カテゴリー「武家の佇まい」の124件の記事

2012年7月16日 (月)

「明治維新という過ち」 8月10日発売!

「明治維新という過ち 毎日ワンズより8月10日発売

 「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り

 この社会に真っ当な倫理と論理が再び価値をもつ時代が

 蘇ることはないであろう。

 原田伊織ブログ 「武蔵野樹林亭の日々」

http://harada-iory.cocolog-nifty.com/jurintei/

2012年6月 9日 (土)

『明治維新という過ち』 今夏刊行発売決定!

原田伊織ブログは「独居房・武蔵野樹林亭の日々」 へどうぞ。

http://harada-iory.cocolog-nifty.com/jurintei/

2012年1月22日 (日)

華の二本松(其の十 少年隊、壊滅!)

大壇口で連合軍と交戦状態に入った二本松少年隊は、僅か三十分ばかりで戦闘部隊としては制圧されてしまった。しかし、十三、四の少年たちとしては決死の奮戦であった。この大壇口での戦闘で、隊長;木村銃太郎が戦死。少年たちの中では、奥田牛之助(15歳)が戦死した。他の少年たちは、ほとんどが重軽傷を負った模様である。大壇口から城下へ引いて、彼らは決死の斬り込みを繰り広げた。

大壇口に於いて、連合軍に簡単に撃破されたのは、やはり砲の威力の差であった。連合軍は、時限式信管を使った榴弾、更には小臼砲を使用して榴散弾を打ち込んできたが、木村隊の砲は着発式信管を取り付けた榴弾を撃つのが精一杯で、中実弾がほとんどであった。そもそも火薬が違った。木村隊が使用していた火薬は、木炭の混合比率の高い旧火薬である。少年たちは、全身煤(すす)まみれとなり、顔も手も真っ黒になって戦っていたという。

書物によっては、少年隊の発射した砲弾が敵兵の頭上で炸裂し、多大な損害を与えた、というような記述をしているものがあるが、これはウソである。確かに、砲弾というものは敵の頭上で炸裂すれば大きな損耗を強いることができるが、それは時限式信管を装着した榴弾または榴散弾を撃ち込まない限り不可能である。前述した通り、奥羽列藩には時限式信管装着の技術はまだなかったのだ。薩摩軍の記録によれば、この砲撃戦で薩摩の小隊指揮官;日高郷左衛門が砲弾の直撃を受けて戦死している。記録に残る連合軍の戦死者はこれのみで、砲弾の直撃を受けて一人のみが死亡するというこの状況は、少年隊が発射した砲弾が中実弾であったことを示している。

一方、木村銃太郎は、左上腕部に貫通銃創を受け、右手しか使えなくなった。この時点で砲の火門に釘を打ち込んで使用不能とした上で、城下への退却命令を出した。そこへ今度は腰を撃たれた。スナイドル銃で狙撃されたらしい。連合軍が保有していたスナイドル銃の射程は八百メートル前後あり、狙撃兵も用意していた。城下まで走れぬことを悟った木村は、少年たちに自分の首を刎(は)ねることを命じたが、結局副隊長の二階堂が介錯することになった。しかし、二階堂は一太刀で首を落とすことができず、三太刀目でようやく首を落とした。少年たちは、素手や木片で穴を掘って木村の死体を埋め、二人の少年が左右から髪の房を握って、木村の首だけを持って敗走を開始したのである。

二階堂を中心とする敗残の少年たちが、二本松の名刹;曹洞宗大隣寺へ辿り着こうとした時、山門下馬先に黒ずくめの兵が四名、休息しているように見えた。笑みを浮かべ、手招きしたとも言われているが、二階堂以下少年たちが味方だと錯覚して近づいた途端、兵たちは一斉射撃を浴びせてきた。四名が持っていた銃は、七連発スペンサー銃であった。副隊長;二階堂衛守即死。岡山篤次郎(13歳)も撃たれ、敵に捕らわれて野戦病院へ運ばれたが、そこで戦死した。このような、黒い筒袖、洋袴によって敵味方を錯覚するという現象は、実は戊辰戦争のあちこちの局面で見られた史実である。

この岡山篤次郎は、山奉行;岡山持(よし)の次男で、木村銃太郎の最初の門下生である。菊人形のような美男であったと伝わる。彼は、出陣前夜(二十六日夜)、母;おなおに、装束、持ち物すべてに「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いて欲しいと頼んだ。討ち死にした時、下手な字では敵に恥を晒すし、母親が自分の死体を探す時、母自身の筆なら探し易いだろうというのである。確かに、岡山篤次郎の筒袖服、白鉢巻には女文字で姓名が書き込まれていたという。篤次郎は、あまりの幼さに驚いた薩摩隊によって野戦病院に運ばれたのだが、絶命するまでの数日間、昏睡状態にありながらも「鉄砲だ! 鉄砲を持ってこい! 無念だ!」と呻き続けた。篤次郎の最期を看取った薩摩藩士が一首の歌を手向けている。

君がため 二心(ふたごころ)なき武士(もののふ)の 

命は捨てよ 名は残るらん

お城(霞ケ城)は紅蓮の炎を上げている。城下には既に敵兵が充満している。哀れにも、残った少年たちは地獄を彷徨ったのである。木村隊以外の部隊に配属された少年たちも、城下へ敗走してきていた。しかし、一人でも多く敵を倒すと、決死の覚悟を定めて家を出てきた彼らは、修羅場に慄きながらも決して発狂することはなかった。戦場という修羅場で、幼い少年たちが発狂しなかったことは、実は驚嘆すべきことである。

木村隊;成田才次郎(14歳)成田外記右衛門の次男。敵に相まみえたら、斬ってはならぬ、ひたすら突け! と日頃から叩き込まれていた。重傷を負い、意識も朦朧とする中、フラフラと燃え盛る城下を彷徨っていた。連合軍兵卒たちは、彼を狂人とみて道を開けた。成田はそのまま長州兵の一団に近づき、やっとの思いで身長からすれば長過ぎる刀を抜き払い、白熊(はぐま)の冠りものを付けた隊長と思しき者だけを眼中に収めて突きかかった。この指揮官が、長州藩士;白井小四郎31歳)であったことが判っている。白井に油断があり、成田の剣は父の教え通り、白井を斬らずに真っ直ぐ突いた。白井はその場で絶命。絶える息の間に「己の不覚。少年を殺すな」と言ったらしいが、周囲の兵たちは銃を逆手にとり、成田を撲殺した。

髙橋辰治(13歳)。既に連合軍兵卒で溢れる二十九日夕刻の城下。とある邸の前の堀の中に転がっていたが、泥まみれになってヨタヨタと這い上がり、刀を構えて敵兵の中に突っ込んでいったが、忽ち斬り殺された。この時の様子を、その邸に潜んでいた下僕が目撃しており、この事実が伝わったものである。

徳田鉄吉(13歳)。彼の父;徳田茂承(もちつぐ)は永らく病床にあり、文久三年(1863)、藩が江戸湾警備を命じられた際、富津へ赴くはずが適わず、これを恥じて自害した。祖父母もその後を追った。家督を継いだ兄;伝七郎は既に前線へ出ている。母;おひでは、「お祖父様や父上の分まで働かねばなりませぬ」といって、鉄吉を送り出した。鉄吉の死体は、新丁登り口の自宅近くで発見されている。恐らく、深手を負って、母に別れを告げに必死に自邸近くまで辿り着いて息絶えたのであろう。

既稿で触れたことのある上崎鉄蔵(16歳)。出陣を見送る母・祖母が「行ってきなさい」と言ったのに対して、「今日は『行け』だけでしょう」と応じた少年である。上崎家は四人扶持という薄禄で、当主の上崎織衛が出陣したので家には刀が一本も残っていなかった。出陣の命を受けた鉄蔵はふさぎ込んでしまったが、母;おすまが実家に走り、相州物の銘のある刀を借りてきてくれた。それを背負った鉄蔵は、大谷志摩隊に属し、城下を転戦し、新町で戦死した。「今日は『行け』だけでしょう」と言って母と祖母を泣かせた16歳の少年は、本当に還ってこなかったのである。母;おすまの句が残されている。

言の葉の耳に残るや 今朝の秋

上げれば、まだまだある。遊佐辰弥(13歳)木村丈太郎(14歳)大桶勝十郎(17歳))。以上は、木村隊所属である。その他の隊では、根来梶之助(16歳)小沢幾弥(17歳)。彼らは皆、城門に至る前に立ちはだかるように戦死していた。重傷を負った身で、最後の絶望的な斬り込みを敢行して戦死したものとみられている。

過日、根来梶之助の根来家の子孫に当たるM氏から突然メールを頂戴した。少年たちの過酷な戦いは、百四十余年前の出来事であるが、決して遠い、遠い昔の絵空事か事実か定かでないような話ではない。戦死した一族のご子孫が、先祖を想って平成の世を生々しく、凛々しく生きておられるのである。歴史とは、人間の悲しみの堆積であるかも知れない。それは、紛れもなく、絶えることなく今日まで脈々と受け継がれている。そして、同じようにこの先へ引き継がれていく。

二本松戦争当日一日だけで、二本松藩全体で戦死者二百八名、負傷者二十九名。少年兵の戦死者十六名、負傷者六名。応援の仙台藩兵の戦死者三十一名、負傷者一名。会津藩兵戦死者約三十名。これに対して、連合軍の戦死者は僅かに十九名、負傷者五十三名であった。

この二十三日後、会津にて、あの有名な白虎二番士中隊十九名が飯盛山で自刃した。

2012年1月12日 (木)

華の二本松(其の九 少年隊、出陣!)

