事となって日本を裁き、A級戦犯を設定して判決を言い渡した。近代史上、稀に見る茶番である。

裁判という概念をもち込むならば、第三者が裁かなければ微塵も正当性は生まれない。

東京裁判とは、アメリカが主導した、アメリカにとっての戦後処理のセレモニーに過ぎないのである。それを敵国の民衆の眼前で行うところにアメリカにとっての政治的意義があった。

従って、東京裁判そのものに何ら法的正当性はなく、従ってその“法廷”が決め付けた「A級戦犯」という断罪にも国際法上の正当性は勿論、倫理的意味そのものが存在しない。

むしろ一段落ついたら、大東亜戦争中に主にアメリカとソビエトが犯した戦時国際法違反に当たる国家行為を裁かなければならない。日本に存在する「武家の心得」という精神に照らせば、片手落ちは断じて済まされないのである。

私は、日本が全面的に被害者であるとは微塵も考えていない。

朝鮮半島、中国大陸への侵略は、紛れもなく日本の加害である。その加害の検証にも「長い時間軸」を当てることが必要で、そうでなければその検証は、二度目の過ちを防止する力になり得ないのだ。

別の稿で、大東亜戦争と太平洋戦争と第二次世界大戦は、それぞれ意味が違うと述べた。私たちにとって重要なことは、大東亜戦争とはどういうものであったかを、その根っこから知ることなのだ。そこから始めず、朝日的スローガンとして「九条改正反対!」「靖国参拝反対!」だけでは、私たちは必ず二度目の過ちを犯すだろう。

私が、口を酸っぱくして朝日新聞的論調に異を唱えるのは、そこに長州による『尊王攘夷』をまざまざと見るからである。

以上は、実に走り過ぎた前書きに過ぎない。

ここからが本論になるが、これも端折(はしょ)ってやらざるを得ない。このブログは、今回を含めて残された回数が三回しかないからだ。

河本大作・石原莞爾・辻政信・・・この三人の名前を忘れてはならない。いずれも、関東軍の高級参謀である。

「先の悲惨な大戦」「人類唯一の被爆国」「沖縄の悲劇」・・・異口同音に大東亜戦争を遂行した自国を非難し、蔑(さげす)みながら、この国の戦後教育は、この三人のことについてたった三十分の時間を割いたことがあったか。驚くべき怠慢と厚顔と言うしかない。

私が、このままでは必ず二度目の過ちを犯すだろうと危惧する最大の根拠である。

2007年8月 7日 (火)

貧困な革命

暑苦しい季節に激辛カレーを食べてみるという試みにも似た話である。

「明治維新は、やはり革命でしょうか」

稀にこういう質問を受けることがある。

これは、難問である。数学のように、解ける、解けないというシンプルな性質と同列の「難問」という意味ではない。これもまた、自然科学とは異なった社会科学の難しさ、面白さと考えるべきだろう。

明治維新とは、薩摩・長州を中心とした外様大名による徳川に対する関ヶ原のリベンジであるという言い方をしたことがある。勿論、これは一面としての解釈である。

仮令(たとえ)一面としての解釈であったとしても、学者からすれば何とも“はしたない”解釈であり、一笑に付されることを承知している。一笑に付す学者は、まだ自分の学識に自信をもった裕りのある方であり、多くの学者は怒りと共に唾棄することだろう。

しかし、維新の動乱に何らかの形で参加し、或いは関わらざるを得なかった全ての人びとの事情や思いの、可能な限りの多くの事例、ケースに洞察のエネルギーを振り絞って思いを馳せれば、私の一面解釈は、草々無下に退けるものでもないと確信している。

日本の歴史上、一夜にしてと言うと言い過ぎであろうが、少なくとも世界史との比較で言えば、一瞬にして社会体制、国家体制が全く異なってしまったことが二度ある。

一つは、突然と言ってもいい程の瞬時に大和朝廷が出来上がってしまったことだ。

これは、七世紀に入った瞬間のことだが、それ以前の大和政権はあくまでも相対比較として強大であったに過ぎず、決して絶対的な存在ではなかった。何故瞬時と言ってもいい程の素早さで、各地の「国造」(くにのみやつこ)が服従し、後世大和朝廷と呼ばれる統一国家が成立したのか。