薩長土を中心とする連合軍約二千五百が三春に集結した七月二十六日、二本松にはせいぜい五百の守備隊しか残っていなかった。これは、今日でいう予備役のような位置づけであり、老人が多く含まれていた。進退きわまった藩庁は、数え十三歳以上十七歳以下の少年たちに遂に出陣命令を発した。

連合軍の間に戯れ歌が流行ったのは、この時点である。

『馬鹿だ馬鹿だよ二本松は馬鹿だ 三春狐にだまされた♪』

『仙台抜こうか会津を取ろか 明日の朝飯や二本松♪

東北戦争の全貌からいえば、二本松藩は連合軍の進撃路に独り取り残されたような格好となったのである。このような戯れ歌が陣中で流行るほど、連合軍兵士は勝利を確信していたといえる。指揮官クラスでなく雑兵ともいえる一兵卒に至るまでが勝利を確信するほど、戦線の趨勢は明白であったのだ。どちらかがこの趨勢というものを見誤るということはなく、二本松サイドは全藩死を決して抵抗戦を繰り広げようとしている。

少年たちに出撃命令が下って、ここに木村銃太郎門下十六名に九名を加えた二十五名の銃隊一小隊が成立した。これが、世にいう「二本松少年隊」である。世界の戦史の中で、最も幼い少年たちで構成された正規の一部隊である。隊長;木村銃太郎、副隊長;二階堂衛守。七月二十七日早朝、集合場所;藩校敬学館前庭。少年たちの戦闘服はバラバラ。全員共通していたのは、髪を結んで背に垂らしていることと、白鉢巻を巻いていること、そして、左肩に丹羽家家紋(違い棒)を付けていることだけであったという。

ここで、二本松藩の「番入り」「入れ年」について触れておく必要がある。

藩士の子弟は、数え二十歳になると「番入り」と称して何らかの武人としての職務を与えられる。元服とは違って、実質的に「番入り」してはじめて一人前の武家となる。大人の武家として扱われるのである。もともと「番」という言葉には、「武人」「戦闘員」という意味が含まれている。番入り年齢=二十歳というのが平時の姿であった。ところが、ここに「入れ年」という慣習が存在した。研究者たちがよくいうように、これは一種の“上げ底”制度であり、数え十八歳になると「番入り」を認めるのだ。こういう「入れ年」という慣例は、何も二本松藩だけの特殊な慣習ではない。多くの藩で行われていたことである。そうすると、「番入り」年齢を十八歳に引き下げると、入れ年によって十六歳の者でも正式に出陣できることになる。兵力が乏しくなった二本松藩は、現実に棚倉が落ちた直後=三春藩の離反直前に「番入り」年齢を十七歳に引き下げている。つまり、入れ年して十五歳の少年までが正式に「番」に入って出陣できるようにしたのである。この時、三春藩を牽制する目的で百七十名を出陣させたが、その中に田中三治=十六歳武藤定助=十五歳が含まれている。藩庁は、この部隊が出撃していく直前に、更に「番入り」年齢を引き下げた。何と、十五歳で「番入り」としたのである。ということは、入れ年によって実際には十三歳の幼い少年が公式に正規の戦闘員となってしまったのだ。木村銃太郎門下の少年たち全員が「少年隊」として出撃することになったのは、この時期の、兵力寡少に苦しんだ藩庁の、このような戦時緊急措置によるものであった。

誤解していけないことは、何も嫌がる少年たちを藩が無理やり「番入り」させたのではないということだ。家中の武家やその子弟、即ち当の少年たちからの嘆願も、それ以前から強く寄せられていたのである。武家の子弟は、常日頃、武士とは戦場で死するものという教育、躾けを受けている。拙著『夏が逝く瞬間(とき)』で描いた通り、私自身が小学生の終わり頃、母から切腹の作法を教え込まれている。それは、昭和も既に三十年代に入った頃である。それによって私は、その後一年間ほど恐怖に慄くという異常な精神の日々を送ることになったが、武家の躾けとは常に「死」を前提としたところから始まるのである。「さようなことでは戦では役立たぬ」などと言われれば、武家の子供は傷つく。このあたりの精神風土、その上に成立していた教育環境というものは、少年法という天下の悪法で子供たちを曲げてしまって今なお放置している平成のモンスターペアレントの感覚で思考しても無駄である。洞察するという作業にも、それなりの素地が必要となることを強く指摘しておきたい。戦時措置としての「番入り」年齢の引き下げが実施されて、木村門下の少年たちも歓喜したのである。彼らは、ご家老たちは自分たちを武士として扱ってくださると無邪気に感激したのである。

出陣に当たって、木村隊に四ポンド山砲一門と少年たち全員にエンフィールド銃(元込め式)が支給された。少年たちは歓喜したが、木村には何故これを今までしまい込んでおいたのかという怒りも湧いた。更に、一人当たり一両三分という軍用金が支給された。子供が見たこともない大金である。しかし、この金は、討ち死にして野に屍を晒した時、領民の誰かが埋葬でもしてくれるとなった時、埋葬料、回向(えこう)料として使ってもらう為のものであって、こういう金を身にまとって出陣するのも、死を覚悟した武家のたしなみである。

木村隊の持ち場は、城南の大壇口。奥州街道の真上に位置する要所で、連合軍は本宮を経てこの主街道を進軍してくる。二本松藩は、連合軍別働部隊の北上にも備えていたので、そちらにも兵力を割いており、主戦場となることが確実な大壇口に配備したのは、僅か三小隊と木村隊のみであった。小さな丘の上に設置した四ポンド山砲とは、口径86.5mm、最大射程二千五百メートル、信管付きとそれなりの威力を発揮する砲であるが、榴弾を発射するには手順が多く、ややこしい。一言で言い切れば、一発の榴弾を発射するのに十人がかりで五分を要したという。木村が少年たちに速成の指導を行う。決死の修羅場を前にした時、人は不可能と思われることでも何とかするものである。少年たちは必死で手順を習得した。

七月二十九日早朝、奥州街道に遂に姿を現した連合軍隊列に向かって、木村隊から一発の榴弾が放たれた。六町先の尼子台高地に陣を敷いた小川平助隊が戦端を開いたのに呼応したものである。少年たちの修羅場が始まった。

2012年1月 1日 (日)

華の二本松(其の八 木村銃太郎門下)

二本松藩は、死を選択した。

改めてお断りするまでもないことであるが、本シリーズはこの二本松藩の決断やそれに伴って発生した戦場(いくさば)に於けるさまざまな出来事を殊更賛美したり、逆に不必要に非難したりすることを目的としていない。このスタンスは、このブログエッセーそのものの立ち位置でもあるが、史実を史実として整理し、延々と確信するところを綴っているに過ぎない。勿論、ベースにある主張が、俗にいう「明治維新」の否定、官軍教育の否定にあることは、既に明白にしている通りである。不必要に褒めたたえるような言辞を並べるかと思えば、手のひらを返して非難に転じるという風な、己の稚拙な現代論理に縛られ、軸をもたない読者から露骨な嫌がらせを受けることがあるので改めてお断りしておく。

藩論を決した二本松藩に、所謂「二本松少年隊」が結成された。会津の白虎隊より更に幼い少年たちを、死を選択した藩が正規部隊として戦場に送り出すのは如何なものかという主張がある。それは、どこまでも平成人の感覚による論であって、武家の精神文化が社会の重しとなって秩序が保たれてきた江戸期社会に於いて、当の武家の心情を洞察すればあまり意味を為さない論であるように思われる。二本松藩は、藩ごと死を選択したのである。

とはいえ、現実の前線では武家クラスの藩士たちは、できるだけ少年たちを後ろへ、後ろへ下げた。最前線に立たせることを避けようと心掛け、できることなら逃げ延びることを願ったのである。後述するが、このことは、敵味方を問わず少年たちに対する情として見られた事実である。薩長土連合軍には武家の精神文化とは程遠いならず者が多数含まれていたが、少なくとも武家には敵味方の区別なく「士道」というものが鮮烈に生きていた時代である。しかし、少年たちは背伸びをした。できるだけ死に近づくように背伸びしたといえよう。これもまた、武家の子弟なら当然の士道というものであろう。

二本松少年隊という名称は、あくまで通称である。正式には、木村銃太郎を隊長とする砲隊一小隊のことをいう。木村と副隊長格の二階堂衛守(藩との連絡官)のもとに二十五名の少年たちが配属された。木村は、二本松藩砲術師範;木村貫治の嫡男で、この時点で数え二十二歳。木村家の家禄は六十五石であった。六十五石という家禄は、決して重いとはいえないが、砲術師範らしい低くはないものである。木村は、体格のいい男であったようで、身長は五尺八寸(百七十六センチ)もあったらしく、筋骨逞しく、色も浅黒かった。要するに、威風堂々とした青年であった。同輩の間では、借金を申し込む時は木村を連れて行け、といわれていた。偉丈夫といわれた彼が傍に黙って座っているだけで、相手は信用するというのである。しかし、木村という青年は単なる大男ではなかった。所謂文武両道の典型のような男で、特に理数系の頭脳が秀でていた。木村の家系そのものが理数系に強い家系であったようで、父方の曽祖父は和算の権威;渡辺東岳である。江戸期日本の和算とは、計量数学としては圧倒的に世界最高の水準にあったことを、この際知っておかれた方がいい。識字率に於いても同様であるが、江戸期の武家や一般庶民の基礎知識レベルとは、例えば大英帝国などと比較しても、理科・文科両面に於いて相当に高かったのである。渡辺東岳の家系である木村家では、今でいう数学が家学となっていたという環境も影響したのか、とにかく木村銃太郎の理数系能力は極めて高かった。この点を買われて、彼は藩命によって韮山代官所へ留学していた。

韮山代官所といえば、お分かりであろう。特に幕末に於いては、単なる代官所ではない。武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐五カ国二十六万石を所管する代官所であるが、この時期は「江川砲兵塾」といった方が解り易いかも知れない。代官;江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は、幕末四傑の一人;川路聖謨(としあきら)、鬼才;佐久間象山、日露戦争の陸軍総司令官;大山巌など錚々たる面々に西洋砲術を教えた我が国砲兵学の祖である。この代官所は銃砲鋳造の為の反射炉まで備えており、佐幕派・倒幕派を問わず各藩から留学生が集まったのである。戊辰戦争で砲兵部隊を指揮した者は、大概江川塾の出身であり、同学が敵味方に分かれて戦ったというケースもあった。余白があれば後述するが、二本松戦争に於いてもそれがあった。いずれにしても、各藩の秀才が集まった、特異な代官所であったといえるだろう。江川英龍その人は、安政二年(1855)に世を去っていたが、代官所手代たちが農兵から成る銃隊を組織するほどであったから、英龍亡き後も各藩の留学生を吸引する韮山代官所の特異な機能には全く変化がなかったのである。(代官所「手代」については、小シリーズ「五条代官所の悲劇」(200811月)を参照されたい)

余談ながら、江川太郎左衛門英龍とは、幕末史を語るについては避けて通れない“重要人物”である。決して、“読書人”タイプの単なる優秀な代官ではない。この人物は、立体的に掘り下げて解明する必要があり、私は幕末裏面史にもほとんど登場しないヤクザ(博徒)との職業上の繋がりも無視できないと考えている。幕末のヤクザといえば、清水次郎長しか語られないが、当時のその世界では次郎長などはむしろ脇役であり、竹居村無宿;安五郎(ども安)黒駒村無宿;勝蔵など、主役はほかにいる。「ども安」は新島に流されていたが、ちょうど黒船が来航したまさにそのタイミングに「島抜け」を見事に成功させている。しかし、普通に考えれば「島抜け」が成功裡に完結することなどあり得ない。この時、韮山代官所は、どういう意志を以てこの「島抜け」に対処しようとしたのか。また、黒駒勝蔵の宿敵;清水次郎長の犯罪(今日でいう殺人事件)を何故放置したのか。この時期の韮山代官所の動きは、幕府の真意というものを敏感に反映させていると思えて、機会があれば小シリーズとして採り上げたいと考えている。

さて、木村銃太郎は、そういう、海軍伝習所以上に戊辰戦争に直結する影響を各所に与えた“江川塾”に学んだ。そもそも当時の砲術、特に洋式重砲の操作には、かなり高度な理数系の能力が求められた。重砲の砲弾は、簡潔にいえば放物線を描いて飛ぶ。どのあたりに着弾するか、また着弾させるか。それを決めるのは、砲の射角初速度であるが、大体秒速二百~二百五十メートルという当時の重砲弾の初速を決めるのは、火薬の量であった。当時の火薬は、硝石・硫黄・木炭を混ぜて製造されたが、その混合比は751510とされる。つまり、最も多く使用するのは硝石であるが、天然の硝石は我が国には存在しなかった。そこで各藩は、動物の死骸を湿地帯に埋めて腐食させ、その土を沈殿させ、濾過して硝石の主成分である硝酸カリウムを抽出するという方法と採っていた。この方法では、死骸を埋めてから硝酸カリウムを抽出するまでに凡そ三ヶ月を要したという。従って、急に火薬を増産するということが難しかったのである。火薬の備蓄量が少なかった奥羽列藩では、この時期各藩とも火薬の製造を大いに急がせていたが、このような製造法の事情で簡単にはいかなかったのである。火薬が十分手当てできたとして、重砲とはその火薬を爆発させて大きな砲弾を飛ばす訳であるから、砲身の強度が問題となる。鋼鉄か、少なくとも青銅(銅とスズの合金)でなければならなかった。ところが、鋼鉄・青銅を鋳造できる施設は佐賀藩薩摩藩にしかなく、奥羽列藩には存在しなかった。長州は、清国から輸入している。更に砲弾となると、もっと精密技術を要する。既稿で述べた通り、単なる大きな鉄の弾を飛ばしても意味はなく、砲弾というものは榴散弾でなければ効果はほとんどない。ということは、弾頭に信管を備えている必要があるのだ。この信管の製造技術も佐賀藩と薩摩藩しかもっていなかった。薩摩藩がこの技術を身に付けたのは、薩英戦争後の英国からの技術供与によるものである。

斯様に重砲とは、当時としては最先端の科学技術の結晶であったのだ。これを独自に製造することができないとなると、完成品を、砲弾を含めて輸入するしかなかったのだが、では輸入すればそれで済むかといえば、当然そうはいかない。これを武器として使いこなす、即ち、砲弾を発射させるという技術がまた容易なことではなかったのである。スプリングという衝撃を吸収する装置がまだ存在しなかった時代のこと、臼砲などの重砲は台座に固定しないと発射の衝撃で砲そのものが吹っ飛んでしまう。となると、重砲は常に一定の角度でしか撃てないのである。その角度で発射された弾丸は放物線を描いて飛び、着弾地点を調節するのは火薬の量である。つまり、砲術には数学、度学(幾何学)、弾道学(力学)、化学、火薬学をはじめとする最先端の数学、科学知識が求められたのである。以前述べたように、アームストロング砲を自前で開発した佐賀藩では、あまりに厳しい藩校での藩士教育を行った為、発狂する者さえ出た。西郷隆盛の放ったテロ集団「赤報隊」の江戸市中での無差別テロに怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き打ちにしたという事件をご存じであろうが、この時庄内藩は重砲を使用している。しかし、江戸詰藩士の中にこれを操作できる者がおらず、実際に砲を撃ったのは庄内藩から依頼された幕府のフランス人砲術顧問であった。