この時の事情を説得力を以て解き明かしてくれる説というものを、私はまだ知らない。

いま一つが、明治二(1869)年の版籍奉還である。

この時は、まさに一夜にして統一国家が出来上がってしまった。六十余州三百諸侯と言われたそれぞれの領国を所有する大名(実際には260名強)が、一斉にその土地を「国家」に返し、太政官政府が成立したのである。つまり、土地と人民を返すべき西欧的概念による「国家」など存在しないにも拘らず領国を「奉還」し、逆にそれがあって「国家」が成立したのである。ここから、薩摩の大久保利通による一気呵成のシステム構築が始まる。

この二つの事例に共通していると考えられる背景が、一つだけ存在する。それが、今の言葉で言う「外圧」である。

一つの民族や国は、近隣地域が乱れている時は安泰である。とても当方へ侵攻してくる余力がないからだ。

ところが、それまで四分五列と言ってもいいような状態にあった漢民族が、五世紀に入ると隋という統一国家を形成する。これが完成した時、それに対する恐れが生じたものと考えられる。このことが、大和朝廷成立に強く作用した筈である。

明治維新の背景も同様である。

イギリスを筆頭とした欧米列強の露骨なアジア侵略が、隣の清にまで及んできた。幕府の懸命のディフェンスも軍事力の背景がなく、幕府は列強との間に所謂「不平等条約」を締結せざるを得ないまでに追い込まれた。列強サイドからみれば、この条約締結を以て日本の植民地化の第一歩が始まったのだが、日本の歴史家がそういう見方をしないのは不思議と言うしかない。

後者の明治維新の際、倒幕勢力サイドにも欧米に対する恐怖があったことは疑うべくもない。そこで、薩摩・長州、特に長州が唐突に「尊皇攘夷」ということをスローガンに持ち出した。

この「尊王攘夷」という思想は、他の学問思想と同様に「外」から入ってきたものだが、発信源は北方民族に散々痛めつけられていた宗である。つまり、十三世紀頃宋学として“輸入”されたもので、宋学は後世江戸期には朱子学を成立させている。

ところが、江戸期という時代は、日本の歴史上最も多様な思想が花開いた時期であり、官学とされた朱子学が必ずしも力をもっていた訳ではない。荻生徂徠などは、朱子学の空論性を激しく非難しているし、人文科学的な諸思想の方がむしろ力があった。

第一、日本にはもともと宋学に言うところの「夷」など存在しない。

不幸なことに、一箇所だけこの名分のみを重視する宋学にかぶれ、宋学によって日本の歴史を見直すという、壮大な無駄を続けていた土地があった。

それが、水戸である。これを「水戸学」と呼ぶが、水戸光圀による水戸学の見地からの『大日本史』編纂作業は二百年以上も続けられ、水戸徳川家の財政はこれによって疲弊した。水戸黄門による、学問的価値の殆んどない壮大な無駄使いである。

長州が古い物置の奥から引っ張り出してきたのが、この水戸学であり、それによる「尊王攘夷」というキャッチフレーズだった。

真の動機は別にあっても、目の前に初めて「夷」が居る時にこのキャッチフレーズを掲げたから堪らない。たちまちナショナリズムに火を点けるという危険な行動が横行し、徳川政権は雪崩を打って崩壊していった。

司馬遼太郎氏は、『この国のかたちー1』に於いて、

「単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別のものである」

と言い切った上で、

「幕末の攘夷思想は、革命の実践という面では、ナショナリズムという、可燃性の強い土俗感情に火をつけてまわることだった。政略的には、それによって屈辱的な開国をした幕府をゆさぶり、これを倒すのが目的であった」

と述べている。

更に続けて、

「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の、或いは高度に悪質な政治意図から出る操作と言うべき」