二本松藩のエリート;木村銃太郎は、こういう難解な西洋砲術を江川塾で指導された。しかし、藩論が決して、彼は急遽呼び戻されたのである。彼の父;木村貫治は、前述した通り藩の砲術師範であり、十人ほどの弟子を抱えていたが、帰国した木村がこの道場の指導を補佐することとなった。そして、父;貫治が木村個人の弟子をとることを許し、木村は「全くの初心者に限る」ことを条件に弟子をとり、鳥羽伏見で幕軍が敗れた頃には入門者は十六名となっていた。「全くの初心者に限る」という条件をつけたのは、二本松藩には父;貫治以外に二名の砲術師範がおり、それへの遠慮、配慮に他ならない。この条件の為に、木村門下となった者は、すべて藩校敬学館で学ぶ、まだ前髪立ての少年たちばかりとなってしまったのである。このことが、木村の門下生で構成された木村銃砲隊が「二本松少年隊」と呼ばれるに至ったそもそもの発端である。

2011年12月20日 (火)

華の二本松(其の七 降伏か討ち死か)

棚倉が陥ち、三春が「反盟」する前に薩長土連合軍はいわき三藩を攻めた。いわき三藩とひと括りにして言われる三つの藩とは、平藩三万石泉藩二万石湯長谷(ゆながや)藩一万五千石である。石高でいえば、三藩合わせてようやく三春藩程度である。三藩の動員可能兵力は七~八百程度。これに、米沢藩仙台藩相馬藩が若干の援軍を出した。連合軍は、大村藩因幡藩なども加わり十数藩から成っていた。最終的な連合軍の兵力は一万人まで膨れている。藩の規模や動員可能兵力からみれば、それこそ一瞬にして決着がつきそうだが、そうはならなかった。連合軍は、いわき三藩を落とすのに一ヶ月を費やしたのである。薩長土以外の「恭順」した藩の兵が近代戦に慣れていなかったこと、米沢藩がスナイドル銃を装備したことなど、理由は幾つか挙げられるが、いずれにしてもいわき三藩は奮戦した。少なくとも戦ったのである。即ち、小藩故にすべてが同盟に加わらざるを得なかったということでもなく、小藩故に連合軍の走狗となって働かざるを得なかったということでもない。勿論、人質という問題は同盟藩の間でもあるが、連合軍にはもっと露骨にあった。しかし、当時の武家の精神文化というものを洞察すべきは、こういう時の解釈であろう。

三春藩があからさまに「反盟」した頃、ほぼ時を同じくしてもっと重大な「反盟」が起こった。秋田藩(久保田藩)「裏崩れ」である。この、秋田藩の「裏崩れ」が戊辰東北戦争の帰趨を決したといっても過言ではない。「裏崩れ」とは、軍事用語である。連合している軍に於いて前線で戦っている部隊や軍があるのに、後方の部隊や軍が先に降伏したり、寝返ったりすることをいう。列藩同盟は、いわき三藩のような吹けば飛ぶような小藩が今まさに戦っている。二本松藩は決意を固めつつある。そして、会津・庄内はもともと薩長の直接のターゲットで、戦う以外に選択肢は全くない。そういうタイミングに大藩・秋田藩が、裏を崩したのである。これによって、秋田藩に隣接する庄内藩、盛岡藩は、秋田藩が目の前の敵となり、戦力を秋田藩向けに割かなければならなくなった。そして、列藩同盟の間に深刻な動揺が湧き起こり、徹底抗戦の気運がかなり削がれたといっていい。現実に、仙台藩、米沢藩という列藩同盟を主導してきた二藩は、まだ戦力的には十二分に戦えるにも拘らず、藩内倒幕派が力を増し、降伏してしまったのである。

余談とも言えないが、一言庄内藩について今更ながらということではあるが、触れておきたい。会津と並んで庄内藩は、幕末の幕府の屋台骨を懸命に支えてきた。藩祖は、酒井忠次、と聞けばお分かりだろう。徳川四天王の一人として、徳川の草創期を支えた人物である。つまり、この藩は骨の髄まで譜代である。幕末には江戸市中取締りの任にあり、薩摩・西郷の放ったゲリラ;「赤報隊」の標的にもなった。二代将軍秀忠の隠し子;保科正之を藩祖とする親藩会津藩が京都守護職として、生粋の譜代庄内藩が江戸市中取締りとして、奥羽の二つの雄藩が時の政権を支える役割を担い、薩長の矢面に立ったことには、いつの時代も中央のために働かされてきた奥羽の宿命めいたものを感じ、ついつい東京電力の奥羽に対する犯罪ともいうべき事故にまで思いを馳せてしまうのである。それはさておき、庄内藩の大きな特徴は、経済的に裕福であったということだ。石高は十七万石であるから、まあ、中藩ともいうべき規模である。ところが、この藩は北前船の重要な拠点;酒田を抱えている。今でいえば、倉庫保管料、関税収入といった莫大な交易関連収入があった。更に、もともと蝦夷地との交易で財を為したあの本間家が、戊辰の動乱に際して七十万両という気の遠くなるような大金を藩に献金している。本間家とは、

『本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に』

と謳われた、あの本間家である。同じ時期の二本松藩の年間予算が、凡そ七万両である。二本松藩を十年間支えることのできる大金を一度に献金できる本間家の財力とは、六十余州を見渡しても他には例をみないものであった。庄内藩が列藩同盟では珍しく、スナイドル銃ばかりかスペンサー銃まで保有していたのは、こういう財力が背景にあったからだ。豊かな資金によって作り上げられた庄内藩の軍事力は強大ではあったが、それは秋田藩、天童藩新庄藩との戦いにしか使う機会がなかった。ただ、やはりこの軍事力は威力があり、これらの藩と約二十度に及ぶ戦を行いながら一度も負けていない。表高二十万石、実高四十万石といわれる秋田藩も全く歯が立たず、庄内軍が城下にまで侵攻、落城寸前というところまで追い詰められたが、ここで会津が落城し、庄内軍が急遽撤退し、佐賀藩の支援を受けていた秋田藩は辛うじて助かった。日本の原風景ともいわれる長閑な庄内平野を擁する、藤沢文学のふるさと;庄内藩とは、実は斯様に激しく、鮮烈な藩であった。

降伏か討ち死か・・・二本松藩に決断の時が迫っていた。

既稿にて、本宮、糠沢などという地名に触れたが、高木、小浜を含めてこれらは二本松領である。藩境ともいうべきこれらの防衛地点が破られたら、後は二本松城下で戦うか、或いは降伏するか、選択肢は二つしかない。二本松藩は、籠城できるような本格的な城をもっていない。「お城」とはいっても、それは陣屋と城の中間のようなものと考えた方が分かり易い程度のものであった。即ち、戦うとなれば城下で戦うしかなく、城下で戦うとは実質的にはなだれ込んでくる敵の前で死ぬということである。この旧暦七月末までの間に、既に二本松藩は、白河戦争で二名、その後の白河奪還戦で十七名、棚倉で一名、三春藩小野新町で七名、糠沢・高木・本宮・小沢地区の一日の戦いで九十名、合計百十七名もの戦死者を出している。藩境が破られた時点で、いわば前哨戦でこれだけの死者を出し、この上いよいよ「本戦」を構えるとすれば、軍勢の規模、装備からみて文字通り総動員体制をかけ、全員玉砕の覚悟で臨むしかなかろう。戊辰東北戦争のターゲットは、つまり薩長土が直接ターゲットとしているのは会津藩と庄内藩である。二本松藩は、同盟の義に従って戦っているに過ぎない。列藩同盟に対する義という面のみで考えれば、ここまででもう十分であろう。ここまで同盟を主導してきた仙台藩も米沢藩も、義理は果たしたということか、既に降伏しているのだ。

二本松藩には六人の家老がいた。この時、藩主丹羽長国は病床に臥せっており、家老たち重臣が大書院会議を開いて藩論を決した。

『三春藩、信に背きて敵を城中に引く。神人ともそれを怒る~』

という三春藩の「反盟」を糾弾することに始まる結論は、「列藩の信を守って滅びん」とするものであった。この結論を出す会議に向かう朝、小城代;服部久左衛門は家人に

『二心(ふたごころ)なし』

と簡潔に告げて邸を出ている。

二本松藩の家中は三百数十家、武家以外も含めた動員可能兵力は二千弱とされている。既に百十七名が死し、負傷者は五百名は軽く超えていたろう。戦える者が総動員体制で狭い城下に敵を迎え撃つ・・・二本松家中は、不本意ながら二本松少年隊を列記とした正規部隊として出撃させざるを得なかったのである。

2011年12月 9日 (金)

華の二本松(其の六 三春ミツネに騙された)

奥羽越列藩同盟と薩摩・長州・土佐連合軍の戦い=戊辰東北戦争が、兵器の性能の差によって「一方的な虐殺」のような様相を繰り返して、連合軍の圧勝に終わったことはお話してきた通りである。ここでいう兵器とは、前稿で詳述した小銃と、これから簡単にでも触れざるを得ない大砲を指す。

当時の大砲も、大体四種類に分けられることは既に述べたが、改めて整理しておくと以下の四種類に分けられる。

A 前装軽砲   有効射程=500800

B 前装小臼砲  有効射程=500600

C 前装大臼砲  有効射程=8001,200

D 後装施条重砲 有効射程=2,5003,000

あらかじめお話しておくと、二本松藩はAしかもっていなかった。奥羽越列藩同盟全体をみても、幾つかの藩に多少Bがあったが、実戦で使用できたのはほとんどAである。これに対して連合軍は、A・B・Cすべてを保有しており、B・Cを実戦で活用している。簡単に表現すれば、Aは「軽砲」、B・Cは「重砲」であり、Dが今日でいう「大砲」と言えるものであろう。かの佐賀藩のアームストロング砲がDに当たり、これは上野戦争会津戦争に使われたのみである。

大砲の威力というものは、手っ取り早くは砲の口径に表われる。Aは最大のもので約8cm程度であった。長さは小銃とほぼ同じであったから、Aは小銃をそのまま太くしたような砲であったと思えばいい。臼砲とは、文字通り臼のようにずんぐりした形状で砲身は短い。しかし、砲の口径はAより長い。つまり、太いのだ。Bは、砲身は50cmほどであるが、口径は12cmCは、砲身1m強、口径は20cmもあった。Dになると、砲身が短いもので3m、長いものだと4m以上あり、口径はやはり20cm前後あった。砲口径が大きいということは、より大きな砲弾が撃てるということである。砲弾の大きさは、口径の3乗に比例する。Aの口径を最大の8cmDの口径を20cmとすると、820で、Dの口径はAの2.5倍であるが、撃てる砲弾の大きさは約16倍となる。

砲の「威力」となと、更に決定的な違いがあった。砲弾の構造である。Aは、中実弾榴弾しか撃てなかった。ところが、B・Cになると、榴散弾が撃てるのである。中実弾とは、砲丸投げの小さめの砲丸と思えばいい。直撃されない限り、死傷することはない。飛んでくるのが見えるので、小銃よりも怖くなかったというのが前線の実感であったようだ。榴弾というのは、中をくり抜いて火薬を詰めた弾で、着弾すると破裂して幾つかの破片が飛び散る。ただ、破片の数は多くなく、何よりも当時は不発弾が多かった。砲弾もテニスボールくらいであり、当然飛んでくるのが目視できる。破片は水平に飛ぶことは少ないので、仮に近くに着弾しても瞬間的に身を伏せれば何とかなる。これに対して、榴散弾は恐ろしい。着弾すると破裂し、多数の小銃弾が周囲に飛び散るのである。着弾点から1020m範囲の人馬を殺傷したという。

このような技術的背景を考えると、砲撃戦に於いて、Aの軽砲しかもたない列藩同盟軍がB・Cの重砲を主力とする連合軍に太刀打ちできなかったことは語るまでもないことであろう。砲の威力というものが違い過ぎたのである。これに、既稿で述べた小銃の性能差が加わる。つまり、この戦いは兵器の性能差によって、どこからみても列藩同盟軍に勝ち目はなく、「一方的虐殺」と言われるような惨劇を繰り返すのみであったのだ。

戊辰東北戦争の緒戦とも言うべき白河戦争で、列藩同盟軍が700名以上という大量の死者を出したのに対して、連合軍の死者は僅か10名であった。負傷者に至っては、同盟軍が2,000名強に対して、連合軍は38名という軽微なものであった。この結果をもたらした主要因が、砲の差であった。この時、連合軍はCの大臼砲を主として使用している。この重砲は、台座も含めると700キロ以上もある巨大なもので、当時の兵員では8名前後、馬なら2頭でないと牽引できなかったほどである。連合軍は、この大臼砲で大榴散弾を同盟軍に撃ち込んだ。仙台藩の記録には、大榴散弾が炸裂して、砲もろとも10数名の兵卒が吹き飛ばされたと記されている。ここでいう仙台藩の砲とは「軽砲」であり、同盟軍の軽砲は、連合軍の大榴散弾によって砲手砲護員もろとも吹き飛ばされたのである。更に、この戦いには大垣藩が火箭(かせん)砲を持ち込んでいた。火箭砲とは、焼夷弾を撃ち込む砲だと考えればいい。これが、同盟軍陣地を焼き、逃げる兵に対して、射程の長いスナイドル銃が火を吹くといった様相であった。ゲベール銃の同盟軍兵士は立ち上がって弾を込めており、これを伏せたままの連合軍兵士が狙い撃つ。つまり、これはもはや「戦い」とは言えなかったのである。

当時、「花は白河、人は武士」という言葉(俗謡の形か?)が流行った。確かに連合軍にしてみれば、白河戦争で兵は花のように輝いたであろう。面白いように、まるでゲームのように敵兵を倒せたのである。この“流行語”は、奥羽越列藩にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。

同盟軍は、その後、大規模なものだけに限っても七次に亘って白河城奪回作戦を敢行しているが、同じ要因によってことごとくはね返されている。そして、この戦闘に於ける様相は、その後の戦に於いても基本的に変わることはなかったのである。土佐の板垣退助、薩摩の伊地知正治率いる連合軍(総督は鷲尾侍従)は、白河戦争後は「奥羽鎮撫総督府」から「奥羽征討総督府」と名称と性格を変え、棚倉城へと進攻した。須賀川に白河戦の敗残兵など4,0005000が集結していたが、征討軍はこれを無視して棚倉へ進軍した。白河を拠点とする征討軍の兵力は1,500程度であったが、須賀川軍を無視し、棚倉へ進軍したのは僅か700名の板垣支隊であり、伊地知の800は白河城に居残って、須賀川軍に睨みをきかせているだけ。この時点で、既に征討軍は圧倒的な兵器の威力差を十分認識していたものと思われる。棚倉兵は、金山という小高い丘の上から迎撃しようとしたが、板垣支隊は丘の下から一応応戦はするが、これも無視する形で棚倉城下へ一気になだれ込んだのである。「金山の戦い」とも言われるこの迎撃戦は、本来なら丘の上に陣取った方が有利なはずであるが、戦死者は棚倉藩11名、仙台藩17名、相馬藩3と丘の上の同盟軍に多大な損耗が出ており、適当に応戦しながら通過した板垣支隊には負傷者が9名出ただけで一人の戦死者も出ていない。基本的には、ゲベール銃とスナイドル銃の差ではあるが、ここまで徹底的に敗北するとなると、兵器の性能差に加えて、また差があればこそ、棚倉側の「戦う迫力」というものを問題にせざるを得ない。僅か700の板垣支隊を街道正面を封鎖して迎え撃つということを避け、丘の上へ引いているのだ。既に腰が引けていると言わざるを得ない。このことについては、ここではひとまず措いておく。

征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。

三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。更に、二本松侵攻の緒戦となった「糠沢の戦い」では薩摩・長州200名の連合部隊が40名の二本松部隊に夜襲をかけた。地理の判らぬ薩摩・長州部隊のみで夜襲は不可能で、先導したのは三春藩兵である。二本松兵は26名が殺害され、壊滅した。この夜襲に、後の海軍常備艦隊司令長官となる薩摩の日高壮之丞が参加していたが、彼は「夜が明けようとする時不意打ちをかけたが、二本松勢はほとんど全滅した、ただ、一人だけ赤鞘の大小を帯びた若い藩士が逃げずに立ち向かってきたのが印象的だった」という内容の証言を残している。この若い武士が、和田悦蔵という藩士であることも判っている。勿論、彼はこの場で戦死した。ここから阿武隈川を渡って「本宮侵攻作戦」へと移るわけだが、当時、二本松領と三春領の境界となるこの川に橋は存在しない。当時としては普通の「舟渡し」である。幅100m、水深10m以上という川の渡河作戦も、渡し口を知っている三春藩兵の先導なくしては不可能である。渡し口の三春側(高木と呼ばれる地区)を固めていた50名の二本松守備隊が三春藩兵を先頭とする部隊が山側から下ってくるのを見て、糠沢から敗走してきた同盟軍と思って近づくと、それは敵(薩長土連合軍)の大部隊であったという笑えぬ笑い話のような事態となり、二本松守備隊は一気に35名が惨殺された。結局、糠沢・高木エリアの一日の戦いだけで二本松藩は60名を超える死者を出したが、薩長側の死者はゼロである。負傷者の記録も、記録としては存在しない。