だと厳しく言い切っている。

長州の攘夷論者たちは、「鎖国の継続が勅諚である」と唱えて京都に争乱状態を創り出した。「勅諚である」とはまさに名分であり、鳥羽伏見の戦いで岩倉や大久保が急遽作った「錦の御旗」と同じである。

ところが、幕府が倒れ、太政官政府が成立すると、彼らはさっさと開国した。

後に長州の井上馨は、古い知人から、

「いつ攘夷を取りやめるという勅諚が出ましたか?」

と皮肉られた時、

「あの時は、あれしかなかったのだ」

と答えたという話が残っている。(司馬氏もこれを紹介している)

革命の思想とは、本来普遍性のある概念を内包しているもので、それは後世のあり方までを規定するものである。例えば、フランス革命の旗印となった「自由」「平等」「博愛」という精神は人類にとって普遍性をもっていた故に、政治的立場による解釈の差はあっても、今もって色褪せていない。これは、革命が後世に残したDNAのようなものである。

その点、「尊王攘夷」とは、革命の思想としては真に貧弱であり、DNAにはなり得ていない。

つまるところ、明治維新とは「革命」とは言い難いというのが私の結論である。

あの時、仮に私が彦根藩を率いていたら、長州の「尊王攘夷」を、「尊王」と「攘夷」に分断し、長州の「尊王」の矛盾を大々的に衝いただろう。そして、長州の「単なる攘夷」が如何に「尊王」に反するかというプロパガンダを展開した筈である。

維新の思想の貧困は、結果として五十年後の昭和陸軍を暴走させ、国を滅ぼした。

思想、学問とは、かように大切なものである。

参議院選挙で勝った民主も負けた自民も、貧困な思想さえ持ち合わせてはいない。暑苦しい夏に寒々しい思いが募り、益々不快である。

2007年7月30日 (月)

薩摩(其の五)

与野党逆転と言われる参議院選挙の投票日にこの稿を書いておいてから、投票に出掛けた。案の定、逆転は成立したが、これは民主の勝利などではなく、メディアの勝利である。

今の有権者が、明治期に言われた「藩閥政治」を意識することは皆無であろうが、実はこの名残りは戦後政界まで生きていた。勿論、それは「名残り」としてである。

占領期に政権を握った吉田茂は、土佐であり、日米安保の立役者;岸信介、その弟;佐藤栄作は長州である。

そして、ご存知の通り、安倍現総理は岸信介の孫であって、今も長州を地盤とする。麻生太郎氏は、吉田茂の孫に当たり、洒脱な気質は祖父譲りだと評される。

今更触れるまでもなく、明治維新の主導勢力は「薩長土肥」と言われる四藩である。即ち、薩摩・長州・土佐・肥前が主導して、徳川幕府を倒した。

「明治維新」とは、突き詰めれば「大久保利通による日本的革命」であるが、それを可能にした四藩の特性には非常に興味深いものがある。

中でも、薩摩・長州という二大勢力とそれを構成した人物たちには、現代流儀の良し悪しの価値観を離れて強烈な個性を見出すことが出来る。

私が、仕事絡みの出張を言い訳のような契機にして「薩摩」を小シリーズとして書いてきたのも、偏(ひとえ)にこのような歴史的基盤に興味を抱いてのことである。

長州人というのは、人の上に立たないと気が済まない気質をもっていると言われる。

明治期には「長閥」という言葉が公然と使われ、政界の権力構造は長州を中心に構築され、特に軍・警察関係の要職には「長閥」でなければ就けないという時期が長く続いた。一方で、戦後のことだが、日本共産党の宮本顕治も長州人であり、左右どちらであってもトップは長州という現象は、誠に面白い。