奥羽越列藩同盟は、31藩の盟約によって成立したが、戊辰東北戦争を通じて一人の死者も出さなかったのは31藩中、唯一つ、三春藩のみである。死者の数を競うのではない。三春藩は嬉々として薩長の走狗となって働いた、と言われるが、まさに三春藩は積極的に「反盟」に走り、同盟藩を明白な意志を以て裏切ったのである。

実は、これには歴史的な背景がある。この藩は公家の大原家との結びつきが深く、もともと「反徳川」の感情をもっている。その経緯を述べようとすると関ヶ原まで遡る必要があり、ここではそれには触れない。母から、時代錯誤も甚だしい「士族の躾」を叩き込まれた私としては、「武家の倫理観」の欠落を忌々しく思うだけである。「反徳川」を、或いは時節柄「倒幕」を藩のポジショニングとするならば、はなから同盟に加わらなければいい。盟約とは約束である。命と引き換えてでも約束を守ることは、武家の倫理観の基本中の基本である。盟約に加わったがために、二本松も仙台も相馬も、福島も、そして、会津、庄内も三春を同じ奥羽の仲間だと信じた。二本松兵、仙台兵などは、三春のために命を落とした。三春人は、そういう奥羽の友藩をあからさまに裏切ったのである。幼い藩主に代わってこれを首謀したのは、家老の秋田主悦。奥羽の恥さらしと言うべきであろう。二本松藩などは、盟約を守る、その一点のみで城を枕に藩ごと討ち死したのである。金銭しか基準にしない平成人からすればバカであろうが、盟約、約束とは武家の精神文化を尊ぶ者にとってはそういうものである。

明治になって「三春キツネに騙された」という俗謡が流行った。二本松と三春の婚姻は、彦根と水戸と同じように、会津と長州と同じように、長らく成立しなかった。先の「平成の大合併」(平成17年)の際も、地理的条件の妥当性に反して、二本松と三春の合併話は成立しなかった。三春藩は、二本松藩の兵備、配置、地理地形などを知悉している。この裏切りは、二本松藩に極めて具体的な、また重大な損害、被害をもたらした点でも許されるものではない。武人の心得として、己がもう助からぬとなった時でも敵にできるだけ損害を強いることが初歩的な振る舞いである。何故なら、己が斃れた後の仲間の被害を、僅かでも少なくするためである。この後、二本松藩士が城下で繰り広げた決死の斬り込みとは、そういう武家の心得に沿って敢行されたものであった。三春藩の反盟行為については、間違ってもこれを平成の感覚で解釈してはならない。

三春には、日本五大桜の一つ、樹齢千年以上とされる「三春の滝桜」がある。このたびの大震災にも耐えたこの巨大な枝垂桜は、三春藩主の御用木であった。この桜が、郷土の歴史を、それがもたらした二本松少年隊の悲劇を具(つぶさ)に知っている。

2011年12月 2日 (金)

華の二本松(其の五 火縄銃とライフル銃の戦い)

火縄銃部隊とライフル銃部隊が正面きって戦えばどういう結果になるか。火縄銃もライフルも実際に使ったことなど一度もないが、使わなくても結果は明らかであろう。百回戦えば、ライフル銃部隊が百連勝する。一対一で戦っても、ライフルに故障でも発生しない限り、結果は同じである。部隊と部隊の衝突となれば、数丁のライフルが同時に故障しても結果は変わらない。戊辰東北戦争とは、そういう戦いであったのだ。

以下は、当時の銃の有効射程距離である。

ゲベール銃・マスケット銃  =80100

ミニエー銃・エンフィールド銃=300500

スナイドル銃・シャープス銃 =600800

スペンサー銃        =300500

また、当時の銃は「滑腔(かっこう)式」と「施条式」に分けられる。滑腔式とは、腔内弾道が単に円筒状になっているもので、銃口から弾丸を入れる場合、当然弾丸の直径は銃の口径より小さくなる。そうでなければ、銃口から弾丸を入れることはできない。そういう弾丸が発射された場合、正確にいえば弾丸は弾道の中をガタガタと揺れて進むことになる。銃の中心線上を真っ直ぐに進むことはないのだ。中心線から上でも下でも僅かにずれて発射される。そのずれの角度がほんの僅かであっても、50m、100m先へ行けば大きなずれになることは、理系ではない私でも解る。射程ギリギリの100m先では、12mのずれは簡単に生じてしまうのである。従って、滑腔式銃の命中精度は極めて低い。

これに対して、施条式とは弾道にらせん状の溝をつけたもので、弾丸は溝に食い込んで、その傷をつけながら回転して発射される。溝に食い込むので、弾丸は弾道の中心線からあまりずれることがなく、ターゲットとした方向に正確に飛ぶ。つまり、命中精度が高い。弾丸に傷がついていると、流体力学でいうところの「ベルヌーイの法則」によってより大きな浮力が発生する。そして、回転して飛ぶ物体は「マグナス効果」によってより大きな揚力を得るので、結局施条式銃の弾丸の飛距離は格段に長くなるのだ。傷があって回転して飛ぶ物体の飛距離というものは、無傷で無回転のものの通常3倍前後とされている。滑腔式銃にはらせんの溝はないので、その弾丸は無傷で、飛ぶ時は無回転である。野球の投手の投げる球を“科学する”時も、この「ベルヌーイの法則」や「マグナス効果」はお馴染みであって、例えば「重い球」というのは滑腔式銃の弾丸のように無回転、或いはほとんど無回転に近いのである。ゴルフボールのディンプル(表面のくぼみ)も同様の論拠によって施されているものであって、もしゴルフボールにディンプルがなかったら、如何に石川遼選手といえども150ヤードも飛ばせなくなってしまうだろう。戦国期、或いはそれ以前の合戦に使う弓矢の表面には傷がつけてある。この国の武士は、経験的に流体力学を会得していたことになる。

上記の銃の中で、ゲベール銃が滑腔式で、ミニエー銃スナイドル銃が施条式、スペンサー銃は施条式の連発銃である。つまり、ゲベール銃は他の銃に比べて射程距離が短く、命中精度も極めて低い。二本松藩仙台藩など奥羽越列藩同盟軍の主力はゲベール銃であり、薩長と土佐連合軍のそれはミニエー銃とスナイドル銃であり、スペンサー銃も備えていた。施条式銃であるミニエー銃とスナイドル銃の場合、100m先の人体程度の大きさのターゲットに対する命中率は当時で80%程度といわれている。ゲベール銃の性能とは、要するに火縄銃とあまり変わらず100m先の敵兵に命中するのはほとんど“まぐれ”か“偶然”に近いものであった。

実戦では更に重要な違いがあった。前装式後装式かという、弾丸を込める方式の違いである。上記の銃では、ゲベール銃とミニエー銃が前装式、スナイドル銃とスペンサー銃は後装式である。当時の弾丸は、鉄の弾頭部と紙包の火薬部と鉛の拡張部から成っている。これが、一発の弾丸として完璧に一体となっていればまだ問題は少ないが、ゲベール銃の場合、弾頭部と火薬部は別々であり、当然銃口から別々に入れる必要があり、発射後には弾道に火薬のカスが残るので、それを掃除しなければならない。もっと深刻なことは、前装式とは文字通り弾丸を前から、つまり銃口から装填する方式であるから、弾を入れる時、銃身を真っ直ぐ立てる必要があるということだ。敵の銃弾が飛んでくる前線でこれをやることになるのだ。更に、銃口から弾丸を入れるというやり方では、銃身を傾けたり、激しく振動させると込めた弾丸が底からずれる。下手をすると、外に落ちてしまう。これを防ぐために、弾丸を入れた後、厚紙を口で噛んで湿らせさく杖(樫の木で作った棒のようなもの)で押し込んで、少々の振動では弾丸が動かないようにするのだ。実(まこと)に厄介な手順を踏んで一発の弾丸が発射されるのが、前装式銃であり、特にゲベール銃なのである。その操作手順は、ミニエー銃の場合で十一ステップ、といわれている。

これに対して、後装式のスナイドル銃やスペンサー銃になると、弾頭部・火薬部・鉛部・信管部が一体となったカートリッジ状の弾丸を銃尾の弾倉へ装填すれば、あとは引き金を引くだけであって、操作は遥かに簡単である。何よりも、次の弾を撃つまでの間隔が短い。即ち、発射速度が前装式とは全然違うのだ。スナイドル銃の発射速度は、通常ミニエー銃の3倍、ゲベール銃の6とされている。つまり、発射速度だけでいっても、スナイドル銃1丁はゲベール銃6丁に匹敵するのである。更にいえば、前線ではこのような単純な差では済まなくなる。前述した通り、敵のスナイドル銃の銃弾が激しく飛んでくる中で、ゲベール銃の銃身を立てて自らも立ち上がって弾丸を入れ、さく杖で厚紙などを押し込んでいられるか。弾を込めるのに決死の覚悟を要する。現実に、多くの二本松藩兵、仙台藩兵がそれでやられているのだ。