「長閥」を形成した中心人物は、第三代・第九代内閣総理大臣、元帥陸軍大将であり、『日本軍閥の祖』と言われる山縣有朋である。

山縣は、非常に権力志向の強い男で、後に『平民宰相』と言われた原敬は、このことについて、

「あれは足軽だからだ」

と、一言で片付けている。実際のところは山縣は、足軽の下の「中間」の出身である。

元帥陸軍大将まで昇り詰めた山縣であったが、高杉晋作配下の奇兵隊出身でありながらその軍人としての能力の低さも多くの史実で明らかにされている。

戊辰戦争の際は、北陸道鎮撫総督・会津征討総督を務めたが、僅か五万石の小藩;越後・長岡藩家老;河合継之助の抵抗に散々手こずり、孤立した会津藩を攻略した後は、城下に散乱する会津藩士及び藩民の死体に手をつけることを厳禁し、野ざらしにして見せしめにするという残虐な始末を行った。もっともこのことは、唯一人山縣だけの責任ではない。しかし、この武家の倫理観から大きく逸脱した行為は、今日に至るも会津人の心に薩長に対する怨念を根付かせている大きな要因の一つであり、東日本全域に於いて『薩長の田舎サムライ』という言葉を庶民の心理にまで浸透させた素因でもある。

また山縣は、日清戦争に於いては作戦遂行に身勝手な的外れが多く、同じ軍幹部からさえも批判を受け、『軍情を報告せよ』という名目で内地へ引き戻されている。

彼の葬儀は国葬として行われたが、当時新聞記者であった、後の内閣総理大臣;石橋湛山は、

「死もまた社会奉仕である」

と書き放った。平たく言えば、「死んでもらった方が社会のためだ」というのだが、それを新聞に堂々と書けるところに大正期までの日本社会のリベラルな「武家的健全性」が伺える。

何も山縣一人が長州ではないが、歴史的に見て、山縣と伊藤(博文)が長州を「代表する」ことは間違いない。この二人は、二人を以て長州閥というものを語られても甘んじてこれを受けなければならない程の専横を極めたこともまた史実なのである。

大東亜戦争の例を引くまでもなく、動乱時には俊才英傑というものは大概先に死ぬ。長州で言えば、高杉晋作以降池田屋事件までに生き残るべきであった人物は死んでいる。桂(木戸)に至っては、「逃げの小五郎」という異名をとるまでに徹底して逃げ回った。彼は、維新後も暗殺を恐れて外出を怖がった。勿論、それも一つの見識であり、哲学だと言っていい。

高杉ではなく吉田松陰がいたではないかという声が聞かれそうだが、彼は俊才ではあったが、私の基準では英傑ではない。刑死したことによって価値が上がった典型例でもある。

つまりは、動乱が治まった時、新しい秩序を運営する立場に昇るのは、生き残った、或いは遅れてきた故に生き残った凡人が多くなることは、人間の歴史としては必然であるとも言えるのだ。

話は、薩摩である。

薩摩を語るに、それが維新までくるとどうしても長州にも触れざるを得ないのも、史実からしてやむを得ないのだが、薩摩人というものを考えようとすると、なおさら長州人と見比べざるを得ないのだ。

薩摩には、「大将」と呼ぶに相応しい人物が多く出ている。このことについては、司馬遼太郎氏も長い間に亘って幾つもの書き物で触れている。

薩摩には、何故強烈なカリスマ性を帯びた、超然とした「大将」たる人物が続出したのか。

このことは、私にとっても、維新から明治期一杯のこの国の風景を順繰りに目で追う時、どうしても目を留めてしまう興味ある現象の大きな一つになっている。

西郷隆盛、西郷従道、大山巌、東郷平八郎・・・僅かにこれだけ並べても、何枚紙幅を重ねてもその正体に迫れそうにはない。

薩摩弁と言ってもいいのだろう、「テゲ」という言葉がある。「テゲテゲ」と重ねて言うことが多かったようだ。

強いて言えば、「大概」という意味である。

司馬遼太郎氏は、私見としてその語源を浙江語か福建語ではないかとしている(「この国のかたち―1」)が、どうだろうか。確かに、当時の薩摩は、幕府の知らないところで中国・朝鮮とも独自の交流をもっていたし、鎖国以降は藩内に住み着いていた彼らを家中として召抱えたりしている。この藩は、江戸期に於いて最も国際的な感覚をもっていた藩であり、このことが維新の中心勢力たり得た要因の一つでもある。ただ、それだけで「テゲ」の語源を浙江・福建に求めるのは、如何なものか。