奥羽諸藩と薩長・土佐連合軍の最初の本格的な衝突は「本沼の戦い」である。僅か20名の長州斥候部隊200名から成る二本松・会津連合部隊と遭遇し、本格的な銃撃戦となった。僅か1時間の銃撃戦で200名の二本松・会津軍は20名近くの死傷者を出して、敗走した。この時、20名の長州斥候部隊は死者1名、負傷者1を出したが、10倍の兵力をもつ部隊を撃破したのである。

この結果は、ほとんどすべて主力武器であった小銃の性能の差によるものであった。そして、この図式は戊辰東北戦争終結まで一貫して変わらなかったのである。

更に付け加えると、小銃の性能の違いだけでなく、砲にも性能の差があった。二本松藩の悲劇、特に「二本松少年隊」の悲劇は、武器の性能の差と、二本松武士の意気地が生んだものである。

2011年11月20日 (日)

華の二本松(其の四 一方的な虐殺)

近年、リスペクトなどという英語を使ってスマートぶっている40男が増えたが、そういう言葉の方が理解しやすいというなら、醜悪な長州人;世良修蔵には奥羽の風土や文化をリスペクトするという精神が微塵もなかったということだ。ただひたすら己の欲望のみに忠実で、制圧されるべき相手の心情に対する思いやりとか配慮といった心をもっていなかった。これは、一言でいい切れば知性の問題であり、世良には武家的な知性が全く備わっていなかったということである。人間として下等であったといっていい。

同じ討幕軍でも、薩摩の西郷隆盛などになると少し趣が異なる。西郷も、赤報隊の例で明らかなように、ずいぶんと残虐非道な手を使った。小御所会議の際も、暗殺するぞとばかりにドスをちらつかせて土佐の山内容堂たちを脅した。このあたりのやり方は、まるでヤクザ、極道の手口である。一方で、西郷という男は、百姓と区別のつきにくい程度の薩摩の田舎武士でありながら「武家の倫理観」や「武家の在り様」というものをリスペクトすると共に、自らもその属者(しょくしゃ)であるというような謙虚ながら高い誇りをもっていた。江戸開城に際して品川の薩摩屋敷で勝海舟と会談した際、勝者側の最高司令官(東征軍大総督府参謀)でありながら敗者側の代表である勝に対して決して礼を失しなかった。勝海舟という男も、もともと武家でも何でもない成り上がり御家人であり、誠に狭量な男だが、その勝でもこの時の西郷の態度に感服している。決して膝を崩すことなく、手を膝の上に乗せ、威儀を正して敗軍の代表との談判に臨んだのである。このあたりは、仙台藩重臣の前で女の膝枕で公文書を足で弄んだ長州の漁師上がりの世良とは、人間と畜生ほどの差がある。また、西郷は、江戸城に入る際、江戸城のこれまでのしきたりを尊重した。江戸城に足を踏み入れる時は、その式台に上がる時、大名といえども太刀を帯びたまま上がることは許されない。それができるのは、将軍のみである。一方で、脇差は武家のたしなみとして、帯びたままでなければならない。西郷は、従者を連れて入らなかった。まずこの点が征服者の態度ではない。そして、太刀を外し、それを手渡すべき従者がいないので、自ら両手で捧げ持って城内に入った。これまで天下の政治(まつりごと)を担ってきた徳川将軍家に対する敬意を失わなかったということだ。こういう西郷だからこそ、さんざん述べてきたように、明治新政府の成り上がり長州人の腐敗が許せず、下野して「西南の役」で起ったのである。

慶応四年四月十九日(旧暦)深夜、世良は女と寝ているところを仙台藩士らに襲われ、負傷して捕らえられ、阿武隈川河原に引っ張り出されて、二十日未明斬首された。この瞬間に二本松藩を含む奥羽諸藩は、薩長軍と実質的に交戦状態に入ったといっていい。その日二十日、二本松藩、相馬藩など福島六藩は、奥羽鎮撫総督府軍事局に対して、会津攻めの為に準備させられていた部隊の「解兵届」を提出した。つまり、もはや奥羽鎮撫総督府の指揮・命令には従わないという意思表示である。薩長側からすれば、奥羽列藩からの実質的な宣戦布告であった。

このような経緯で勃発した戊辰東北戦争の帰趨については、改めて触れる必要もないだろう。一言でいえば、薩長軍の圧勝であった。これを以て、戊辰戦争は実質的に大勢が決し、その後の函館戦争は残敵掃討戦のようなものである。東北戦争といっても、一度の会戦があって、勝者・敗者が決したわけではない。これも、幾つかの会戦・軍事衝突の総称である。白河戦争二本松戦争会津戦争などを総称して戊辰東北戦争というが、どの戦に於いても薩長軍の一方的な圧勝であった。(たった一つの例外はあるが) 例えば、最初の本格的な戦となった白河戦争に於ける薩長軍の死者は僅か十名、負傷者は三十八名であるが、奥羽列藩側の死者は七百名を超えている。当然、負傷者となると二千数百名に達し、動員した兵員のほとんど全員が死傷したことになる。通常、戦に於ける負傷者は、戦死者の三倍程度となる。これは、戦の規模、種類を問わず大体そういう比率になるものだ。

白河戦争は、僅か一日、もっと正確にいえば実質二時間程度でこのような死傷者を出して、薩長側の勝利に終わった。戦死者十名対七百余名となると、これは真っ当な戦とはいえない。数学者であり、戦史研究家でもある渡部由輝氏は「一方的虐殺」という表現を使っている。(並木書房「二本松戦争」)戊辰東北戦争のそれぞれの合戦では、実は同じような「一方的虐殺」が繰り返されたのである。私たちは、鳥羽伏見の戦いから函館戦争に至る内戦を「戊辰戦争」と呼んでいるが、この、我が国を二分しそうになった内戦全体を通じてどれだけの戦死者が出たかご存じであろうか。約七千名である。あえていうが「僅か七千名」である。「僅か~」とは何事か、人一人の命を何と心得るか、というような、今の価値観でしかものを考えないヒステリックな非難の声が聞こえそうだが、今、私は戊辰戦争という史実を、永い歴史の中に置いてみて述べている。自殺者が年間三万人を超えていながら、それに余り関心も示さない時代の、建前としての価値観でのみ史実としての数字を評価することはナンセンスであろう。

僅か二時間程度の戦いで戊辰戦争全体の戦死者の一割に当たる死者を出した白河戦争とは、どういう戦だったのか。白河戦争だけではない、白河を落とした薩長軍は、棚倉城へ侵攻したが、その途中の金山の戦では余り積極的に戦おうとしなかったにも拘わらず、山上から防衛戦を試みた金山軍の守備を簡単に突破した。この戦での戦死者は、棚倉藩十一名、仙台藩十七名、相馬藩三名であったが、通過した薩長軍の死者はゼロであった。僅かに負傷者九名を出したに過ぎない。そして、二本松戦争の緒戦に当たる、糠沢・高木の戦では、二本松藩は一日で六十一名の死者を出し、薩長軍のそれはゼロであった。更に、本宮では二小隊五十名の守備隊のうち二十四名が戦死。二本松戦争の本戦、二本松城下での戦では、二本松藩の戦死者二百五十六名に対して薩長軍のそれは僅か十二名であった。

確かにこうなると、「一方的虐殺」という表現があながち誇張とはいえなくなる。一体、二本松戦争に於いては何故こういう悲惨な現象が起きたのか。最大の原因は、武器である。両軍の武備に決定的なレベルの差があったのだ。鳥羽伏見の戦いではそれほど差のなかった薩長軍と幕府軍の武力は、東北戦争の頃には決定的な差が生まれていた。もはや真っ当な戦いにはならないほどの差が生まれていたのである。それは、突き詰めると、主武器である小銃の性能の差であった。

戊辰東北戦争で使用された小銃は、ほとんどすべて洋銃である。即ち、輸入された銃である。薩長軍がいち早く新潟港を制圧したのも、この輸入ルートを断つことが目的であった。新潟港が制圧された後、プロシャが積極的に本国から新式銃を取り寄せるべく奔走したが、会津戦争には間に合わなかった。