語源はともあれ(いずれにしても南方語であるが)、

「大将ともあろう者なら下にはテゲにしておけ」

といった風に使うらしい。

上に立つ者は、下に対してはこまごましたことは任せておけ、といった意味合いになる。そういう「差引」(大将の意)たる者のとるべき態度のことを言う。

今流に言えば、ビジョンや理念だけを示し、但し、それだけは断固として譲らず、それに至る具体策、つまり戦術は部下に任せておいて、結果の責任だけをとればいい、ということだ。

戊辰戦争で西郷隆盛は一軍を率いた上、西南の役では大将に祭り上げられた。彼が「下野する」と言っただけで五千人近い近衛兵が行動を共にしたと言われる。

日露戦争野戦軍の総司令官は、大山巌であったが、彼でなければ乃木も秋山好古も、総参謀長の児玉源太郎そのものも成立していなかったろう。

連合艦隊司令長官を東郷が務めることによって、秋山真之という奇人とも言うべき天才的な参謀が生き、ロシア・バルチック艦隊を撃滅するという世界を驚愕させた事態が起きた。

西郷の弟;従道が大山権兵衛を生かし切ったからこそ、日清後の連合艦隊の近代化が成功し、東郷の連合艦隊が成立した。

西郷兄弟、大山巌、東郷平八郎・・・彼らには見出しやすい共通点がある。それが、「テゲ」という態度である。

それを物語るエピソードは、さまざまに語り尽くされているので割愛する。

余り語られていない史実に触れるが、実は日露戦争開戦に当たって野戦軍(陸軍)総司令官になりたがったのは、上述の長州・山縣有朋である。彼は、やりたくて仕方がなかった。

ところが、同じ「長閥」の児玉がこれを拒否、

「わしは、ガマ坊を担ぐ」

と言って、薩摩の大山巌を担ぎ出した。ガマ坊というのは、大山のニックネームである。

つまり、下が上を選んだのである。それも、長州の児玉が、薩摩の大山を選んだ。

児玉という男は、明治期最大の傑物の一人で、日露戦争とは彼一人で勝った(正確には負けなかった)戦争だと言っても過言ではない。二百三高地で名高い乃木希典(長州)がどれだけ児玉の足を引っ張り、結果として児玉の命を縮めたか、これについては機会があれば稿を改めたい。

内務大臣・台湾総督という地位を自ら降格させて大山を担いだ児玉という男は、「長閥」という閥で政治を動かすことを嫌った唯一の長州人である。現に彼は、長閥の定期会合をしょっちゅうすっぽかした。

頭脳明晰、細心にして豪胆、規格にはまらない大きなスケールをもつ、この児玉源太郎が、大山の前だけでは「直立不動」になったのは何故か。傑物児玉をして、大将にするならこの男と思わしめた大山とは、決定的な何ものを備えていたのか。

また、前に取り上げた新帰朝者;村田新八は、栄達が約束されている東京には向かわず、西郷に合流して西南の役を闘った。村田という西欧流エリートを惹きつけた西郷が備えていた吸引力の正体とは何か。

先輩・同輩を切って人事を刷新して、実質的に帝国海軍連合艦隊を創り上げた山本権兵衛は、西郷従道という後ろ盾なくしてそれが為し得たか。西郷が具体的に何かを保証した形跡はまったくないのだ。せいぜい、

「一緒に腹をば、切りましょう」

と言っただけである。

すべては、薩摩の「テゲ」である。

そして、この気風は、薩摩独特の郷中(ごじゅう・ごうちゅう)という若衆システムなくして生まれなかったのではないか。

薩摩は、まだまだ奥が深い。

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