戊辰戦争で使用された輸入小銃は、六十種類を超えるが、大別すれば次の四種類である。

ゲベール銃

ミニエー銃

スナイドル銃

スペンサー銃

更に、大砲の性能が違った。戊辰戦争で使用された大砲も、大きく分けて四種類ある。

前装軽砲

前装小臼砲

前装大臼砲

後装施条重砲

幕末の戦は、既に槍や刀での戦いではない。既に、日露戦争などとほとんど変わらぬ銃砲の戦いになっており、時に白兵戦が加わるのだ。

この主要武器の性能と彼我の装備の差を理解しておかないと、何故「一方的虐殺」のような戦いになってしまったか、その謎が解けないのである。

2011年11月14日 (月)

華の二本松(其の三 奥羽の潔癖、薩長のふしだら)

だらしがないことを「ふしだら」という。広辞苑をひくと「しまりのないこと。特に男女関係にけじめがなく、品行のおさまらないこと」とある。因みに「しだら」とはサンスクリット語のsutraからきた言葉だとする説が有力であり、「秩序」「しまり」といった意味である。「だらし」は「しだら」の倒語であり、やはり「しまり」の意がある。

世良修蔵というたった一人のふしだらな長州人の存在が、戊辰東北戦争の直接の原因であったことは確かである。学者の説く歴史=正史というものは、時に歴史を無機質に扱う。だが、生身の人間の行動の軌跡である歴史とは、生身の人間のそれだからこそ生々しい感情やドクドクと流れる赤い血の肉感をもったものである。時に稗史(はいし)というものを無視することができないのは、私たちと同じように歴史を構成した者が生身の人間であったからであろう。世良が生身の人間の欲望のまま、酒と女に溺れるという余りにもふしだらな成り上がり者であったことが、特に道徳的規律を重視する東北の武士階級の怒りに触れ、同じように生々しいその怒りが時の現実を縛る政治的、軍事的制約を突き破るほど大きくなった時、世良暗殺という奥羽諸藩の態度を決する重大な事件を惹き起こしたのである。世良は、福島藩内の金沢屋という遊女を置く旅籠に入り浸っている時、仙台藩士に襲撃されたが、その時も女と同褥(どうきん)中であった。生々しい現実をいえば、こういう支払いはすべて仙台藩が行っていたのである。

奥羽越列藩同盟の中で、二本松藩のみが文字通り「城を枕に討ち死」するような、薩長軍の侵略に対する激しい抵抗戦を繰り広げたが、すんなり「恭順」せず戦った藩は他にもある。楢山佐渡(家老)の南部藩河井継之助(家老)の長岡藩が、その代表格であろう。抵抗戦を主導したこの二人には、ある共通点がある。まだ藩のスタンスを決する前に京都へ“視察”に行っていることだ。そこで二人は、“勤王志士”などと自称する長州の跳ね上がり者の行状を知った。彼らは、祇園島原に入り浸りである。その金は藩の公金が一部、後は大坂辺りまで出かけ、商人たちを脅してゆすり取った金である。現代に例えていえば、山口県の地方公務員が勝手に東京へ公費で出張してきて、県庁の指示を無視して長期滞在し、県民の税金で歌舞伎町や六本木辺りで女を買いまくり、金が足りなくなると著名な企業に押しかけ、いろいろ難癖をつけて寄付を強要する、といった具合である。そして、飲んでは「地方主権を確立しよう!」などと体裁作りに喚いているといった様を想像すればいい。こういう連中が天下をとったら、どういう世の中になるのか。楢山も河井も、とても天下国家を論じるような輩ではないことを知ったのである。そこで二人は、自藩の藩論を「抗戦」に導くに至った。長岡藩(河井)の「武装中立」は余りにも有名だが、七万五千石で「武装中立」ができる訳がない。河井ともあろう者が、それが解らぬ訳もないのだ。それでも長岡藩は、結果的に会津・二本松に次ぐ損耗率を出すほどに戦い抜き、城下は灰燼に帰した。既稿に於いて、人口一万人当たりの戦死者という指標を出したが、長岡藩のそれは、会津・二本松に次いで多いというのは、正確には推計であって、城下が焼き尽くされた長岡藩には人口に関する資料が残っていないのだ。そのことはともかく、ここで気づいておきたいことは、酒や女に耽る、所謂淫楽に溺れるということについて、長州や薩摩の人間と東北の武家との間には決定的な感覚のギャップがあったということだろう。潔癖な東北の武家にとっては、薩長の人間の酒色に対するいい加減さ、よくいえば大らかさなど絶対に許せないことであったのだ。河井にも楢山にもそれがある。そのことは、藩を抗戦に導く決意をさせるほど強い憤りとなったものと思われる。特に河井のことは、とかく豪放に描かれたり、合理主義的な側面ばかりを強調されたりするが、根底にあったものは東北人特有の潔癖性ではなかったか。(詳細は割愛するが、河井のルーツは近江;膳所藩であるが)

蛤御門の変で御所(朝廷)に向かって、つまり天皇に向かって大砲をぶっ放すという狂気の本性をさらけ出した長州は朝敵と断罪され、第一次長州征伐に於いては戦わずしてうまく降伏の体裁をとった。その“講和条件”の一つに萩城の取り壊しがあった。遡れば、元和元年(1615)、徳川幕府の草創期に定められた一国一城という大原則に従って、萩城は廃城となっていた筈である。ところが、したたかな長州人は幕府に内緒で秘かにこれを修復していた。幕末になると幕府もこのことは承知していたが、この萩城を“講和条件”に従って再び廃城にするにつき、幕府の使者がそれを確認するために長州入りした。長州とすれば、降伏の体裁をとっただけで、再び倒幕に立ち上がる意志を固めている。その時は、萩城は討幕軍の本拠となる。ここで廃城とする訳にはいかない。そこで、長州側は幕府の使者(査察官)一行を萩に行かせないようにした。山口に足止めし、徹底して「接待漬け」にした。かつて、日本の企業社会では「飲ませる・抱かせる・掴ませる」という「三せる」営業が幅を利かせていた。典型的な営業マンなら、誰でもやったものである。公務員や官僚相手には特に盛んに行われた営業手法である。本来こんなものを手法とは言わないが、酒を飲ませ、女を抱かせて、金を懐にねじ込む・・・これをやられると大概の相手は陥落するのである。長州は、幕府官吏に対してこれをやった。徹底してやった。結局、幕府の使者は萩へは足を延ばすことなく、何と「萩城の破壊を確認した」とのでたらめな報告書まで書いたのである。このことが、第二次長州征伐の失敗に繋がったことは言うまでもない。長州人にしてみれば、萩城死守という目的の為には、必要なら女など幾らでも抱かせておけばいのである。酒を惜しんでも始まらない。賄賂など、いってみれば必要経費である。司馬遼太郎氏は「長州法人説」を唱えたが、ある意味で長州人にはこぞって商人的気風が染みついており、司馬さんの言うところとは違った意味で「法人」であったと言えるかも知れない。薩摩にはここまでの割り切りはなく、これは長州の大きな特性である。

東北の武家に、これができたか。無理である。考えようによっては、世良の淫楽、放蕩三昧など放っておけばよかったのだ。女を抱いていれば満足している下劣な男なら、とことん抱かせて、骨抜きにしてやればよかったのである。更にいえば、藩の軍事費を削ってでも世良に掴ませればよかったのだ。その上で、のらりくらりと会津攻めを延ばし、和平工作にもっていく。そうすれば、二本松十万石は滅ぶことはなかった。十万石の存続ということを片方の天秤にかけるならば、世良にあてがう女や金など軽いものであった筈だ。しかし、東北の武家にはこのような長州人に通用するような商人的発想は微塵も湧かなかった。彼らは、余りにも強靭な武家気質を身にまとっていたのである。

しかし、これを責めることができるか。世良が酒色に耽り過ぎたことは紛れもない事実であり、それが東北武家の憤怒を買ったことも事実だが、薩長軍に恭順するか、これを迎え撃つかという岐路に立った時、これだけが暗殺の理由にはならないだろう。いくら東北武家が薩長の連中とは対照的に潔癖であったとしても、事は藩の存亡に関わることである。世良の行為は「武士にあるまじき振舞い」であったとしても、彼は武家ではないが鎮撫軍の参謀であり、実質的な総指揮官である。東北武家は、忍耐力も標準以上に強い。結局、戊辰東北戦争を惹起した世良の暗殺とは、東北武家にとって「武家の面目」に関わる理由があって、やむにやまれず実行されたものであったのだ。このことは、藩の壊滅を顧みずとことん薩長軍と戦った二本松武士による二本松戦争を読み解く一つの鍵であると思われる。

より以前の記事一覧

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